第5話 城

 どれぐらい歩いただろう。30分か、1時間か。


 空は青く澄んで、黄昏たそがれる気配はまだない。まだ、と言ったが、この空が赤くなる保証はどこにもない。俺はこの世界を何も知らない。何も知らないということだけを知っている、と言ってもいいかも知れない。そうして言ってみたところで、何も変わらないのだが。

 俺は前の世界を思った。前の世界。コーヒーを飲む前の世界。いや、そもそも世界の分岐点はそこだったのか? もしかしたら、山本という女が原因かも知れない。会った瞬間に実はレールは切り替わっていて、その後遅効性の麻酔薬が段々と神経を鈍らせるように、俺をじわじわと別世界へと追い落としたのかも知れない。たまたま、あのコーヒーを飲んだ瞬間にその臨界点が来たというだけで。俺は、それがもっとも合理的な説明ではないかと考え始めていた。あのグリーンなんとかという呪文を詠唱した店員が細工をしたとは考えにくかった。ブレンドコーヒーなど、新宿で残業するサラリーマン全員にぶっかけても余るぐらい常に淹れられているのだ。そのうち1杯、いや、一口にこんな作用を仕込めるとは思えなかった。しかし、女が原因ならば、話は一本道だ。上司や周りの社員に知らせず、俺と直接コンタクトをしてきたこと。あれがきっかけで、俺は茂手木にメッセージを送り、新宿でコーヒーを飲み、山道を登り、白蛇に詰問され、鳥居をくぐり、まだ山道を登っている。そもそも茂手木と共犯だった可能性もある。そうして全てが仕組まれ、俺はピタゴラスイッチの装置を転がるビー玉のようにここに流れ着いてしまったのだ。


 そんなことをぼんやり思いながら、俺はただ作業のように足を動かしていた。ここまで来ても、山頂に茂手木がいるという確信はない。ただ、これまでこの道を歩いて来たということこそが、これから歩く何よりの理由だった。


 そして、「それ」が見えたとき、俺は笑ってしまった。

 茂手木の居所きょしょらしきものが見えた安堵感からではない。いや、確かにそれはそれで安堵に値するのだが、それより違和感のアラームがずっと強く作用した。

 茂手木よ。これはないと思うぜ。

 俺が見たのは、直角にそり立つ煉瓦の壁、高い尖塔、小さい窓で形作られた「城」だった。確かに、蛇のいう通り、ここは城だったわけだが、山中、小径を抜け、鳥居を越え、その先にまさか西洋風の古城に行き着くとは思わなかった。一体どんな美観でこんなことになるのか。責任者は幼稚園のお絵かきからやり直してくれ。はっきりした考えなしに、この山道を登ってきたことをここで初めて後悔した。

 しかし、彼が居るかも知れないのだ。このあまりにも記号の少ない世界にあって、数少ない、いや、今や唯一と言ってもいい何かの可能性が、茂手木に会うことだった。俺は徒労感を使命感でごまかし、最後の坂を登った。


 城の門は、番兵もなく、ただ口をあんぐりと開けて無防備に山を望んでいた。門を過ぎると中庭があった。煉瓦の塀に囲まれた殺風景な空間で、もし城門を閉じればそのまま監獄として使えそうだと思った。少し広いので、20人ぐらいを一斉に収容できるだろう。果たして彼らは、煉瓦の壁をよじ登り、脱獄を企てるだろうか。塀の上まで登りきったとき、視界一面の森を見て何を思うだろう。唯一外界に繋がっていそうな道を降りていけば、白蛇と対峙することになるだろう。それでも、彼らは外を目指すのだろうか。

 小さな可能性から、より大きな可能性へ越境したとき、その大きな可能性の不可能性を悟ってしまうとしたら、むしろ、最初から小さな可能性に引きこもって、大きな可能性の「可能性」を純朴に信じていた方が幸せなのではないだろうか。


 俺は存在しない囚人を憐みながら、城の内部に入った。いきなり外光が遮断されたため、目が効かなくなる。冷気で、体の表面の汗が凍る思いがする。

 しばし歩を止めたのだが、見れば足元には赤い絨毯が引かれていることに気づいた。階段が左右に分かれているところで、一方にだけ絨毯が続いている。道しるべ、と仮定して進むこととした。

 城内には偉人の胸像も、甲冑の騎士もない。ただ、煉瓦で囲まれた空間が洞窟のように続いていた。


 「よう」

 5階、か6階に到達したときだった。声の方を向くと、廊下の奥から明かりが漏れている。その部屋から茂手木が顔を出していた。

「こっちに来いよ。メシがあるぜ」

 城主からの食事のお誘い。どうやら、人生でやりたいことランキング300位前後の夢がここで叶いそうだ…

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