ためし読み③

 振り返ると、そこには汚いものを見るように顔をしかめているマルヴォーリオの姿があった。おそらくフェステは、マルヴォーリオが来る気配を察知して一足先に去って行ったのだ。なにも言わないで行ってしまったフェステに腹を立てつつもマライアが焦っていると、マルヴォーリオは顎をそびやかしてトービーを見下した。その目には、はっきりと軽蔑が浮かんでいる。

「あなたがたの分別は、行儀は、体面はどこに捨てられた。まったくもって嘆かわしい! 下々の者が歌うような歌を大声で喚き立てるとは! あなた方には、場所、時間、身分のわきまえがないのですか?」

「身分のわきまえならあるぞ。俺はお嬢様の叔父上様だ。お前なんぞの言いなりにはならねえぞ。ざまあみろってんだ」

 トービーは、わざと乱暴に聞こえるように言ったようだった。そんなトービーを、マルヴォーリオが憤然と鼻を鳴らしながら睨みつける。

「サー・トービー! そこまで聞き分けがないのでしたら、ここで率直に申し上げましょう。お嬢様は、あなたを叔父上の縁でこの屋敷に置いてはおりますが、あなたのご乱行とは縁はございません。もしもあなたが今後そのような素行を改めないようでしたら、この屋敷から立ち退いて頂きます」

 居丈高に言い放つマルヴォーリオに対し、トービーの目にも剣呑な色が浮かぶ。珍しいことに、彼が腹を立てたのだ。

「執事なんかに俺を追い出せるとは思うなよ」

「お嬢様が、そうおっしゃっておいでなのです」

 得意げに笑ったマルヴォーリオを、マライアは白い目で見た。

(どうかしら)

 この執事には、自分の発言をまるで主人の意見だというように言うところがあった。どうせ今の意見も実際にオリヴィアが言ったわけではなく、彼女ならばそう思うだろうから彼女の意見として言って差し支えないと考えたに違いない。

 それとも、将来伯爵になるつもりだから、主として発言していいとでも思ったのか――。先ほど盗み聞きした内容を思い出し、マライアが一人密かに怒りを腹に溜めていると、突然トービーが笑い声を上げた。

「たかが執事のくせに、てめえが堅物だからって酒も騒ぎも許さない気か?」

 にっとトービーは唇で笑ったが、目が笑っていなかった。酔いを感じさせない据わった目つきで、マルヴォーリオを真正面から見据える。

 いつだって陽気なトービーだったが、その気になれば彼でも身分相応に堂々と凄むことが出来るのである。

「さあ、失せやがれ。パン屑でその大事な執事の鎖でも磨いてろ」

 ぞっとするほど低い声を出したトービーに、マルヴォーリオは初めてたじろいだような表情を浮かべた。そんな彼を獰猛な獣のように睨みつけながら、トービーがにやりと笑う。

「おい。マライア、酒だ!」

 あくまでマルヴォーリオの言いなりにはならないということを示すつもりなのだろう。声高に言ったトービーに、ついにマルヴォーリオは彼を睨むのを諦め、マライアに向き直った。

「マライア殿。お嬢様のご恩をないがしろにするつもりがないのでしたら、このような男の言いなりになってはいけませんよ。さもなければ、お嬢様のお耳に必ず入れますから」

 まるで捨て台詞のように言って、マルヴォーリオは足早に去って行った。最後にマライアに文句を言うところが、どこまでもマルヴォーリオらしい。トービーに敵わないと分かるやいなや、彼はこの中で最も反論しなさそうで、なおかつ自分よりも下の人間に嫌味を言って、自尊心を守ったのである。

