クロシロジャッジメント

光姫 琥太郎

主が与えた一打席、奇跡よハトとともに

それはもう遥か昔のこと。


何百年前だったか、あるいは何千年前だったか、今となってはそれさえも定かでないがな。


私はあの日、初めて奴と遭ったのだ。


魔族の尖兵グラン。

天を突く燃えるような真っ赤な髪と、全身から溢れ出す殺気が今でも忘れられぬ。


だが私とて神に連なる者。

その場から一歩たりとも退く訳にはいかなかった。


相手の呼吸に合わせ、互いに虚空を蹴る。

グランの力任せに振る大剣が耳元を掠める。


高速ですれ違った瞬間に私の神槍がグランの左腕を刺し貫いた。だがその程度で倒れるほど奴も甘くはない。


ああ、今でもよく覚えているよ。


轟轟と唸り渦を巻く大気の中で感じたあの息苦しさと緊迫感。そして、決して負けられぬという強い使命感。


その戦いは何年にも及んだ。

互いに多くの血を流した。


七年目、七月の晩。

グランは遂に我に屈した。


互いに立てぬほど疲弊し傷ついていたが、確かに私は勝利したのだ。

神聖なる神々の住まう塔への魔族の侵入を無事に阻止することができたのだ。


だがな。

その戦いは始まりに過ぎなかったのだよ。


グランは幾度となく蘇り、転生を繰り返し、執拗に塔への侵入を試みてきた。

その度に私は、決死の思いでそれを阻んできた。


時を越え、所を変え、刃を交え、知力を尽くし、時として運さえも味方につけ…、何度戦ったのかさえもはや憶えておらぬ。


だがそれも宿命なのだ。

主が、私に与え給うた過酷な宿命なのだ。


そしてこれからも。

グランが神の塔を侵そうとする限り、私はそれに立ち向かわねばならない。


それこそが私の使命なのだから。


という訳でそこの少年よ。

今から私を市営球場まで案内してくれたまえ。


■□


「はい?」


三時に予約してある美容院へと急ぐ途中の信号待ちで、いきなり話しかけてきた女性に対して僕は至極真っ当な反応を返した。


目を見開き、少し斜めに傾けた顔だけをちょこんと前に突き出す「すみません、もう一度お願いします」の意を表す伝統的かつグローバルでポピュラーなジェスチャーだ。


いや、今のシチュエーションに限って言えば、「意味がよく理解できないので軽くスルーしていいですか?」的な意味合いの方が強かったかもしれない。


いずれにせよ、そんな僕のリアクションに目の前に立つ少女はひどく不満げである。


そもそも、このよく晴れた日曜日のうららかな昼下がりの雑踏の中で、メイド服を身に纏った見知らぬ少女から睨みつけられてるという状態がまずは異常なのだけれど。


しかもその少女の喜怒哀楽ゲージは確実に『怒』の辺りで止まっているご様子で、哀とか楽とか、あわよくば喜とかにチャンネルを変えてあげたいとは思うものの、あいにくそんなうまい乙女心チェンジスキルを僕は持ち合わせていない。


「おぬし、今の私の話をちゃんと聞いていたのか?市営球場までただちに案内せよと言っている」


理解の追いつかない僕を真顔で急かす少女。

周囲の通行人たちからの奇異なモノを見る眼差しに耐えきれず、信号が青に変わったタイミングで横断歩道へと足を踏み出そうとするものの、少女が左右にステップを踏んで僕のその行く手を軽やかに阻む。


その度に、後ろでひとつに結んだ彼女の長い黒髪がファサファサと左右に揺れた。


しかし、間近で見ればなかなかに整った顔立ちの女性である。

好みのタイプかどうかは別として、彼女に対する表現を「少女」から「美少女」に変えることに異議を唱える者は少ないだろう。


どこの貴族に仕える召使いだろうか。

はたまたどこの店に勤める従業員だろうか。

どちらにしても、決してこれが彼女の普段着という訳ではあるまい。


「ぼんやりするな。球場の方角は西か、東か。私は急いでいるのだ」


「球場ならこの通りを渡ってしばらくまっすぐですけど…、すみません、僕も急いでますので」


その美少女に、僕はようやく言葉を返すことに成功した。遠回しに「現地までの案内はできませんよ」とお断りしたつもりだったんだけど、残念ながらこの困った現状を打破するには至らなかったようだ。


