第2話

 同窓会が開かれる日、故郷の駅について見上げた空は今にも雨が振り出しそうな灰色の雲で覆われていた。ふと行くのをやめようかと思った。行かなければ節穴の恐怖を忘れていられる。だけど、もう大人なんだから、いい加減つまらない恐怖など忘れてしまわなければと思い直して私は同窓会の会場である小学校に向った。

 小学校前のバス亭で降り、坂を登って門をくぐる。


「ユウちゃん!」


 ケイちゃんだ。ケイちゃんは車で来たようだ。白っぽい色をした乗用車から降りて来た。私はケイちゃんと連れ立って教室に向った。

 子供の頃と同じだ。

 階段を登って二階の廊下を行く。廊下の先で、教室のドアがガラガラと開いたかと思うと、お調子者の丸木が飛び出してきた。


「よう、みんな集まってるぞ! 早く来いよ」


 ワーンと談笑する声が響いてくる。私はケイちゃんと顔を見合わせ、足早に教室に向った。

 教室は宴会場になっていた。私達が使っていた机は総て教室の後ろの方に積み上げられ、かわりに会議用の机に白いテーブルクロスが掛けられて宴会の席が設けられている。

 先生もいる。大人になった私達は、ビールで乾杯した。再会を祝し、今どうしているか、近況を伝えあう。


「そういえば、冴木は芸能界に入ってアイドルになるって言ってたな」


 誰かが昔のネタで私をからかう。


「ははは、そういえば、そんなこと言ってたっけ。今じゃ、安定の公務員志望よ」

「おまえ、本当は節穴が怖かったんだろう」


 誰だろ、こいつ、見たことのない顔だ。土方でもやっているのだろうか、筋骨隆々って感じで体も大きい。日に焼けた真っ黒な顔をしている。


「違うわよ。本当にあの時は、芸能界に入ろうと思っていたのよ」

「嘘つけ、おまえは節穴が怖かったんだよ。それを誤摩化してたのさ。違うっていうんだったら、指を突っ込んでみせろよ」


 そいつは席を立って、教室の前に行き今でも貼ってあった標語のポスターを、標語は「一日一善」から「人に優しく」に変わっているそれを、はぎとった。茶色く変色していたポスターはあっけなく砕けてちって床に散らばった。

