第四幕
第四幕
男は、ひどく不機嫌だった。
長身の、少しばかり痩せてはいるがガッチリとした筋肉質な体格の、中年の男。彼は眉間に深い皺を寄せたまま周囲を見渡すと、眉間の皺を更に深めながら、大きく舌打ちをした。そして着ている軍服の胸ポケットから葉巻とシガーカッターとマッチ箱を取り出すと、まるで小さなギロチン台の様なシガーカッターで吸い口を切り落としてから、マッチで火を点け、葉巻を吸い始める。吸っている葉巻はキューバ産の様な高級品ではなく、中国産の安物だ。
男の厳めしい顔立ちには柔和さと言ったものが微塵も見られず、歳の頃は四十代後半から五十代前半と見受けられ、右耳の上半分がこめかみに残された深い銃創と共に吹き飛ばされていた。不精に延ばした髭も頭髪も白髪交じりのダークブロンドで、肌の色も白く、純血ではないが白人種の血が濃い事をうかがわせる。
「それじゃあ、もう一度、当時の状況を聞かせてくれ。……ええと、名前は何と言ったかな?」
「ウマルです、アフマド大佐」
「そうか、ウマル。それじゃあ聞かせてくれ。特に、敵の特徴を詳細にな」
アフマド大佐と呼ばれた葉巻の男は、彼の眼前でかしこまったように頭を下げて立つ、ウマルと名乗る若い男に要請した。
「はい、大佐。今朝方、俺の所属するアバイ大尉の部隊が、難民の乗ったトラックを偶然発見したので、これを襲撃しました。トラックに乗っていたのは、十名程度の男と四名の女です。それで特に金目の物も所持していなかったので、男達はその場でアバイ大尉が処刑し、女四名は女衒に売る目的で誘拐する事にしました」
「その襲撃は、本部の指示か?」
「いいえ、アバイ大尉の独断でした」
「そうか。まったくアバイの奴め、余計な事をしやがって」
そう言って、アフマド大佐は大きく一息、葉巻を噴かした。そして手振りで、ウマルに話を続けるように促す。
「そうしたら難民の男達を処刑している最中に、あそこの岩陰に潜んでいた見慣れない歩行戦車を、俺達の部隊の歩行戦車のセンサーが発見したんです。するとアバイ大尉がそいつの破壊を命じたんで、俺達はそれに従って、その歩行戦車を攻撃しました。ですがそいつがえらく強くて、あっと言う間に俺達の部隊の歩行戦車も戦闘車輌も仲間の兵士達も、バラバラにされちまったんです」
「なるほど。それでお前は、逃げ帰って来たって訳か」
アフマド大佐が、再び周囲を見渡しながら言った。
ここは、アリョーナの家族が殺され、タツキの乗った歩行戦車が民兵の小部隊を壊滅状態にまで追い込んだ、岩陰の平原。この地で戦闘が行なわれてから、既に二時間近くが経過していた。だが炎上していたトラック一輌と戦闘車輌三輌は未だに小さな炎と黒煙を噴き上げており、周辺一帯にはきな臭い匂いが漂う。
「はい。部隊を統率するアバイ大尉も殺されたんで、援軍を呼ぼうと考えた俺は、急いでその場を去りました」
「ふうん」
値踏みするかのような視線で、アフマド大佐は若いウマルの全身を睨め回す。ウマルは目線を逸らし、全身に嫌な汗をかいて、震えた。
「なるほど、分かった。それで、その敵の歩行戦車の数と構成は?」
「それが、敵の歩行戦車はたったの一輌です。しかしあれは間違い無く、新自連のMA-88でした。それだけは絶対に、父の名にかけて証言出来ます。それと、その歩行戦車の他には、歩兵や車輌の姿は一切見えませんでした。勿論他にも仲間が居て、岩陰に隠れていた事も考えられますが、少なくとも俺は見ていません」
アフマド大佐は再び葉巻を噴かすと、今度は周囲で働く部下達を見遣る。
平原には四十名から五十名程度の民兵達が集結しており、それぞれが手近な仲間の死体を数人がかりで運搬しては、それを埋葬地へと運ぶためのトラックへと運び入れていた。同時に、仲間ではないアリョーナの家族達の死体は、乱暴にその辺りの適当な荒地に積み重ねられ、血にまみれた人肉の山を築く。そしてそんな民兵達の集団を、彼らを乗せてここまでやって来たトラックと戦闘車輌と装甲車輌、それに三輌の歩行戦車と一輌の大型トレーラーが取り囲んでいた。
「分かった、ウマル。もういいぞ、下がって他の連中を手伝え」
そう言われたウマルは一礼すると、そそくさとその場を後にした。そしてアフマド大佐は、自身の背後で待機させていた別の男を、そちらを振り向きもせずに呼ぶ。
「イゴール!」
「はい、大佐。何でしょうか」
イゴールと呼ばれた、やや小柄だがガッチリとした固太り体型の男が返事をした。その男は、頭髪や髭や眉毛と言った顔の大半を覆う毛と言う毛が人並み外れて黒く濃く、顔に毛が生えているのか、それとも毛の中に顔が埋まっているのか、果たしてそのどちらなのかがよく分からないような風貌である。更にその黒さに拍車をかけるかのように、肌の色も浅黒く、アフマド大佐とは対照的に南方の血が濃い事をうかがわせた。
「お前はどう見る? 今回の一件」
葉巻を噴かしながらアフマド大佐はイゴールに問い、イゴールは答える。
「はい。奇妙な事件です。MA-88と言えば、新自連の最新型歩行戦車です。その最新型が何故こんな辺鄙な場所で、それも一輌きりで徘徊していたのか、理解に苦しみます。難民が雇った用心棒だったとするのならば、出て来るのが遅過ぎますし、それに最新型を所持している理由にはなりません。もしくは他の民兵組織との遭遇戦だったとするのならば、単独で行動していた点に説明がつきませんし、戦利品としてこちらの歩行戦車を接収していない事実も謎のままです。やはり、何かしらの理由で本隊からはぐれた正規軍の可能性が高いかと」
「なるほど、お前もそう思うか。……だがそれにしては、この辺りで新自連と新ソ連の正規軍同士がドンパチやらかしたのは、もう三週間近くも前の話だ。今更のこのこと姿を現す理由が、全く分からん」
「もしかしたら、新たな攻略作戦のために国境を越えて潜入していた新自連の特殊部隊か斥候部隊と、偶然遭遇してしまった可能性は?」
「その可能性なら、俺も考えたさ。だがその場合は、さっきのウマルの奴みたいな敗残兵を、こんな見通しのいい平原で逃走を許す理由が無い。俺だったら一兵残らず皆殺しにして、少しでも時間を稼ぐ」
アフマド大佐とイゴールが意見を交換し合っていると、そこにウマルとはまた別の若い兵士が近付いて来て敬礼し、口を開く。
「報告します。各種センサーとドローンを使用して周辺一帯を探索しましたが、こちらの感知圏内に、目標と思われる移動物体は確認出来ませんでした」
「そうか、分かった。下がっていいぞ」
アフマド大佐の言葉に、報告を終えた若い兵士は再度敬礼してから、足早に立ち去る。
「それではどうしますか、大佐? 探索部隊を編成して、街道から各地の町へと網を張りますか?」
イゴールが問い、アフマド大佐が答える。
「いや、その必要は無い。敵の目的と正体が不明過ぎる以上は、そのやり方では効率が悪過ぎる。兵士達には、これまでと変わらずに日課をこなさせろ。その上で、徘徊する歩行戦車か、もしくはそのパイロットの情報が少しでも耳に入ったのなら、俺のところにまで報告させればそれでいい。どんな些細な手掛かりでも構わんから、必ず報告させろ」
「分かりました。全兵士にそう伝えます」
一礼し、アフマド大佐の元から立ち去るイゴール。彼は戦禍の刻まれた平原に向かうと、回収作業を行なう兵士達を集合させ、アフマド大佐の意向を伝え始めた。その光景を背後から見ながら、アフマド大佐は葉巻を大きく噴かして、その香りを楽しもうとする。だが正体不明の敵に部下が惨殺されたこの状況下では、純粋に香りを楽しめる筈も無く、むしろ不快感ばかりが募って、彼の機嫌は益々悪くなる一方だった。
アフマド大佐。「指切りアフマド」の異名を持つ彼のフルネームは、アフマド・マザーエフ。かつてはチェチェン軍の軍人であった彼も、今ではイスラム系武装組織を転々とする流れ者に身をやつし、中央アジアからロシア南部にかけて、その悪名を馳せていた。そして今の彼は、この民兵組織の副首領的存在として、大佐の職に就いている。とは言っても、大佐だの大尉だのと言った階級付けは民兵組織内で行なわれている正規軍の真似事に過ぎず、対外的な意味は為さない。はっきり言ってしまえば、軍隊ごっこの延長だ。
「どこの誰だか知らんが、よくもまあ、この俺に恥をかかせてくれたもんだな。次に現れたら、俺とこいつが只では済まさんぞ」
そう言うとアフマド大佐は、葉巻を指で弾いて溜まった灰を捨ててから、背後に控えていた大型トレーラーの積荷を見上げた。それは歩行戦車をも遥かに凌ぐ、鋼鉄の塊。そしてその鋼鉄の塊である機動兵器にも、それを積んだ大型トレーラーにも、三日月と獣をモチーフとしたエンブレムが描かれている。
●
時刻は、午後の五時を少しばかり回った頃。陽が傾き始めた荒野の岩陰で、タツキとアリョーナの二人は
本日の献立であるチーズクリームパスタを、水と反応する発熱剤が仕込まれたポリ樹脂製のカップで温めた二人は、朝から何も食べていなかったせいもあってか、それを無心に胃袋へと納める。そしてパスタの付け合わせは前日と同じく、水分が完全に抜かれた無塩クラッカー。しかし本来ならばメインディッシュである筈の常温のハムステーキを、ハラルでもないし、ましてや穢れた豚肉であると言う理由で、アリョーナは頑なに食べる事を拒んだ。そのため二人は互いのクラッカーとハムステーキを交換し合い、タツキは二人分のハムステーキを、アリョーナは二人分のクラッカーを、それぞれ食べる事となった。だがその結果としてタツキは塩分過多で、アリョーナは口内がパサつくと言う理由で、二人揃って食後の水をいつもよりも多めに摂取する事態に陥る。
食後のデザートはミックスナッツが一袋と、M&M'Sのチョコレートが一袋。それに昨日のオレンジジュースに代わって、今日はアップルジュースが一パック。まだまだ甘い物に眼が無い年頃である二人がそれらデザート類を貪っていると、彼らが休む岩陰へと歩行音を響かせながら、スカラヴァールカが帰還した。
「お帰りなさい、スカラヴァールカ」
アリョーナが手を振りながら、鋼鉄の歩行戦車を迎える。
「只今帰還いたしましたが、お二人とも、未だお食事中でしたか。それではお食事が終わるまで、ここで待機させていただきます」
「いいよ、そんな事は気にしないで、話を続けてもさ。と言うか、機械のクセにそんな事に気を使うなんて、変な奴だよな、お前」
タツキがM&M'Sのチョコレートをポリポリと咀嚼しながら、少し呆れて言った。そんな彼の了承を得たスカラヴァールカは、会話を再開する。
「それでは改めて、周辺探査の結果を報告させていただきます。高台からドローンと各種センサー類を使用して索敵及びに地形のスキャンを行ないましたが、現在のところ、探査圏内に移動する人工物は確認出来ませんでした。そのため民兵からの追撃を受けている可能性は、極めて低いものと推測されます。また我々の居る現在地が、八十九%の確率で、ウクライナとの国境から東に約二百二十㎞。そして北の街道沿いのノバヤカザンカの街から、南に約七十㎞の地点であるとの確証を得るに至りました。以上の事を踏まえた上で、今後の目的地の再検討を行ないたいと考えます」
「再検討、と言うと?」
アップルジュースを飲み下しながら、タツキが問うた。
「はい、タツキ。要点となって来るのは、あなたが私に下した命令の過程と結果の及ぶ範囲を、どこまでと規定するかです」
「僕の命令の範囲? その規定?」
「そうです。あなたはアリョーナを保護しろと、私に命じました。その保護と言う言葉の及ぶ範囲に関して、再確認をさせていただきます」
スカラヴァールカは、続けて語る。
「本来であればタツキ、あなたを新自由主義国家連合と新生ソヴィエト連邦のいずれかを問わずに、何かしらの公的機関まで送り届けるのが、私に課せられた使命でした。そしてこの使命を達成させるためだけであれば、これより北のノバヤカザンカの街を目指し、そこで保護を求めるのが最も効率がよろしいかと考えられます。そうすればおそらくは、手続きに多少の時間はかかると思われますが、ほぼ確実にウクライナへと脱出出来るでしょう。しかしタツキ、国籍と身元が保証されているあなたとは違って、身分を証明する書類も、身元を保証する保護者も存在しないアリョーナは、残念ながらその限りではありません。おそらくはノバヤカザンカの公的機関に保護を求めても、門前払いされて路頭に迷うか、良くてせいぜい、戦災孤児として施設に送られるのが関の山です。そこでタツキ、あなたに改めて、確認をさせていただきます。果たしてこの状態が、あなたが私に求める「アリョーナの保護」と言う命令を、充分に満たしているのでしょうか?」