「おぬしの事情など知ったことではない。万が一にも私が決闘でグランに敗れるようなことがあれば…、おぬしの抱える案件など、この脆弱な人間世界ごと虚無に帰すことになるのだぞ」


「はぁ。いや、でも、三時に予約が」


はめてもいない腕時計をチラリと見る仕草をわざとらしくして見せ、僕はどうにかしてこの場から逃れようと足掻いてみる。


しかし、そんな僕の逃げ腰感丸出しの態度に業を煮やしたか、美少女は腕組みをして、頭一つ分ほど背の低い所からじっとりと睨み上げてきた。


「おぬし、事の重大さがまったく理解できていないようだな。よいか、先ほどの私の話を思い出してみろ。我こそは神々の住まう塔を守護する者、リリィ。ここまでは把握しているか?」


「いえ、初耳です。グランさんとかいう方なら何度かお名前をお聞きしたような気がしなくもないですけど」


「グランは魔族の尖兵にして我が永遠の宿敵の名だ。私がグランに敗れし時、神々と魔族の最終戦争が勃発し世界の秩序は崩れ去る。いいか少年、理解しろ。この世界でおぬしらが生きていられるのは、私がこれまでのグランとの戦いにおいてことごとく勝利し続けているからなのだ。理解したなら行動しろ。私を、グランの待つ市営球場まで案内するがよい」


そこまで一気にまくし立てると、リリィさんとやらは女性とは思えないほどの握力で強引に僕の手を取り、赤信号にも関わらず僕を引きずったまま横断歩道をスタスタと歩き始めた。


「いや、ちょっと!あの、車が来てます!リリィさん、車が来てます!」


「心配するな。轢かれそうな時は私が守ってやる」


「いや、その前に信号守りましょう!」


叫びも虚しく、リリィさんに手を引かれるまま、僕らは横断歩道をダッシュで駆け抜けた。


甲高い急ブレーキの音に重なり、何かすごい衝突音が聞こえたような気もするけど…、振り返る余裕は、僕にはなかった。


横断歩道を渡り終えた勢いで、商店街に隣接する裏通りをそのまま数十メートルほど走り、お客さんが入っているところを未だかつて見たことのない古びた洋服屋の手前あたりでようやくリリィさんはその足を止めた。


僕の手を引きながらあれだけ走ったというのに、息を切らした様子など微塵もない。


そしてリリィさんは何やら上へ向けておもむろに右手を伸ばし、凛と透き通る声で周囲の目も気にせずいきなり叫んだ。


「ハト!」


すると上空から一羽の灰色の鳩がパタパタと舞い降りてきて、リリィさんの細い右肩にとまった。


なんの前触れもなく、お願いしてもないのに目の前でいきなり手品を見せられた気分だ。驚く暇さえなかった。


「よしよし、いい子だな。この鳥の名はハト。主より賜った奇跡を呼ぶ聖なる鳥だ」


「鳩がですか?」


「ハトだ。ハトとは我々の言葉で『神の遣い』という意味だ。お主らのいう鳩とはわけが違うぞ」


「それは失礼しました。いわゆる同音異義語とかいうやつですかね」


「うむ。日本語というのはじつに難しいな。ところで今、この言語の起源から今に至る歴史と変遷をすべて網羅した上で、おぬしにも分かり易いよう現代日本風の言葉に変換して話しているのだが…、きちんと伝わっているか?」


