第8話「a boy」
塾で2週間の数学短期講習に通った俺だったが、はじめの2、3日はチンプンカンプンだった。
高校のクラスで逆四天王と呼ばれる位勉強についていけてなかった俺は、1、2年生で勉強しているはずの基礎ができていなかったので、いくら分かりやすく講義されても理解のしようがなかった。
だから、塾に通わせてくれた両親に申し訳ないと思いながら、はじめの方の講義の時間は講義を聞かず、1、2年の復習に没頭し、それを家でも続けた。
塾の数学担当の林先生は、きっと俺が講義と違うことをやっているのを知っていたと思うが、何も言わなかった。
俺は塾講師なんて、自分の講義を聞こうが聞くまいが与えられたコマ数をこなせばいいのだから、学校みたいに注意なんかしないんだろうと思っていた。
林先生は、30才前後の男性講師で、独身でルックスも良く、講義も分かりやすく面白いと評判で、男女を問わず、人気講師だったようだ。
しかし、講義を聞いてない俺にとっては、関心のないことであり、また、講義中に2年前からの復習をしている俺を無関心でいてくれるよう願っていた。
*****
短期講習を受けて3、4日経った講義後、俺は林先生に呼ばれて、指示された空いてる教室に行った。
俺はついに、講義を聞かずに違うことをしてることを注意されるんだろうなと思っていたが、教室で待っていた林先生は俺が座るなり、
「どう?1、2年生のところでわからないところはある?」
と聞いてきた。
俺は一瞬キョトンとしたが、素直に
「・・たくさんあります」
と答えた。
「どこ?」
と聞かれ、
「この二次関数のとこと・・」
林先生は嫌な顔一つせず、俺の質問に一つずつ分かりやすく答えてくれて、気づいたら2時間以上居残り授業をしてくれた。
俺の質問に全て答え終わった後、林先生は俺の家に電話をかけて帰りが遅くなることと、晩御飯は要らないことを伝えてくれた。
そして帰りに旨い塩ラーメンの店があるからと、あまりきれいとは言えないラーメン屋のカウンターで一緒にラーメンを食べた。
俺は感謝しつつも、
(真夏にラーメンかよ…)
と思いながら一緒に熱い塩ラーメンをすすった。
すすりながら、林先生は俺に尋ねた。
「佐竹君は何で一から数学をやり直してるんだい?」
「・・大学受験のためです。」
と俺は当たり前のことを当たり前に答えた。
林先生は笑いながら
「それは分かってるよ。だけど、そんだけできてなくて大学受験しようとする受験生初めて見たよ。」
とまた林先生は笑った。
俺は少しムッとしたが、まあその通りなので、
「いい大学に行かなきゃならない理由があるんです。」
とだけ答えた。
「家族のため?」
「…」
「…女か!?」
「まあ…そんなとこです」
「いいねえ、青春だねえ。」
と林先生は満面の笑みのまま汗を拭き、ラーメンをすすった。
「まあ、君は私の講義を一切聞いてないけど、誰よりも真剣な顔で必死に勉強してるのはわかるよ。帰ったら今日のところ復習して練習問題をやって、わからないとこは明日の講義が終わったら私のところに聞きに来なさい。ただ、もうラーメンはおごらないぞ。」
と言って俺の方を見て優しい目で笑っていた。
俺は、講義を聞かず、林先生にも両親にも少し罪悪感を感じていたから、このたった独りの戦いを理解してもらえて嬉しかったのと、胸のつかえがとれた気がしてホッとした。
(…あれ、おかしいな)
勝手に俺の目から涙が溢れてきて、止めようとしたが自分では止められなかった…
「おいおい、これ以上しょっぱくするとこの絶妙な塩加減のラーメンが台無しじゃないか、ねえ、マスター。」
と林先生は実際には俺の涙はラーメンに落ちていないが、からかってそう言った。
カウンター越しの目の前の厨房にいる店主らしいマスターと呼ばれたおじさんもそれに乗って、
「隠し味は俺の汗で十分だよ」
と広がったおでこから頭を撫で上げながら言った。
「俺も汗ですよ、汗…。こんなクソ暑い時にラーメンなんか食べたら、目からも汗かきますよ…」
と声を震わせて俺が言うと、二人は声をあげて笑い、俺もつられて鼻をすすりながら笑った。