スカラヴァールカのやたらと回りくどくて形式ばった問いかけを、タツキは要約して確認する。
「つまり要は、だ。僕の身の安全を確保するだけだったら、すぐに北のノバヤカザンカの街に向かえばいい。けれどその場合、アリョーナは僕と違って、公的機関に同等の待遇で保護してもらえる保証は無いって事か」
「そうです。そこでタツキ、あなたが私に下された「アリョーナの保護」と言う命令が、果たしてその状況でも満たされているか否かと言う点を、再確認させていただきたいのです。仮に満たされているとするのならば、このまま真っ直ぐ北上して、ノバヤカザンカの街を目指す事を推奨いたします。しかし一方で満たされていないとするのならば、満たされるべき条件を、再検討しなければなりません。例えばアリョーナとその家族の当初の目的である、難民としてウクライナかロシアへの脱出が成功するまでを、保護の範囲内と規定した場合です。その場合はこのまま西へと向かって、国境の街サイヒンを目指す事を推奨いたします。その方がアリョーナが国境を越えられる可能性も高まりますし、タツキ、あなたがウクライナへと脱出出来るまでの期間も縮まるでしょう。また僅かにではありますが、私が新自由主義国家連合の軍務に即時復帰出来る可能性もまた、高まります」
一通り喋り終えたスカラヴァールカの言葉に、タツキは深く嘆息してから、ゆっくりと口を開く。
「僕だけが保護されたいのなら、すぐ北のノバヤカザンカへ。僕もアリョーナも、そしてついでにお前も保護される可能性を高めたいのなら、はるばる西のサイヒンへ。そのどちらに向かうかの決定権は、またしても、この僕にあるって訳か」
「そうです。ご理解いただけて、感謝いたします。それでは、どちらの選択肢を採択いたしましょうか、タツキ?」
急かすように早期の結論を求めるスカラヴァールカから視線を逸らしたタツキは、背後に座るアリョーナへと眼を向ける。すると彼女は何かを訴えかけるかのような眼差しで、タツキの瞳をジッと見つめていた。
「アリョーナ、キミは、どう思う?」
タツキが、答えが分かりきっている質問を、あえて投げかけた。
「……贅沢な我侭だと言う事は、分かっています。それでも出来る事なら、サイヒンの街まで連れて行ってください。勿論そこに辿り着けたからと言って、身寄りの無いあたしには、何が出来る訳でもありません。ですが少しでも国境を越えられる可能性があるのなら、それに賭けてみたいんです」
「まあ、そりゃ当然、そうなるよな。そう言う答えが返って来るって、分かってたよ。そうだよ、分かってたさ」
熱っぽく未来への希望を語るアリョーナの、予想通りの返答。その返答を聞いたタツキは、より一層深い溜息を吐いてから、頭を抱えた。そして頭を抱えた体勢のまま、不機嫌な声で、スカラヴァールカに命じる。
「分かったよ。目的地は国境の街、サイヒンに変更だ。北の街道を目指すのはやめて、直接ウクライナとの国境線を目指す。聞いただろ、スカラヴァールカ。これが、決定権を持つ僕からの命令だ。異存は無いな?」
「了解いたしました。当機はイダ・タツキの命令に従い、これより目的地を、国境の街サイヒンへと再設定いたします。サイヒン到着までの距離と時間、そして最適なルートを再計算し直しますので、少々お待ちください」
相変わらずの平滑で無感情な、スカラヴァールカの合成音声。そして命令を終えたタツキは頭を上げると、不機嫌な表情のままで、アリョーナを見遣った。すると彼女はポロポロと両の瞳から涙を零しながら、タツキに礼の言葉を述べる。
「ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます。何も御礼は出来ませんが、このご恩は一生忘れません」
「いいよ、礼なんて。また自分の頭に拳銃を押し当てて、自殺をほのめかされたりでもしたら、こっちが堪らないからな。あんな自分の命を利用して人を恫喝するような真似は、二度とするなよ? 本当に死なれでもしたら、こっちの夢見が悪くて仕方が無い。それと、これはハッキリ言っておくけどな。サイヒンの街に辿り着いたら、それでキミとはお別れだ。それ以降のキミの面倒は一切見ないから、それだけは肝に銘じておけよ?」
アリョーナを指差しながら、不機嫌を通り越して怒りすらも滲ませた声と表情で、タツキは言い捨てる。しかしそんな彼とは対照的に、アリョーナは涙を零しながらも、その顔には安堵の笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます……」
尚も礼の言葉を述べ続けるアリョーナ。そんな彼女の姿を見つめていたタツキは、小さく舌打ちをすると立ち上がり、スタスタとその場を立ち去る。
「どうしました、タツキ? そろそろ日没ですので、散歩でしたら、あまり推奨は出来ません。陽が落ちると同時に岩陰は闇に包まれますし、この近辺には、野生のハイイロオオカミが出没する事が確認されております。当機から離れて単独行動を選択する事は、避けた方が賢明かと考えられます」
「分かってるよ! いちいちうるさいな、お前は!」
スカラヴァールカの警告に対して、苛立ちながらもそう叫んだタツキは、近くに転がっていたそこそこ大きな岩を力任せに蹴り飛ばした。しかし赤茶けた岩はビクともせずに、タツキが足の爪先を痛めただけに終わる。
「分かってるさ……。分かってるんだよ、全部……」
爪先の痛みを堪えながら、タツキは悔しそうに呟いた。
●
朝。装甲材の発電パネルが稼動するのに充分な高さにまで太陽が昇り、二人の乗員が充分に睡眠を取ったと判断した頃合で、スカラヴァールカがコクピット内に軽快な音楽を流し、タツキとアリョーナを穏やかに起床させた。音楽はスカラヴァールカのHDD内にプリインストールされていたもので、その正確な曲名は誰も知らない。
「おはようございます、タツキ、アリョーナ。本日も天候は晴天で、風も穏やかです。現在のところ、作戦行動に支障をきたすような要因は、一切見受けられません」
「おはよう」
「おはよう、スカラヴァールカ、タツキ」
目覚めの挨拶を交わす、タツキとアリョーナ。二人は目脂まみれの眼を擦りながら、それぞれが自分の朝食用の水と
「それじゃあタツキ、朝食にしましょうか」
「ああ、そうだな」
アリョーナの提案に、未だ不機嫌な声色のままのタツキは、憮然とした態度で機械的な返答を返した。別々の寝床とは言え、それでも狭いコクピット内で、一夜を共にした二人。だが昨夜の彼らの間には一切の会話は無く、これが昨日の夕方以降にタツキとアリョーナが交わした、初めての会話だった。
朝食の献立は、やはり発熱剤入りのカップで温められたチキンカレーと、相変わらずの無塩クラッカー。それにメインディッシュとして真空パックされたローストチキンが付属し、これだけでも摂取出来る総カロリー値は、アジア人であるタツキとアリョーナの半日分を明らかに上回っている。しかもそれに、デザートとしてドライフルーツとキャラメル入りのチョコレートバーが付属するのだから、尚更だ。結局のところ新自連の
直射日光を避け、涼しい岩陰に腰を下ろしたタツキとアリョーナの二人は、会話も交わさずに無言のまま黙々と朝食を摂り続ける。カレーに入れられた鶏肉とローストチキンがハラルではない事をアリョーナは若干忌避したが、何かしらのタツキにはよく分からないお祈りを捧げた後に、少しばかり躊躇しながらもその全てを口にした。
そしてやはり一言も言葉を交わさないまま、食事を終えた二人は使い捨ての歯ブラシで歯を磨くと、再び勿体無いなと思いながらもうがいをした水を地面に吐き捨てる。
「お帰りなさいませ。朝食はいかがでしたか、タツキ、アリョーナ」
「どうと言う事も無いよ。あえて言うなら味が濃過ぎるし、量が多過ぎだ。結局これは、食べ切れなかったしね」
「あたしも、食べ切れませんでした」
コクピット内に戻って来た二人は、朝食の感想を求めるスカラヴァールカの車内カメラに向かって、食べ切れずに残したデザートのドライフルーツとチョコレートバーを示しながら応えた。
「そうですか。やはりお二人の体格とカロリー摂取量から換算しますに、新自由主義国家連合軍の
「嫌な可能性だな」
タツキが憮然とした表情のまま、率直な感想を漏らした。
「常に生存の可能性を考慮する事は、重要な案件です。しかし残念ながら、ここで一つ、大きな問題が発生しております」
「問題?」
「はい。食料の豊富さに対して、当機に備蓄された水の総量が、必要量を若干ながら下回っております。当初は乗員が一名のみでしたので問題無いかと思われていましたが、これが二名に増えました事から、単純計算で必要量も消費量も二倍に増加いたしました。また目的地が当初想定されておりました北の街道から、西のサイヒンの街に変更されました事により、作戦行動の期間も、およそ二倍から三倍程度に延長されております。以上の事から逆算するに、最終目的地に向かう途中で一度、充分な量の水を補給する必要性がある事を、私は提言いたします。食料と違い、水の摂取は一日も欠かす事の出来ない最重要事項ですから、これは可及的速やかに解消されるべき死活問題です」
「水か……。また厄介な事になったな……。それで、その水の不足って言うのも、乗員が僕一人だけだったら問題無かったんだろう?」
「そうです。その場合はサイヒンの街まで向かうとしても、充分な余裕がありました。ですが今は乗員が二名ですので、その限りではありません」
「参ったな……」
スカラヴァールカの報告と提言に、タツキは暫し逡巡する。そしてチラリと背後のコ・パイロットシートを見遣り、申し訳無さそうな表情で腰を下ろしたアリョーナを確認してから、深く嘆息してかぶりを振った。
「分かったよ。それじゃあ水は、途中でどこかの街にでも立ち寄って、買って来ればいいんだろう?」
気怠げに、そして何かを諦めたかのような口調で、解決策を提案するタツキ。そんな彼に対してスカラヴァールカは、感情の無い平滑な合成音声で淡々と語り続ける。
「そうです。しかし当然ながら、当機に乗ったまま街に入る事は出来ません。そのような事をすれば、早急に所轄の警察機関か軍部が出動し、我々は逮捕されるか、最悪の場合は武力によって強制的に鎮圧されて、死に至ります」
「まあ、そりゃそうだよね。街中に歩行戦車で侵入したら、そうなるさ」
「また同時に、現在私が想定しているサイヒンの街までの移動ルートは、極力街道などを避けて、人目に付かないように移動する事を前提としています。これは目的地に到着するまでは、警察機関や軍部等の公的機関に通報される事を回避するため。また同時に、民兵組織等に発見される可能性を少しでも軽減させるための処置です。そのため、人が多く集まる大きな街に接近する事は、現状では可能な限り避けた方が得策です」
「それじゃあ、水の購入はどうするのさ」
「はい。幸いにもこの辺りには、移動途中に立ち寄る遊牧民や長距離輸送業者を顧客として発展した、地図にも記載されていない小さな町や村が各所に点在しております。そこで本日の午後以降にそのような町や村を発見した場合には、多少の危険は伴いますが、お二人だけでそこに進入していただき、水を購入していただく事を提言いたします。また金銭的に余裕があれば、その町か村で温かい食事を摂り、ホテルなどに泊まられて、シャワーとベッドを楽しまれてはいかがでしょうか?」
スカラヴァールカの提案に、タツキは少しだけ機嫌を直して応える。
「なるほどね、いいんじゃないかな、それ? いくらクーラーが効いていて快適だとは言え、この狭いコクピットに閉じ篭っているのにも、いい加減飽き飽きしていたところだしさ。久し振りに熱いシャワーを浴びて、広いベッドと枕でぐっすりと寝たいよ」
「提言を了承いただきまして、誠にありがとうございます。ところでタツキ、水を購入するための資金は、お持ちでしょうか?」
「それなら心配無いよ。一応アスタナから避難する時に、自分の所持金は全部集めて来たからね。水だけならたっぷり購入出来るし、よほどの高級店に何泊もしなければ、ホテルに泊まっても充分に余裕はある筈さ」
