華やかな下着売り場、巧みに早口言葉を添えて

穏やかな春の昼下がり。

世界は今日も、あくびが出るほどに平和である。


「しかし、平和すぎるのも如何なものかな。争いごとは精神を研ぎ澄ます。ぬるま湯に浸かっていては進化など望めぬ。それを忘れた生物に生きる価値はないと思うのだが」


僕の背後、狭苦しいワンルームアパートの狭苦しいシングルベッドの上から、そんな声が聞こえてきた。


「でもリリィさん。争いごとは必ず誰かから何かを奪います。それもなんだか可哀想な話じゃないですか」


先の物騒な意見に対して適当な相槌らしきものを打ち、僕は、ホカホカと湯気を立てる朝食たちをトレーに乗せてリリィさんの元へと向かう。


ここは、僕の部屋だ。

親元を離れ、バイトに勤しんでみたり時折勉学に励んでみたりしながら一人で暮らしている。

大学にも近く、家賃も手頃な好物件だ。


だがそんなことなど、目の前に座るこの少女にとってはどうでもいいことなのだろう、きっと。


「ていうか、リリィさん」


「なんだ、少年」


ベッドに腰掛けたまま無表情に味噌汁を啜るその少女に、僕は極めて素朴な疑問を投げかけてみた。


「あの、なんでここにいるんです?」


「先日 の野球勝負は私の完勝で幕を閉じたが、依然、グランの邪悪な気配はこの近辺から消えてはおらぬ。今しばらく、様子を見る必要があるのでな」


「はぁ。いや、あの、様子を見るのは一向に構いませんが、別に僕の部屋でそれをする必要はないんじゃないかな…?などと思わなくもないです」


「我が魂の最も安らぐ場所へ導けとハトに命じたところ、ここへと案内されたという訳だ。それ以上、何か説明が必要か?」


相変わらずの無表情で卵焼きを頬張りながら、リリィさんは簡潔にそう答えた。


そして僕は、リリィさんの右肩に止まるハトを「お前が犯人か」と言わんばかりにじろりと睨みつけてやる。


当のハト本人(?)は、まるで鳩のように小刻みに首を動かしながら、一人暮らし男子としてはかなり小綺麗だと自負する僕の部屋の中を物色するかのように見回していた。


そう。

『事件』は昨夜、起きたのだ。


そろそろ寝るかと思った矢先に訪れた深夜の来客。

それが、リリィさんだった。


先日、この世界の命運を賭けた一大勝負に僕を巻き込んだメイド服の少女、リリィ。

彼女の言を信じるなら、魔族の襲撃から神の塔を護る使命を担わされたという、偉大なる神族の戦士である。


だが今はメイド服を着ていない。


昨夜は服だけでなく顔まで泥だらけだったため、とりあえずシャワーを浴びさせ、僕のお気に入りのコンバースの白いTシャツとボクサーパンツを身につけてもらっている。


リリィさんは着替えた直後にベッドに倒れ込み、そのまま死んだように眠ってしまった。


そして、今朝に至る。

ベッドを彼女に占領されてしまったため、仕方なく布団も敷かずに床で寝たのが悪かったのか、僕の腰は朝から悲鳴を上げていた。


「さて、どうするかな」


ごちそうさまの代わりに、リリィさんは箸をトレーの上に置きながらそう呟いた。


朝食の感想はもらえなかったものの、恐ろしい勢いで完食したところをみると美味しかったとみて差し支えないのかもしれない。


神族の戦士の口に合う味なんて見当もつかなかったけど、僕も料理の腕にはそこそこ自信がある。

少なくとも、数学よりは得意だ。


だが、そんなことより、今は。


「あの、リリィさん」


「なんだ、少年」


「いつまで、このむさ苦しい部屋に滞在するおつもりでいらっしゃいますか」


食器を片付ける手を少し休め、僕は上目遣いにそう尋ねる。

腕組みをしてベッドの上にあぐらをかいたリリィさんは、僕からのその問いにやや不満そうな顔をした。


「期間など設けておらぬ。グランの奴めが他の土地に移るまではここにいるぞ」


なんとなく、予想していた通りの回答。

すかさず僕は、リリィさんの切れ長な瞳をじっと見つめて問いを続ける。


「あの、昨日から思ってたんですが、その肉体は“借り物”ですよね?リリィさんがこの世界で実体化するための」


「あぁ、そうだが」


「だったら今頃、この子のご家族はさぞかし心配されてるんじゃないでしょうか。リリィさんにカラダを乗っ取られて以降、家に帰っていない事になるワケでしょう?」


僕はストレートに、不安を口にした。