 板壁がむき出しになる。あの節穴も。

 見た途端、体が固まった。

 男の顔に満面の笑みが浮かぶ。私をいたぶるのが嬉しくてしょうがないという顔で私を見ている。


「ほらよ、指出してここにつっこめよ。怖くないなら出来るだろ」


 他の同級生も一緒になって「つっこめよ」といいはやす。


「こら、お前達、冴木が嫌がってるだろ。○○もそれ以上絡むんじゃない。やめとけ!」


 先生が停めてくれた。だけど、先生がそいつの名前を言ったのに私には誰かわからなかった。○○って、誰? 誰だっけ。


「冴木、気にしなくていいぞ。嫌ならするな」

「先生、大丈夫です! 私、怖くありません」


 私は立ち上がって、○○を睨みつけた。


「いれてやるわよ。いれればいいんでしょ。そんなもの怖くないわよ」


 私は節穴の前にゆっくりとしゃがんだ。節穴を覗き込む。耳の奥で心臓がドラムを叩く。

 覗いても何もない。あたりまえだ。何か起きるわけがないのだ。

 目の前に指を失った人の手がよみがえる。醜く不自然に短い指。私はぎゅっと手を握りしめた。


「ほらほら、何してるんだよ。簡単じゃないか。指をひょいとつっこめばいいんだよ」


 私は○○を見上げて睨みつけた。


「今やるわよ。せかすんじゃないって」


 私はゆっくりと右手を広げた。人差し指を節穴に添える。目をつぶってそっと指を押し込んだ。節穴は滑らかで、指がするすると入っていく。

 穴の向うには板壁の下地になっている壁がある筈と私は思っていた。ところが、ない。何もないのだ。指はどんどん入って行く。とうとう根元まで入った。


「おお、やったな、冴木!」

「冴木、いいぞ! よく、がんばった!」


 皆がはやしたてる。


「いや、だからぁ、私は別にこんなの怖くないって!」


 皆がどっと笑う。


「おまえが怖がっていたのみんな知ってたから」


 ○○がにやにやと嫌らしい笑いを浮かべた。


「もう、別にどうでもいいわ」


 私は指を抜いて立ち上がろうとした。が、ひっかっかった。指の根元ががっちり食い込んでいてぬけないのだ。


「ウソ!」


 私は左手を壁にあてて、右手を後ろにぐいっと引いた。が、抜けない。


「どうしよう? 抜けない!」

「抜けないわけないだろう? 下手な芝居すんなよ」


 誰かが言った。皆は、私がふざけていると思ったらしい。


「ふざけてないって! 本当に抜けないんだって!」


 私はなんとか指を抜こうとした。だが、抜けないのだ。

 皆がよってくる。


「これは、指を切らないといけないかもしれないぜ」


 ○○が脅してくる。


「こんな時にふざけないでよ!」


 強気に言ったものの、目に涙が浮かんだ。やっぱり、あの怪談は本当だったんだ。どうしよう、指を切らないといけなくなったら。

 事の重大さに気が付いた先生がやってきて、私の手を持ってひっぱる。


「いたたた、先生、痛いです」

「一体、どうなってるんだ?」

「先生、石鹸水、石鹸水塗ったらいいかも」

「おう、そうだ。石鹸水か油だ。誰か、用務員室に行ってきてくれ。管理人がいるから」


 丸木が飛び出して行く。


「私、手洗い場で石鹸水作ります」


 ケイちゃんが廊下の手洗い場へ走って行き石鹸水を作って戻って来た。


「これを指に塗るから」


 私はケイちゃんが石鹸水を指に塗るのを待った。


「さ、指を抜いてみて」


 私は抜こうとした。だが、抜けない。


「ケイちゃん……」


 私は泣き出していた。


「冴木、大丈夫か?」


 丸木だ。丸木は手にサラダオイルのボトルを持っている。丸木の後ろには管理人と思しき初老のおじさんがいた。


「石鹸水で駄目だったの。サラダオイルでも駄目かも」


 ケイちゃんが丸木に説明している。

 丸木はそれでも、少量の油を指の根元にたらした。指の根元をさすって油を指と節穴の間に入れようとするが入らない。指がわずかに上を向いているので油も石鹸水も手前に落ちて来てしまうのだ。


「駄目なのよ。どうやっても指と節穴の間に入らないの」


 私はもう片方の手で涙を拭った。

 結局、壁を壊すしかいないという話になった。節穴のある壁は、幅三十センチ程の板で出来ている。叩くと空っぽの音がする。


「いや、そんな、壊されちゃ困るよ」と管理人が抗議の声を上げる。


「いやしかし、このままでは彼女の指が心配です。僕が責任を持ちますから、壊してもらえませんか? 壁より人命の方が大切だと思います」


 管理人は結局、不承不承、壊す事に同意してくれた。用務員室からのこぎりやのみをもって戻って来た。


「こんな道具しかないんですよね。出来るかな?」


 板の上と下に切り込みをいれたらいいだろうという話になったが、手持ちの道具ではうまくいかない。結局、消防に電話してレスキューに来て貰った。

 ドーン、ゴロゴロと雷が鳴った。あたりが暗くなる。やがてざーっという音を立てて雨が降り出した。

 その中でレスキュー隊員が電動のこぎりを回した。


「じっとしてて下さいよ。あぶないですからね」


 キーンという機械音があたりに響き渡る。

 節穴の上、十センチ程の所に真一文字に切り込みを入れて行く。幅三十センチ程の板の端から端までを切る。


「立ってほしいんだけど、立てる?」

「あ、はい」


 私はレスキュー隊員に言われるまま、指を入れた状態で立ち上がった。中腰になる。


「体をこっちに。足をもっとこっちに。えーっと、君、悪いけど彼女が倒れないように支えてあげてくれる?」


 隊員はケイちゃんに私の体を支えさせた。


「そう、腰の所をぎゅっと持ってて。危険だから、動かないように」


 ケイちゃんが私の腰を支えたのを確認して、レスキュー隊員は節穴の下の方に切り込みを入れていく。ウィーンという音と共に木屑が飛び散って行く。

 切れ込みが伸びて端と繋がった。レスキュー隊員が電動ノコギリのスイッチを切って、素早く横に置く。


「もう腰を支えなくていいですよ。さ、こっちに座って」


 私はもう一度、節穴の正面に座った。


「ゆっくり引っ張って」


 急にあたりがシンとなる。

 ぼこっ。

 板が動いた。


「重い! あたたた」


 私は指に板をさしたまま、後ろに倒れ込んでいた。

 カラン、カラカラ。

 乾いた音がする。

 何かが四角く開いた穴の中から落ちて来た。カラカラカラと転がって行く。


「ひ!」


 最初に悲鳴を上げたのはレスキュー隊員だった。慌ててあとずさる。何事かと覗き込んだ同級生が悲鳴を上げた。

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