エピローグ

0.



 黒い鳥が、うんざりするほど清々しい青空を飛んでいた。


 目一杯に広げられた翼は吸い込まれるような夜の色をしていて、ジャンのよく知る魔王の翼とそっくりな色だった。河原の上で三角座りを解かずにそれを見上げ、目の前を流れる川に目を落とす。澄み渡った川の水面にもそれは同じように映っていた。


 ジャンの手には、しわついた手紙がぎゅっと握りつぶされている。ぽっかりと穴の開いた心を慰めるように、姉からの手紙を繰り返し何度も読んだ。しかし「魔者の彼」に関する記述を目にするたび、苛まれる孤独感から逃避する事さえできず、涙も出ないくらい乾燥した悲しみに身を浸していた。


 アーヴィングはもう帰ってこない。名前をなくし、そして自分が名前を付けた、魔王。ジャンはそれを認めようとする自分を必死に拒絶し、忌み嫌った。最近では剣の練習もろくにしていない。悲しみを拭い去る方法の一つとして、暴走するように打ち込んでみた数日間はあったが、結果として何の解決にもならず、長くは続かなかった。


 洞窟が瓦礫でふさがれてから一週間が経つ。ジャンはロジエの住む村の片隅にある宿に身を置いていた。森で採った魚や薬草や果実などを売って最低限の宿代を稼ぎながら、最後に洞窟で交わした約束通り、アーヴィングを待ち続ける日々を過ごしていた。心を削るような毎日の中、ロジエが時々遊びに来てくれる。ジャンは宿の部屋の前にやってきたロジエに笑いかけ、嬉しそうに、その誘いを毎回同じようにして丁寧に断った。


 アーヴィングのいない日々を呆然と振り返って、ジャンはそこいらに溢れている石ころを一つ取り、川に放り込んだ。いつまでも空を舞っている黒い鳥のシルエットが歪み、波紋が広がって、また静寂な水面に戻る。川の流れは変わらず、穏やかなせせらぎが途絶えることはない。


 その流れを見つめ、ジャンはやるせなくなった。折角仲良くなれたと思ったのに。勇者にしてくれると約束したのに。いくら待ってもアーヴィングは帰ってこない。


 いよいよ、諦めるべき時が近づいているのかもしれない。俯くジャンは、しかし自らのその考えに背筋を震わせ、バカなことだと払いのけるように首を振った。





 静かに苦悩するその幼い背中を、バロックは遠くの木陰にもたれかかって眺めていた。


「自分がもっと強くなっていれば、ヴィンさんではなく自分があの男を倒したのに。そう言ってずっと落ち込んでる」


 バロックは目を瞑り、まるで独り言のように呟いた。直後にバロックのもたれている木の枝が大きくさざめく。羽を休める為か、やってきた大きな黒い鳥が木の枝にとまっていた。


 バロックはふと、もたれかかるのを止め、その木を見上げた。太い幹から広がっている枝たちの中央を陣取っている黒い鳥。感情など読み取りようがない鳥の瞳と、しかしバロックは真っ直ぐに視線を交わす。


 そして、溜め息交じりにまた呟いた。


「ロジエも元気がない、このままでは稽古に差し支えるんだがな」


 バロックの言葉には冗談の色が見え隠れしていた。子供の喧嘩を仲裁しているかのような呆れた様子で、腰に手をあてて鼻で笑っている。


 黒い鳥は、そのビー玉のような瞳でバロックを見つめていた。


「そこの河原にいるだろう、早く行ってやれ」


 バロックが指で指し示すと、黒い鳥は唸るように一度だけ鳴いた。夕暮れ時に響いてくるような大型の野鳥の音色に過ぎなかったが、聞いたバロックは少し微笑み、また木にもたれかかった。


 二度目の木の葉のさざめきと、同時に大きな翼が羽ばたく音を聞きながら、ジャンの元へと飛んで行く鳥の姿を遠い目で見守った。





 黒い翼は、ジャンの背中が近づいたところで畳まれた。ジャンは茫然と川を眺めているだけで、こちらに振り向く気配は見られない。


 一体どんな顔をするだろうか? 考えると図らずも口元が緩んでしまった。気の抜けたその背中を前にして悪戯心に火がつくのを感じた。既に諦めがあるのか、それとも未だに信じているのか。どちらにしろ、これからその小さな頭の上に浮かぶだろう感嘆符をジャンは明らかに想定していない。


 そのまま、そっと近づいた、くれぐれも足音を立てぬように気を配る。ここまできてジャンに悟られては一気にしらけてしまう。変わらず川ばかりを眺めているジャンは気付かない。風に舞う黒い羽に、背後に迫るこちらの人影に。


 いきなり肩をどつかれて、慌てふためく姿を想像しつつ。



 ジャンの背後で、アーヴィングは意地悪そうに笑みを浮かべた。

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No Name Lucifer 名無しの魔王 豊 蛙(ゆたか かえる) @yutakaeru

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