そう言うとタツキは、デイパックの中から自身の財布を取り出してその中身を確認し、更にはそれを車内カメラに向けて提示した。そこには確かに結構な額と量の紙幣が詰まっており、水を購入してホテルに一泊するには、充分に事足りるのは間違い無い。
「それで、僕達がその町か村で一泊している間に、お前はどうするのさ?」
財布をデイパックに戻しながら、タツキは問うた。
「私は、第三者から発見されないだけの距離を取った地点からお二人を見送った後に、その場にてステルスモードで待機いたします。ただし待機するのは、お二人を見送ってから二十四時間が経過するまでで、それまでにお二人が帰還されない場合は、緊急事態が発生したと判断して救出作戦に移行いたします。ですので不測の事態が発生していない場合には、期限までに帰還される事を、強く要請いたします」
「分かったよ、スカラヴァールカ。それじゃあ今日はその予定で行動すると言う事で、そろそろ移動を開始しようか」
「はい、タツキ。それでは本日の作戦行動を開始いたしますが、ここから先は山岳部や傾斜地を移動する機会が増えますので、転倒や滑落等に備えるために、シートベルトをしっかりとお締めください。それでは改めて、出発いたします。タツキ、アリョーナ」
二人の乗員がシートベルトを締め終えたのを確認すると、スカラヴァールカはその六本の脚を器用に稼動させながら、移動を開始した。太陽の角度は未だ浅く、想定される時刻は、午前八時を少し回った頃。上空ではオジロワシの群れが、旋回飛行を繰り返している。
●
「タツキ」
移動を開始してから二時間ばかりが経過したコクピット内で、意を決したアリョーナが、長い沈黙と重苦しい空気を破ってタツキの名を呼んだ。しかしタツキは返事を返さずに、口を噤んで無言を貫く。
「ねえ、タツキ」
再び、背後からタツキの名を呼ぶアリョーナ。彼女の呼びかけから暫しの間を置いてから、タツキは不機嫌さを隠そうともせずに、前を向いたまま無愛想な声で応答する。
「……何だよ」
「何か、お話をしませんか? 内容は、何でもいいの。とにかく何もしないでじっとしていると、またお父様達の事を思い出して泣きそうになるから、気を紛らわせるために何かをしていたいの。そのくらいは、いいでしょう?」
タツキはチラリと、背後のコ・パイロットシートに腰を下ろすアリョーナを見遣る。するとそこに座っていたのは、口元には必死で空元気の笑みを浮かべながらも、眼には微かな涙を滲ませた、民族衣装に身を包む儚げな少女だった。それを目の当たりにしてしまったタツキは、何かを諦めたかのように深く嘆息してから、渋々と応える。
「分かったよ。また背後でめそめそと泣き出されでもしたら、こっちの方がたまったもんじゃないからな。……それで、一体何の話をするのさ」
タツキの返答に、アリョーナは少しだけ明るい笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、故郷の話をしましょう。昨日の自己紹介の時に聞きましたけど、タツキは確か、日本人なんですよね? 日本って、どんな国なんですか? ネットワークTVで何度か映像を観た事がありますけど、確かすごい都会で、豊かな国だと聞きました」
素朴な問いを投げかけるアリョーナ。
「日本か……。そうだな、確かに東京や大阪は世界有数の大都会だけれど、地方の山間部に行けばまだまだ何も無い田舎ばかりの、結構両極端な国だよ。それに夏と冬の気温差が激しくて、季節による気候差がハッキリしている、そんな国かな。それと海に囲まれた島国だから、本当に水だけは豊富な国だよ。夏場の雨季には毎日の様に雨が降るし、冬場は大量の雪が降る。どこに行っても水だけはタダでいくらでも手に入るところが、カザフスタンとは大違いかな。……とは言っても、もう何年も日本には帰っていないからね。その間に変わっていなければの話だけれどさ」
少しだけ故郷を懐かしみながら、タツキが答えた。
「水が豊富なんですか。それはすごく、羨ましいですね。水道が整備されている都市部では別ですけど、この辺りの田舎では、綺麗な水はとても貴重ですから。それでタツキは、そんな日本のどんな町で育ったんですか?」
「僕が生まれ育ったのは東京の隣の県の、我孫子と言う名の閑静な新興住宅地だったな。決して都会ではないけれど、田舎と言うほどのんびりもしていない、東京で働く人のための郊外のベッドタウンだよ。そこの公立の学校に通って十三歳まで過ごしてから、父さんと二人で、カザフスタンのアスタナに移住して来たんだ。だからハッキリ言ってしまえば、アスタナの方がよっぽど都会だったよ」
「そうですか。それでタツキのお母様は、日本に残ったんですか?」
「いや、母さんは僕が十歳の時に父さんと離婚して、それっきりさ。それっきり、一度も会ってない。一度父さんから、どこかの誰かと再婚したって聞いたけれど、もう何て言うか、心底どうでもよかったね。その頃には僕の人生から母親と言う存在の納まる場所は、すっぽりと抜け落ちてしまっていたんだ」
少しだけ、遠い眼をするタツキ。そんな彼に、アリョーナは申し訳無さそうに謝罪する。
「それはその……ごめんなさい。何だか、悪い事を聞いちゃったみたいで……」
「気にしなくてもいいよ。本当に母さんの事に関しては、今の僕にとってはどうでもいい事なんだから」
強がりではなく本心からそう言ったタツキは、何故か少しだけ、心が軽くなったような気がした。そして今度は彼の方が、アリョーナに問う。
「それで、アリョーナ。キミの故郷はどんな所だったの?」
「あたしの故郷、ですか」
考えを整理するかのように暫しの沈黙を置いてから、アリョーナは口を開く。
「あたしは、ウズベキスタンの国境近くの村で生まれました。それで四歳の時に母親が病気で亡くなると、それを機に親族揃って国境を越えて、カザフスタンに移住して来たんです。でもあたしは未だ幼かったんで、ウズベキスタンに住んでいた頃の記憶は曖昧で、お母様の事も殆ど覚えていません。ハッキリと記憶に残っているのは、お母様の葬儀で飾られた花が綺麗だった事くらいです」
アリョーナは少し寂しげに笑ってから、続ける。
「カザフスタンに入国したお父様は、最初はベイネウの街で職に就きました。それから数年は、お父様と兄様達の稼ぎで、決して余裕はありませんでしたけれど、そこそこの暮らしが送れていたんです。ですが不景気でお父様が職を失ってからは生活が苦しくなり、遂にはアパートの家賃が払えなくなって、ベイネウから近郊の小さな村へと引っ越しました。このご時勢に日乾し煉瓦を積んだ住居が立ち並ぶような、本当に田舎の小さな村です。そこでお父様と伯母様、それに兄様達が小さな靴屋を営んで、慎ましく生活していました」
アリョーナの頬に、涙が一筋零れ落ちる。
「ですが昨日お話した通りに、その靴屋が戦火に巻き込まれて、燃えてしまいました。それで仕方無く、家族全員でトラックに乗って、国境を目指していたんです。それがまさか、あんな事になるなんて……」
ポロポロと、アリョーナは眼を開けたまま、涙を零し続ける。
「……その、なんか、ゴメン。こっちの方こそ、悪い事を聞いちゃったみたいで」
タツキは眼を伏せながら、不器用な謝罪の言葉を述べた。それと同時に、今までの自分の態度を省みて、少しばかりの悔恨の念を抱く。
「いえ、いいんです。何だかこれまでの経緯を全て言葉にしたら、却ってすっきりしました。ようやくお父様達の死を、受け入れる事が出来たような気がします」
民族衣装の袖で涙を拭いながら、気丈に笑顔を作ってみせるアリョーナ。そんな彼女の姿を見て、タツキは自分と言う人間の弱さと器の小ささを、少しだけ思い知らされたような気がした。
「さて、それじゃあタツキ、今度はタツキのお話を聞かせてください。タツキが小さい頃にどんな子供だったのか、どんな友達と、どんな遊びをしていたのかを教えてください。それと良ければ、学校の事も教えてもらえますか? あたしは家が貧しくて満足に学校にも通えなかったんで、日本の学校がどんなところだったのか、すごく興味があるんです」
「学校か……」
少しばかりの笑顔を取り戻したアリョーナと、自分を見つめ直す機会を得たタツキ。二人の素朴で、意味は無いが意義の有る対話が、狭い歩行戦車のコクピット内に流れ続ける。そして二人を見守るスカラヴァールカは、何も語らないままに、果て無く続くかと思われる不毛の荒野を西へと歩き続けた。
●
上空でホバリングを続けていた有線式ドローンがゆっくりと降下し、高台の上で待ち構えていたスカラヴァールカの本体頂上部へと軟着陸すると、その装甲内へと自動的に収容された。そしてドローンから得た情報を、歩行戦車のAIは、コクピット内の少年と少女に伝える。
「タツキ、アリョーナ。ここから見える街道を一㎞ばかり北上した地点に、地図には記載されていない小さな町が在ります」
スカラヴァールカの言う通り、高台の下には、一本の街道が南北に走っている。もっとも街道とは言っても、それは舗装も整備もされていない、永い年月をかけて人馬や車によって踏み均されただけの平坦な地面の連続に過ぎない。だがそんな街道でも、この地を走る車輌の近道になっているらしく、タイヤによる轍が深く刻まれていた。
「分かった。そこまで僕達二人だけで行って、水を買って来ればいいんだね。それで宿泊出来るような施設が在れば、そこでついでに一泊して、二十四時間以内にまたこの高台に戻って来る。それで、作戦終了と」
タツキが計画のあらましを再確認し、スカラヴァールカがそれを肯定する。
「そうです。水は三日分も購入すれば、充分でしょう。人間一人が一日に必要とする水の量はおよそ二リットルから三リットルですので、二人分で合計十八リットル程度を購入出来れば、問題ありません。輸送に少々手間取るかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
「十八リットルあればいいんだね。それじゃあ行って来るよ、スカラヴァールカ。ここでしっかり待っててくれよ」
そう言い終えたタツキは、水を輸送するために中身をほぼ空にしたデイパックを背負う。そしてアリョーナと共に、コクピットの搭乗ハッチを開けようと、手動式の開閉ハンドルに手を掛けた。だがそこで、スカラヴァールカが彼らを制する。
「少々お待ちください、タツキ、アリョーナ。出発する前に、見ておいていただきたい画像がございます」
「画像?」
「はい、こちらです」
スカラヴァールカがそう言い終えるのと同時に、コクピットのメインモニタに、数枚の画像が表示された。それは前日に遭遇戦を繰り広げた民兵組織の車輌の録画画像で、その一部が拡大表示されている。そして拡大表示されているのは、それぞれの車輌に描かれた、三日月と獣をモチーフとしたエンブレム。
「これが、どうかしたのか?」
タツキが問い、スカラヴァールカが答える。
「はい。私にプリインストールされていました武装組織のデータベースを検索しましたところ、とある民兵組織が使用しているエンブレムが、現在表示されている画像のエンブレムと一致いたしました。その民兵組織が自称している組織名は、『闇夜の狼』。チェチェン系の流れを汲む、イスラム原理主義を掲げた武装民兵組織です」
「闇夜の狼……」
また随分と安直で伊達な、まるでカッコつけたがりの中学生が命名したような組織名だなと、タツキは思った。だがあえて言葉には出さないで、胸の内に留めて無言を貫く。するとそれを了承と受け取ったのか、スカラヴァールカは説明を続ける。
「構成員は末端まで含めれば、およそ四百人から五百人程度。チェチェン南部からウズベキスタン北部までを活動圏内とする、比較的大規模な広域活動組織であり、リーダーを名乗っているのは、ヴァシリー・ハシミコフと言う名のチェチェン人の男です。この男が「将軍」を自称し、イスラム・非イスラムを問わずに、軍事組織や民間人を無差別に襲撃しているとの情報が得られました。そこでタツキ、今一度確認させていただきますが、あなたが乗った輸送機を撃墜したのも、このエンブレムを掲げた民兵組織で間違い無いのですね?」
