ためし読み②
「かしこまりました」
部屋を出て行くマルヴォーリオを眺めながら、オリヴィアは胸に手を当ててそっと目を伏せた。
(わたくしったら、なにをしているのかしら)
こんなことをすれば、あの青年は驚くだろう。もしかしたら呆れるかもしれない。けれど、なにもしないではいられなかったのだ。この伝言を聞き、彼が再び理由を聞きに来てくれればいい。今のオリヴィアには、そうとしか考えられなかった。
まるで、自分の心が自分のものではなくなってしまったようだ。他人のことのように自分のことが分からない。分かるのは、この心がなにも知らないうちに、目だけが彼にのぼせてしまったということだけだ。
とにかく、今は成り行きに任せるしかない。人間は、自分のことを思い通りには出来ないのだから。
***
オリヴィアの邸を出て、ヴァイオラが海の見える通りを歩いていた時だった。
「あなただな、先ほどオリヴィア様の邸に来たのは」
突如背後から呼び止められ、ヴァイオラはびっくりして振り返った。そこにいたのは、しかめつらの男。オリヴィアの邸で押し問答をした、マルヴォーリオと呼ばれていた執事だった。
「ええ、そうですけど……」
訝しげにしていると、マルヴォーリオは値踏みするようにヴァイオラを眺めながら、もったいぶった素振りで手を掲げた。
「お嬢様が、この指輪をお返しするとのことだ。自分で持って帰ってくれればこちらの手間が省けたというのに」
(指輪……?)
見ると、マルヴォーリオは小ぶりの指輪を掲げていた。まったくもって見覚えのない指輪だ。暮れかけた午後の光を受けて、鈍く光っている。
「それと、お嬢様から伝言を承った。一つ、お嬢様は絶対に公爵のお話をお受け出来ない。もう一つ、お嬢様はこの件で二度とあなたに出向いてもらいたくない、ただし公爵がそれを聞いてどうおっしゃったか知らせに参るなら差し支えないとのことだ。分かったらこれを受け取るがいい」
顎をそびやかして、マルヴォーリオがヴァイオラのことを見下すようにしながら指輪を差し出す。しかしヴァイオラは受け取らなかった。どう答えるべきか、考えあぐねていたのだ。
(この人はお返しすると言った。つまり、お嬢様は私がこの指輪を置いていったとこの人に言ったのだ……)
真実を告げることは容易いが、この男を納得させることは難しいに違いない。どうせ、この人はヴァイオラの言い分を信じはしないだろう。そう考えたヴァイオラは、オリヴィアの作った筋書きを否定しないよう慎重に返事をした。
「その指輪は、お嬢様が一旦受け取られたものです。今更私が受け取るわけにはいきません」
マルヴォーリオは、苛立たしげに鼻を鳴らした。
「馬鹿なことを。あなたは無作法にもこれをお嬢様に投げつけたそうだな。同じようにして返せとお嬢様は言っておられる」
言うなり、マルヴォーリオは指輪をヴァイオラに向かって投げつけた。重たそうな指輪が地面にぶつかり、ヴァイオラの足元まで転がってくる。
「さあ、腰をかがめて拾えばいい。嫌なら、拾いたい奴に拾わせなさい」
居丈高に言い放つと、マルヴォーリオは去って行ってしまった。指輪を返す暇もない。
遠ざかっていく執事を見送って、ヴァイオラは足元の指輪を拾った。転がしておくのも悪い気がしたのだ。
手に取ってみれば、なかなかに見事な指輪だということが分かる。
(どういうことかしら。指輪など置いてこなかったのに……)
彼女がオーシーノーの想いに応えようと考えなおしたということは、ありえないだろう。マルヴォーリオは、公爵の話をお受け出来ないときっぱり言っていた。
(ということは、お嬢様はこの指輪を私に渡したかった?)
駄賃を断ったせいだろうか。その考えを、ヴァイオラはすぐに否定した。そんなにまでして、自分が褒められるようなことをした覚えはない。
だとしたら何故、オリヴィアは使いをよこしてまで指輪を渡したのだろう。理由を考えていたヴァイオラは、最終的に一つの可能性に行き当たってしまった。
(まさか……)
ぞくりと、寒気のようにひとつの考えが浮かんでくる。
オリヴィアは、主人の反応を知らせに来てくれるなら来てもいいと言っていた。愛には応えられないけれど、それでも来てもいいと言ったのだ。それはつまり、自分にまた会いたいがゆえの言葉なのではないだろうか。
(それに、私と話している時、オリヴィア様はずっと私の顔を見つめていたわ)
予感が、静かに確信へと塗り替わっていく。
潤んだ瞳、途切れ途切れな声、そして上気した頬。それは、兄を慕う娘たちが見せるものと同じ。
恋する乙女の仕草だった。
(まさか、お嬢様は私を好きになった……?)
悟った途端、愕然とした。
そうだとしたら大変なことになる。自分は、女なのだ。
(どうしよう――)
オーシーノーはオリヴィアに求婚している。
そして男で女の自分は、オーシーノーに片想いをしている。
けれどオリヴィアは男の姿をした女のヴァイオラに恋をしてしまったのだ。
しかし自分は男だと偽っているから、オーシーノーをどれだけ慕っても望むべく未来はない。また、自分は女だからオリヴィアに好意を向けられてもどうにもならない。
とんでもない事態を引き起こしてしまったことに、ヴァイオラは頭を抱えた。
(このもつれた糸は、私の手に余るわ……)
もはや、時が解決してくれるのを待つしかなかった。
途方に暮れながら、ヴァイオラは空を仰ぎ見る。このもつれが、いずれ解消されることを祈りながら――
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