第70話「大地震」

「…だいぶ慣れてきたな。…明日から〈網引き〉やってみるか。」


ぶっきらぼうに〈有海丸〉(ゆうみまる)の板谷船長が、船上の甲板の上で役目を終えた網の片付けをしている俺に言った。


「あっ、はっ、はい!よろしくお願いします!」


俺は初めて船長に声を掛けられて、それと同時に俺のことを見てないようで見てくれていたことを知って嬉しくてテンションが上がった。


船長は、大きな海原を甲板から眺めながら少しだけ頷くと、それ以上の言葉を発せず海に向かって一礼して、そのまま運転室に戻った。


俺には想像がつかないが、プライベートの船長は60歳でできた初孫を溺愛しているらしく、有海(ゆうみ)というその名前をこの船の名にしたくらいだそうだ。


ちなみに有海丸は有限会社〈板谷漁業〉の持ち船で、そこと株式会社〈石巻水産〉が専属契約している関係だ。


〈板谷漁業〉は板谷船長と息子だけの形だけの会社で、二人はいわゆる〈船乗り〉だった。


初めて〈有海丸〉に乗った時、俺は船酔いしてゲーゲーと海に吐き、仕事を覚えるどころじゃなく、船の隅っこで邪魔にならないようにうずくまっているしかなかった。そんな屈辱的な〈海の男〉デビューから2ヶ月が経ち、船にも慣れてきて何とかまともに仕事ができるようになってきた。


小説も家でパソコンで打ち込み、何とか試し書きの〈君の知らない物語〉を書き終える寸前まできた。


俺は早く家に帰って、真美に読んでもらい、彼女が知らない、そして彼女には話しづらい〈圭子〉や〈ちなみ〉のことや、その時の真美に対する正直な想いを、この小説を通じて伝えておきたいと思っていた。


それと、今日初めて船長に声を掛けられた事も真美に話して一緒に喜んでもらいたい。


俺は、まだまだ、たくさん真美に話したい事や伝えたい事、やりたい事や夢があった。


だが、それは叶わない…。


なぜなら、今日はあの〈3月11日〉だからだ…。


…………………………


「司ちゃん、たまには一緒に食べて行きなよ。」


仕事が終わったお昼過ぎ、大漁の時の恒例の海鮮バーベキューを漁港のアスファルトの上でやっている皆の横を通り帰ろうとしている俺に、仲良しのパートのおばさんの本間さんが声を掛けた。


「ありがとうございます。でも、女房がコレなもんで。」


俺はそう笑顔で言って、有名な日本映画のワンシーンを真似て、お腹が膨らんでいるジェスチャーをした。


「司ちゃんの奥さんは幸せだね~。アタシの旦那なんか、真っ直ぐ帰ってきた試しがないよ。」


そう本間さんが言ってコップのビールを空けると、


「本間チャンだって毎日飲み歩いてるじゃない。」


と、他のパート仲間の中村理恵が言ってバーベキューをしている皆が笑った。


本間さんは70才位、理恵は20代後半で倍以上の年の差があるが、ここのパート仲間の人たちは皆友達ように仲がいい。


〈石巻水産〉はアルバイト、パートを含めて50人位の会社で、漁業部と製造部に約半々に別れている。


その職務上、勤務時間が違うので漁港のアスファルトの上でバーベキューをしているのは、俺のいる漁業部の人間だけの10人ほどだった。


「理恵ちゃん、アタシだって、司ちゃんみたいな旦那がいれば、真っ直ぐ帰って三つ指立てて待ってるわよ。」


「でも、実際はお互い心の中で中指立ててるんでしょ。」


本間さんと理恵のいつも通りの漫才のような掛け合いに、また皆が笑った。


理恵はかなり飲んでるらしく、さっきの辛口から甘えたような口調になって俺に問いかけてきた。


「司~。奥さんがコレならアッチの方はご無沙汰でココはタマッてるんじゃない?」


理恵はそう言って、さっき俺がやったジェスチャーをした後、俺に抱きついて上目遣いで、下半身を思い切り掴んだ。


「イテテ!」


俺がたまらず声を上げると、まわりの皆はさらに笑い、各々冷やかしの言葉をかけた。



こんな風に仲間と笑い合い、愛する人が帰りを待ってくれている日常が、俺は本当に幸せだったんだんだ…。


時刻は昼の2時を周り、そんな幸せな日常を一瞬で洗い流す地獄のような光景を目の当たりにするまでの時が刻一刻と迫っていた…。


…………………………


俺は防波堤の上から海を眺め、そして一礼した。


それは船乗りの板谷船長が毎日必ず、漁の前と後で行っていた日課だった。


俺は、板谷船長に船乗りとしてのどこか憧れみたいな気持ちを抱いていたから真似をしていた。


しかし、本人を目の前にしてやる度胸はなく、漁港に入る前と後で防波堤の上から行っていた。


俺は昨日までとは少し違った気持ちでそのルーティーンをしていた。


(明日からは本格的に格闘することになるけど、お手柔らかに頼むよ。)


そう俺は海に向かって心で呟いた。


そんな心の呟きをあざ笑うかのような猛威を、この後すぐに受けることになるとも知らずに…。


海上を見渡すと鴎(カモメ)の大群が、鳴きながら北へ向かっていた。


多分、松島の周りを飛んでいた鴎だろう。


俺は、今年のお正月に中松荘に宿泊していた時、松島湾を周る遊覧船に真美と一緒に乗り、その船の上で寄ってくる鴎に餌をあげたりしてはしゃいだ事を思い出した。


(でも、初めて見るな、こんな興奮したように鳴く鴎は…)


俺は胸騒ぎを覚えて、いつもより早足で家路に急いだ…。


…………………………


雪の降る季節は歩いて職場の石巻漁港に行っていた。


片道20分位の距離だが、雪が積もっていると倍近くかかる。


この日は朝から晴れていて、スクーターで行こうか迷ったが、午後から雪の予報だったので結局徒歩にしたが、帰る時はまだ降っていなかった。


真美の待つ社宅のアパートまであと100メートルほどの車道脇の歩道で、俺はあの〈14時46分〉を迎えた…。


…………………………


〈ドン!〉


今まで体験したことがない衝撃がアスファルトから襲ってきた。


その後大きな横揺れがしばらく続いた。


近所の古い家や建物が次々に倒壊していき、俺が座り込んだアスファルトの道路もヒビが割れていた。


必死の形相をした人々が、まだ倒壊していない家や建物から着の身着のまま逃げ出してきた。


それらの光景と音が混じり合って、今まで観てきたドラマや映画は所詮はフィクションだったんだと俺にわからせた。


多分、役所の方からだろう、津波警報の生のアナウンスが繰り返し流れた。


車や徒歩で、流れ出た人々が、悲鳴や怒号ともつかない言葉を発しながら高台に向かっていた。


まさに地獄絵図だった…。


しかし、もっと恐ろしい運命が俺に待ち構えていることを、この時の俺は想像ができなかった…。


憧憬(しょうけい)の海に裏切られ、全てを洗い流されてしまうなんて…


(真美、無事でいてくれ。すぐに俺が迎えに行くから…)


俺は、まだ揺れの収まらないヒビ割れたアスファルトの上を必死に走った。


一番大事な人が守るために…





挿入歌

「海 その愛」 加山雄三


第71話に続く













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