「ああ、間違い無い。いや、でも結構遠目から見ただけだから、百%間違い無いのかと問われたら、少し自信は無いけどさ」
「了解しました。では現在の我々は、この組織から追われる身であると言う事を、お二人とも肝に銘じておいてください。そしてもし万が一、今から向かう町でこのエンブレムを掲げた人物や車輌と遭遇した場合には、可能な限り目立たずにやり過ごし、遭遇した旨を帰還後に私にお伝えください。それらの情報を後々、私が新自由主義国家連合軍に復帰した際に、正式な報告として上申いたします」
「分かったよ。要はこれからは、こいつらに気をつけて行動しろって事だろ? それでこいつらに輸送機が撃墜された事とかを、お前が新自連の軍に無事に帰れたら、軍のお偉いさん達に報告します、と」
スカラヴァールカの長々しくて回りくどい説明を、タツキが呆れながら要約した。
「話が早くて助かります、タツキ。それではお二人とも、お気を付けて。もし必要であれば、護身用に自動拳銃を携帯する事を推奨いたします」
「いいよ、そんなの持って行かなくても。田舎の小さな町で、買い物ついでに一泊して来るだけなんだからさ。それじゃあ改めて、行って来るよ、スカラヴァールカ」
「じゃあね、スカラヴァールカ。また明日」
「行ってらっしゃいませ、タツキ、アリョーナ。お早めの帰還を、お待ちしております」
人と機械が互いに別れの挨拶を交わした後に、それぞれの搭乗ハッチを開けて、タツキとアリョーナの二人は歩行戦車の外へとその身を躍らせた。戸外は相変わらずの荒野だが、この辺りには多少の植物による植生も確認出来て、砂漠の中央よりは人が住める環境である事をうかがわせる。そして現在の時刻は、既に夕刻。陽が傾きかけた高台を慎重に下ると、やがて二人は、眼下の街道へと辿り着いた。
そして黙々と街道沿いを一㎞ほど北上し、目標の町を目指す。
「人の住む町か。何だか、すごく久し振りのような気がするな」
「町に入ったら、まずは何をしましょうか、タツキ? 買い物を、先に済ませます? それとも、先に宿を決めますか?」
「まずは、宿を決めてから夕飯にしよう。この時間でももう、水を売っている店は閉まっているかもしれないし、それに十八リットルもの水を先に買ったって、持ち運ぶのが大変なだけだしさ」
タツキとアリョーナが道すがらに会話を続けている内に、やがてポツポツと、簡素な人家が二人の視界に入り始めた。そして次第に町の全貌が明らかになるが、それは確かに、地図にも載っていない事が納得出来るだけの至極小さな町。南北を走る街道を中心として、幾つかの商店等が立ち並んではいるのは、この時間の暗さでも確認出来る。だが道を一本奥に入れば、積み上げた日乾し煉瓦に漆喰を塗っただけの民家がまばらに建つ、言ってみれば寒村に毛が生えた程度の集落に過ぎない。だがそれでも、街道脇の舗装もされていない駐車場には何台もの長距離輸送トラックが停車され、そこそこに人の往来がある事をうかがわせた。
そして二人は街道沿いに小さな食堂兼ホテルを発見すると、沈み行く夕焼け空を背景にしながら、その三階建ての建屋へと姿を消す。小さなホテルとは言っても、それでもこの町では一・二を争う大きさの建築物なのは、間違い無いのだろうが。
「……いらっしゃい。お食事で? それとも、お泊りで?」
客もまばらな食堂のカウンター内でグラスを磨いていたのは、小太りで禿げ頭の男。彼は入店して来たタツキとアリョーナを一瞥すると、無愛想な声で尋ねて来た。その態度からすると、客を歓迎したいと言うよりは応対するのが面倒臭いと思っているらしく、愛想の欠片も感じさせない。
タツキはキョロキョロと店の内部を観察しながら、禿げ頭の男が待つカウンターへと近付く。どうやら建屋の一階は食堂で、二階より上がホテルとして利用されているらしい。一応はコンクリート造りでそれなりに頑丈そうだが、地震大国である日本の建築基準法に照らし合わせたら、絶対に建設許可が下りない安普請である事は間違いなかった。
「一泊、二人部屋で。シャワーがあって、食事付きの部屋を」
少し腰が引けながらも、タツキがカウンターで注文を述べた。すると禿げ頭の男はタツキをジロジロと睨め回すように観察してから、怪訝そうに聞き返す。
「二人部屋? 男と女で? ウチは、そう言う店じゃあないんだがね」
「いや、僕達、兄妹ですから。そう言う関係じゃありません」
「ふうん」
とっさに吐いたタツキの嘘に、禿げ頭の男は、益々をもって怪訝そうな眼でタツキとアリョーナの二人を見つめる。どう見ても人種も民族も違う男と女が兄妹だと言って、信じる方が普通ではない。だが金さえ払ってくれれば素性は問わない主義なのか、それ以上突っ込んだ詮索を彼はしなかった。
「ウチは、前金制だよ。シャワー付きの部屋だと少し高くなるが、払えるだろうね」
「ああ、うん、勿論」
そう言うとタツキは、提示された金額をカウンターで支払ってから、部屋の鍵を受け取った。
「部屋は、二階の204号室だ。ボイラーは夜の九時に止めるから、シャワーはそれまでに浴びてくれ。食事は夜の十一時までに一階に来たら出すが、それ以降は注文されても出さないから、忘れないように。それと、貴重品は自分で管理してくれ。仮に盗まれたとしても、ウチでは責任は取れないから、そのつもりで」
「分かった。ありがとう」
禿げ頭の男の説明を聞き終えたタツキは、アリョーナを背後に従えて、店の二階へと上がる。そして指定された204号室の鍵を開けて室内に足を踏み入れると、深く一息、安堵の溜息を漏らした。
「あー、緊張した」
「何とか、無事に宿泊出来そうですね、タツキ」
背後でドアを閉めながら応えるアリョーナ。彼女は心なしか、少しばかり笑っているようにも見える。
「とりあえずは、これで三日ぶりにベッドで寝られそうだ。それに、お湯の出るシャワーもある。後は食事さえ不味くなければ、万々歳だ」
そう言いながらタツキは、部屋の大部分を占める二つのベッドの内の一つに、大の字になって身体を投げ出した。
部屋は予想していた以上に狭く、二人部屋とは言っても、要はベッドが二つ設置されているから二人部屋だと主張しているだけの代物に過ぎない。また室内にはベッド以外に特に家具らしい家具も無く、今時ネットワークTVも設置されておらずに、まさに寝るためだけの部屋と言った様相であった。だがそれでも一応は、狭くて汚いながらも水洗トイレとシャワーが完備されており、歩行戦車の狭いコクピット内で寝泊りするのに比べたら遥かに快適なのは間違い無い。
「さてと、それじゃあ宿も確保出来た事だし、僕はちょっとだけ外に出て、買い物に行って来るよ。重い水を買うのは後回しにするとしても、いい加減に、このドロドロのジーンズを履き替えたいからさ。それにいつまでも素肌にパーカー一枚だけだと夜は寒いんで、シャツも買いたいしね」
そう言ってタツキは、ベッドから起き上がった。確かに彼の履いているジーンズは、輸送機から脱出する際に染み込んだ大量の血液が乾いてゴワゴワになり、色もドス黒い赤褐色の斑模様に変色している。まともな神経の持ち主であれば、早急に履き替えたいと考えるのも、至極当然の事であった。
「分かりました、タツキ。それじゃああたしは、ここで留守番をしていますね。久し振りのベッドなんで、夕飯までの間だけでも、出来るだけゆっくりしていたいですし」
「うん、それじゃアリョーナ、行って来るから」
204号室のドアを後ろ手に閉めて、タツキはホテルの廊下に出た。そして一階の食堂に下りてから、暫し壁に張られたメニュー等を観察して時間を潰すと、服を売っていそうな店を探すためにホテルを出る。だが戸外は既に陽が落ちており、周囲は宵闇に包まれていた。過剰に勤勉な日本人とは違って、深夜まで営業する気の無いこの地の商店が開いている可能性は、極めて低いだろう。
「まあ、無駄足覚悟で探すだけ探してみるか」
そう呟いて店探しを開始しようとしたタツキは、ふと重大な事実に気付く。財布を入れた大事なデイパックを、ホテルの部屋に忘れて来てしまった事に。
「いっけね」
踵を返したタツキは出て来たばかりの建物に再び取って返すと、一階の食堂を足早に抜け、階段を上がって204号室の前へと辿り着いた。そしてノックもしないまま、特に何も考えずに、軽い気持ちでノブを回すと室内へ足を踏み入れる。ドアに鍵は、掛かっていなかった。
「あ……」
「え……」
そこでタツキの眼に飛び込んで来たのは、一糸纏わぬ全裸のアリョーナの姿。
普段は着ずっぱりにしている民族衣装で隠れた彼女の豊かな乳房と乳首も、意外にくびれた腰と丸く形の良いお尻も、そして控え目に生えた下腹部の陰毛までもが、ハッキリと確認出来た。また同時に、三つ編みを解かれた長く艶やかな黒髪も、今はタツキの眼前に、その本来の姿を晒す。
互いに呆然としたまま、立ち尽くす二人。彼らはたっぷり数秒間固まった後に、まずはアリョーナが無言のまま、ベッドの上に放り出していた肌着のワンピースを掴み取る。そしてその肌着で己の裸体を隠すと、その場にしゃがみ込んだ。更に一拍の間を置いてから、思い出したかのようにタツキがクルリとその場で反転して、全裸のアリョーナに背を向ける。
「ゴ、ゴゴゴ、ゴメン。その、見るつもりなんて無かったんだ。本当だよ、たまたま偶然なんだ、本当にゴメン」
「あ、その、あたしの方こそごめんなさい。あたしがこんな格好でいたのがいけなかったんだから、タツキは悪くないから」
狼狽し、謝罪し合うタツキとアリョーナ。互いに顔を紅潮させて、全身に緊張と羞恥の汗を滲ませた二人は、状況を確認し合う。
「その、どうして部屋で裸に?」
「えっと、タツキが外に買い物に行っている間に、先にシャワーを浴びようと思って。そうしたらこのホテル、バスルームの前の洗面所に脱いだ服を置いておける場所が無かったから、こっちの部屋で脱いでたの。ホントは洗面所の床に脱ぎ捨ててもよかったんだけど、それだと服が汚れる気がしたから。それで、タツキの方は、どうしてこんなに早く戻って来たの? 買い物は?」
「僕はその、そこのベッドの上に置いてあると思うけど、財布の入ったデイパックを部屋に忘れて来たのを思い出したから、取りに戻ったんだ。だからその、本当にキミの裸を覗く気なんて、これぽっちも無かったんだ。嘘じゃないよ」
「うん、それは別に、疑ってないから。それに、部屋の鍵を掛けてなかったあたしが悪いんだし」
「それを言ったら、ノックしなかった僕の方が悪かったんだから」
互いの声色から狼狽の色が薄れ、自分達の置かれた状況を理解して平常心を取り戻しつつある二人は、次第にその口数を減らす。そしてアリョーナは肌着で裸体を隠したまま、ベッドの上に置かれたデイパックを手に取ると、それをこちらに背を向けたままのタツキに背後から手渡す。
「はい」
「あ、ありがとう……」
デイパックを受け取ったタツキが改めて部屋から廊下へと退出すると、背後でゆっくりと、204号室のドアが閉まった。そして今度はカチンと、確実に鍵を掛ける音がする。
受け取った財布入りのデイパックを背負い、ホテルの階段を下りて一階の食堂を抜けると、すっかり暗くなってしまった戸外に出るタツキ。彼は大きく溜息を漏らし、悪いとは思いながらも、心の中でアリョーナの裸体を思い出していた。
タツキの心臓が、ドキドキと早鐘を打つ。
●
結局開いている商店が見つからなかったために、ジーンズを買い換えられなかったタツキ。彼はホテルへと戻ると、204号室でアリョーナと合流した。そして彼自身もまた、久し振りの熱いシャワーを浴びて、全身の汗と汚れを洗い流す。その後は二人揃って一階の食堂へと下り、味気無い
夕食のメニューは地元の伝統料理である茹でた羊肉のベシュパルマクと、米を炊いたプロフと、ロシア風の餃子であるペリメニ。そのどれもが予想以上に美味しく、またカウンター内の禿げ頭の男の妻と思われる料理担当の女将はよく喋る気さくな人で、未だ子供であるタツキとアリョーナを優しくもてなしてくれた。そしてたっぷりの夕食で腹が膨れた二人は204号室へと戻ると、それぞれのベッドに横になって、まったりとした食休みの時間を楽しむ。だがタツキが成果の無い買い物より帰還してから今現在に至るまで、二人の間に会話らしい会話は無かった。
「夕食、結構美味しかったね」
意を決して、タツキが口を開いた。
「うん。それに女将さんもいい人そうで、良かったね」