リリィさんは魅力的な女性だ。

それは否定しない。


長いまつげ、意志の強そうな瞳。

スッキリとした鼻筋に小ぶりな唇。

初めて会った時より、メイクの落ちた今の方が綺麗に見える。


そしてそのサラサラのロングヘアからは、僕が焼いた甘ったるい卵焼きよりも甘ったるい香りがするのだ。


気の強い女性を好む男なら、一撃でハートをズキュンと撃ち抜かれ即死すること請け合いの美少女である。


だがそれは、僕の目の前でワイルドにあぐらをかくこの美少女の肉体は、決してリリィさんのものではない。


魔族の尖兵・グランとの決闘に赴く際、リリィさんが憑依した憐れな『どっかの誰かさん』の身体なのだ。


見たところ十八、九だろうか。いずれにせよ、年頃の娘が音信不通となれば家族も大騒ぎだろう。すでに捜索願が出されている可能性も高い。


そして、日本の警察は有能だ。

彼らがこの部屋を突き止めるのに、恐らくそう時間はかからない。


『戦慄!メイド服の少女を監禁していた変態大学生』

そんなニュースの見出しが僕の頭の中で踊る。

それだけは全力で避けねば。


「うむ。だがその心配は無用だ。私が憑依している限りこの娘に危害が及ぶことは無いし、私が自分の意思でここに居ると証言すれば、おぬしも法で裁かれることはあるまい」


そう言ってリリィさんはニッコリと笑い、僕の懸念を軽く吹き飛ばしてしまった。


嗚呼、卑怯だ。

普段は居丈高で無表情なクセに、こういう時だけ恐ろしく魅力的な笑顔を見せるなんて。


仕方ない。

『どっかの誰かさん』には申し訳ないけど、僕の負けなのだ。

昨夜、部屋のドアを開けてしまった時点で僕の負けなのだ。


どのみち、どれほど議論を重ねたところで「人としての」理屈が通用する相手とも思えない。


「わかりました。ですがリリィさん。ひとつだけ、僕のお願いを聞いてください」


そう言って僕は、溜息とも深呼吸ともつかぬ息をひとつ吐き、足を正座に組み直して彼女を見上げた。


「なんだ、言ってみろ。風呂掃除ならしないぞ」


「いえ、家事は得意なんで僕がやりますけど…、あの、その…」


「煮えきらない奴だな。私に願いがあるならさっさと言え」


「えっと、ですね。せめて、あの…、下着をつけてもらいたいんですけど」


しどろもどろになる一歩手前で、僕はようやくその願いを口にすることができた。


リリィさんが着ているものは僕のTシャツ一枚。


彼女が目の前で足を組み替えるたび、ぶかぶかのボクサーパンツの隙間から垣間見える暗闇の向こう側とか。


しっかりとしたボリューム感のあるバストの天辺から、その存在感をTシャツの下からでも否応なしに発揮してくるポチッとした膨らみとか。


とにかく、気になって仕方が無いのだ。

目のやり場に困るというか。

蛇の生殺しというか。


リリィさんがもともと身につけていた下着は昨夜、メイド服と一緒に洗濯して干してある。

だがどのみち、このまま居座られるとなれば一着では到底足りない。


「ふむ、下着だと。おぬしが私に与えてくれるというのか。それはおぬしから私への最初の貢ぎ物として捉えてよいのか」


「解釈はお任せします。値段にもよりますが、とりあえず上下二セットぐらいなら何とか買えると思いますので、一緒に近くのデパートでも行きましょう」


「デパートとは何だ?」


「あの、つまり、百貨店です」


ここまで話して、リリィさんには日本語をルーツとする言葉しか通じないことを思い出す。

なんとも不便な話だ。


「しかし、一緒に行かねばならんのか?下着ごとき、おぬし一人で買ってくればよいものを」


「それは勘弁してください。一人で女性物の下着売り場を闊歩できるほど僕のハートは頑丈ではないですし、そもそもサイズだってわかりませんよ」


その後どうにか説得に成功して、リリィさんを外へ連れ出すことに成功する。


春休みに突入したばかりで、夜はバイトがあったりもするが基本的に日中は暇だ。

目的はともかく、こんな美少女とのお出かけを堪能できるとあれば僕も満更ではない。


だが念のため、交番には近づかないようなルート設定だけはしておこう。


さすがにTシャツとボクサーパンツという出で立ちでは色々とマズイため、リリィさんには僕のカーゴパンツをロールアップして履かせ、上には季節外れのデニムジャケットを羽織らせてノーブラを誤魔化した。