俺は子供の頃から殆ど泣いたことがなかったが、この夏、2度も大泣きして、一生懸命何かをやれば、悔しくても嬉しくても涙が出ることを知った。
もう真夏のラーメンを食べるのは懲り懲りだが、俺にとっての利点はせいぜい涙の照れ隠しに使えること位だ。
しかし、ラーメンでかく汗では誤魔化しきれない悔し泣きでも嬉し泣きでもない第三の涙がこの夏の終わりに俺を待っていた…
*****
林先生の居残り授業のおかげで短期講習を受けて1週間位で何とか講義の内容に追いつくと、林先生の講義がどれだけ面白く分かりやすいか実感できた。
居残り授業は三回で終わったが、周りには内緒だったので、残りの講習期間で林先生と特別親しげに話すことはなかった。
ただ、講習最終日に改めて俺は林先生にお礼に行き、何で学校でもないのに居残りをしてくれたのかを聞いた。
林先生は
「君と同じように、あれで君の両親から授業料貰ったら、ちょっと罪悪感あるなあと思っただけだよ。ラーメンと私の時間を無駄にするなよ。君はやればできるんだから。」
と、ラーメン屋で見せたのと同じ優しい目と笑顔で言った。
林先生は、講義中の独学だけでなく、俺の心の中の罪悪感も見透かしていることに驚き、初めて他人に尊敬の念を抱くとともに、やればできるという林先生の最後の言葉を信じた。
(俺は十年経って林先生みたいな大人になれるかな…)
そして、本当はまた泣きそうになっていたが、俺にも最低限の男のプライドがあったので、涙はこぼさずお辞儀をして帰った。
(必ず合格してまた林先生に報告に来よう。そして今度はちゃんと寒い冬にあの塩ラーメンを林先生にご馳走しよう)
そう心に誓ったが、俺が林先生に、その先二度と会うことは叶わず、「君はやればできる」という言葉が本当に俺に対する最後の言葉となった…
*****
世間のお盆休みも終わりに近づく頃、恒例のUターンラッシュのニュースを見ながら、ひとりで早めの昼御飯を食べていた。
両親と弟は、去年まで俺も毎年楽しみしていた両親の実家のある広島の田舎へ帰省していた。
広島の田舎に勉強道具を持っていき受験勉強することも考えたが、自分に甘い俺はきっと行ってしまったら遊んでしまうと思い、家にひとりで残ることにした。
田んぼの匂いと虫の声に包まれた広島の田舎と同じ年頃のいとこ達に会いに行けないのは残念だったが、3日分の食費をもらい、好きなものを食べて家で唯一のクーラーのあるリビングを独り占めできることは、田舎に行くことに匹敵するほど楽しみでもあった。
だが、3日目には独りにもコンビニ弁当にも飽きて、家族の帰りが楽しみになっていた。
(そう言えば真美はいつ帰ってくるんだろう…)
Uターンラッシュのニュースを見てそんなことを考えている時、家の電話が鳴った。
「もしもし、佐竹ですけど」
「…電話の出方ワンパターンだね~、ちゃんと勉強してる?」
挨拶もせず、一瞬で俺の声を聞き分け、一発カマすことができるのはこの世界で一人しかいない。
もちろん電話の主は真美だった。
「してるよ、てか電話の出方って他にあるのかよ。」
いつもはスルーするところだが、真美と3週間ぶりに話すのと、人と話すのも3日ぶりだったので、俺はテンションが上がっていた。
「言われてみるとないねー、あっ、受験生らしく英語で出るとかは?」
「うーん、相手が英語を使う外人の確率は限りなくゼロに近いし、万が一外人でも今んとこ数学しかやってないからハローしか言えないな。」
「へー、本当にちゃんと勉強してたみたいだね。感心、感心。」
*****
結局、真美の電話の用件は既に約束した花火大会の待ち合わせの時間と場所の再確認だった。
でも本当の用件は、俺と同じように声が聞きたかったからだと思いたいが、どうだったんだろうか。
とにかく、あの時の電話の声の君は安らぎに満ちていて、誰にも本当の目的を言わず、孤独な受験戦争をしている俺に一時の温もりを与えてくれた・・
[挿入歌]
「a boy」
GLAY
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