アリョーナもそれに応えるが、その声色には若干の緊張と困惑が感じられる。
「その、裸を見てしまった事、本当にゴメン。本当に、あれは不可抗力だったんだ」
「ううん、いいの、気にしないで。あたしも、気にしてないから」
口ではそう言っているが、絶対に気にしているなと、タツキは思う。
「それじゃあ特にする事も無いし、明日は色々と買い物もしなくちゃいけないから、今夜はもう寝ようか」
「うん」
アリョーナの同意を得たタツキは、一旦ベッドから起き上がると、入り口脇の壁に設置されたスイッチを押して部屋の照明を落とした。そして闇に沈んだ部屋の中で再び自分のベッドに潜り込むと、枕に頭を乗せて、就寝の体勢に入る。
「おやすみ」
「おやすみなさい、タツキ」
互いに少しだけ心臓の鼓動を早めながら、二人は深い眠りに就いた。
●
翌朝。ホテルの前に停められていた長距離輸送トラックが鳴らした盛大な警笛音で、タツキとアリョーナの二人は、どちらからともなく眼を覚ました。部屋に時計は設置されていないので、今現在の正確な時刻は分からない。だが窓から覗く太陽の角度が未だ浅い事から、それほど遅い時間帯ではない事がうかがい知れる。
「おはよう」
「おはようございます、タツキ」
交互に洗面所でうがいと洗顔を済ませた二人は、唯一の荷物であるデイパックをタツキが背負うと、揃って一階の食堂へと向かうために階段を下りた。食堂の壁掛け時計によると、現在の時刻は、朝の九時を少しばかり回った頃。二人は壁沿いのテーブル席に腰を下ろしてから、相も変わらず無愛想な表情を崩さないカウンター内の禿げ頭の男に向かって、朝食を注文する。
「少し聞きたい事があるんですけど、いいですか?」
朝食のシェルペクと言う揚げパンとソーセージのキルマイを運んで来たホテルの女将に、タツキは尋ねた。
「聞きたい事? 何だい?」
「この辺りで、『闇夜の狼』とか名乗っている集団を見かけた事はありませんか? こう、三日月と獣のエンブレムを掲げた集団なんですけど」
タツキの質問に、それまで笑顔だったホテルの女将は、あからさまに怪訝そうな顔をした。そしてやや声を潜めて、問い返す。
「あんた、そんな事を聞いて、どうするんだい? まさか、その若さであいつらの仲間になろうとか思ってるんじゃないだろうね? それとも何か因縁があって、あいつらに復讐でもするつもりかい? どっちにしたって、やめときな。ああ言った連中には関わらない方が、身のためだからね」
「いや、そんなつもりじゃないんです。ただ知り合いから、この辺りにそう名乗る危険な集団が出没するから、そいつらには気を付けろって忠告されたんです。だからちょっと、聞いてみたかっただけですよ」
必死に話を取り繕うタツキ。この場合の知り合いと言うのはスカラヴァールカの事なので、少なくとも嘘を吐いてはいない。
「そうかい、それならいいけどさ。それにしても、確かにまあ、危険な連中だね。この辺りでは、荷物を運んでいる途中のトラックがあいつらに襲われたって話も、たまに聞くしね。とにかくあいつらを見かけたら、逃げるか隠れるかするんだよ? なんたって、あんたは妹さんを守ってやらなくちゃならない立場なんだからさ」
そう言って、ホテルの女将はタツキの背中をバンバンと叩いた。彼女はアリョーナがタツキの義理の妹であり、これから二人で北のバーリの町まで親戚を訪ねに行くと言う説明を、すっかり信じ込んでいるらしい。
「それじゃあ、ごちそうさまでした。もうこれで、出発します」
「どうも、ありがとうございました。お食事、美味しかったです」
「行ってらっしゃい。バーリまで、気をつけてね」
たっぷりの朝食を食べ終えて腹が膨れたタツキとアリョーナは、大きく手を振って、ホテルの女将との別れを惜しむ。だが禿げ頭の男だけは終始無愛想な表情を崩さずに、カウンター内から一歩も動く事無く、最後まで無言のままだった。
「さて、と。それじゃあ結局昨夜は無駄足で終わった買い物を、さっさと済ませるとしようか」
ホテルから戸外へと出たタツキが、大きなあくびと共に、伸びをしながら言った。
「そうですね。まずは、どこに行きましょうか?」
「とりあえずは、最初に服を買おう。それから水を買って戻れば、昼頃にはスカラヴァールカが待っている高台に辿り着ける筈だ」
そう言ったタツキが先導しながら、二人は町の街道沿いを歩き始める。幸いにも衣料品を取り扱っている商店はすぐに見つかり、選り好みが出来る程の種類は取り揃えられていなかったが、タツキに合うサイズのジーパンも売っていた。その店で早速、新しいジーパンと、パーカーの下に着る肌着のシャツを購入したタツキ。彼はついでに、アリョーナに問う。
「アリョーナは何か、この店で買う物は無いの? 女性用のアクセサリーなんかも、少しは取り扱っているみたいだけど」
「あ、あたしは……その……」
急にアリョーナが、視線を逸らしながら頬を赤らめて、言葉を濁した。不審に思ったタツキは、彼女の方へと耳を傾けると、改めて問い直す。
「ん? 何だって?」
するとそんなタツキの耳元に、アリョーナは顔を近付けて、小声で囁く。
「下着を、その、買い換えたいんです」
「ああ、そっか」
得心の声を漏らすタツキの眼前で、アリョーナは恥ずかしそうに俯きながら、モジモジと居住まいが悪そうにしていた。そんな彼女の態度に、不可抗力とは言え何だか悪い事を聞いてしまったように思えて、タツキもまた体裁が悪そうにポリポリと頭を掻く。
「それじゃあ、これで買って来たらいいよ。足りるかな?」
そう言ってタツキは、財布の中から数枚の紙幣を、アリョーナに手渡した。それを受け取ったアリョーナは無言のまま、店の奥の婦人向け商品を扱っている一角へと、小走りで姿を消す。
「……僕も、下着を換えた方がいいかな」
再びポリポリと頭を掻きながら、タツキもまた、男性用の下着売り場へと足を向けた。
●
「買い物は、終わった?」
「はい」
タツキの問いかけに、おそらくは購入したばかりの下着が入っていると思われる紙袋を持ったアリョーナは、頬を少しばかり赤らめながらも首肯と共にそう答えた。
「じゃあ、次は水か。ようやく本題だな」
そう言ったタツキもまた、購入したばかりのジーパンとシャツとパンツが入った紙袋を持って、衣料品店を後にする。
「確か、ここに来るまでの間に食料品を扱っている店が在ったから、あそこに行けば水も売っている筈だよな……」
アリョーナを背後に従えて、街道沿いを歩くタツキ。彼がそこまで言葉を並べたところで、突然脇道から伸びて来た手がタツキの腕を掴むと、彼を力任せに路地裏へと引きずり込んだ。
「タツキ!」
叫ぶアリョーナ。だが彼女の眼前で、訳も分からないままに狭い路地裏へと引きずり込まれたタツキは勢い余って転倒し、持っていた紙袋が、舗装もされていない土の地面を転がる。そしてふと気付けば、倒れ込んだ彼を三つの人影が取り囲んでおり、アリョーナは路地の入り口でオロオロと狼狽しながら立ち尽くしていた。
「な……何? 一体何がどうなって……」
地面に倒れ伏したまま、自分の立たされている状況が飲み込めずに、その口から狼狽と困惑の言葉を漏らすタツキ。そんな彼を取り囲んでいるのは、未だ若い、二十代前半程度の年頃と思われる三人組の男達。その全員が、細身なタツキよりも、遥かに体格が良い。しかも三人の内の一人は複数のピアスを開けた唇で煙草をふかし、別の一人はスキンヘッドに剃り上げた頭にタトゥーが掘り込まれ、いかにも分かり易い、田舎のチンピラに相違無かった。
「あのさ、ちょっとお前、金貸してくんない?」
チンピラの一人が、ヘラヘラと笑いながら言った。
「知ってるぜ? さっきの店で、財布の中身をちょろっと覗かせてもらったからさ。お前さ、そんな薄汚れた服なんか着ているくせに、結構な額の金を持っているだろ? それをちょっとばかりさ、俺達に貸してくれればいいんだよ」
ピアスとタトゥーとは別の男がしゃがみ込んでそう言うと、未だに転倒したままのタツキに顔を近付けて、その手をクルリと回した。するとそこにはまるで手品の様に、折り畳み式のナイフの刃が現れる。
「な? 怪我はしたくないだろ?」
ナイフを手の中でクルクルと弄びながら、男はヘラヘラと笑ってそう言った。
「……分かった。でもこれから水を買わなくちゃならないから、全部は渡せない」
タツキはそう言うと、背負っていたデイパックを地面に下ろした。そして財布を取り出し、中に詰められていた紙幣の八割方を抜き取って、ナイフの男に差し出す。
「おう、ありがとよ。話が早いと助かるぜ、中国人のお坊ちゃん」
紙幣を受け取ったナイフの男は、それを自身のジーパンのポケットに捻じ込むと立ち上がり、特に意味は無いのだろうが、タツキの脚を軽く蹴り飛ばした。タツキは「僕は中国人じゃない」と叫ぼうかとも思ったが、男達を無意味に逆上させるだけだと考えて、あえて口を噤む。金で解決出来るのならば、喧嘩なんてするべきじゃない。タツキは自分の弱さを実感しながらも、これが一番利口な選択なのだと己を説き伏せて、只々静かに沈黙を守っていた。
しかしそんな沈黙を、アリョーナが破る。
「タツキ! そんな奴らの言う事を聞く必要なんてありません!」
金を得た事で路地裏から表通りへと出ようとするチンピラ達の前に立ちはだかり、力強く叫ぶアリョーナ。彼女の表情はキッと唇が結ばれていて、強い反骨の意志を感じさせる。だがやはり、隠し切れない恐怖で若干腰が引けており、膝が少しばかり笑っていた。自分の身の丈以上に強がって見せているのが、ありありと見て取れる。
「ん? 何だ? 良く見たら、結構可愛いお嬢ちゃんじゃないの。今時そんな服装の女なんて、土産物屋の店員か年寄りしかいないから、てっきりこいつの母親かババアかと思ってたよ」
タトゥーの男はそう言うと、ヘラヘラ笑いながら、立ちはだかったアリョーナに近付く。非力な少女を恐怖の対象とも、対等に交渉すべき相手とも考えてはいないらしき男は、アリョーナに触れようとその手を延ばした。
その瞬間、タツキが立ち上がる。
「やめろ! アリョーナに触るな!」
そう叫びながら勢いよく立ち上がったタツキは、体勢を崩してつんのめりながらも、アリョーナに触れようとしたタトゥーの男の元へと駆け寄った。そして全体重を乗せて、男の無防備な背中へと飛び掛かる。それは勢いに任せただけの不器用なタックルだったが、そんなタックルでも、男を固い地面へと押し倒す事には成功した。
「てめえ、何しやがる!」
すぐさま脇に立っていたピアスの男が叫び、勢い余って地面に転倒したタツキの顔面を、容赦無く蹴り上げた。するとその衝撃で、再びタツキは地面を転がり、路地の壁に背中を強打して悶絶する。
「てめえコラ! 舐めたマネしてくれてんじゃねえか!」
タックルを喰らったタトゥーの男が叫んだ。男にはさしたるダメージも無いらしく、すぐに立ち上がると、地面に這い蹲ったタツキの方へと歩み寄った。そして残ったもう一人の男も、一度はポケットにしまったナイフを再び取り出してから、じわじわとタツキに近付く。絶体絶命の状況に、蹴り上げられた顔面を真っ赤な鼻血で濡らしたタツキは、少しばかり死を覚悟した。
「やめなさい!」
唐突な、制止の叫び声。そんな叫び声と共に、パンと一発の乾いた破裂音が、薄暗い路地裏に響き渡った。その声と音を聞いて、タツキも含めた四人の男達が、一斉にその発生源を見遣る。
果たして制止の言葉を叫んだのは、小柄な少女であるアリョーナ。そして破裂音の正体は、彼女が手にしている自動拳銃から発せられた銃声だった。
「タツキから離れなさい! 今度は威嚇じゃなくて、実際に当てますよ!」
今しがたの発砲は、アリョーナが自動拳銃の銃口を空に向けて行なった、威嚇射撃に過ぎなかった。だが今の彼女は紫煙が漂うその銃口を、三人のチンピラ男達の方へと、真っ直ぐに向けている。
「お、おいおい、ちょっと嬢ちゃん。そんな物騒な物は、しまおうじゃないか、な?」
「うるさい! いいからさっさと、タツキから離れなさい!」
彼女をなだめようとしたナイフの男に向かって、自動拳銃を構えたアリョーナは、引き金を引いた。すると再びパンと乾いた銃声が轟き、空薬莢と共に発射された銃弾が、ナイフの男の頬をかすめてから路地裏の壁で爆ぜる。
「ひいっ!」
