第3話 珈琲

 駅に着いたのは待ち合わせ20分前だった。

 駅ナカの店で時間をつぶし、時間ちょうどに店に向かう。

 見れば、レジ前の行列から少し離れたところで、女性が周りを見渡している。ブルーのカジュアルシャツに濃紺のスカート。肩にかかるぐらいの髪の毛が、頭の動きに合わせて揺れている。電話での、柔らかな声とイメージがぴたりと重なる。

「初めまして。山本です」

「こちらこそ初めまして。板持です」

 社交辞令の挨拶を交わす。スムーズな合流に、一安心する。


 店内を探しても、茂手木はまだ来ていないようだった。山本さんと2人でレジの列に並ぶ。一通りの自己紹介をしてしまうと、途端に話題が途切れた。俺は、沈黙を避けようと思った。

「この度は、茂手木がすみません。友人としてできることがあればよかったんですが、何も気づかなくて」

 山本さんは、すごく意外そうな顔をした後、

「あ、いえいえ! そんな。こちらこそ毎日会社で顔を合わしていたわけで、何も気づかず…。社外の人まで巻き込んでしまい、こちらこそ恐縮しているんです」

 と機械仕掛けのように頭を下げ始めた。思わず俺も謝罪を返す。2人して謝りあっているうち、列が進んでレジに到達した。


「いらっしゃいませー、こんばんは。ご注文はお決まりですか?」

「ああ、ええと…」全くお決まりではなかった。この30秒間、俺は懸命に謝りつつ、ほのかに紅潮する山本さんの顔ばかり見ていた。

「ただいま、季節限定グリーンエスプレッソフラペチーノや、バレンシアパッションティーがオススメとなっております」

 店員の助言で、思考の糸がさらに絡まる。バ…パ…一体それは何味なんだ?

 寸刻の猶予を得ようとしたとき、左から清流のような声が聞こえた。

「ブレンドコーヒー3つを。ショートサイズで」

 山本さんは穏やかな笑みを浮かべながら、大きな瞳を店員に向けている。右耳に掛かる烏羽色の髪が目に眩しく映えた。

「はい、承ります。店内のご利用ですか」

「はい。店内用カップで」

「ありがとうございます」

 中国人選手の卓球のラリーを見ているようだった。そして、財布からスタバカードを取り出し、支払いまで終えてしまった。

「あ…あ…」俺は口の聞けない妖怪のような声を出していた。

「茂手木さんはいつもブレンドを飲まれるんです。だからこれでいいと思います」

 そう…だったかな。彼の飲みものに気を払ったことはない。

「あっ! それとも板持さんカフェイン苦手だったりしました? 提供が早くなると思って、勝手に一緒に頼んでしまいましたけど…」

「いえ、大丈夫ですよ。お気遣いいただいてありがとうございます」

 むしろ、俺としては、状況次第ではすぐに席を外すといいつつ、持ち帰り用カップにしなかったことが気になったが、姑のような小言をいうものでないと思った。


 コーヒー3つを受け取り、混雑する店内にスペースを見つける。周りにはOLを始め女性客が多い。男2人、女1人の組み合わせは少し目立つか。隣との席も近い。あまり深入りしたことを話すのははばかられる環境で、茂手木がこの場所を選んだ真意を推しはかりかねた。


 黒い液面で跳ねる光を眺めていると、山本さんが言う。

「ほんと、無事でいればそれだけでいいんですが…」

 心なしか、目が潤んでいるように見える。

「一生懸命仕事をされていて、上司からの評判も良かったんですよ。長くインドネシア担当で、ジャカルタに何度も出張があっても疲れを見せず、現地のお土産とかもちゃんと買ってきてくれたり、気の利く方で…。最近は南米にもパートナーを広げたいからってスペイン語の勉強を始められたり。すっかり、仕事を楽しんでいるんだと思っていました。それがこう…上の方はまだまだ頭の固い人が多いですから、無断欠勤とは何だ! 会社への侮辱だ! とか、かなりの剣幕なんです。せっかくここまで頑張って、社内の評価も上がっていたのに、ほんと何があったんだろうって…私に何か相談してくれれば…」ぽつぽつと言葉を継ぐ。


 距離感を測りつつ、俺は尋ねる。

「えっと…、その、山本さんは、茂手木と付き合ってたり…」

「違います!」

 即座に否定された。

「ただ、同僚として心配というか…」山本さんは伏し目がちにつぶやく。

 ああ、そうかと俺は悟った。

 茂手木。お前は一体どこで何をやっているんだ。彼女じゃないにしても、こんな可愛い子がお前のことを気にかけているんだ。多分、この子はお前のことが好きだよ。帰ってきたら、付き合っちまえよ。しばらく付き合って、気が合ったら結婚して、子供を作れよ。より働きがいがあるだろうよ。俺は披露宴か2次会に呼んでくれ。会場の置物になると思うが、主役がいれば背景がいるのが舞台だからな。立派に添え物としての務めを果たさせてもらいたい。


 心配ですね、と慰めにもならない声をかける。そして、式に合うネクタイを熟考、やはり新調するしかないという結論に至ったとき、俺は目の前ですっかり黙ってしまっている山本さんに気づいた。何とも気まずい。コーヒーより、初対面との女性との沈黙の方が何倍も苦く、何倍も覚醒効果がある。


 気まずさから逃げるように、俺は陶器のカップを口につけ、コーヒーを一含み流し込んだ。舌の上でまず酸味を捕まえ、嚥下えんかする際に苦味が舌の奥から喉に走り抜け…

 る…

 は

 ず

 だったんだが…

 コ…

 こ、

 …

 ……

 これは……


 山本さんが驚いた様子で俺を見る。大きな瞳がより大きく。

 それが俺の見た最後の光景だった。

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