そして当然のように、右肩にはハトがとまっている。


「ふむ、何だかこの格好は落ち着かぬな。私が昨日まで着ていた服はどうした?あれが最も霊力が高まるのだが」


デパートへの道すがら、僕がせっかくコーディネートした服装にリリィさんがケチをつけてくる。


「メイド服ですか?あれはかなり汚れてたので洗濯して部屋に干してあります。今日の夕方までには乾くんじゃないでしょうか」


「あれは冥土服というのか。不穏な響きだが、戦に明け暮れる私には相応しい名だな。ハトよ、おぬしもそう思うであろう?」


「くるっくー」


何やら大きな誤解をされたような気がしなくもないが、とりあえず機嫌を良くしてハトと会話を始めたリリィさん。


幸い警官に呼び止められることもなく、僕らはデパートの二階にある婦人下着売り場へと無事に到着した。


色とりどり、デザイン豊富な下着たちがズラリと並んでいる。

妹がいるためある程度の免疫は僕にもあったが、さすがに少し気恥しい。


恥ずかし紛れに、リリィさんの横顔へと視線を移して僕は場を仕切ることにする。


「さて、リリィさん。さっさと選んじゃってくださいね」


「ふん、どれもこれも似たようなものばかりではないか。かようなものを量産して喜ぶとは、人間とはまことに愚かな生き物だな」


いつものように、そうクールに言い放つリリィさん。

しかしここでふと、僕の中でひとつの疑問が沸き起こってきた。


「あの、リリィさん?今更なんですが…、リリィさんの本体って女性なんですか?」


「神に性別などない。人間が男だと思えば男になるし、女だと決めれば女となる。どちらでも良いことだ」


意外なその回答に、僕は目を丸くした。

神々にそんなルールがあるとは知らなかった。

いや、あくまでリリィさんの言葉を信じるなら、の話ではあるが。


「ということは、僕がリリィさんを女性だと決めれば、リリィさんは女性になるってことですか?」


「そうだ。それを覆す人間が現れない限りはな」


「じゃあ、リリィさんは女性でお願いします」


「ふん。面白いことを言うではないか、少年。なぜ私を女性とする?」


「だって、そうしないと下着が選びにくくなるじゃないですか」


もっともらしい理由をこじつけて、僕は笑ってみせた。

本当の理由は、『姿は美少女、中身はオッサン』みたいな気色の悪い存在と一緒に暮らしたくなかったからなのだが。


「まぁよい、私は別にどちらでも構わぬ。ひとまず下着を選んでくるゆえ、おぬしはそこで待っていろ。なに、似たようなものばかりだ。どれを選んだとて大差はない」


無表情にそう言って、リリィさんは下着売り場の中へと姿を消した。

手持ち無沙汰になってしまった僕は、何気なく手近に飾ってあった下着の値札をチラリと確認してみる。


意外と高い。

もちろんピンキリなのだろうが、女性物の下着がこんなに高いとは思っていなかった。


これはマズイかもしれない。

リリィさんのことだ、この売り場で最も高価な品を貢げなどと恐ろしいことを言い出しかねない。

もしもそんなことになったら、僕の餓死は確定だ。


戦々恐々としながら待つこと十五分。

ついに、リリィさんからお呼びがかかった。


「待たせたな、少年。選んできたぞ」


リリィさんが選んできた下着。