「えと、今のところきちんと伝わっていますけど。確かに日本語は難しいですよね」


「そうだな。だが、複雑であるがゆえに美しい。日本語か…、なかなか気に入ったでござる」


「少し現代風への変換に失敗してますけど大丈夫ですか、リリィさん」


そんな話をしながらも、僕はそのハトをじっと見つめていた。


鳩が豆鉄砲を食らったような顔できょとんとする僕のその顔を、ハトと呼ばれた鳩のような生き物というか鳩そのものにしか見えないその灰色のハトが、リリィさんの肩の上で首をかしげて鳩のように見つめている。


「でも、この鳥が神の遣い…、ですか。だとしたら、人間の言葉とか喋れたりもするんですかね」


「そうだな。試してみるがいい」


「え、マジですか?あの、ハトさん、はじめまして。今日はとてもいい天気ですね?」


「くるっくー」


「だが少年よ、残念ながらハトは喋ることはできない」


「いや、それ先に言ってくださいよ。なんで試させたんですか。それで、なぜこのハトポッポを呼んだんです?」


「それはだな…」


少し勿体ぶったような、小悪魔っぽい笑顔を僕に向けてみせ、今度は上空ではなく真正面に続く通りの先へと手を伸ばすリリィさん。


そしてまたしても、そろそろ通報されてもおかしくないレベルの大声で叫んだ。


「ハトよ。我を市営球場まで導け!」


チラチラと向けられる通行人たちからの冷たい視線に耐えつつ様子を見ていると、ハトはまた「くるっくー」と可愛らしく鳴きながらリリィさんの肩からふわりと飛び立った。


そのまま、僕たち二人を先導するかのようにゆっくりと、そしてまっすぐに市営球場の方角へと飛んでいく。


「どうだ少年。あとはハトが我々を市営球場まで導いてくれる。さぁ、後を追うぞ」


「そうですか。だとしたら、僕の存在意義って一体なんなんですかね」


この少女は一体何者なのだろう。

虚言癖のある手品師か何かだろうか。


何をどこまで信用していいかわからなかったけれど、適当に話を合わせつつ、僕はリリィさんの隣で歩き出した。


市営球場と美容院の方向はまるで逆とは言わないものの、決して近いという訳でもない。

だが、とりあえず案内するだけなら、そこから電車一本でなんとか予約している時間にはギリギリ間に合うだろう。


そんなこんなで、ポジティブというか何に対しても基本的に無頓着な僕は、このメイド服を着た謎の美少女との散歩を堪能することに決めたのである。


「何をジロジロ見ているのだ」


並んで歩いているリリィさんが僕を下から睨みつけて言う。切れ長で少し釣り上がった瞳が怖い。


これはアレだ。

別に怒っている訳ではないのに、黙り込んでいるだけで「なに怒ってんの?」と友達から聞かれてしまうタイプの顔立ちだ。


「いや、あの、今更なんですけど…、なんでメイド服なんて着てるのかなと思いまして」


「メイドとは何だ?私はこの国の言語を起源とする言葉しかわからない。他の単語に言い換えるか、潔くその質問に対する回答を諦めるかのどちらかにしてくれ」


「それはまた面倒くさい話ですね。えっと、じゃあ、なんでそんな格好をしてるんですか?今からその、グランとかいう人と決闘するんですよね?」


「あぁ、この服装か。この世界で肉体を具現化する際、私と霊魂の位相が最も近い人間に憑依した結果だ。位相がかけ離れていると、憑依するだけで霊力を無駄に消費するからな」


なるほど。

どうやら神族とメイドは魂の位相が近いらしい。これを証明することができればノーベル幽体科学賞は堅いな。そんな賞があるかどうかは知らないけど。


そんなことを考えつつ、僕とリリィさんはハトを追ってタバコ屋の角を曲がる。


しかし、極めて正確なハトの先導には驚かざるを得ない。およそ地域住民にしか知られてないような小道やら路地裏やらを経由し、僕らは徒歩における最短ルートで市民球場まで近づきつつあった。


