第69話「心躍る日々」
「ただいまー。やっぱり降ってきたよ。」
俺は、夕方に社宅のアパートに帰ると、自身に付いた雨露を払いながら言った。
「おかえりー。やっぱり天気予報通り今日から梅雨入りだってよ。」
真美が洗濯物をたたみながら応えた。
「どうしよう。明日にする?」
「うううん。今日行きたい。明日も雨らしいし。それに…。」
「それに?」
「1日でも早く司の〈奥さん〉になりたいし…。」
…………………………
梅雨入りした6月のある日、真美の離婚からちょうど半年の月日が経ち、俺たちは婚姻届を役所に出しに行き、結婚した。
駆け落ちみたいな2人だったし、お互い2度目だったこともあって式は挙げなかった。
俺たちは、婚姻届を出したあと、2人だけでささやかなご馳走を食べに1軒しかない社宅の近くのレストランに出掛けた。
レストランといってもマスターとアルバイトしかいない個人経営の店だったが、どれを食べても美味しく、俺と真美は気に入っていて休みの日のランチによく行っていた。
俺の両親くらいの年に見えるマスターが、結婚祝いにとサービスしてくれたシャンパンを開けて乾杯した。
俺は3杯でいつものごとく気持ちよく酔っ払った。
雨の帰り道、酔ってはいたが、真美の言った言葉を俺ははっきりと覚えていた。
〈私、今、世界で一番幸せだよ。〉
傘に隠れて真美の表情は見えなかった。
ただ、その言葉を聞いて、決して裕福とは言えない今の暮らしだが、何気ないこの幸せを、そして愛する彼女の事を、生涯何があっても守っていこうと改めて心に誓っていた…。
…………………………
夏が過ぎ、晩秋の寒さに冬の到来を感じていた11月の中頃に、真美の初詣の願い事が叶った。
真美のお腹に俺と彼女の子が宿った。
俺と真美はこわいくらいに幸せだった。
この幸せが、何かで崩れてしまわないかと…。
俺はそんな不安を打ち消すように必死に働いた。真美の妊娠を聞いてからは、尚更、生まれてくる我が子のためにも、一生懸命働いた。
漁港のアルバイトの社長には、はじめて会った時に小説家になる夢を話していたが、いつ辞めて夢の道に進んでもいいからと、強く請われる形で正式に社員になることになった。
季節はさらに進み、俺にとって人生最後の正月を迎えた…。
…………………………
「あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。」
元旦に中松荘の若女将の薫が、俺と真美の部屋に新年の挨拶にきた。
俺と真美は3日までの正月休みに、また中松荘に宿泊に来ていた。
久しぶりの連休なので、もっと遠出して休みを満喫したいとも思ったが、真美がまだ安定期に入っていないことと、彼女自身が中松荘の温泉に入りたいと言ったので、1年前と同じように、ここで過ごすことにした。
「あけましておめでとうございます。今年もお世話になってます。あと、ご挨拶が遅くなって申し訳なかったですが、〈石巻水産〉のご紹介の件、ありがとうございました。」
「いえいえ、わたくしの方こそ感謝申し上げなければなりませんわ。社長さんから、いい人を紹介してくれたと言って、注文させていただいたお魚以外のものを毎回サービスしていただけるようになったのですもの。」
うちの会社〈石巻水産〉は加工や卸しもやっていて、中松荘にも毎日のように魚介類や加工品を卸していた。
「そうですか。これからも〈石巻水産〉をごひいきによろしくお願いします!」
俺がそう言って軽く頭を下げると、
「こちらこそ〈中松荘〉を今後もごひいきによろしくお願いいたします。」
と、薫は言って、仰々(ぎょうぎょう)しく頭を下げた。
「ところで奥様はまたお風呂ですか?」
「ええ。今年の〈初風呂〉だと言って、ルンルンで行きましたよ。」
俺がそう言うと、薫は口に手を添えて笑い、俺も連られて笑った。
それからしばらく薫と世間話をした。
薫はバツイチで独身で8才の男の子がいることや、彼女の母の女将が体調を崩して入院していること、また、学生時代に逃避行中の年上の透に淡い恋心を抱いていたことなどを、また敷居をまたぐことなく話した。
そんな話をしてる間に真美が戻ってくると、薫は改めて新年の挨拶をして、俺たちの部屋をあとにした。
窓の外を見ると、初雪がちらついていた。
…………………………
「あけましておめでとうございます!」
まだ暗い正月休み明けの漁港で、俺はできるだけ元気良く職場の人たちに挨拶した。
「おめでとう、司ちゃん。今年も元気でいいねー。」
仲のいいパートのおばさんの1人が言った。
「〈一年の計は元旦にあり〉っていいますからね。今年もよろしくお願いします!」
「明日から船に乗るから、気合い入ってるねー。」
まわりの4,5人のパートのおばさんたちが、どっと笑った。
俺は今年から正社員になったので、明日から船に乗ることになっていた。
これまでは、漁港で牡蠣や水揚げされた魚を仕分けをしたりして漁港を出ることはなかったが、収穫して海から帰ってくる船乗りの男たちを見ていて、秘かに憧れていた。
正社員になったのは、職場の人たちが皆いい人ばかりだったのと経済的な面もあるが、俺も船乗りの一員になりたいと思い始めてところが大きかった。
〈俺も船乗りの一員になって、大漁の時に拍手で迎えられる側になりたい〉
この時の俺は、夏に生まれてくる我が子と真美との新しい家庭に、漁港の男から海の男になることに、そして小説家になる夢に、心を躍らせていた。
あと残り3ヶ月余りの人生とも知らずに…
挿入歌
「ロード」 THE 虎舞竜
第70話に続く
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