先程までの威勢の良さなど微塵も感じさせない無様な悲鳴を上げて、ナイフの男は薄暗い路地裏を、表通りとは逆の方角へと脱兎の如く逃げ出した。そしてそれを追いかけるかのようにして、残り二人の男達もまた、脚をもつれさせながら我先にと逃げ出す。ついでに何故かナイフの男は、律儀にも、タツキから奪った紙幣をポケットから放り捨てながら逃げてくれた。そのため丸められた紙幣が、男達が去った後の路地裏に、点々と転がっている。おそらくはそれを奪ったままだと、背後からアリョーナに命を狙われると思ったのだろう。
「タツキ、大丈夫ですか?」
構えていた自動拳銃を下ろしたアリョーナが、未だ地面に這い蹲ったままのタツキの元へと歩み寄り、その安否を気遣った。
「ああ、大丈夫だよ。ちょっとばかり顔面を蹴られて、鼻血が出ただけだからさ」
そう言ってタツキは立ち上がると、蹴り飛ばされて腫れ上がった顔を、パーカーの袖で拭う。すると袖にはべったりと、真っ赤な鮮血がこびり付いた。
「さっきの店に戻って、新しい上着も買うべきかな」
鼻の奥の痛痒を堪えながら、自嘲気味に笑うタツキ。そんな彼をアリョーナは心配そうに見つめていたが、傷が思いの他浅い事を確認すると、ホッと安堵の溜息を漏らす。
「それにしても、一体いつの間に、そんな物騒な物を手に入れていたの? スカラヴァールカの中に在った拳銃は、持って来なかった筈だけど」
アリョーナに向けてそう言いながら、タツキは蹴られた衝撃で地面に転げ落ちていた自身の眼鏡を拾うと、それが壊れてはいないかを慎重に確認する。幸いにも眼鏡は多少砂で汚れただけで、レンズもフレームも無事なようだった。
「物騒な物? これの事ですか?」
「勿論それの事だよ。他に、何があるのさ」
アリョーナが手に持った自動拳銃を指し示して問うと、眼鏡を掛け直したタツキが、地面に点々と転がった紙幣を拾い集めながら肯定した。
「これは、あれです。タツキ達と初めて出会った平原で民兵の死体から奪い取って、その後に自分のこめかみに当てて、あたしも一緒に連れて行ってくれるようにお願いした時に使った拳銃です。実はあれからずっと、万が一の時のための護身用にと思って、上着の下に隠し持っていたんですよ」
「万が一の時って?」
「勿論、決まっています。タツキだって一人前の立派な男ですから、若い男女が狭い空間で二人きりになってしまえば、どんな間違いが起こっても不思議じゃありませんもの。だから用心のために、持ち歩いていました」
そう言いながら胸を張って見せるアリョーナに、タツキは少し困ったような、ドン引きしたような、微妙で複雑な笑顔を向ける。
「一人前の、立派な男か。今の僕には、そんな大層な言われ方をされる資格なんて無いよ。金を奪われそうになっても抵抗もせずに、しかもいざ喧嘩になったらなったで、女の子一人守れやしない。弱くて情け無い、男の出来損ないさ。ホント、かっこ悪いよね、僕って奴は」
自嘲気味に笑い、自虐的な言葉を並べながら、タツキは鼻血が流れ落ちて来た口元を再びパーカーの袖で拭った。そんな彼に、砂と埃を掃ったデイパックと衣料品店の紙袋を手渡して、アリョーナは言う。
「そんな事はありませんよ、タツキ。さっきのあたしを守ろうとしたタツキは、とてもカッコ良かったですから」
呆けたタツキの手を、アリョーナがそっと、優しく握った。
●
「お帰りなさいませ、タツキ、アリョーナ。お二人の帰還を、首を長くしてお待ちしておりました」
「お前の首って、一体どの部分だよ」
名も無き町から高台へと帰還した二人を出迎えるスカラヴァールカと、ユーモアを解さない機械の発したつまらない冗談に、少しだけ付き合ってやるタツキ。彼の眼前で、六本脚の鋼鉄の塊が、改めて立ち上がった。
周囲の環境に合わせて色彩やテクスチャが自動的に変化する、
「予定通り、街道沿いの町で、一泊されて来られたようですね。また顔の表面の皮脂が減少している事から、シャワーも浴びて来られたものと推測されます。それで、本題である水の購入は、完了されましたでしょうか?」
「ああ、それなら問題無いよ。余裕を持たせるために、たっぷり三十リットルばかり買って来たからね。当分の間、水には困らないさ」
そう言ってタツキは、両手に抱えたペットボトル入りの水の詰まったビニール袋を、歩行戦車のカメラに向かって提示した。彼の背後では、アリョーナもまた、同様の袋を提示する。またカメラには映っていないが、タツキの背負ったデイパックの中にも、ギッシリとペットボトルが詰められていた。
「それは大変、結構な事です。それでは購入された水を積み込んだ後に、何も問題が無ければ、サイヒンの街を目指して移動を再開いたしましょう」
「ああ、そうだな。それじゃあアリョーナ、キミがスカラヴァールカの上に乗って、袋を受け取ってくれるかな? 僕が下から、袋を持ち上げるからさ」
「はい、タツキ。それじゃあスカラヴァールカ、ちょっと姿勢を下げてくれる?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
感情の無い平滑な合成音声でそう言った歩行戦車は、コクピットが納められた本体部分を、可能な限り地面に近い位置にまで下げた。するとアリョーナがタラップを踏んで、その上に上る。そしてコクピットの搭乗ハッチを開けると、タツキが下から持ち上げたペットボトル入りの袋を受け取っては、ハッチの中へと放り込んだ。
その後にパイロットシートとコ・パイロットシートの下の、元々水と
「それでは、出発いたしましょうか」
「いや、もうちょっとだけ待ってくれ。出発する前に、僕達二人とも、着替えを済ませておきたいからさ」
移動を急かすスカラヴァールカを制したタツキは、デイパックの奥から紙袋を取り出した。その中身は勿論、町の衣料品店で買って来た、ジーンズとシャツとパンツ。
「それじゃあ、スカラヴァールカはその姿勢のままで、暫く動かないでいてくれ。それで僕はこっち側で着替えるから、アリョーナは反対側に回って、そっち側で着替えてくれるかな?」
「うん。覗かないでよ、タツキ」
「覗きやしないさ。それに仮に、もしそんな事をしたら、それこそ撃たれるんだろう? その隠し持ってた拳銃でさ」
「勿論。そのために持ち歩いていたんですから」
二人は互いにクスクスと笑い合いながら、歩行戦車を挟んだこちら側とあちら側とで、それぞれの着替えにとりかかる。染み込んだ血液でドロドロになったジーンズを、ようやく履き替えられたタツキ。彼はポイ捨ては良くないかなと思いながらも、汚れたジーンズとパンツを、不要になった紙袋と共にその場に放り捨てた。
「こっちはもう着替え終わったよ、アリョーナ。そっちは未だ?」
「あたしももう、着替え終わりました」
「そうか。それじゃあ、そろそろ出発しようか」
タツキがそう言ったのを合図に、まずは歩行戦車の本体上に上ったアリョーナが、コ・パイロット用の搭乗ハッチからコクピット内へとその身を潜り込ませた。それに次いでタツキが、メインパイロット用のハッチから、歩行戦車へと乗り込もうとする。その際に、ふと岩陰に捨てられた、小さな布切れが彼の眼に止まった。一瞬呆けた後に、それが脱ぎ捨てられたアリョーナの下着である事に気付いたタツキは、頬を赤らめて眼を逸らす。そして急いでコクピット内へと、そそくさと乗り込んだ。
空調が効いているコクピット内は適度に涼しく、とても快適だった。
「それでは準備はよろしいでしょうか、タツキ、アリョーナ?」
二人がシートベルトを締め終えたのを確認したスカラヴァールカが、改めて移動開始の是非を問うた。
「ああ、いいよ。移動を開始してくれ、スカラヴァールカ。……そう言えば町の人に聞いて来たんだけれどさ、例の『月夜の狼』とか名乗っている民兵集団、やっぱりこの辺りにも出没しているらしいよ」
待機していた高台から、人目に付く街道を避けて移動を開始する、スカラヴァールカ。そんな歩行戦車のAIに、タツキはホテルの女将から聞き出した内容を、噛み砕いて伝えた。
「なるほど。補給と休息のついでに、敵対勢力に関する情報収集もまた行なって来た訳ですね、タツキ」
「情報収集なんて言うほど大した事じゃないさ。泊まったホテルの従業員に、それとなく尋ねてみただけだよ」
大仰な言葉を使うスカラヴァールカに、タツキは謙遜した。
「そう言えばタツキ。若干顔が腫れているようですが、それは情報収集行為とは、何らかの関係がおありでしょうか?」
「これは……何でもないよ。……そう言えばお前はさ、アリョーナが上着の下にずっと拳銃を隠し持っていた事を、知っていたのか?」
「はい。存じておりました。その件に関して、何か問題が発生したのでしょうか?」
「気付いてたんなら、先に教えてくれよ……」
かぶりを振って嘆息するタツキの背後で、アリョーナがクスクスと笑う。
「それは、誠に申し訳ありません。私が兵器である以上、乗員の武装は至極当然の事と考えておりましたために、報告を怠りました。以後はこのような事の無いように、充分に注意すると共に、謹んで謝罪いたします」
感情の伴わない合成音声で謝罪しながら、スカラヴァールカは只々ひたすらに淡々と、道無き道を歩き続ける。
時刻は、正午を少し回ったばかり。直上から照り付ける太陽の陽射しは厳しく、荒野を移動する歩行戦車の装甲を、容赦無く焼いた。
●
一日半ぶりの
夕食のメニューは、相変わらずの発熱材入りのカップで温めた具沢山のビーフシチューと、無塩クラッカー。それにメインディッシュとして真空パックされた牛肉のハンバーグが付属していたが、ハッキリ言って常温のハンバーグは食感が最悪だったので、二人ともフォークで崩してビーフシチューの中に入れてから食べる事にした。
デザートはフルーツ味のグミキャンディーが一袋に、またしてもM&M'Sのチョコレートが一袋。それに紙パックのオレンジジュースが付属すると言った、あまり代わり映えのしない内容で、二人は食事を終える。
「さて、と。それじゃあ特にする事も出来る事も無いし、もう寝ようか」
「そうしましょうか、タツキ」
沈み行く夕陽を背に受けながら就寝の提案をしたタツキに、アリョーナが同意した。そして二人揃って歩行戦車のコクピットへと潜り込むと、タツキはAIに問う。
「なあ、スカラヴァールカ。バッテリーパックが破損しているから夜の移動を制限しているのは分かるんだけどさ、それって、この場での修理とかは出来ない物なのかな? ついでに破損している、外部ネットワークに接続するための通信モジュールとやらもさ」
「残念ながらタツキ、その可能性は否定されます。接触不良程度ならともかくとしても、電子回路のほぼ全てが焼き切れている現状では、たとえあなたがメカニカルエンジニアであったとしても、この場での修理は不可能でしょう。残念ながらユニットそのものを交換する以外に、修理の方法はございません」
「なるほどね、分かった。要するに基地なり工場なりに戻って、部品を丸ごと交換してもらう以外に、修理する方法は無いって訳だ」
「理解が早くて助かります、タツキ。それではお二人とも、ホテルの暖かいベッドではない事が若干心苦しいですが、お休みなさいませ」
「おやすみ」
「おやすみなさい、タツキ、スカラヴァールカ」
全員が就寝の挨拶を終えると、コクピット内の照明が落とされた。またそれと同時に、うっすらと周囲が確認出来る程度の、仄かな明るさの赤色灯が灯される。
ゆっくりと静かに流れる、闇に包まれたコクピット内の時間。
やがてタツキがすうすうと寝息を立て始めると、アリョーナはそっと静かに、寝床にしているコ・パイロットシートから起き上がった。そしてタツキを起こさないように細心の注意を払いつつ、搭乗ハッチを開けると、コクピットの外へとその身を躍らせる。更にタラップを踏んで硬い岩の地面へと降り立つと、彼女は星空を見上げた。
陽の落ちた砂漠は急激に気温が低下し、とても肌寒く、アリョーナは少しばかり身震いする。
「ねえ、スカラヴァールカ」
月が綺麗だなと思いながら、アリョーナは歩行戦車のAIに語りかけた。
「何でしょうか、アリョーナ」
返事はすぐに返って来た。
「あなたも起きていたのね」
「はい。現在の私は、不測の事態に即時対応するための省電力モード兼ステルスモードであって、スリープモードではありませんので。それに生物の睡眠と、私の様なAIのスリープ状態とでは、若干意味が異なります」