それは、白地にピンクのネコの肉球柄がプリントされた、何とも可愛らしいものだった。


値段も、女子中学生のお小遣いで買えそうなほどにリーズナブル。


「あの…、リリィさん?これで…、いいんですか?」


「ああ。それでいい」


「マジですか?お尻の部分に『Nya~』とか書いてありますけどいいんですか?」


「それでいいと言っている。ちなみに私が選んだのではないぞ?ハトが選んだのだ。のぅ、ハトよ」


ぷぃとそっぽを向いて、リリィさんは言い訳がましく赤い顔でそう言った。


「…………」


ハトはノーリアクション。

どうやらこの鳥類モドキ、なかなかに正直者らしい。


「いや、まぁ…。リリィさんがこれでいいと言うのなら」


「むしろそれ以外は認めん。ほら、会計場はあそこだ。さっさと行って支払いを済ませて来るがいい」


さっきまで『どれも大差ない』などと言っていた気がするのだが、どうやらリリィさんはこの下着が大変お気に召したご様子。


まさかの少女趣味に面食らいながらも、僕とリリィさんはそのネコの肉球柄の下着を持ってレジへと向かった。


「いらっしゃいませこちらをお買い求めですかあらあらまぁまぁこりゃまたずいぶん可愛らしい商品をお選びになったこと!お値段もお手頃、っていうか安ッ!」


レジにいたショートヘアの若い女性店員が、やたらと早口でそうまくし立ててくる。


女性物の下着を買ったのは初めてだが、レジに立つ店員はその商品に対する私的な感想を述べねばならないというマニュアルでもあるのだろうか。


「いやーこれはちょっとお客様には似合わないんじゃないですかぁ?お客様にはもっとこう地味ぃぃ…な年寄り向けの下着がお似合いですわよおほほほほ!」


相変わらず早口で、その店員はリリィさんにそんなことを言ってくる。


さすがにおかしい。

集客力は年々目に見えて衰えてきているとはいえ、曲がりなりにもここは一流百貨店だ。こんな失礼な発言をする店員がいるとは思えない。


ニヤニヤといやらしく笑うその若い女性店員の顔を見ると、なにやらどこかで見覚えがあるような気がしてきた。


はて、どこで会ったかしらんと記憶の糸を辿っていた時、隣に立つリリィさんが 突然大きな叫び声を上げた。


「貴様…、グランだな!」


ネコの肉球柄の下着を大事そうに握り締めたまま、リリィさんは素早く後方へステップして間合いを取った。


その際、綺麗に整えてあった商品の陳列棚が凄まじい音を立てて崩壊したのだけど、今の僕にはそれを気にしている余裕はなかった。


「うははは!愚かなり、今日も今日とて愚かなり、リリィ!いつかてめぇがここで下着を買うんじゃないかと思ってずっと待っていたのだ!まんまとかかったな、このバカ!」


レジ台の向こうで、腰に手を当てて高笑いするショートヘアの若い女性店員。

その正体は、魔族の尖兵・グランさんだった。


グランさんもまた、この『どっかの誰かさん(ちなみに、こちらもリリィさんに負けず劣らずの美少女である)』の肉体を数日間、借りっぱなしだったとみえる。

世界の存亡をかけた戦いとはいえ、随分と傍迷惑な話だ。


「おい、少年」


「なんですか、リリィさん」


「おぬしが下着を買えなどと言い出したばかりに、まんまとグランの罠に落ちてしまったではないか。責任を取れ。さもなくばこの売り場の下着を全部おぬしに買い占めさせるぞ」


