第6話 ワイン・ハム・チーズ

 茂手木が顔を出していた部屋に入る。

 赤いテーブルクロスが引かれたテーブルがあった。二つの席が向かい合う。茂手木は奥に座った。テーブルの真ん中にあるキャンドルが部屋を明るく照らす。

「乾杯しようぜ」

 茂手木はグラスを掲げた。テーブルの上、もう一つあるグラスに赤ワインが注がれている。グラスを取り、目を合わせる。茂手木は少し微笑み、半分ほどを飲み干した。俺は彼の様子をしばらく眺めていた。

「大丈夫さ。これに仕掛けはない」と茂手木は言った。

「君のことみんな探しているよ」と俺は返す。そして、ワインに口をつけた。舌触りは軽やか。葡萄の味がほどほど。喉の奥から、後味が素早く抜けていった。気づけば、口の中には何の感慨も残っていない。

 俺は飲んだ気のしないワイングラスを置きながら、椅子に座った。

「知っているさ」彼が答える。

 目の前にはハムとチーズが皿に盛られている。腹は減っていたが、彼が先に食べるのを待った。

「その無意味さに早く気づいてほしいね」

「無意味…?」

「無意味さ。探す、というのは、結局見つける、ということだろう? 見る、ということだろう? そういうことをしている限り、僕に辿り着くことはない。世界中を雑巾掛けしても探しても見つからないだろうね。だって、あの世界の僕はすでに収束しているから。僕を観念することはできる。想起することはできる。でも、見ることは不可能だ。僕はいわば、点になったんだよ。誰も、点である僕を見つけることはできない。点を観念することはできても、見ることはできないようにね。僕は0次元で自分を完結させることに成功したのさ」

 普段の茂手木とは少し違って、直情的で、独善的で、満足げだった。童貞卒業のときの一報を思い出す。興奮した時の、彼の悪い癖だ。

「もっとも、彼らは僕を探すことはしていない。探す『ふり』をしているだけさ」彼は続けた。

「そう…なのか? そうでない人もいると思うぞ」俺は若い女を思い出していた。

「もっとも、そういう人がいたとしても、別にもう構いやしないさ。僕は元の世界に何の未練もない。僕はこの世界を手に入れたから。この世界は僕の心だ。君は今僕の心の中にいるんだよ。僕は、この世界に隠れて生きることとしたんだよ」

 茂手木の心…?

「隠れる、という割には、ずいぶん大きな城を建てたな」鳥居との取り合わせのについては、ひとまず触れないでおいた。

「城? 城だけじゃない。俺が創ったのはこの城を成立させるすべてだ。上や下という概念、前だとか後ろだとか、そういうこと含めて。まるっきりを創ったのさ。革命なんてものじゃない。革命なんてのは人間の社会の中でのみ起こることさ。俺は世界を構築しているんだ」

 随分と熱心に語っている。チーズにありつけるのは当分後だろう。


 そして次の瞬間、ゴーダとカマンベールの色を見比べていたはずの俺は、見ることになった。

 俺の頭頂部だ。俺の頭頂部が目の前にある。

「これは?!」

「視点を自由にしてあげたんだ」茂手木が言う。

「ははは。驚いた君の顔は面白いな。普段表情に乏しい奴が驚くと面白い。この世界では、全てが僕の指揮コマンドの元にある。例え、君の意識であってもね。僕には全てが許されているんだ。世界を創ることは、本当に楽しい。ゲームで街づくりしたり、国を動かしたり、そんなものとはまるで次元が違う楽しさなんだよ」

 大学時代、コンピュータゲームを語った夜もあった。

「戻してほしい? 僕は君のことを如何ようにもできる。馬にもできる。羊にもできる。馬刺しにも、羊毛にもね。ジンギスカンの用意もあるぞ。いや、石像にしてもいい。石膏像なら美術館に飾れるかな」

