第68話「漁港の男」

「俺、小説家になりたい。」


俺と真美は、中山一家が帰った後、中松荘からも見える日本三景の一つ、松島湾とその周辺に浮かぶ260余りの島々、いわゆる〈松島〉を散策していた。その松島の島々の一つの〈福浦島〉に架かる朱い福浦橋の上で俺は真美に言った。


「えっ?次の仕事ってこと?」


「いや、仕事は別でやるとして、空いてる時間で少しずつ勉強できたらなと思ってる。」


俺は、角屋出版を辞めることが決まった時から、自分は何がやりたいのかを自問自答し、その答えを初めて真美に言った。


「…わかった。応援するね。」


真美はそれ以上、何も聞かず賛成してくれた。


…………………………


お正月の三元日も終わり、本格的に仕事と住まいを探していたが、なかなか都合のいい働き口が見当たらなかった。

その日も求人紙を見ながら昼下がりに部屋で働き口を探していると、部屋をノックする音が聞こえた。


「はい、どうぞ。」


「失礼します。」


そう言って部屋に入ってきたのは若女将の薫だった。


「お連れ様は?」


「真美ですか?真美なら今お風呂に入ってます。」


「まあ!今朝も入っていらっしゃいましたよね?」


「ええ。ここのお風呂が気に入ったみたいで。〈しずかちゃん〉並みに入ってますよ。」


「フフフ。それは当館としては嬉しいことですわ。」


薫は部屋の入り口の戸の前で両膝を地につけたまま、笑って言った。


「ところで、透さんにお聞きしたのですけれど、佐竹様はこちらでお仕事をお探しになってらっしゃるとか。」


「ええ。今も探していたところです。」


俺はそう言って、手にしていた求人紙を持ち上げて見せた。


「差し出がましいとは思いますが、たまたま働き手を探している昔からの知人がおりまして…。」


「えっ?ああ、ありがとうございます。」


「ここから少し離れているんですけど、石巻(いしのまき)ってご存じです?」


「ええ、秋刀魚や金華サバで有名なところですよね?」


「ええ、そうです、そうです。」


「まあ、中に入って下さいよ。」


ずっと部屋の入り口で、両膝をついたまま話している若女将の薫に向かって俺は言った。


「いえ、こちらで結構です。お気遣いありがとうございます。」


薫はそう言って固辞して部屋に入ろうとしなかった。それは、男性一人の部屋にむやみに入らないという若女将としての節度なのだろう。確かに薫はそれほど美しい人だった。


「そうですか。ところで、石巻の仕事って?」


「石巻漁港で水揚げされた魚介類を仕分けする短期のアルバイトなんですが、時給はかなりいいと聞いております。それに、アルバイトから正社員になることも全然有りらしいんです。でも、かなりの肉体労働ですし、はじめはアルバイトからですし、難しいですかね?」


…………………………


「で、何て答えたの?」


石巻の仕事の話を俺から聞いたお風呂上がりの〈しずかちゃん〉が、顔にパックをしながら言った。


「とりあえず、話だけ聞かせてもらいますって言った。」


俺は薫から石巻の肉体労働と聞いた時、正直「無いな」と思っていた。石巻は松島からさらに北の土地で、はじめにイメージしていた仙台での生活ではないし、肉体労働の辛さを大学時代の短期の解体工事のアルバイトで身に染みていたからだ。


しかし、石巻は真美の言っていた住みたい町の条件に合っているような気がしてきていた。映画館があるかはわからないが、海の近くで海産物も豊富だろうし、静かな住宅街もありそうだ。


それに、肉体労働をすれば近頃の運動不足の解消にもなるし、短期のアルバイトなら小説家の道に本腰を入れることになっても辞めやすい。


俺は早速、その日の夕方、石巻へ電車で薫から連絡先を聞いていたその知り合いに話を聞きに行った。


…………………………


「仕事決まったよ。」


俺は中松荘に帰るなり、その日三度目のお風呂上がりの真美に報告した。真美には出掛ける前に、仕事も住む所も俺の好きにしたらいいよと言われていた。


「本当?おめでとう!」


真美はそう言って抱きついてきた。


「あはは、ありがとう。」


「…司、体が潮の香りがする。」


彼女は俺から体を離して言った。


「ああ。向こうで働く現場を見学させてもらってたから。夕方には誰もいなかったけど。」


「これから〈海の男〉になるのね。」


「いや、海には出ないんで、〈漁港の男〉かな。」


俺と真美は、部屋の座椅子に座った。


「あと、住む所なんだけど、社宅もあるらしくて、2DKで月14000円なんだって。まだ見てないけど。」


「14000円?アルバイトなんでしょ?入れるの?」


「うん。去年、一戸建てを買って退去したばかりの社員の空きが出たから、アルバイトでも長く働く気があればいいって。」


「長く働けそうなの?」


「うん。だから、試しに一週間働いてみて決めるって答えた。早速、明日からなんだけど、真美にも一緒に社宅を見てほしいけど来れる?」


「もちろん!」


真美は目を輝かせて、そう言った。


「私も報告があるの。」


「何?」


「パパから今日連絡があって、離婚届を樋口君が出してくれたって。樋口君が諸々の挨拶に来て、そう言ってたって。」


「そうか。おめでとうって言っていいのかな。」


「…何も言わないで抱きしめて。」


俺は無言でそっと真美を引き寄せて、そして抱きしめた。


窓の外の松島の冬の夜空に浮かぶ満月が綺麗だった。


そして俺は部屋の電気を消した…。


…………………………


翌日、俺の最後の住み処は決まった。


築年数はだいぶ経っていて、漁港へも徒歩で通うには遠かったが、静かなでいい感じの住宅街だった。俺は中古のスクーターを買った。


そして、同時に子どもの頃から好きだった小説を書く〈物書き〉の道を目指した。


俺は試し書きのつもりで書き始めた。


この〈君の知らない物語〉を…






第69話に続く






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