「それは勘弁してくださいよ。今回はひとつ、グランさんのほうが一枚上手だった…、ということで収めてください」


ネコの肉球柄のパンツをしっかりと握りしめてこちらを睨むリリィさんの静かな気迫に圧され、僕はフイと目をそらす。


だが実際「そこまでする必要はあったのか」という疑問こそ残れども、グランさんの待ち伏せ作戦がこうしてまんまと功を奏したことだけは紛れもない事実だった。


「うはははは!二度も面接に落ち、三度目でようやく手に入れた売り子の座!やはり魔族は諦めの悪さが肝心だよな!制服もほら、意外と似合ってるし!」


腕を組み、したり顔で頷きながらグランさんは自画自賛。

やはり、この人たちは少しズレている。


だが、ここでこの二人が出会ってしまったという事は、つまり…。


「さぁ、リリィ!決闘を申し込むぞ!受けて立て!」


「やむを得まい。古の盟約に従い、貴様の挑戦を受けよう」


嗚呼。

やはり、そういうことになりますよね。


リリィとグラン。

数千年も前から繰り返されてきた二人の闘い。

神の塔への侵入を試みる魔族の尖兵・グランと、それを阻止する使命を担わされた神の子・リリィ。


リリィの敗北はそのまま、この世界の崩壊を意味する。


さて、どうしたものか。

逃げ惑う客や従業員たちを横目に見つつ、僕は思案する。


聞いたところによると、決闘のルールは常にグランさんが決め、リリィさんに拒否権はないらしい。

そのアンフェアな条件下にも関わらず、リリィさんは今まで一度たりともその決闘に敗れたことがないという。


少し大袈裟な言い方をすれば、リリィさんが『勝負』に勝ち続けているからこそ、今、僕たち人間はこうしてこの世界で生きていられるのだ。


もちろん、信じ難い話ではある。

下着売り場で睨み合う二人の美少女の決闘の行方が、この世界の命運を握っていようなどとは。


だが僕は、知っている。

いや、思い知らされた。


先日の市民球場での一件において、リリィさんの身体から溢れ出した『人ならざるオーラ』を、至近距離でまざまざと見せつけられた。


この人は、人ではない。

僕はその時、そう確信した。


今ここでグランさんがどのような内容の決闘を申し込もうと、リリィさんを負けさせる訳にはいかないのだ。

この世界の、平和のために。


「くくく…!リリィよ、今日こそてめぇに勝つ!ていうか、そろそろ勝たないとオレもガチで怒られるしな!」


そう言って真正面からリリィさんを睨むグランさん。

ボーイッシュなヘアスタイルに『オレ』という一人称がよく似合っていた。


「ふん、前置きはいいからさっさと決闘の内容を告げよ。返り討ちにしてくれるわ!」


リリィさんも体勢を低くし、応戦の構えを取る。


前回の決闘は野球だった。

今回は下着売り場ということもあり、二人とも下着に着替え、プロポーション対決でもするのだろうか。


いや、それはけしからん。

断じてけしからん。

けしからんが、ちょっちゅ嬉しいですよネ。


だがそんな僕の淫らな妄想をかき消すほどの大声で、いよいよ、グランさんの口から正式に決闘のルールが告げられたのだった。


「今回はだな、ズバリ!早口言葉で勝負だッ!」


「は、はい…?早口、言葉…?」


しばしの沈黙のあと、思わず拍子抜けしてしまった僕の口からそんな言葉が漏れる。

下着売り場、全然関係ないじゃないか。


「ふむ。早口言葉とな」


振り向けば、腕組みをしたリリィさんの真顔。

もちろん、その手にはいまだにネコの肉球柄のパンツが握られている。


「リリィさん。早口言葉、知ってるんですか?」


少し不安になり、僕はリリィさんに尋ねる。


「無論だ。『男子が死んだ』などに代表される、日本古来より伝わる言葉遊びの一種であろう?」


「いえ。それは早口言葉ではなく回文ですね。ていうか、もう少しまともな代表例は思いつかなかったのですか」


やはり、不安は的中した。

決闘の詳しいルールまではまだわからないが、この様子では今回もまた、グランさんのアドバンテージは揺るぎないもののようだ。


「では、今回のルールを説明しまーす」


急に冷静な口調でそう言って、はたしてどこに隠し持っていたのだろうか、背後から一枚のフリップを取り出してレジ台の前に立てるグランさん。


そのフリップの中央には「ザ・早口対決!」という簡潔な文章が赤の太マジックで書かれている。

その、じつに女の子らしく可愛い丸文字が場の緊張感を微妙に削いでいた。


「はい。では次、いきまーす」


さっきのフリップをそこら辺に投げ捨て、グランさんは矢継ぎ早に次のフリップを出す。

別に一枚目のフリップいらなかったんじゃないかと突っ込むこともせず、僕とリリィさんはそれをのぞき込んだ。


そこには、またしても可愛らしい丸文字でこう書かれていた。


■対決の流れ■

①お互いがオリジナルの早口言葉を考える

②相手に言わせる

③言えなかったほうの負け!


