12話 逃げていたのも分かるわね

 ミリア様の残された匂いが少し薄れてきた頃になって、奥からパトラがひょっこりと顔を覗かせた。まあ、あの状況で幼い彼女が出てこなかったのは利口でしょうね。絶対うるさいでしょうから、ミリア様が。


「ミリア伯母様たち、帰られました?」

「ああ、帰ったよ」

「よかったあ」


 クロード様のお言葉にほっとしたように出てきて、パトラはアルセイム様と私の間にするりと入り込むとそれぞれの手を取った。あら、お父様のところに行くんじゃないのね、と思いながら私より小さくてやわらかい手を握ってみる。ほら、私の手はメイスを握るのに慣れているから。


「パトラ、どこにいらしたんですの?」

「あの、ミリア伯母様のお声が怖かったので、ジェシカ叔母様のお部屋に逃げてました」

「ああ……」


 私の問いに対するパトラの答えに、この場にいる全員が何となく頷いた。確かにあの、雄叫びとも言えそうな声は怖いわよね……逃げて正解よ、パトラ。

 と、そのパトラが鼻をくん、とさせた。何かしら、と思ったらどうやら、トレイスらしい。ああ、ミリア様の匂い、本当に移ってたのね。


「トレイス、変な匂いする」

「ああ。申し訳ありません、ミリア様が必要以上に接触してこられたので」

「うわあ、伯母様どれだけ香水ぶっかけてたんですかあ」


 さすがのトレイスも、パトラの言葉には苦笑するしかなかったよう。本当に、どれだけ香水を使っていらしたのかしらね。

 アルセイム様も軽く肩を揺らして、この状況からトレイスを解放なさることにしたようだ。


「トレイス、服を変えておいで。叔母上の匂いは、たまったものではないだろう」

「……はい。失礼致します」


 安心した顔で頭を下げて、そそくさとトレイスは奥に引っ込んだ。まあ、いつまでもあの匂いをまとわりつかせていては、気持ち悪くて仕方がないのかもしれないわね。

 でも本当に、かなりきつい匂いだったわねえ、ミリア様。


「あんなに香水効かせて、ご自身は平気なのかしら」

「ミリア姉上はもともと派手好きでね」


 独り言のつもりで呟いた言葉に、クロード様がお答えを下さった。まあ、お衣装からして派手好きらしいのは分かるけれど、匂いまでそうなのかしら。


「ああいうの見てたら、貴族の女性とは結婚したくなくなるよ」

「あら、そうなのですか」


 続けてクロード様が口にされたお言葉に、私はおやと思った。女性と結婚したくなくなるって、少なくともクロード様にはパトラという娘さんがいらっしゃるのだから。確かに、結婚という形を取らなくても子は作れるのだけれども。

 それにそう言えば、パトラのお母様という方のお話を聞いたことがないわね。私のお母様と同じように、早くに亡くなられたのかもしれないと思ってお尋ねすることはなかったけれど。


「あの、そうするとパトラのお母様は……」

「えっ」


 思わずお尋ねしてみると、クロード様は妙なお顔をされた。まるで今まで、そんなこと考えたこともなかったというような。そんなわけ、ないはずなのだけれど。

 そんな微妙な空気は、パトラの明るい声で吹き飛ばされた。あらあら、ナジャ、お役目取られましたわね。


「やーだお父様、まだお若いのに忘れちゃいやですよう。お母様は普通に街に住んでたんですけど、お父様と結ばれて私が生まれたんですよ」

「……ああ、いや。忘れたわけじゃなくて、一応お前のこと気にしたんだがな」


 クロード様は髪をがりがりとかき回して、少々ばつの悪い表情になられた。パトラのお母様であればクロード様とは情を交わしたわけで、そんな方のことをお忘れになっていた、かもしれないのはさすがにね。

 けれど、きちんと思い出されたらしいクロード様はこちらに向き直られて、穏やかに微笑まれた。


「まあ、そういうことだ。結局事実婚のままあいつが早くに亡くなったんで、俺が引き取ったんだ」

「そうなんですか……」


 そんなことを話されて、私は思わず手を握ったままのパトラに視線を向ける。目を丸くしてこちらを見返してくるパトラはとても愛らしくて、もしかしたら苦労したかもしれないのにそんな様子は微塵も見せなくて。


「私も母が早くに亡くなっているので、他人事とは思えませんわね」

「ああ。あの時は大変だったね、レイクーリア」


 ほうとため息混じりに呟くと、アルセイム様が私を気遣ってくださった。まあ、私はそうでもなかったけれど……というか、特にお父様の悲しみ方がそれはそれはすごかったので、私もお兄様も半分泣きながら必死にフォローに走ったものだった。お父様、本当にお母様のことを愛しておられたから。

 そんなことを考えているのが分かるのか分からないのか、クロード様がお言葉をくださった。


「その分、ジェシカ姉上を気にかけてやってくれないかな。俺はどうしても、そこら辺の機微には疎い」

「ええ、それはお任せくださいませ」


 ジェシカ様のことであれば、グランデリアのお屋敷に来ると決まった時にもちろん心には置いてある。アルセイム様のお母様でいらっしゃるし、私のことも良く気にかけてくださった方だ。

 お屋敷に来てから、折を見てジェシカ様のお見舞いに行くようにはしている。大概、パトラが部屋にいるのにはちょっと呆れたけれどね。……慣れたお部屋だったから、今もそちらに逃げ込んだのね、パトラ。


「済まないな、レイクーリア。本当なら、息子の俺が気にかけないといけないんだが」

「構いませんわよ」


 ああもう、そこでアルセイム様が優しいお言葉をくださるんだから、余計に頑張らないといけないじゃないですか。嬉しいですから、いくらでもお任せくださいませね。

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