「でもリリィさん、ハトがいるなら、別に僕はいらない子ですよね?そろそろ帰ってもいいですか?」


「ならん。ハトはあくまで先導役であり、この世界の理屈まではわからぬ。おぬしのような小間使いが私には必要なのだ」


「メイドさんに小間使い扱いされるとは心外ですが、まさかとは思いますけど決闘が終わるまで待てとか言わないですよね?」


「世界が救われる瞬間に立ち会えるのだぞ。それを見逃す以外の手があるのか?むしろ光栄に思うがよい」


「はぁ。それは光栄といいますか、いい迷惑といいますか」


ううむ。リリィさんと話せば話すほど、ますます厄介なことに巻き込まれていく気がする。


もしこれがむさ苦しい男からのお願いであればソッコーで断るところだけど、リリィさんの長い髪から漂うなんとも言えない甘い香りが、僕が足を止めることを許さない。


『甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし』

昔、どっかの誰かがそんな歌を歌ってたな。今の僕がまさにその心境だ。


さてそうなると問題は、今から行われるというその『決闘』の内容である。


「リリィさん、あの、参考までにお聞きしたいのですが、決闘っていつも大体何分ぐらいで終わるものなんでしょう?」


「決闘方法によりまちまちだ。長ければ一年以上はかかる」


「マジですか。さすがにそんなには待てないですよ。今日はもっと早く終わるような決闘にしませんか」


「決闘の方法はいつもグランから提案されるのだ。私はただ、それを受けて立つのみ。だがそう心配するな。いつだったか、神聖遊戯『アッチ・ムウィテ・フォイ』の時は三秒で終わった。稀にそういうこともある」


その神聖遊戯とやらのルールが激しく気にはなったものの、したり顔でウンウンと頷くリリィさんに詳しく聞くのもなんだか怖かったのでやめておくことにした。


「じゃあ、今回の決闘内容はもう決まってるんですか?」


「うむ、野球で戦うとのことだ」


「はい?」


意外な回答に、僕は思わず耳を疑った。

いや、神聖遊戯『ニラ・メッ・コー』とか言われなかっただけマシかもしれないけど…、まさかのベースボールとは。


あ、そうか。

だから市営球場なのか。


「だがな少年よ、私はその野球とやらの戦い方を知らないのだ。どうやら私が本塁打を打てば勝ち、凡退すれば負け、ということらしいのだが」


「ははぁ、何やらずいぶんと男らしいルールですね」


「ルール、とはどういう意味の言葉だ?」


「えっと、その…、掟とか、規則とかいう意味です」


「そうか。では、頼りにしているぞ、少年よ」


では、の意味がよくわからなかったけど、その時にリリィさんが見せた笑顔がとても魅惑的で、僕はもうすっかり返す言葉を失ってしまう。


そしてやがて、目指す市営球場が見えてきた。


「ここか?」


役目を終えたハトを再び自分の肩に乗せたリリィさんからのその短い問いに、僕は黙って頷くことで答える。


この市営球場の場所はもちろん昔から知ってはいたけど、文化系の僕にとっては火葬場と同じくらい普段は訪れる必要のない場所のひとつだった。


受付に座っている市の職員らしきおじさんにどう説明して入場許可を得ようか、それともそ知らぬ顔でしれっと入ってしまおうかなどとひそかに悩む僕。


だがそう長く思案する間もなく、僕は辺りを包む異常な空気を察知した。


社会人野球、あるいは草野球の試合の途中なのだろうか、野球のユニフォームを着た中高年の男性たちがダグアウト周辺をウロウロしている。


いや、ウロウロというよりオロオロといったほうがしっくりくるかもしれない。


口々に「あいつ、誰だよ?」「誰かの知り合いか?」「試合が台無しじゃないか!」などと言い合っている。


明らかに、只事ではないムードが漂っていた。


「少年よ」


「何ですか、リリィさん」


「おぬしはまだ気づいておらんだろうが…、グランはもう、すぐ近くにいるぞ。先程から明らかに空気が変わってきているからな」


「すみません、さっきから気づいてました。とりあえず、これ以上無関係な人間を巻き込まないためにもサッサと決闘を終わらせましょう」


今までどおりそう軽口を叩いて、隣に立つリリィさんの横顔を見た瞬間、僕は思わずハッと息を呑んだ。


そこに立っているのはメイド服を着た少女。

だが前を見据える彼女のその険しい眼差しは、形容し難いほどの強烈な闘気に満ちていた。


それは、獲物を力ずくで屈服させんとする戦士の目。


逆らう者を容赦なくねじ伏せてきた王者の威厳。


全身から発せられる足がすくむほどのオーラ。


僕はこの時、ようやく理解した。


この少女がただの人間ではないということを。


理屈ではなく、本能で理解した。


「いくぞ少年。おぬしらの世界、今再び私が守ってやる」


「あ、は…、はい!」


メイド服のままスパイクも履かず、スタスタとグラウンドへ向かうリリィさんの、頼もしくも華奢なその後ろ姿を慌てて追う。


そのままの勢いで、気の抜けた普段着の僕とメイド服のリリィさんという何ともこの場にそぐわぬ珍妙なコンビは、熱気渦巻くグラウンドへと躍り出た。


そこに展開されていたのは明らかに野球の試合途中の様相で、グローブを装着した守備側の選手たちは当たり前のようにそれぞれのポジションについている。


スコアボードを見上げれば六回裏。


先攻のチームが初回に一点を先取して以降、互いにゼロ行進が続いているところを見るとなかなかのクロスゲームが展開されているようだった。


なんてことのない、ありふれた一場面。

ただひとつの特異点を除いては。


「遅かったな、リリィ!待ちくたびれたぞ!」


僕らを見るなり、マウンドに立っていた女性が大声を張り上げた。


そう、それこそがただひとつの特異点。


野球の試合中のマウンドに少女が仁王立ちしていたのだ。しかも、リリィさんのとは若干デザインが異なるものの、またしてもメイド服である。


あれがリリィさんの宿敵、グランさんなのだろうか。だとしたら、メイドというのはもしかして人類の中で最も人外と魂の位相が近い存在なのかもしれない。


あと一人ぐらい同じ境遇の人を見かけたら、そろそろ本格的にノーベル幽体科学賞用の論文を書き始めてもいいだろう。


「待たせたな、グランよ!またノコノコとやられに来たか。お前も懲りない奴だな!」


リリィさんもまた、負けじと大声を張り上げる。


いきなり現れた二人のメイド(と、普段着の冴えない男)を交互に見比べ、試合中だった選手たちは何が起きているのかさえわからず立ち尽くしていた。


その奇妙な状況下で、マウンドにいるグランさんがさらに吠え立てる。


「サッサとやろうぜ、リリィ!今日という今日こそはお前の泣きっツラを拝ませてもらうっ!」


リリィさんとは対照的な、ショートヘアが良く似合う快活な外見のグランさん。どちらかといえばグランさんの方が僕の好みのタイプなのだが、さすがにそんなことは口が裂けても言えない。


一方、ヒートアップするグランさんとは逆に、リリィさんは至って冷静である。

口を真一文字に結び、ただじっと、グランさんを睨みつけていた。


そしてひとつ大きく息を吐き出すと、今度は僕に向き直り真剣な表情でこう尋ねてきたのだった。


「さて少年、いよいよおぬしの出番だ。私は今からどうすればよい?」


「あ、えっとですね…、とりあえず本塁打を打つことがリリィさんの勝利条件なので、まずは誰かからバットをお借りしましょう」


「バットとはなんだ?」


「根元が黒ずんだ、硬い棒状のモノです。いや、決して変な意味ではなく」


その説明と僕が指差した方向から理解してくれたのか、リリィさんは一塁側のネクストバッターズサークルに転がっていた木製バットをゆっくりと手に取った。


そして、その硬い棒状のモノにねっとりと両手の指を這わせ、先端から根元まで、時に強く、時に優しく、舐め回すように愛撫する。


「ふむ、なかなか硬くて立派ではあるが…。こんな武器でやられるほど、あのグランはヤワではないぞ?」


「いえ、リリィさん。その棒で投手を撲殺するのではなく、投げられた球を打ち返すんですよ。それが野球ってものです」


「ふむ。なるほどな、そういうことか。理解した」


そう言って、リリィさんは根元が黒ずんだ棒状の硬いモノをギュッと握り締め、キャッチャーとアンパイアの待つバッターボックス方面へと向かった。


「さぁ来い、グラン!」


「リリィさん、ちょっと待ってください!せめて左右どちらかのバッターボックスに入ってください!その場所でどうやって打つ気ですか!? 」


あろうことかホームベースの真上に立ち、正面切ってグランさんと向き合ったリリィさんに僕は慌てて声をかける。


「ふはは!相変わらず無知だなリリィ!そんなところに立っていたら捕手の邪魔になるだろうが!」


そういう問題でもない気がするのだが、グランさんはそう言って人差し指の先でボールをクルクルと器用に回し、マウンドの上で高笑いしてみせた。


「なるほど。この二つの四角い結界のうちから一つを選べということだな。いきなり心理戦か。野球とやら、なかなか奥が深いな」


「いや、リリィさん。バッターボックスは自分の利き腕から選べばいいだけです。そんな奥深い要素ではありません」


スイングの邪魔にならないような場所までリリィさんに近づき、僕はできる限りの助言を与えることにする。


そしてリリィさんはしばし逡巡した後、左のバッターボックスへ入った。

左利きなんですか?と聞こうと思った矢先、間髪入れずグランさんが投球フォームに入った。


「先手必勝!いくぞリリィ!!」


大きく振りかぶったグランさんの、並の少女とは思えぬほどのその速球は、バシンと乾いた音を立ててキャッチャーミットに収まった。


「ボール!」


主審が首を横に振る。


「はぁ!?今のがボールかよ、くそっ!」


マウンド上で地団駄を踏むグランさん。


この状況でもしっかり判定を下す主審もすごいが、そのジャッジにきちんと従うグランさんもある意味すごい。


「少年よ」


「なんですか、リリィさん」


「何が起きているのかさっぱりわからんのだが」


「ボーっとしてたらダメです。またグランさんがボール…、いや、球を投げてきますから、タイミングよく…、いや、なんていうか、ここぞというところでどりゃあ!みたいな感じでその硬い棒状のモノを振ってください」


自分でも何を言っているのかよくわからなかったが、どうやらリリィさんは僕の言わんとすることを理解してくれたようだった。


そして、第二球目。


グランさんの流れるような美しいフォームから放たれたストレートに、リリィさんがフルスイングでバットを合わせる。

そのバットは、見事に白球を捉えた。


ガキィンという少し鈍い音を立て、打球はセンター方向へと弧を描く。


一瞬、ホームランかと思ったが意外と伸びない。センターを守る中堅手がすでに落下地点に入り、「オーライ!オーライ!」と叫びながら両手を広げていた。


リリィさんの敗北条件は『凡退すること』。

だとしたらこれは…、いわゆる「万事休す」というやつか。


そしてリリィさんの敗北は、長く続いたこの世界の平和の終わりを意味する。


僕は呆然として、ただ一言、ポツリとこうつぶやくしかなかった。


「リリィさん。残念ながらこの勝負…、あなたの負けです」


だが、僕のその悲壮感漂うセリフとは裏腹に、リリィさんはバッターボックスの中で優雅に打球の行方を眺めている。


「どうだ少年、見事に打ち返したぞ。なのになぜ私の負けなのだ。わかるように説明せよ」


「いや、説明してる時間もないと思いますけど…、とにかくですね」


「うむ」


「あの選手がこのまま捕球すれば、リリィさんの記録は中飛…、つまり、凡退となります」


「うむ。それで?」


「その瞬間、グランさんの勝利が確定するということです」


「ハト!!!!」


僕が言い終わるやいなや、リリィさんは捕球体勢に入った中堅手をビシッと指差し、凄まじい声量で叫んだ。


その声に弾かれたかのように、今まで大人しく肩にとまっていたハトが、新幹線かと見紛うほどのスピードでセンター方向へと一直線に飛んでいく。


そしてその勢いで頭から中堅手の腹部に激突し、哀れな中堅手は悲鳴を上げることもなくその場にもんどりうって倒れ込んだ。


横たわったその遺体…、いや、その体のすぐ傍にリリィさんの打球は落ち、そのまま点々とフェンスの方へと転がっていった。


「えーっと、その、リリィさん…?」


「危ないところだったな。見よ、この絶体絶命の窮地で聖なる鳥が奇跡を生んだ…。主よ、ハトを授けて下さったこと、心より感謝いたします」


「いや、奇跡と言いますか、高性能な飛び道具と言いますか…」


とりあえず僕は中堅手に向けて合掌し、それから改めてグラウンドの様子を窺った。


緊迫したムードかと思いきやそうでもなく、選手たちはどちらかというとリラックスしたような様子で、「姉ちゃん、がんばれー!」「腰が入ってないぞー!」などと口々にはやし立てて楽しんでいる。


世界の存亡をかけた戦いの筈なのだが、今やグラウンド内はコスプレアイドルのファン感謝デーみたいな様相を呈していた。


「さぁグランよ、仕切り直しといこうか。主が与え給うたこの試練…、私に敗北は許されぬ!」


「ふん、ちょこざいな!次こそトドメを刺してやるぜぇ!」


そんな回りの緩んだ空気に流されることもなく、リリィさんたちは真剣に、そしていたってマイペースに決闘を続けていた。


「いくぞリリィ!打てるもんなら打ってみろ!やや、あれは空飛ぶ円盤!?ほら見て見て!……なーんちゃって隙ありィィィ!!」


「うぬ!?おのれ卑怯な!許さんぞグラン!誰がそのような姑息な手に乗るものかっ!」


「えーっと、あの」


すっかり決闘に夢中になっているリリィさんの背中に、僕は特に申し訳ないと思うこともなく、静かにこう告げた。


「そろそろ時間なんで、僕、帰りますね」


■□


あれから三日が経った。

世界は今日も、あくびが出るほどに平和である。


それはつまり、あの日の決闘でリリィさんが勝利を収めたということの証明なのだろう、きっと、多分。


電車に揺られ、切りすぎた前髪を少しばかり気にしながら、僕は眠い目をこすりつつ読みかけの小説を開く。


だが、ひとつ前の駅から乗ってきた、向かいのシートに座るカップルの下らない口喧嘩がやかましくて集中できそうにない。


「こないだもポテチ一人で食べたよね!あんたっていっつもそう!勝手なんだから!」


「なんだよ、残しといて欲しかったならそう言えよ」


「違うわよ!全部食べたことに怒ってるんじゃないの!食べた後の袋をわざわざ小さく畳んでさ、ゴミ箱の一番下の方にさ、まるで隠すように捨ててたでしょ!?そういうとこが許せないの!」


僕はため息をついて本を閉じ、スマートフォンから伸びたイヤフォンを耳に装着して耳障りな雑音をシャットアウトする。


あぁ、この世界のどこかで、今日もまた。


リリィさんとグランさんは誰かの肉体を勝手に乗っ取って、世界の命運を賭けた戦いを続けているのだろうか。


もしかしたら目の前のこのカップルが実はあの二人で、今回の決闘は『口喧嘩』だったりするのだろうか。


まぁ、なんだっていい。

小競り合いはあれど、世界は平和なのだから。


願わくば、一日でも長くこの平和な日々が続かんことを。


柄にもなくそんなことを祈って目を閉じ、電車のシートに体を預けて、僕は次の駅まで眠ることにした。

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