「うはは!どうだ、リリィ!今回はなかなか面白い対決になりそうだろ!?」


僕らが内容を吟味するよりも早く、グランさんが叫ぶ。


なるほど。先ほどグランさんが店員に扮していた際、やたらと早口だったのはこのトレーニングも兼ねていたためか。


狡猾で、用意周到。

このぶんならきっと、さぞかし難易度の高いオリジナルな早口言葉を前もって準備しているに違いない。


真っ向勝負では分が悪い。

僕は内心で舌打ちをして、隣に立つリリィさんと一緒に作戦を練る事にした。


「リリィさん、やばいですよ。このままだとグランさんの思うツボです」


「オリジナルとはどういう意味だ、少年よ」


「そこから!?えと、つまりここでは、何かの模倣ではなく、自分で考え出した独自の早口言葉…、という意味でいいと思います」


「ふむ、なるほどな。だが独自のものと言われても過去の例を知らねば話にならん。おい少年、まずはおぬしの知る早口言葉をすべて言ってみせよ」


「すべてですか!?」


いきなり無茶振りを浴びせかけられ戸惑う僕。

だが確かに、リリィさんのその言にも一理ある。


「えーっと、じゃあまずは…、隣の客はよく柿喰う客だ!」


「それは柿に意識を向けさせるための罠だな。柿以外のものも喰われてしまわぬよう、客人の動向に細心の注意を払うが吉だ」


「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた!」


「絵心のある坊主なのだな。だが理由はどうあれ、和尚にバレたらタダでは済むまい。あるいは美人画なら事なきを得たかもしれんが」


「東京特許許可局!」


「それは本当に東京にあるのか?東京と言っておきながら所在地は千葉、という話をよく耳にするぞ」


「バスガス爆発!バスガス爆発!バスガス爆発!」


「バスガスとはなんだ、少年」


「えぇい、リリィさん!いちいちどーでもいいリアクションしないで下さい!こっちも大変なんですから!」


早口言葉を連呼したせいでぜぇはぁと息を切らし、僕は全身で呼吸を整える。


リリィさんのサポートはやはり大変だ。

だがこれもすべて、世界を救うため。

【世界存亡の摂理】を知る、僕にしかできない役割なのだ。


「おい、リリィ!いつまで待たせやがる!さっさと決闘を始めるぞコラァ!」


前回同様、短気なグランさんが吠える。

レジ台に頬杖をつき、凄まじい形相でこちらを睨みつけてきていた。


「わかった。ではその紙と筆をこちらによこせ」


一体なにがわかったのかは定かでないが、リリィさんは無表情にそう言って、グランさんからフリップと赤マジックを受け取る。


グランさんはすでに自分が出す「お題」を書き終えているのだろう。その手元にはすでに、こちらに裏側を向けた状態のフリップを準備していた。


僕にも見えないように角度をつけ、リリィさんはサラサラとフリップにペンを走らせる。

その内容は誰にもわからない。彼女の肩の上でじっとしているハト以外には。


あぁ、不安だ。

本当にリリィさんはオリジナル早口言葉を考えついているのだろうか。


いや、仮に考えつけたとしても、それがあっさりとグランさんにクリアされてしまっては意味がないのだ。

祈るような思いで、僕はリリィさんの手元に集中する。


「さあ、できたぞ」


リリィさんは短くそう言って、無表情のままグランさんを睨み返した。パチリと乾いた音を立ててマジックをレジ台の上に置く。


両者、お題は出揃ったようだ。

僕は緊張のあまり、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「先手、行くぞ!さぁリリィ!オレ様が三日三晩考え抜いて編み出した究極の早口言葉…、言えるもんなら言い切ってみやがれえっ!」


バン!とすごい音を立て、グランさんの持つフリップがオープンされた。


「うぉ!?」


そこに書かれた早口言葉を見て、僕は思わず驚嘆の声を漏らしてしまった。


きゃりーぱみゅぱみゅ

みぱみゅぱみゅ

あわせてぱみゅぱみゅ

むぱみゅぱみゅ


なんという破壊力。

厳密にこれがオリジナルな早口言葉かどうかは別として、確かにこの破壊力は半端ない。


改めて文字列にしてみると「ゅ」の文字がゲシュタルト崩壊して他の記号に見えてしまいかねないほどの高威力だ。


「おい、少年よ」


明らかに狼狽えてしまった僕の隣から、この状況下においても相変わらずマイペースなリリィさんが静かに問い掛けてくる。


「何をそんなに慌てておるのだ。この文章を読みあげれば我が勝利となるのであろう?」


「いやいや、リリィさん!ナメちゃいけませんて!これ、たぶん、めっちゃ難しいですよ!?」


首を横にブンブンと振りながら、僕は泣きそうな顔でリリィさんの腕にしがみつく。

そんな僕らの様子を見て、グランさんは勝利を確信したかのように腕組みをして仁王立ちしていた。


「さぁ、こい!リリィ!これが言えれば無条件でお前の勝ちを認めてやるぜ!」


そう叫んでグランさんがニヤリと笑う。

リリィさんもまた、自信満々にニヤリと笑う。

そして僕の全身に、またしても鳥肌が立った。


先日の市営球場でも感じたオーラ。

リリィさんの纏う「人ならざる」者のオーラ。


やはり今回も『絶対守護者・リリィ』が屈することはないのか?

幾千年もの間、魔族の尖兵グランを退けてきた彼女が本気を出せば、この程度の早口言葉など児戯に等しいとでも言うのか…!?