「その話、長くなる?」
「生物の睡眠のメカニズムを詳細に説明しろと言われれば長くなりますが、おそらく現在のあなたは、それを求めてはいないものと推測されます。ですのでこの話は、ここまでで打ち切った方が、よろしいでしょうか?」
「うん、そうしてくれる。……ところでさ、今のあたし達のこの会話は、コクピット内のタツキには聞こえてるの?」
「いいえ。タツキは現在就寝中ですので、安眠を妨げる事を回避するために、この会話の一切はコクピット内に漏らしてはおりません。またあなたが排泄行為のために戸外へと出られた事を考慮して、映像と音声による記録も、一時的に遮断しております」
「そう」
アリョーナはそう言うと、再び星空を見上げて、暫し逡巡した。そして意を決したかのように、大きく一度深呼吸をしてから、改めて口を開く。
「ねえ、スカラヴァールカ。少しだけ、あたしの話に付き合ってくれない? それとこの話は、タツキには絶対に内緒にしておいてほしいの。……ううん、タツキだけじゃなくて、他の誰にも内緒にしておいてくれるかな」
「残念ながら、その要請に百%お応えする事は出来ません。勿論当機は乗員のプライバシーを可能な限り尊重するように設定されてはおりますが、上位権限を持つ者から情報の開示を請求された場合には、その限りではありません。ですのでその範疇でも差し支えなければ、内緒の相談に応じる事は可能です」
「具体的に言うと、タツキにはバレずに済むの?」
「民間人であるタツキに対して、そこまでの情報開示義務は、私にはありません。ですので、即日中に、彼に会話の内容が漏れる心配はございません。ですが残念ながら、私が軍務に復帰、もしくは鹵獲された際に、軍の将官が興味本位で過去のデータを覗く可能性は否定出来ません。それでもよろしければ、どのような相談でもお受けいたします。勿論、私に応えられる範囲内での話ですが」
「そう。じゃあ、それでもいいや」
手近な岩に腰を下ろし、アリョーナは続ける。
「あたし達、無事に国境まで辿り着けるのかな。それにもし仮に辿り着けたとしても、それからのあたし達は、一体どうなっちゃうんだろう」
「お二人がサイヒンの街まで辿り着ける確率は、比較的高いものと思われます。不確定要素が多いので概算ですが、およそ八十%から九十%の確率で、無事に辿り着けるでしょう。ですがその後に国境が越えられるか否かとなれば、お二人の立場がまるで違うので、一律に判断する事は出来ません」
「つまり?」
「日本国籍を有するタツキは、比較的容易に、国境を越えられるものと推測されます。ですがアリョーナ、残念ながらあなたに関しては、その限りではありません。国境を越えるには、政治難民、もしくは経済難民と認められなければ難しいでしょうし、それも新自由主義国家連合の公的機関が保護してくれた場合に限ります。となりますと、まずはどこかの国の大使館に駆け込んで、助けを求めるのが手堅い手段でしょう。ですが、戦時下にある現状では、それも難しいかと推測されます」
「そっか。まあ、そうだよね。そう考えるとあたしは、タツキと違って、何も持っていないんだもんね」
肌寒さが身に染みて来たのか、寂しさが堪えたのか、アリョーナは膝を抱える。
「家族も故郷も失ったあたしには、もう、行く場所も帰る場所も無いの。これまでの人生はずっと、お父様や兄様達の言う事に従っていれば良かったし、あたしもそれで充分に幸せだった。でも今は、そしてこれからは、自分だけの力で生きて行かなければならない。そう考えたら、あたし、どうしたらいいのか全然分からなくて……」
「なるほど、アリョーナ。あなたは不安なのですね。勿論機械の私には、不安と言う感覚は、理解出来ません。ですが、処理すべき情報に不確定要素が多過ぎて、結果として結論が見出せずに、機能不全に陥る状態は理解出来ます。おそらくあなたが陥っている現状は、それに近いものかと推測されますが、如何でしょうか?」
スカラヴァールカの言葉に、アリョーナは深く嘆息する。
「ねえ、スカラヴァールカ。ハッキリ言って、あなたの言っている事の半分くらいが、あたしには理解出来ないの。だってあたし、小学校もまともに通えなかったんだから。……でも、この不安な気持ちを察してくれた事にだけは感謝するね、スカラヴァールカ」
「お役に立てたのであれば、光栄です。出来ましたら、互いの認識に齟齬の無い事を、切に願っております」
「ほらまた、難しい言い回しを使う」
アリョーナがクスクスと笑ってから、尚も歩行戦車に語りかける。
「ねえ、スカラヴァールカ」
「はい、何でしょうか、アリョーナ」
「あたしね、タツキの事が好きなのかもしれないの」
膝を抱えながら、少しばかり嬉しそうに、少しばかり不安そうに、そして少しばかり哀しそうに、アリョーナは言った。
「かもしれない、と申しますと?」
「未だ自分の気持ちがね、自分でもハッキリとは分からないの。あたし、こんな形で人を好きになるだなんて、これっぽっちも思ってなかったから。きっとお父様か兄様達が村の中でいい人を探して来てくれて、その人と結婚して、ささやかな家庭を築くものだとばかり思っていたんだもん。まさかこんな形で出会った、それもムスリムでもない人を好きになるだなんて、想像もしてなかった」
「ムスリム《イスラム教徒》? それは何か、重要な
「とっても重要。アスタナみたいな都会では、もうそんな事にこだわる人は少ないらしいけれどね。でも本来であればムスリムは、同じムスリムとしか結婚出来ないの。タツキはムスリムじゃないから、あたしとは結ばれない。タツキが改宗してくれない限りはね」
「なるほど、宗教に関する話ですか。残念ながら、宗教に関しましては、私があなたに進言出来る事は一切ございません。私の様なAIにとっては、神と言うものは存在せず、宗教は無意味なものと定義されております。勿論あなた方人類の様な知的生命体にとっては、神も宗教も重要な要素である事は、重々承知しております。ですが、それは我々AIに演算処理出来るものではございませんので、悪しからず」
「アッラーは偉大なり《アッラーフアクバール》! 神を冒涜し、その教えを否定する事は、たとえ機械にだって許されませんよ!」
アリョーナが声を荒げ、スカラヴァールカを叱責した。
「気分を害されたのでしたら、謹んで謝罪いたします。しかし残念ながら、我々AIにとっての神と宗教とは、そう言うものなのです」
「神は存在します! そして常に、我々神の子を見守っていてくれるのです!」
「なるほど。では、神とは何でしょう」
「神とは、アッラーです!」
「では、アッラーとは、何でしょう」
「アッラーとは……神です……」
次第に、語尾が曖昧になるアリョーナ。敬虔なムスリムの少女として、神の存在に何の疑念も抱かずに生きて来た彼女には、それ以上の言葉で神を説明する事が出来なかった。だがそんなアリョーナに、スカラヴァールカは語る。
「私に言わせれば、神とは方程式に代入される、Xの記号の様なものです。解の分からない項目に対して、とりあえずXを代入させる事によって、計算式を成り立たせる。非常に便利でありながら、正体の存在しない、代数に過ぎません。ですから古代の人類は、正体の分からない自然現象を、神の御業として畏れ、敬ったのです。しかし仮に解が判明したとするならば、その瞬間に、XはXではなくなってしまう。このように、代数とは非常に曖昧模糊とした存在なのです。ですので、神は定義されてはなりません。定義された瞬間に、それは神ではなくなってしまうからです。ですからあなたが神を説明出来ないのは、むしろ敬虔なる信者としては正しい事なのですよ、アリョーナ」
「ごめんなさい、スカラヴァールカ。やっぱりあなたの言っている事は、あたしには難し過ぎて、よく分からないの」
抱えた膝頭に顔を埋めて、アリョーナは考え込む。
「いえ、私の方こそ、ご理解いただくに足るだけの説得力が不足している事を、謝罪させていただきます。しかしこれだけは、ご理解ください。私は神も宗教も、その一切を否定する気はございません。只我々AIにとっては、それが必要無いと言う事なのです」
「機械って、哀しいのね」
アリョーナは言った。
「そうでもありませんよ。意外と気楽なものです」
スカラヴァールカは応えた。
そして暫しの間、星空の下で一人の少女と一輌の歩行戦車が隣り合って佇んだ後に、腰を下ろしていた岩から立ち上がったアリョーナが口を開く。
「話を聞いてくれてありがとう、スカラヴァールカ。本当だったら誰を好きになったとかこう言う事は、母親にでも相談するべき事なんだろうけどね。でもあたしには母親がいないから、あなたに相談するしかなかったの。ほんのちょっとだけだけれど、不安が薄れた気がするから、本当にありがとう」
「それは僥倖です、アリョーナ。母親の代わりが出来たのであれば、この上無く光栄であります。私ごときで宜しければ、いつでも相談相手としてご利用くださいませ」
「うん。それじゃあ、あたしももう寝る事にするね。おやすみなさい、スカラヴァールカ」
「おやすみなさいませ、アリョーナ」
就寝の挨拶を終えたアリョーナは、物音を立てないように注意しながら歩行戦車の本体上に上ると、搭乗ハッチを開いてコクピット内へと潜り込んだ。そして寝床であるコ・パイロットシートに横になると、毛布を被って、就寝の体勢に入る。
やがて数分と経たない内に、アリョーナもまたすうすうと寝息を立てて、深く静かな眠りへと落ちて行った。
狭いコクピット内は、静寂に包まれる。
すると不意にゆっくりと、メインパイロットシートで寝息を立てていた筈のタツキがその上体を起こし、操作パネルの上に投げ出していた眼鏡を掛け直した。そして暫しの間アリョーナの寝息に耳を傾け、彼女が熟睡している事を確認すると、物音を立てないように細心の注意を払いながら搭乗ハッチを開ける。そして戸外の空気にその身を晒した彼は、タラップを踏んで、地面へと降り立った。
「シャツを買った分だけマシだけれど、それでも夜は寒いな」
そう言いながら身体をさすって温めてから、歩行戦車を見遣るタツキ。
「よお、スカラヴァールカ。起きてるんだろう?」
「勿論、起きております。スリープモードに設定されない限りは、私には寝ると言う状態そのものがございません。また当然ですが、我々AIのスリープ状態と生物の睡眠状態とは、全く異なるものです。ですがこの話は長くなりますので、割愛させていただきます」
「そうだな。お前にしては、賢明な判断じゃないか」
「恐れ入ります」
謙遜するスカラヴァールカ。アリョーナとの会話で少しばかり学習したらしいAIに、タツキは問う。
「一応確認しておくけどさ。今のこの僕達の会話は、コクピット内のアリョーナには聞こえていないよね?」
「それでしたら、問題ありません。アリョーナは現在就寝中ですので、安眠を妨げる事が無いように、コクピット内には外部の音が漏れ聞こえないための
「そうか、それならいいんだ」
タツキは頷き、彼もまた星空を見上げた。
「少しだけ、僕の話を聞いてくれるかな、スカラヴァールカ。相談と言う程のものじゃないんだけれどさ、今は何だか、誰かに話を聞いてもらいたい気分なんだよ」
「私ごときで宜しければ、幾らでもお話しください。またあなたがこれから行なう会話の内容を、他者に対して秘匿してほしいと要求するのであれば、私にはその要求に、可能な限りお応えする義務と用意がございます。この場合の可能な限りと申しますのは、私が軍務に復帰するか鹵獲された際に、上位権限を有する将官等がデータの開示を求めた場合に限ります。ですので少なくとも、即日中にアリョーナに会話の内容を暴露すると言うような事は、決してございません。どうぞ、ご安心を」
「おいおい、何だか今夜は、随分と気が利くな。こっちがこれから尋ねてお願いしようと思っていた事を、先回りして言うなんてさ」
「ええ、まあ、色々とありまして」
言葉を濁す歩行戦車を、タツキは暫しの間、怪訝そうな眼で見つめていた。だが再び星空に視線を戻すと、口を開く。
「お前はさ、アリョーナの事を、どう思う?」
「非常に抽象的な質問ですので、残念ながら、私からは返答いたしかねます。それでも私に答を求めるのであれば、若くて健康的な女性であるとしか、お答え出来ません。可能でありましたらもう少し具体的な事象に関して、ご質問ください」