「なんで執事のくせにあんなに偉そうなのかしら!」

 腹を立ててマライアが言うと、アンドルーもそうだというように頷いた。一度も会話に加わらなかったが、どうやらアンドルーも立派に腹を立てていたらしい。

「あいつに決闘を申し込んですっぽかしてみせたら、いい気分だろうなあ」

「やれよ、騎士殿。俺が決闘状を書いてやる。なんなら、君が頭に来てるってことを口頭で伝えてもいいぜ」

 彼の目は、まだ凶暴さを失っていなかった。

 早速実行しかねないトービーに、マライアは急いで言う。

「今夜のところは我慢なさいな、トービー。いいから、マルヴォーリオ先生のことは私にまかせてちょうだい。うまく騙していい笑いものにしてやるわ」

 先ほどから、マライアはその方法を探していたのだ。マルヴォーリオが良からぬ野心を抱きつつ態度も改めないつもりなら、彼の自信をくじいてしまえば良いのだと。

 一体どんな目に遭ったら、彼は謙虚になるだろう。懸命に頭を働かせていたマライアは、ふと閃いた。これ以上ないほど、愉快な方法だ。

「これであの人を笑いの種に出来ないようなら、私のことは阿呆と思って下さって結構よ。大丈夫、自信があるわ」

 目を輝かせたマライアに、トービーが興味を持った様子で微笑む。

「教えてくれよマライア。どうするんだい?」

「あの人ったらね、厳格で潔癖なフリばっかりしてるでしょう? でも実際はこうと決まった主義なんてなくて、とんでもないその時次第の日和見主義なのよ。キザな阿呆で、ご大層な文句を頭に詰め込んでは、めったやたらに吐き出しているだけ。しかも、大変な自惚れ屋。人間のあらゆる美点を一身にそなえていると思い込んで、誰だって自分を見たら惚れずにはいられないって信じて疑わないの」

 普段から気に入らないと思っていたことを並べ立てて一息に言うと、マライアはにやりと笑った。

「だからね、その弱みにつけ込めば、簡単に仕返しが出来ると思うわ」

 自信ありげなマライアに、トービーの目に面白がるような色が浮かぶ。

「脚本はどうなるんだ?」

「あの人が通るところに、宛先不明のラブレターを落としておくのよ。その中に書いてある髭の色、足の形、歩きぶり、目鼻立ちなどで、こいつはてっきり自分宛のものに違いないって思い込ませるわけ」

 それからマライアは、意味ありげに微笑んだ。

「しかもね、私はお嬢様そっくりの字が書けるの」

「読めたぞ! お前の落としたラブレターを姪が書いたものと奴に思い込ませる。そして奴はオリヴィアが自分に惚れたとつけ上がるのか!」

「ええ。でも、それだけじゃつまらないじゃない? だから私、こう書こうと思うの。黄色い靴下に十字の靴下留めをして笑っているあなたのことが好きだ、ってね」

 オリヴィアが自分に惚れていると勘違いすれば、彼はきっとすっかり舞い上がって手紙の通りに振る舞うだろう。普段自分らを非常識だと怒鳴る彼自身が非常識な行動を取った時こそ、この仕返しは成立するのだ。

「因みにね、黄色い靴下も十字の靴下留めもお嬢様が大嫌いなものなの。ニタニタ笑いも、今のお嬢様の気持ちに最もそぐわない顔つきよ。だって今はお兄様の喪に服しているのだから。まともな冷静さがあればそんなおかしな格好はしないわ。でも、あの自惚れ屋ならやりかねないと思わない?」

 マライアの提案に、トービーとアンドルーは揃って膝を叩いて喜んだ。

「あいつは絶対その格好をするだろうよ。賭けてもいいぜ!」

「ぼくもだ!」

「じゃあ私は早速、手紙にとりかかるとするわ。だから今夜はこの楽しみの夢でも見て、あなたたちはおやすみなさい」

 すっかり夜も更けているのだ。彼らの怒りがすっかり影を潜めたのを確認して、マライアは部屋へ戻ろうとした。

 けれどすぐ、トービーに手を引かれる。かと思うと、トービーはその手の甲にそっと口づけをした。

「ああ、おやすみ。女傑殿」

 どこまでも甘い囁きだった。彼がこの悪戯を心底喜んでくれたということが伝わってきて、これ以上なく幸福な気持ちになる。それでもマライアは、懸命に平静を装うと、お辞儀をして足早にその場を後にした。

 夜風が、マライアの火照った頬を優しく撫でていく。

 颯爽と歩く彼女を見送りながら、残された二人はしみじみと溜息を漏らしたのだった。

「まったく。いい女だな」

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恋するシェイクスピア 十二夜 ─身代わり小姓と不機嫌な公爵─ 吉村りりか/ビーズログ文庫 @bslog

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