「何がしたいんだ」苛立ちを抑えつつ、俺は言った。

「君が俺にしたいことをしろよ。俺はそれでいい」

 茂手木は意外な答えに困ったような顔をした。

「別に何がしたいわけでもないな」


 視点が戻る。彼を真正面に見ることとなった。

「何か、嫌なことでもあったのか?」

「嫌なこと? 凡庸な質問はやめてくれよ。誰でも聞きそうなことを聞くなよ。せっかく君が友達だから、特別にこの世界に招待したのに。まあいい。君の質問に答えると、ノーだ。別に何か不満があったわけじゃない。この世界を創ったことに、特に理由なんてない。外野は皆、嫌なことがあったとか、人間関係がうまくいかなかったとか、事後的に色々な説明をつけるだろうけど、人間の行動の一つ一つにそんな深い意味はないんだ。そんな大仰おおぎょうなことじゃないさ。君は、定食を食べ始めるとき、ご飯から手をつけるか、味噌汁に先に口をつけるか決めているか?」

 さあ? 香物派もいると思うが? 黙っていると、彼が続けた。

「ご飯か味噌汁か。そんなの個人の勝手だろう? 頑なにご飯だ、という奴もいるだろう。味噌汁が流儀だ、という人もいるだろう。でも、俺はどっちでもいいんだよ。そんなのどっちでもいいんだ。それと同じように、俺もスーツ着て会社に行く世界と、世界を建てる仕事と2つの道があるときに、今、後者を選んでいるということだ。これが究極の自由ということだよ」

 自由。

「でも常識で考えろよ。こんな城に一人閉じこもって…」

「引きこもり、とかじゃないんだよ。むしろ、こっちの世界の方が可能性があると思っているということさ」

「彼女とか、どうするんだ」

「ああ、それについては、今後じっくりと時間をかけていいのを創るつもりだよ」

 創る?

「自分で創ったもので、そんなもので満足できるのか? 自分の発想からできたものに、恋なんてするのか?」

「どっから出来ようが女の子は女の子さ。街を歩く女の子を見て、お前はそんなことをいちいち気にしているのか? そういう、現実の女の子だって、実際にはどっかのよく知らないオッサンの遺伝子が半分なんだぞ? むしろ、僕にはそっちの方が不思議だよ。よく知らない男とよく知らない女がブレンドされた存在に、なぜ君は時間を費やし、身をやつし、体に夢中になったりするんだい?」


 俺はどこから説得すればいいのかわからなかった。白雲の中にある、一筋の説得の糸口を探していた。彼はいつからこうなってしまったのか。もっと俺たちは頻繁に飲みに行くべきだったのか。もっと合コンに連れて行ってやればよかったのか。

 俺は嘆息した。言葉に詰まったのを誤魔化すように、息を吐き、ワインを口にし、再度息を吐いた。

 茂手木は言いたいことが言い終わったのか、ハムをむしゃむしゃと食い始めた。

「何か…、何か俺にこの世界でできることはあるか?」

 答えを探す闇の深さに、俺は自力での正解到達を諦めた。何も光明がないと思った。

 茂手木はハムをつまむ手を止めて、しばし考え始めた。左前方3メートルを睨む。彼の大学時代からの癖だった。

「提案なんだが」

 茂手木が身を乗り出した。

「君にこの世界の半分をあげるというのはどうだろう」


 世界の半分。


 俺は、こんなセリフが茂手木の口から出てくるとは信じられなかった。ここに来て、現在我々が置かれていることの異常性が、その言葉でついに突きつけられたと思った。

「君は僕と同じくこの世界のファウンダーになればいい。共同経営者だ。この世界の半分のアーキテクトになってくれればいい。だから、男も女も、動物だったり惑星だったり、なんでも君が作ってくれよ。二人でやったほうが、違った発想が出て面白いんじゃないかと思ってね。どうだい、名案だろう?」

 この世界の共同経営者。この世界の半分。人生でやりたいことランキング、何位だろうか…。

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