僕の期待に満ちた視線に応えるかの如く、ついにリリィさんの口から早口言葉が放たれた。


「きゃりーぱみゅぴゃむみぴゃむぴゃむ!あわせてぱむぴゃむ、むぱむぴゃむ!…あれ?」


「ちょっと、リリィさん!全然言えてないじゃないですかッ!『ぱみゅぱみゅが』おおむね『ぴゃむぴゃむ』になってますよ!」


ああ、ダメか。

いかにリリィさんが人外の存在であろうと、寄生しているのはあくまで人体だ。

思うように舌が回らないのも無理はない。


「あはははは!無様だな、リリィッ!今日という今日こそは…、今日という今日こそは!オレ様の勝ちだぁぁっ!」


「くるっくー!」


両手を天に突き上げガッツポーズを取るグランさんと、なぜか勝ち誇ったかのように吠えるハト。

この鳥類モドキ、一体どっちの味方なんだ。


「むむむ…、少年よ、すまない。おぬしらの世界、今度という今度は護ってやれぬかもしれん…」


早口言葉を侮っていたのだろうか、予想外の大ダメージを受けたリリィさんがガックリとうなだれる。


いかん。このままでは駄目だ。

このままでは、人類滅亡の原因=きゃりーぱみゅぱみゅ、という図式が成立してしまう。


僕らの世界を護れるのはリリィさんのみ。

そして、今、そのリリィさんを勝利に導くことができるのは、僕のみ。


だったら取るべき行動はひとつだ。

僕は両手でグッと握り拳を作り、高笑いを続けるグランさんの前に出た。


「グランさん、まだあなたの勝利は確定していません。次はあなたがリリィさんからのお題に挑む番です。ですがその前に、この決闘の決着方法についてひとつ提案をさせて頂きたいのですが」


「あぁ、なんだてめぇ?ニンゲン風情が、数千年も続く神魔戦争に干渉しようってのか?」


間近でジロリと睨みつけてくるグランさんの眼力は思っていた以上に鋭くて、その威圧感に思わず足がすくむ。


全身が震えるほどの負のオーラ。


見た目は、ベリーショートがよく似合うボーイッシュな美少女。

だが、間違いない。

この人もまた、『人ではない』。


だが、もう。

ここにきて、後には退けなかった。


「はい、そのつもりです。リリィさんの敗北が我々人類の破滅を意味するのならば、それに抗う権利は僕にだってあるはずです」


「ふん、こしゃくな小僧だな。おもしれぇ、提案があるってんなら言ってみやがれ。ただぁし!あからさまにリリィに加担するような提案なら容赦なく却下すんぞ!?」


「もちろん、リリィさんを一方的に贔屓するつもりはありません。僕が望むのはただひとつ…、お互いにとってフェアな決着、それだけです」


フェアな勝負、と言いかけて訂正した。

グランさんがお題を設定する時点で勝負はフェアではないのだ。だがそれが『古の盟約』とやらに従ったものであるならば、今更僕が足掻いたところでどうにかなるものでもない。


ならばせめて、勝敗を決める『判断基準』だけでもフェアなものにしなければ。


僕は足の震えをグランさんに悟られぬよう、できるだけ声を張って続けた。


「まず、この場で決着をつけるための時間的な余裕はもうありません。僕らが騒ぎを起こしてからすでに十五分が経過しています。間もなく、警備員が駆けつけてくるでしょう。グランさんがリリィさんからのお題をクリアすれば決着はつきますが、失敗した場合、お互いが次のお題を考えている暇はありません」


「おう、んなこたぁ百も承知だよ。だがな小僧、オレ様とリリィの間に引き分けなんつー生温いモンは存在しねぇんだ。決闘が開始された以上、シロクロつけなきゃ収まんねぇんだよ!」


「わかりました。ならばこうしましょう。『お互いが失敗した場合、お題の文字数が少ない方を勝者とする』。いかがですか?」


「ふん、おもしれぇ。だがいいのか?てめぇもまだリリィのお題を見てないハズだぜ?」


挑発的に笑うグランさんのその言葉に僕は黙ってうなずく。

確かにこれは賭けだ。

だが、リリィさんが先ほどフリップにお題を書いていた時間はそこまで長くはない。きゃりーぱみゅぱみゅがどうのといったグランさんのお題より文字数が少ない可能性は十分にある。


ここまでは、グランさんも余裕の表情だった。だが続く僕の一言は、グランさんのその余裕綽々な顔を青ざめさせることになる。


「ではもうひとつ、決着をフェアにつけるための提案をします。『早口言葉に挑めるのは、各自一回だけとする』」


「んなっ…!?い、いや、ちょっと待て小僧!それは卑怯だぞ!?」


「卑怯ではありませんよ。リリィさんだって一回しかチャレンジしてないじゃないですか」


悔しそうに親指を噛み、上目遣いに睨みつけてくるグランさんに僕はそう言い切った。


読み通りだ。

おおかたグランさんは、成功するまで何度でも早口言葉にチャレンジするつもりだったのだろう。

『一度しかチャレンジできない』というルールはないのだから。


魔族は諦めの悪さが肝心───、売り子に化けていた時、グランさんはそう言った。

ならば、その程度の悪巧みをしていたとて何の不思議もない。


だがそうはさせない。

僕が、リリィさんを勝たせてみせる!

全人類を救うために…!


「さぁ、リリィさん!もう時間がありません!僕がお手伝いできるのはここまでです!お題をお願いします!」


「…………」


「あの、リリィさん?」


呼びかけたのに何の反応も示さないリリィさんの方を振り向く。するとリリィさんはボーッとした表情で小首を傾げてこう答えた。


「うん?何やらそなたらの話が難しそうだったので別の考えごとをしていたところだ。で、早口言葉対決はどうなったのだ?」


「どうなったのだじゃないでしょ!?え!?今の僕らの話、何も聞いてなかったんですか!?」


「うむ、すまんな」


まったく悪びれた様子もなく、あっさりとそう答えたリリィさんに僕の脱力感が止まらない。


ああ、こんなことでいいのだろうか。

こんな人に僕らの命運を握らせちゃっていいのだろうか。


「だが心配するな、少年。私の考えた早口言葉は完璧だ。グランごときにやすやすと成功はさせぬよ」


パチンと魅惑的なウインクを飛ばし、リリィさんは僕にそう言って微笑む。

そしてようやく、反撃を開始してくれたのだった。


「待たせたな。ではいくぞ!」


気合の入ったその一声とともに、リリィさんは自分の書いたフリップをオープンしてみせた。


骨粗鬆症手術中


「さあどうだ、グラン!言えるものなら言い切ってみせよ!こっ、こ…、こっしょしょーしょー、しゅず、す、すずつつーーッ!!」


「たいがいあなたも言えてませんが…、リリィさん、これはなかなか良いお題ですよ!」


予想より遥かにまともだったリリィさんのお題に僕は思わずガッツポーズ。

文字数も断然、少ない。

つまりこれで、グランさんが一発で成功させない限り、この勝負はリリィさんの勝ちとなる!


だがここで、予想通りの邪魔が入った。


「キミたち、何を騒いでいるんだ!おとなしくしなさい!」


複数の屈強な警備員たちが、決して広くない下着売り場になだれ込んで来る。

こうなってしまえばもう、逃げるしかない。


「やい、リリィ!てめぇ卑怯だぞ!その漢字、なんて読むんだ!?こっ、こそ?こっしょ?こっ、こっしょしょ…?」


「愚かだなグラン!この程度の漢字すら読めぬとは!これはな、こっ、こっそ、こっ、しょしょーそー、こっ、こっしょ…!」


「リリィさん!いいから早く逃げましょう!こっちです!」


まだグランさんとの決闘を続けようとしているリリィさんの手を強引に引き、下りのエスカレーターを転がるように駆け下り、僕らはデパートからダッシュで逃げ出す。


思ってもいないアクシデントに見舞われたとはいえ、もはや何のためにデパートに行ったのかさえ完全に忘れてしまっていた。


「ふん、今回もまたグランを退けたな。という訳で少年よ、この私に世界を救ったお礼をせよ」


追手の心配もなくなった町外れの細い路地を並んで歩いていると、リリィさんがそう言ってイタズラっぽく微笑んできた。


「お礼…、ですか?いやまぁ、いいですけど…、なにがいいんですか?」


「なに、安いものだ。こいつの代金を後日、支払ってやってくれ」


リリィさんはそう言うと、上着のポケットからネコの肉球柄のパンツを取り出して、今日一日の中で最高の笑顔を僕にして見せた。


ああ、なんてことだ。

リリィさん。

それ、現時点では完全に窃盗じゃないですか。


そう言おうと思った矢先、ズボンのポケットの中で僕のスマホの着信音が鳴る。

電話をかけてきたのは、今年で高校三年になる妹だった。


『あ、お兄ちゃん?今どっか出てるの?アパートまで遊びに来たんだけど』


「またか。お前もヒマだな。ヒマなら家の手伝いでもしてろよ」


『ていうかさ、お兄ちゃん、引っ越した?』


「は?いや、引っ越してなんかないぞ。そもそも家族に黙って引っ越せるワケないだろ」


『じゃあ、ついに彼女できた?』


「できてないよ。もしできたらお前に真っ先に自慢してるよ」


『だよねー。でも変なの。お兄ちゃんの部屋のベランダにね、メイド服と女性物の下着が干してあるの』


「…………」


『お母さんには、黙っとくね?』


「いや、ちょっと待て。それにはだな、深い理由があってだな…」


必死に弁解を考えつつ、僕はスマホを耳に当てたまま、天を見上げてため息をつく。


穏やかな春の昼下がり。

世界は今日も、あくびが出るほどに平和である。

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