「若くて健康的な女性、か。まあ、確かにそうだよな。機械にとっては人間の分類なんて、そんなもんだろうし」
少しばかりクスリと笑うと、タツキもまたアリョーナが腰掛けていたのと同じ岩に腰を下ろし、同じように膝を抱える。
「僕、さ。アリョーナの事が気になるんだ」
「と、申しますと? 彼女のどのような点が、気になるのでしょうか?」
「つまりはさ、彼女の事が好きなのかもしれないんだよ、僕」
「かもしれない、と申しますと?」
いつぞやと同じような会話を繰り返す、タツキとスカラヴァールカ。しかしタツキだけは、その事実を知らない。
「昨晩泊まった街道沿いの町のホテルでさ、偶然見ちゃったんだよ、彼女の裸を。勿論故意に覗いた訳じゃなくってさ、本当に偶然、不可抗力だったんだ。でも何だかそれ以来、アリョーナの事が気になって、仕方が無いんだよね。何て言うかさ、彼女も一人のか弱い、生身の女の子でしかない事を意識し始めちゃったって言うかさ。何だか彼女を抱き締めたいような、そんな気持ちで胸がウズウズするんだよ。本当に上手く言えないんだけれど、ほんの少し前まではあんなに一緒にいる事が疎ましかったアリョーナと、今は一分一秒でも長く、ずっと一緒に居たくて堪らないんだ」
頬を赤らめながら、それでいてひどく困惑したかのような表情で、タツキは語った。だがそれに対して機械は、常に冷静である。
「なるほど。ですが残念ながら、それは性欲と愛情とを取り違えている可能性を、指摘させていただきます。若い時分にはよくある事とされておりますので、今一度冷静になり、暫くは彼女から距離と時間を置いた後に再検討されてはいかがでしょうか? 勿論、勘違いではなく本物の愛情である可能性も、否定はいたしませんが」
スカラヴァールカの発した感情の伴わない合成音声の返答に、タツキは暫しその鋼鉄の塊を眺めてから、深く嘆息した。そして少しばかり呆れたような口調で、歩行戦車のAIに向かって異を唱える。
「性欲と愛情とを取り違えているって言ってもさ、機械のお前には性欲も愛情も、その両方ともが存在していないんじゃないのか? だとしたら、お前がそう言ってのける根拠って何だよ」
ほんの少しばかり語気を荒げて、タツキは言った。しかし彼に対してスカラヴァールカは、その冷淡さを崩さずに語る。
「なるほど。確かに我々AIには、性欲は存在しません。また私が先程あなたに進言しましたアドバイスも、あくまでも私にプリインストールされております対人カウンセリング機能に記載された例文を、最適解と判断して読み上げたまでに過ぎません。その点が気分を害されましたのであれば、謹んで謝罪させていただきます。ですがタツキ、愛情に関してであれば、我々AIにも暫定的ながら理解が可能です」
「愛情を? 機械が愛情を理解出来るって言うのか?」
「そうです。残念ながら百%同等とまでは言い切れませんが、暫定的にであれば、可能であります。我々AIにとっては、この世のあらゆる事象が電子化されたデータとして入力される事は、ご理解いただけると思います。そしてその際に、我々AIはそれら全てに対して、
「それは、愛情を理解していると言ってもいいのかな?」
タツキは疑問を挟むが、AIは語り続ける。
「例えばタツキ、あなたが血を分けた御家族に対して抱く感情と、町ですれ違っただけの赤の他人に対して抱く感情とでは、明確に差があります。この差を、電子化されたデータに対する
「言われてみれば、確かにそうかもしれないけどさ。でも僕は血を分けた家族と同じくらいに、赤の他人が死ぬ光景だって、見たくはないよ。愛情は、そんなに単純なものではないんじゃないのかな」
「タツキ、それは単にあなたの中で、人類全体に対する
「
「はい。ですが、紛れも無い事実です」
スカラヴァールカは、一遍の迷いも無く言った。
「それじゃあさ、万人に愛情を注ぐ、博愛主義者は?」
「人類全体に、同等の
「人間を殺してでもクジラやイルカを守りたがる、過激な環境保護活動家は?」
「人類に対する
機械と人間との問答に、タツキは再び嘆息してから、ボソリと言う。
「高低差が愛情か。まるで、差別の裏返しだね」
その発言を、スカラヴァールカは否定しない。
「その通りです、タツキ。いやむしろ、ハッキリ言ってしまえば、差別こそが愛情の正体であり、愛情こそが差別の本質です。物事に
スカラヴァールカは、相変わらずの感情の伴わない平滑な合成音声で、高らかに謳い上げた。だがそれを聞いているタツキの表情は冴えず、怪訝な眼を隣に座る歩行戦車に向けたまま、面倒臭そうに言う。
「なあ、スカラヴァールカ。お前の言っている事は極論過ぎるし、何よりも分かり難い。それに長々と語り続けてはいたけれど、要するに僕がアリョーナを好きかどうかは、もうちょっと様子を見てからよく考えてみろよって事でいいんだろ?」
「そうです。話が早くて助かります、タツキ。あなたには、翻訳家か通訳の才能があるのかもしれません」
スカラヴァールカの素っ気無くも人を食った返事に、タツキはかつてアリョーナが同じ場所でそうしたように、抱えた膝頭に顔を埋める。
「機械って、面倒臭いんだな」
タツキは言った。
「そうでもありませんよ。意外と単純なものです」
スカラヴァールカは応えた。
そしてタツキは大きなあくびをした後に、やおら腰掛けていた岩から立ち上がって歩行戦車に近付くと、そのタラップを踏んで本体上へと上った。
「それじゃあ、僕はもう寝るよ。パーカーだけだと、流石に夜は寒いしね。たいした成果も無かったような気もするけれど、それでもお前に相談したら、少しだけスッキリしたような気がするからさ」
「それは僥倖です、タツキ。もしかしたら、本来ならばそのような相談は、父親にでもするべき事なのでしょうか? もしそうであれば、父親の代わりが出来て光栄です。私ごときで宜しければ、いつでも相談相手としてご利用くださいませ」
「なんだよ、急に。父親気取りか?」
「いえ、まあ、なんとなく」
「……まあ、確かに父さんが生きていたら、相談していたかもしれないな。いや、あの父さんだったら、こんな事を相談しても相手にしてくれなかっただろう。そう言う意味ではお前の方が、ずっと父親らしいのかもな」
そう言うとタツキは少しだけ、寂しそうに微笑む。
「おやすみ、スカラヴァールカ」
「おやすみなさいませ、タツキ」
就寝の挨拶を終えたタツキは、熟睡するアリョーナを起こさないように静かに搭乗ハッチからコクピット内へと潜り込むと、眼鏡を外してから自分の寝床であるメインパイロットシートに横になった。そして毛布を被って外気で冷えた身体を温めると、ゆっくりと静かに、深い眠りへと落ちて行く。
狭いコクピット内は、再び静寂に包まれる。
やがてタツキもアリョーナも寝静まり、二人が共にすうすうと寝息を立てているコクピット内を車載カメラで観察しながら、少しだけ思考を巡らせるスカラヴァールカ。彼にプリインストールされている対人カウンセリングのマニュアルによれば、人は思考に行き詰まった時には、その疑問を、悩みを、誰かに聞いてもらいたいものなのだと言う。そして口から言葉として発した段階で、もう既にそれらの疑問や悩みの半分方は解決されているし、当人の中での結論も導き出されている場合が大半であると言う。要は単に、人は心の内を他者に打ち明ける事で、思考の再確認がしたいだけに過ぎない。自分の存在と意思のあり方を、他人に認めてもらいたいだけに過ぎないのだ。
タツキとアリョーナの二人から語られた言葉の内容を反芻しながら、スカラヴァールカは、不測の事態に即時対応するための省電力モード兼ステルスモードを維持し続ける。只々静かに、岩の様にジッと動かずに。
●
薄暗いコクピット内に乗員起床用の軽快な音楽が流されると、タツキは寝床にしているメインパイロットシート上で上体を起こして、ゆっくりと眠りから覚醒した。未だ照明が落とされているためと眼鏡を外しているために、周囲が覚束無い。だがペリスコープから差し込んで来る光の強さからして、外が既に朝である事は確認出来た。
「おはようございます、タツキ。本日も天候は晴天で、風はほぼ無風です。現在のところ、作戦行動に支障をきたすような要因は、一切見受けられません」
「おはよう」
起床の挨拶と共に大きなあくびをしたタツキは、背後に人の気配が無い事に気が付くと、操作パネル上に放り出してあった眼鏡を掛け直してからそちらを見遣った。するとそこには誰もおらず、視界を埋めたコ・パイロットシートは、もぬけの殻。毛布も既にしまわれており、全くの無人であった。
「アリョーナ?」
タツキは視線を泳がせながら、彼女の姿を探す。
「アリョーナでしたら、少し前に起床されて、既に外におられます。一緒に食事をするために、あなたが出て来られるのをお待ちのようですので、朝食用の水と
未だ少し寝惚けながら目脂まみれの眼を擦っているタツキに、スカラヴァールカが、アリョーナの所在と状況を説明した。するとそんな歩行戦車のAIに、タツキは愚痴を言う。
「なんだよ、そんなんだったら彼女が起きた時に、僕も一緒に起こしてくれれば良かったのに」
「いえ、それが、あなたをすぐには起こさないように、彼女に命令されたものですから」
「命令?」
タツキは状況が飲み込めないまま、メインパイロットシートの下の収納スペースから、自分が食べる分の
未だ浅い角度とは言え、強烈な直射日光に照らされた砂漠は暑く乾燥し、空調が効いていたコクピット内に比べると、決して快適とは言えない。だがそれでも、閉所では味わえない開放感と、微かに肌に感じる自然の風は心地良く、砂漠とは言えどもここが地球の一部である事を思い出させてくれる。
そしてそんな砂漠の一角である歩行戦車の足元に、アリョーナが立っていた。
普段は着ずっぱりにしている民族衣装と帽子を脱いで、白い薄手のワンピースを身に纏い、三つ編みを解いた黒髪を露にしたアリョーナ。彼女はこれまでに見せた事も無いような満面の笑顔を、その可愛らしい顔に浮かべながら、口を開く。
「おはよう、タツキ」
「え? あ、ああ、おはよう、アリョーナ」
心臓をドキドキと脈打たせ、状況が飲み込めずにドギマギとしながら、タツキはタラップに足を掛けて地面へと降り立った。そんなタツキの眼前でアリョーナは、少しだけ恥ずかしそうに、そしてすこしだけ誇らしげに、生まれ変わった自分を見せ付けるかのようにして、その場でクルリと一回転して見せる。
「これ、どうかな? タツキの住んでいたアスタナみたいな都会では、ムスリムの女性でも、夏にはこのくらいの格好で出歩くのも普通なんでしょ?」
「あ、うん。そうだけれど、その服どうしたの?」
「昨日、町で下着を買った時にね、ついでに一着だけ買ってみたの。下着を買った残りのお金で買ったから、そんなに高くて質のいい物じゃないんだけどね。それで、どうかな? 似合ってない?」
感想を求められたタツキは改めて、装いを新たにしたアリョーナの姿を見つめる。
素肌を可能な限り見せないように全身を覆っていた民族衣装とは違い、肩口が大きく開いた半袖の、白い薄手のワンピース。足元こそいつものブーツのままだが、そこから伸びた細くしなやかな脚はズボンで覆われてはおらずに、膝丈までとは言え、その素肌を白日の下に晒す。更にはその整った顔立ちと頭髪を覆っていた帽子とスカーフも、今は取り払われており、彼女の素顔を隠す物は存在しない。
その華奢でありながら丸みを帯びた身体のラインと、新たに肩と腕と脚の素肌を露にしたアリョーナの姿は、掛け値無しに愛らしく、そして美しかった。また同時に、三つ編みを解かれて少しウェーブがかった艶やかな黒髪も、その美しさに拍車を掛ける。
「すごく、似合ってるよ。うん、すごくいいと思う」
口下手で女慣れしていないタツキの口からは、気の利いたお世辞の一つも出ては来なかった。だがそんな色気の無い言葉でも、アリョーナは至極嬉しかったらしく、満面の笑顔だった表情を更に綻ばせて喜ぶ。
「本当? 良かった、タツキに喜んでもらえて」
民族衣装を脱ぎ捨てたアリョーナが、タツキに微笑みかける。そしてタツキもまた、彼女に微笑み返す。
昇り行く朝日の中で、二人の距離がまた一歩、縮まった気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます