4.マオウとの約束



 闇の中、暫くは風を感じながら身を任せていると、風が止み、地に足がつく感触がした。


 だが、足元は相変わらず固い岩ばかりでごつごつしていて、このまま動けば転んでしまうかもしれない。何か掴めるものを模索しようと、ジャンは周囲に手を伸ばした。


「いっ!!」


「あ! ごめんなさい!!」


 そして、触れたものを掴もうとすると、指先が触れただけで痛々しい悲鳴が聞こえてくる。


 慌てて手を引っ込めて闇の向こうへと謝罪した。一瞬だが、柔らかくふわふわとした心地よさが指先をかすめた。


 おそらくは《彼》の無残にされた翼だったのだろう。


「……動くんじゃねぇ、待ってろ……」


 やはりと思うまでもない。闇に紛れて、自分を拘束する綿を岩ごと砕き、自分を助けてくれたのは《彼》だと分かりきっていた。弱りきってはいても聞き慣れたその声に、ジャンは嬉々として素直に従った。


 が。《彼》がまた、必死に押し殺しつつも悲痛な呻き声を漏らし始める。その姿が見えないのも手伝って、ジャンはただただ心配に苛まれた。「大丈夫?」と慌てて声をかけた。返事は返ってこない。


 やがて、呻きが聞こえなくなって、代わりに不気味な静寂が張りつめた。最悪の結末がジャンの脳裏をよぎる。焦燥のあまり、言われたことをつい忘れ、手を振り回してまで《彼》の姿を探した。


 すると、突然ほとばしった光にジャンはたまらず目を瞑った。


 光の正体は焚火程の大きさの炎で、パチパチと燃え殻が爆ぜる音と、肌の表面を撫でる温かな空気にそっと目蓋を開く。やっと視界を確保できて、《彼》の姿を見つけたことに表情を緩めることができた。


 しかし、灯りを得て一目散に《彼》を見つけた時、服を脱いでその傷だらけの上半身を露わにし、片膝を立てて座り込んでいる姿もそうだが、その前の、燃え盛る炎の種にしているものにジャンは体を跳ねさせた。


「マ、マオウさん……」


「どうせ、もう使い物にならねぇよ」


 《彼》は力なく壁に寄りかかりながら自嘲気味に答える。《彼》が燃やしているものは、彼の来ていた半袖の服と、一山に集められた黒い羽だった。


 ジャンは血の気が引いた顔で《彼》を見る。そして激しく息を荒らした《彼》の片方の翼が無くなっていた事に気が付いた。


「喋っていい」


「でも、あいつが」


「翼に残ってた魔力で、遠くには音が漏れないようにした。お前に話があるからな」


 聞きたいことは山ほどあった。そんなことが出来るのか、とか、本当に使い物にならなくなったのか。そして少し時を遡れば、どうしてあの男を見た途端血相を変えたのか。前に悔しそうにして言っていた、名前を奪われたとはどういうことなのか。《彼》について重要な事柄の何もかもが、ここまで来てもジャンには分からないでいるのだ。


 ジャンは地面に手をついて、ぐったりと壁に首を任せている《彼》の顔を覗き込んだ。


「アイツ、誰なんだよ……なんでマオウさんに、こんなことするんだよ……」


「……前に言っただろ。お前に倒してもらう男がいると。俺たち魔王から名を剥いだクソったれ、あの男がそうだった」


「え?」


「だが、もういい」


 素っ気なく呟く《彼》を目の前に、ジャンは開け放された口をわなわなと振るわせているしかなかった。


「……ここまでつき合わせて悪かったな。俺が時間を稼いでやるから、お前は逃げろ」


「な、何言ってんだよ……」


「ここを出たら、外にいるあの魔王に話して匿ってもらえ。多分、助けてもらえる」


「なぁ! マオウさん!!」


 淡々とそんなことを言い出す《彼》の言葉を受け入れられず、ジャンは激しく首を振って、《彼》の肩を掴んだ。

 いつもなら、《彼》に逆らうなどすれば二倍三倍になって怒声や拳が返ってくる。だが今の《彼》は、虚ろな目でジャンをじっと見つめているばかりだった。


「俺をここから逃がして、マオウさんはどうすんだよっ! 時間を稼ぐ? そんな体でアイツと戦ったら! 今度こそ殺されるって!」


「……俺たちは死なねぇ、影に戻って姿が消えるだけだ。テメェは俺たち魔物の死体を見たことがあるのかよ?」


「そんなの……そんなのっ!!」


 覇気のない笑いで、《彼》が吐き捨てる。どうして、そんな諦めたような表情でそんなことを言うのかジャンには理解できなかった。それはジャンが魔物を倒し始めてから何度も目にしてきた。そしてそれは、問題の答えにはなっていない。《彼》が死ぬという事実に大差はなく、ジャンの求めた答えでは決してなかった。


 戸惑いに苦しみながらジャンが絶句していると、《彼》は肩にかかるジャンの腕を握った。


「それに、気が付いたんだよ。名前を取り戻したって、元の、退屈で面白みのない自分の世界に後戻りするだけだってな。バロックは、俺より数歩早く、それに気付いていただけだってことだ」


 どこか遠い目をしてジャンを見ていない《彼》だったが、ふと、薄く笑みを浮かべてジャンに瞳を向けた。紡がれるその言葉に戸惑いつつも、ジャンは自然と《彼》の肩から手を離した。


「どういう……こと?」


「俺ら魔王は、自分でもどうにもなんねぇぐらい、勇者の子供が気に入ってるって事」


「えっ?」


 いくら弱っているとはいえ、《彼》の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。ジャンは目を点にして言葉の続きを聞いた。


「どの魔王にも、聞いてみればいい。

 退屈にまみれた俺たち闇の中では決して拝めないような、キラキラ光る目と、俺達に言わせれば未熟な戦法でかかってくる人間のガキ。負ける気なんて一切ねぇって目だ。

 何度倒されたって、諦めることを知らずに立ち向かってくる。てめぇを倒しに来た奴なのにそれを見てると、つい応援したくなっちまうんだよ。俺だけは違うと、少し前まではそう思ってたんだけどな」


 何かを思い出しているのか、静かに目を瞑りながら呟く《彼》を前にして、ジャンはいたたまれなくなり歯噛みをした。だから、《彼》は死ぬのだろうか。勇者の子供である自分を逃がす為に。


「何だよ……だからって、死んでもいいのかよ! マオウさんは魔王だろ! 強くて怖い強欲な魔王! それが簡単に諦めるのかよっ!!」


 死などは存在しない、《彼》からの修正など構わずにジャンは叫んだ。ジャンにとって、それは死ぬのと何が違うのか全く分からなかった。


 瞬間、《彼》の目が鋭くなった。引き締まった空気にたじろいだジャンは一歩だけ後ずさる。


「テメェの……絵本の中の妄想を勝手に押し付けてんじゃねぇ」


 低い声に苛立ちを覗かせる《彼》に、ジャンは物言いたげな顔を変えないままで黙り込んだ。


「俺たちには、何もなかったんだよ。人を襲ったって、何が手に入る? 財宝で心の何が潤う? 人間にビビられて、同族に崇拝されても得られるのはクソがつくほどつまんねぇ優越だけだ。気の向くままに暴れてみれば気付いたし、名を奪われて更に思い知った。


 お前ら人間と変わんねぇ。優越感だけで気が狂うほどに長い日々を過ごせるほど、俺たちは単純じゃねぇんだよ」


 言い放つと、《彼》は疲労の息を吐き、首だけ上ぞらせて天井を向く。


「例え、俺たちに死が存在するってんなら、お前ら勇者は俺たちにとっての生きがいだ。お前らが望むんだったら、体張ってとことん相手になってやる」


「だったらっ!」


 咄嗟にジャンは噛付いた。懇願するような、苛立ちをぶつけるような幼い声色で。


「頼むから、死ぬなんて言わないでくれよ! 俺をこんなところに連れてきて、しかも一人ぼっちにするなんて、そっちの方が無責任だろっ!」


 《彼》は何も答えず、静かに顔を俯けた。いくら言っても耳を貸そうとしない態度が悔しくてジャンは唇を噛む。更には、これ以上の問答は無用と突き放されたのが見て取れる。


「……いいから、ここから逃げろ。分かったな?」


「嫌だ!」


 だから、ジャンも拒否した。


 《彼》は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不機嫌そうな顔をして、押さえつけるように言葉を投げかける。


「……分かったな?」


「嫌だっ!」


「あ?」


「嫌だっ!!」


「おいっ!」


「嫌だっ!!!」


「ジャン!!!」


 最初は言い聞かせるように言っていた《彼》も、返ってくるのが単調な拒否の連続ばかりでは表情をしかめ、声を荒げ始めた。ジャンはその様子など気にも留めず、負けじとそればかりを吐き出し続ける。肩で息をして、荒れた胸を落ち着けようと大きく息を吸う。


「テメェ! いい加減にしろ! 俺の言うことが……」


 《彼》が一際大きく怒鳴ろうとしたところで、《彼》は口を丸く開いたまま、言葉を失ってしまった。


 ジャンの感情は、もう限界に近かった。目の縁にははちきれんばかりに滴を溜めて、それが零れ出すのを我慢しようと思い切り歯を食いしばる。頬は紅潮し、茫然としている《彼》を震えながらでも睨んだ。今度ばかりは決して言い負かされるわけにはいかない。だが敢えて《彼》の怒りを買ってでる無謀を続けるのは、胸が締められ吐きそうになる程辛かった。


「なんだよっ……こんな時だけ、俺の名前呼んでんじゃねぇよ……。諦めるなって、言ってるだけじゃんかよ……っ!」


 怒鳴る《彼》が恐くて、喉まで震えだす。その為に少しばかり舌足らずになってしまったが、ジャンは懸命に言葉を捻りだした。そうでもしないと《彼》に謝ってしまいそうになる自分に鞭を打っての事だった。


 肩を小刻みに震わせているジャンを前にして、《彼》は黙ってしまった。ジャンは目をくすって滴を拭い去り、脈動する自分の胸を落ち着かせているので精一杯になっていた。


「……んだよ。なんで、お前の方が泣いてんだよ……」


 暫くの沈黙の後。先程までとは違う、吐き捨てる声で《彼》は言った。聞いたジャンは顔を上げる。考えを改め、諦めを捨ててくれたのかと期待で胸が膨らんだ。


「マオウさん……?」


「……前言撤回だ。泣く子も黙る魔王様が、消えた後の責任なんざ、背負うわけねぇわな」


 《彼》が強気に笑って言ってのける。それだけでジャンの表情は明るくなった。いつもの調子を少しでも取り戻してくれたのだと思えば、嬉しくなって吹き出してしまった。


「そうだよ、マオウさんもここを出て、また旅を続けよう! そしたらさ、もっといろんなこと教えてよ! 

 俺も、マオウさんが困ったら助けるからさっ!」


「はっ、この俺が……、いや」


 ここを出てからの風景を頭に浮かべ、忙しく言葉を並べる。《彼》からの返事はあらかたの想像がついていて、いつも通りの傲慢な台詞が聞けると思っていた。


 が、《彼》は途中で言葉を変えてしまう。


「なら、世話になってやる。クソガキ」


「え?」


 《彼》がそんなことは言うのは初めてで、ジャンはまんざらでもなさそうに頭をかいた。普段から好き好んでものを言うことが少ない《彼》に頼みごとをされるのは不思議な感覚だったが、なんにせよ頼られるのは悪い気がしない。


 だが、意地悪を楽しむような《彼》の顔に気が付いて、ジャンは一抹の不安を覚えた。


「この俺の、新しい名を考えろ。今すぐに」


「えぇ?」


「いいから」


 《彼》は自身を親指で示し、歯を剥いて笑う。


 一体何を言われるのかと構えていれば、急にそんな事を頼まれてジャンは困惑した。確かに、困っている時は助ける、と今しがた断言したばかりなのだが。


「ありがたく思えよ、魔王の名を考えるなんざ、一生モノの経験だろ?」


「う~ん、えっと、じゃあ……」


 何故、今なのか? 尋ねると《彼》に急かされるように睨まれてしまった。ジャンは不思議がりつつも、人差し指で頬をかきながら盛大に思い悩んだ。


 名前を付けるのは簡単だが、いいものをとなるとなかなか思い浮かばない。頭の中に眠る身近な記憶から掘り返してゆき、思いつく限りの様々な単語が頭に溢れては、《彼》に相応しい名前にはなりえず沈んでゆく。中にはジャンが好物とする食べ物の名も数多く浮かんだが、そんなものを選んではみすみす《彼》の怒りを買う結果に終わってしまうのは明白である。


 ならば、と、ジャンは今まで自分の読んできた、勇者の登場する冒険譚を思い返してみる。登場人物、土地の名称、目次のタイトル。そのうちに、これだ、と得心した名が浮かび上がり、さっそくそれを提案した。



「アーヴィング、ってどう?」


「……お前、正気か?」


 縁起がいいし響きもカッコいいし、《彼》を満足させる自信はあった。


 だが、訝しげに返されてジャンはしどろもどろと指を絡ませる。それが過去に実在した伝説の勇者の名であることをどうやら《彼》は知っていたらしい。魔王が勇者の名を冠するのは、やっぱり喜ばしくなかったのだろうか。


「……、ダメ?」


「……くくっ、いいや。反骨的でいいんじゃねぇか?」


 やれやれといったその様子には、仕方ないから妥協してやる、と呆れんばかりの笑みが浮かんであった。それでもジャンは気分の高まりを隠さず、それでいい?、と嬉しそうに聞き返した。


「俺の名は、今からアーヴィング。それでいいな?」


「う、うん!」


 《彼》は黙って頷き、多少よろけながらも壁をつたって立ち上がる。


「だが、長ぇな。普段はヴィンでいい、呼んでみろ」


「アーヴィングッ!」


 アーヴィング。


 ジャンは《彼》を見上げて高らかにその名を呼んだ。自分で名づけたとはいえ、初めて《彼》の名を呼べたことに深い親近感を隠せなかった。家族やロジエにしていたように極めて普通に名を呼んだだけだというのに、それだけで長年連れ添った友達や、本物の兄弟のようになれた気がした。


 アーヴィング、アーヴィング……。その響きが新鮮で後を引いて、気分のままにしつこく連呼していると、ヴィンと呼べ、と顔をしかめた《彼》……アーヴィングに額を小突かれてしまった。ジャンは痛みに額を押さえたが、それでも無尽蔵に湧き出てくる笑みをこらえきれなかった。


「これで俺も、連中の仲間入りか……」


 ふと、アーヴィングは小さく呟いた。際限なくにやついていたジャンはそれを見て、ふと表情を落ち着ける。


「ジャン」


「え?」


「お前との旅は、まぁまぁ暇がつぶれた」


「?」


 アーヴィングは腰に手をやって、揺らめく焚き火に目を落としながら呟いた。珍しい穏やかな物言いが不思議で、ジャンは揺らす程度に首を傾げた。


「……ありがとな」


 それきり言い残すと、アーヴィングはジャンの胴をがっしりと抱え上げる。その時になって、ジャンはやっと目を見開いた。


 その背には、つい先程捨てていたはずの片翼がまた備わっていた。





 再び、アーヴィングに抱えられて暗闇の中を半分飛ぶようにして移動している。ジャンは舌を噛まぬよう頑なに口を閉じて、頬に吹き付ける風を感じていた。胴の辺りを抱えられて、首と手と足を宙にぶらつかせている。

顔を上げてみたとしても、一寸先にあるだろう《彼》の顔すら見えないほど暗闇は濃厚だ。しかし《彼》には全てが見えているのか、壁にぶつかったりこけそうになったりする様子は一切感じさせなかった。


 本音を漏らせば、恐いのでもう少しゆっくりと進んでほしかったのだが、それを言おうとすると舌を噛んでしまいかねないのでジャンは大人しく身を任せていた。意味がないから目も閉じて、アーヴィングが一定のリズムで地面を蹴る音に耳を傾ける。何故だか翼が元に戻ったとはいえ、満身創痍である筈のアーヴィングがこのような無茶をして大丈夫かと不安になった。


 やがて、進む先に丸い光を感じ、ジャンは目を開いた。洞窟の出口かと思ったそれは、近づくにつれてよく見てみれば違っていた。


 またあの男が灯し直したのか、蝋燭の灯が揺らめく先程の空洞の手前の壁で、ジャンはそっと安置された。



「ここで待ってろ」


「マオウさん!」


 壁に張り付き、中の様子を伺うアーヴィングにジャンは慌てて食って掛かった。焦燥を込めて名前を呼ぶだけで、アーヴィングには言わんとしたことが分かったようだった。


「どのみちアイツは捨て置けねぇ。いくらでも俺達を狙ってくるだろうからな」


「……いっ、行かない方がいいって!」


 躊躇いなく、さっそく一歩踏み出そうとしたアーヴィングのズボンを指先でつまんで呟く。俯くジャンの脳裏に凄惨な光景が蘇った。行かせるわけがない、またあのむごたらしい惨状を目の当たりにするなど沢山だ。そんな空間の中に再び送り出すなど、それがアーヴィングの意思だとしても断じて出来なかった。


 しかしアーヴィングは、余裕ぶる笑みを崩さなかった。まるで自身が勝利する姿を既に想像しているかのようだった。


「ジャン、まさかさっきの無様が、俺の本気だと思ってんじゃねぇだろな?」


「?」


 意味深な含み笑いに、ジャンは不安げながら首を傾げた。


「何だったら、今だって本気じゃねぇ。けど名前すらなかったさっきよりは百倍マシだ。お前が名前をよこしたからな」


「で、でもさ……」


「いいから、ここで見てろ。……ぶん殴んぞ?」


 ジャンはまだまだ食い下がろうとしたが、その両頬が突然、一纏めに鷲掴みにされた。てっとり早く黙らされたジャンは引き剥そうとアーヴィングの腕を掴みつつ、もごもごと殆ど声になっていない反論で引き留めようと試みた。


 一方、アーヴィングはジャンの懸命な様を見て笑っている。精一杯の抵抗が微塵も通じていないのは一目瞭然だった。


「すぐに戻ってきてやる。で、お前を勇者にしてやる。まぁ一応は契約だからな。黙って言うこと聞いとけ」


 ジャンは少し考えた後、覚悟を振り絞るようにして頷くと、アーヴィングはジャンの肩に手を置いた。


 そして表情を一転、厳めしく目を細め、冷徹な顔で洞窟の中を睨む。



 あの男を見つけたのだろう、《彼》は一層渋面を強めると夜色の翼を展開し、誘われるように空洞の中へと飛び込んでしまった。ジャンは今も残る肩の重みを手で押さえながら、もう片方の手を咄嗟に伸ばす。だが、今度ばかりは声を掛けられなかった。


 ジャンは唾を呑み込んだ後、《彼》がしていたように壁へと張り付き、あの男に見つからないように、しかしかじりつくような熱烈さで空洞の様子を見つめた。あの男に恐怖する気持ちは失せず、これから始まるだろうアーヴィングの反撃の渦中に飛び込む気にはなれない。


 《彼》もまたそれを望んでいないし、足手まといになるのは目に見えている。少なくとも《彼》が劣勢に至るまでは、悔しいが今の自分は見ているしかないのだ。



 視界に広がる光景では、既に男とアーヴィングが相対していた。アーヴィングは腰に手をやって笑みを浮かべ、男は物言わぬ顔で驚愕しているようだった。


「貴様……その翼は……」


「いいだろ? 新品の魔力。もうやらねぇぜ?」


 言うと、アーヴィングは地面を蹴った。未だ驚きを隠せていないものの、男は咄嗟に鉈を身構える。それでもアーヴィングは意に介せず、しなった足がままに鉈を打ちすえる。鋭い蹴りで男は盾にした鉈ごと体を仰け反らせ、追い詰めようとさらに続く蹴撃により少しずつ後退を迫られる。


 焦りを覗かせる男は鉈を地面に突き刺し、それを軸にして蹴りを放った。服を纏っていない剥き出しの腹に突き刺さる筈だった反撃は、しかしアーヴィングには届かない。悠々と身を翻してそれを避けると、前へ踏み出す勢いを乗せて、男の頬を振り切るように殴り飛ばした。


 それがどれほどの威力を秘めていたかは、実際にその場にいないジャンにも震えがするほど理解出来た。男の身体がまるでぬいぐるみであるかのように易々と吹き飛んで、瞬く間に壁に激突し、壁面を鏡ごと、その周囲が砂煙に覆われるほど粉々に粉砕したのだから。


「はっ、こちとら分かってんだよ。俺たちの魔力を好き放題溜め込み過ぎてお前はもう破裂寸前。しかも、お前はその力の一かけらすらも活かせてねぇ」


 そこに突き刺さったままの鉈を一瞥した後、男のめり込んだ壁に向け、アーヴィングは好戦的な足取りで地を跳ねつつ声を張った。


 ジャンは拳を握り、そして安堵した。その声色は自身に満ち溢れており、同時に疲弊した男が砂煙の向こうで呻いている姿が容易に想像できる。


 がらり。岩が転がる音。砂煙が落ち着いた頃には、痛めたらしい脇腹辺りを抱えた男がふらふらと立っていた。背後の壁は想像通り粉々に砕けていて、寸前まで男の身体がめり込んでいたのが見てとれる。


「……抜け殻風情が言ってくれる。今や俺は、お前の魔力をも備えているんだぞ?」


「お古でよけりゃくれてやる。俺には、たった今受け取った新品があるからな」


「ぬかすなっ!」


 口元をぬぐい、表情を苛立たせた男が手をかざした。その全身から胞子を噴き出すように白い綿が周囲に霧散し、かと思えばそれらが吹雪のように一直線に荒れ狂い、アーヴィングへと襲い掛かる。


 それは危険だ、実際にその物質に捕まり身動きの取れなくなった経験からジャンは叫ぼうとしたが、アーヴィングの顔はあくまで冷静だった。


 翼を広げ、それを自身の前まで展開して盾にする。黒い壁は吹き付ける白い綿を微塵も通さず、吹雪が落ち着いた頃合いを見て翼を羽ばたかせると、白い綿と黒い羽が天高く舞い上がった。


「それから、俺の名はアーヴィングだ。もう抜け殻じゃねぇんだよ」


 白と黒が宙を舞いあがり、辺りに舞い散る最中、アーヴィングは目を細め、低い声色で呟いた。


 奥歯を噛みしめて表情を歪めている男に向かって身構えると、再び翼を大きく羽ばたかせる。風を切る鋭い音がして、轟々と発生した黒い羽の入り混じった突風が、男を呑み込まんと吹きすさんだ。


 渦巻く風に男は目を庇いつつ、襲い来る攻撃を回避する為に周辺を駆け回った。風の中を漂う黒い羽は、時に投げられたナイフのように男を狙う。男の過ぎ去った足元や、男が頭を屈めた直後の壁や岩に敵意を持って突き刺さってゆく。


 風は空洞の隅々にまで至り、ジャンもまた荒ぶる風に目蓋を細めつつも、その姿を見逃さなかった。アーヴィングは風の中にいる。突風を利用して壁をニ・三歩駆け上がり、蹴りつけ、男へと迫る。行く先には男の焦燥する顔と、鈍く光る鎖が遠目に見えた。


 アーヴィングの手繰った鎖が瞬く間に男の足首に絡み付く。鞭を叩きつけるようにその鎖をしならせると、その衝撃は鎖をつたって男に伝わった、途端に足を払われた男は表情を歪め、あえなく地面に横倒しになる。


 アーヴィングは尚も厳しい顔を緩めず、その背中を狙って黒い羽を幾本も放った。寸前のところで男はその場から転がることで回避し、地面に刺さった羽を尻目にして立ち上がるや、足首を結わく鎖に手をかざす。


 直後、鎖の表面を覆うように白い綿が発生した。そのまま腐ってしまったように鎖ははちきれてしまったが、アーヴィングはそれすらも予測していたかのように男との距離を詰める。男は傍に突き刺さっていた鉈を再び手に取り、それを迎え撃つよう振り上げた。


 振り下ろされた鉈と、それを受け止めるように展開された翼がぶつかりあった。衝撃で抜けた黒い羽が舞い上がる。翼は斬りかかる鉈を押し返さんと次第に持ち上がり、小刻みに震える鉈はそれを苦しくも押し戻した。


「はっ、俺は手ぶらなんだが、なっ!」


「ぶっ!?」


 しかし、力の比べあいは長くなかった。冷たく笑うアーヴィングの突きだした拳が、男の腹に捻じり込まれている。


 息の詰まった顔で男が悶絶した隙に、翼を跳ねさせて鉈を取り払う。金属の音と共に鉈がそこいらを滑りゆくのに男が目を見開いた時には、既にその首筋にアーヴィングの脚が触れていた。ひと呼吸の間もなく、鋭さの映える蹴りを叩きこまれ、男は勢いよく地面に突っ伏した。


 男は尚も地面に指を立てて立ち上がろうとする。その戦意を完膚なきまでに砕くかのように、アーヴィングは容赦なくその掌を踏みにじった。遠目に映る光景と響いた呻き声に、ジャンはぞくりと冷や汗を垂らした。


 その瞬間に、決着がついたらしかった。





「ジャン、出てこい」


 男を冷やかに見下ろして、アーヴィングがこちらを向いて呼んできた。


 ジャンは今一度ちらと洞窟の壁から覗き込んだ後、空洞に足を踏み入れ、アーヴィングの元へと急いだ。

 すると、男に変化が、横たわる男の身体が白く淡い光で覆われている。ジャンは自然とそれを避けるように遠回りをしながら、アーヴィングの傍らに立った。


「そんな……」


 この結果が信じられないらしく、むせ返っている呼吸で赤い反吐を吐きながら、男は見開かれた瞳でアーヴィングを睨み付けている。離れて見ていたジャンにもこの結果は信じられない。いや、アーヴィングなら必ず戻ってくるとは祈るような思いで信じていた。しかしこれほどまで圧倒し、攫うかのように勝利してしまうとは。残忍な深手を負わされていたのが嘘であったのかと目を疑ってしまった。


 途中から、これは都合の良い夢なのではないかとさえ思って眺めていた。だがどうだろう、アーヴィングは勝った。明確にこの結末を確信していたのは最後までアーヴィングただ一人だったらしい。


 アーヴィングはずっと男を見下ろしているので、合わせるようにジャンも目をやった。男を覆う光は次第に強くなる、この男も影になって消滅するのだろうか、それにしては、見ていて目が眩むほどの光が、男を蝕むようにその全身を包んでいた。


「勿体ねぇほどの魔力がダダ漏れだ、やっぱりテメェ……」


 何か確信を突いたような言い口でアーヴィングは冷やかに呟いた。


 男は憤りで顔をしかめたが、今更返す言葉も見つからなかったのか、ただただ悔しそうに、光の纏わりついた拳を地面に擦り付けていた。


「くそ、くそ! 魔王になれる、好機だったというのに……」


 男が恨めしそうに呟いたところで、ジャンはようやくその変化の機微に気が付いた。体が光に覆われているのではなく、男の体そのものが光と化しているのだ。光は男の身体から雪のように浮き上がり、頼りない光の粒となって宙にて霧散し、やがてなにも残らず立ち消えてしまう。きらびやかな光の粒が宙にて消えゆく様はどこか幻想的である一方、見方を変えればひどく身の竦むような光景であることに気が付いて、ジャンは沈黙しつつも静かに動揺した。


 だがそうして時間を潰しているだけで、見る見るうちに男の身体は儚げに透けていった。


「くそ……最後まで……ただの……」


 言い終わることの無かった恨み節が、男の最後の言葉となった。


 一際眩く男の身体がほとばしり、光の粒が周囲に満ちると、男の身体が音も無く消滅した。その瞬間は本当に呆気なく、ジャンは息をつくタイミングを失ってしまったほどだった。


「……やったんだね、アーヴィング……さん」


 新たな名で呼び慣れておらず、誤ってそのまま呼び捨てにしようとしたのを、慌てて、さんを付け足した。ジャンは遠慮から口をつぐみ、それでもアーヴィングの事をたたえようと笑顔を作って振り向いた。


 アーヴィングは黙ったままだった。


 男のいた場所を呆然と見つめ、立ち尽くしている。疲れているのか、その目には違和感を感じる程にまばたきや揺らぎがなかった。



 バタッ。


「……え?」


 ずっと見ていたその体が、斜めに向いた辺りで、ジャンはやっと笑みを控えるに至った。


 訳のわからぬ不穏さに身が凍えた。様子がおかしい事に気が付いたのは、棒立ちだったアーヴィングの体が、さりげない音を立てて地面に伏してからだった。


「アーヴィングさんっ!!?」


 ジャンは反射的に、くずおれて横たわったアーヴィングの元に寄った。力なく閉じられた目に戦慄し、懸命にその背中をゆする。やはり無茶だったのだろうか。あの男を圧倒的に攻めたてていた優勢の背景には、その体にのしかかる並々ならぬ代価があったのだろうか。


 ジャンの脳裏に、悪夢に見たマーサの姿が重なった。ジャンは掛け声を絶やさずにその体をゆすり続けた。しかしそれ以上どうすればいいのか分からず、目の前が真っ暗になってしまう。


「……縮めて呼べって言ってるだろ。長ったらしいんだよ、その名前」


 突然の事に成す術なくうろたえていれば、目の前で、半分ほど開かれていた唇がわずかに動き、そこから不満げな文句が漏れ出た。

ジャンは呆気にとられた後、盛大に溜息を吐く。


「~んだよっ! 心配したじゃんか!」


「俺の頭が弾けるとでも思ったか? 寧ろ、アイツがばらまいてった魔力を取り込んでんだよ、起こすんじゃねぇ」


 鬱陶しげなその声色には、本当に疲弊が見え隠れしていた。洞窟の中で半裸で寝るのは風邪をひかないだろうかと心配に思った。だが、それが気にすらならないほどに疲れているのだろうと得心して、これから浴びせる程投げかけたかった称賛の全てを呑み込む。


 細やかな息をして横たわるアーヴィングの顔を眺めながら、ジャンはその場に胡坐をかいて休んでいると、何やら向こうからせわしない足音が聞こえてきた。


「ジャン!!」


「ロジエ?」


 振り返っていると、空洞の入り口にロジエとバロックがやってきた。洞窟の入り口にて現れた魔物達の相手を終えたらしく、ロジエは頬に乾いた泥をつけ、至る箇所で服がちぎれていた。


「無事だったんだな! よかった!」


「それどころじゃないんだ! 早く……」


 ジャンが明るい笑みで手を振ると、ロジエは神妙な顔つきで駆け寄ってきて、腕を掴み引っ張ってきた。


「!!?」


 何だろうかとジャンが尋ねようとした、その寸前。


「うわっ!!」


 不穏な物音。それから、立っていられないほどの激しい揺れに見舞われた。


 地震か。天井から降ってくる岩のくずを見て、ジャンは不安げに瞳を揺らした。


「早く! この洞窟、崩れるよ!」


「えっ!?」


 余りに突拍子な言葉には耳を疑った。だが今尚も揺れが続いているこの現状、あながち冗談では済まないという気配はしかと感じ取れる。


 ただならぬロジエの気迫に、自分たちが置かれている事態の緊急性を流されるように呑み込んで、ジャンはアーヴィングを向いた。


 砂埃と傷だらけの背中を向けて横たわっており、その疲労感を察すれば、すぐに歩き出せる状態ではないかもしれない。


「でも、ヴィンさんが……」


「……。魔力の消耗が激しいな、動くのは危険か」


「病人扱い、すんじゃねぇ……」


 すると、アーヴィングが地面に手をつき、緩慢な動作でふらふらと立ち上がった。不安定な足取りは立っているのが精一杯だというのが分かって、背丈の近かったバロックはすぐに肩を貸した。


 洞窟内の揺れは続いている。先程よりも強くなったらしく、天井から落ちてくる岩のくずも、いつしか頭に当たれば危ない程に大粒になっていた。


「外は酷いことになってるんだ、早く出た方がいいよ!」


「自然のものとは思えないが、表で落雷や地滑りが乱発している。洞窟に直撃するのも時間の問題だ」


「……はっ、あの男の最後っ屁ってわけかよ……」


 力なく笑ったアーヴィングは、何故だか肩を貸すバロックにそっと何か耳打ちをした。ジャンはちらと見ながらも崩れゆく周囲の光景ばかりを不安げに見渡していたが、ふと、背後から肩を叩かれた。


 振り向くと、バロックの肩から離れ、一人でアーヴィングが立っている。ふらつく足をかろうじて支えにして、少し苦しげな顔でジャンを見つめていた。


「おい、ガキ。バロックたちと先に行ってろ」


「な!? ヴィンさんはどうするんだよ!?」


 突然何を言い出すのかと、ジャンは必死な瞳でその顔を見上げた。当然の疑問だ。折角あの男を打ち倒し、共にこの洞窟から出られると喜んでいたのに。


「俺は……あれだ、魔力をもう少し回収してから」「嘘だ!!」


 一瞬でそうだと分かったのは、アーヴィングの瞳が明らかに左右へと揺らいだからだ。何かが後ろめたくて、咄嗟の言い訳を考えたとその顔にはっきり書いてある。


「……嘘じゃない。魔力を失った今の状態で表に出ればそれだけで危険だ。あの男が撒いていった魔力が充満している、ここにいるしかない」


 背後から声を掛けられジャンは振り返った。直視を避けるように目を俯けているバロックに淡々と説明される。それはジャンにはどうしようもない領域の問題で、ジャンは何も反論が出来ず悔しげに歯噛みをした。


 アーヴィングが呟く。あたかも永久の別れを告げるような、寂しい物言いだった。


「じゃあ、頼むぜ」


「……了解した」


 何を了解したというのか。だがあらかたの予想はついて、こちらに歩み寄ってくるバロックを震えながら見つめていると、その手が真っ直ぐに伸びてきた。


 首に腕を回されて、ジャンは大いに暴れた。バロックはそれでも腕尽くで連れて行こうとする。このまま身動きの取れないアーヴィングを置いて行くなど絶対に出来ない。静止しようとするロジエをも無視して、ジャンは腕を振るいながら、胸の内に溜まるわだかまりを叫び散らした。


「俺っ! ずっと不安だったんだ、ヴィンさんとちゃんと仲良くなれてんのかって、途中で捨てられるんじゃないかって! 

 何だよ! 俺を勇者にしてくれるって、約束したじゃんかよっ!!」


 散々言い放って息を荒らすジャンに、アーヴィングは笑いを噛み殺した。


 いかにも魔王らしいその笑い方に、しかし冷たさや不気味さはもう感じない。前に立たれて、眼前に鋭い爪の手を伸ばされても、その本質を知っているから、何も怯むところはなかった。


「まぁ……お前なら、本物の勇者になれるかもな」


 だが、これは予想外だった。


 不意を突くようにくしゃくしゃと、大雑把に頭を撫でられた。姉や今は亡きおじいさんにしてもらっていたのとは違う、やや乱暴で久方ぶりの感触に、そしてアーヴィングの浮かべる曖昧な笑みには、黙らざるを得なかった。


 そして、アーヴィングはバロックに目で合図をする。立ち止まっていたバロックがまたジャンの首に腕を回して歩き出した。


 今度は抵抗しない、その代わりに、言葉も無く見送っているアーヴィングを焼き付けるように眺め続けた。


「俺っ、ずっと待ってるから!」


 バロックに連れられる途中、空洞の入り口辺りで、ジャンは叫んだ。力の限り大きく叫んだ。するとアーヴィングが僅かに微笑んだ気がした。その諦めたような表情を見るに、戻ってこなければならないという罪悪感を植え付けられたのかは疑わしい。


「ヴィンさんが戻ってくるまで! ずっと、ずっとだって! 俺っ、待ってるからなっ!!!」


 だが、そうでも言わないと、崩れゆく運命にある洞窟の奥に、一人アーヴィングを放置してゆくなど出来なかった。


 例え代替の利かない無情な理由があったのだとしても、だんだんと遠くなるその顔を見ていれば、申し訳のなさで胸が裂けそうになった。





 崩壊は増してゆく。岩が砕ける音が立て続けに収まらず、壁にはただ事でない亀裂が見え始める。


 アーヴィングはジャンたちが言ってしまったのを確認して、振り絞っていた力を解き、自身に重くのしかかる脱力感に身を任せた。

あっという間に立っていられなくなり、ばたりと仰向けになって倒れ込む。耳元が地面に近づいたせいか、迫りくる崩壊の音がより鮮明に響いてきた。間もなくここは岩と土で閉ざされる、そうなればいかに魔王とはいえ、弱っているこの状態では再び陽の光を見ることは不可能だ。


 そのことは、ジャンには言わなかった。バロックに話を合わせてくれと耳打ちした。今まで嘘や詐術などは真実を述べる数と同じほどに繰り返してきた筈なのに、未だかつてこれほどの罪悪感を感じたことがあっただろうか。それでも嘘をつき、ジャンを外へとやった。こんな所で共倒れにするには惜しいと感じた存在だったから。


 なんというか、不思議な奴だった。たまたま利用するはずだった子供にこれ程懐かれるとは思いもしなかった。そして、魔王であるのに、一人の人間の子供に退屈を忘れてここまで心を突き動かされ、そしてそれを悪く思っていない自分にはそれ以上に驚かされた。魔王とは元来そういう生き物なのだろうか。自分もバロックのように魔王としての意地を張らず、名前を捨てて素直になれたならば、こんなことにならず、本当にジャンを勇者にしてやれたかもしれない。

 自らの名前を潔く捨てることが正しい行いかは分からないが、ジャンをあの男との戦いに巻き込んだ結果、自分はこのような結末を迎えるのだから、それだけは間違いだったのだと痛み入っている。


 結局、ジャンから新たな名前を貰い、且つての名を捨てる結末であの男を倒すに至った。たらふく集めたらしい魔王の魔力で脹れあがっていたあの男にとどめをくれてやるのは、新たな名前を受け入れさえすれば実に容易かったが、それ故に当初の、奪われた自らの名を取り戻すという目的は永久に果たせなくなった。


 あの男は消えた。もう自分の元の名を思い出す機会には二度と巡り会えないし、それに付随した膨大な魔力も諦めねばならない。


 だが、収穫はある。


「そうだ。テルジア、思い出した……」


 地響きが強まり、揺さぶられる視界で天井を眺めながら、ぼうっと浮かんだ名をアーヴィングは一人呟いた。自分の城にいた、泣き虫で不器用な世話係の名だ。それだけでなく、自分につき従う配下たちの名の全てが鮮明に浮かびあがってくる。自分は名を無くしてしまったが、きっと配下たちは自らの名と魔力を取り戻したのだろう。それを思うと、自分の行動も無駄ではなかったのだと知って安心した。自らの配下に愛着を持てるような性格ではないと自負しているのだが、それでも、自分を敬っていた魔者や魔物たちが無事であり続けることに悪い気分はしなかった。


 例え、自分はもうそれらの元に戻れないとしても。だからあの時、男を打倒する力……新たな名をくれたジャンに礼を述べた。礼を言うなど、魔王になってからは指で数える程しかなかったが、どうしても言っておかねば気が済まなかった。


 この結末はなんとなく予測が出来ていたのだ。さすがに生き埋めになるとまでは考えていなかったが、新たな名を得たばかりの、いわば魔力だけが赤子と化している状態であの男と戦えば、そもそも魔力の殆ど無かった名無しの時ほどではないとはいえ、遅かれ早かれ魔力が干乾びるだろうなとは感づいていた。


 今更、消えるのに恐怖はない。ジャンはそれを死と言い張っていたが、魔物の消滅は人のそれより呆気なく、単純だ。魔物が消えればそこには死体も何も残らない。稀に牙や武器などを残していく魔物もいるが、それは死体というより、その魔物を倒した者が手にする戦利品に過ぎないだろう。上級の魔王や魔者を斬った時に残る赤い飛沫は体内を流れる液体の魔力で、人間の内に流れているような血液ではない。流れ出すぎて死ぬということはなく、ただ魔力が枯渇して消滅するだけだ。そしてそれも、時がたてば宙を漂う魔力となって気化してしまう。


 魔物は消えて、その痕跡を残さずに魔力に戻る。それから先は考えない。消えた存在がその後どうなるかなど消えていない側から分かることではなく、その必要もなければ知りたいと願うこともない。


 ただ、これ程の達成感と共に消えることが出来るとは思ってもみなかった。


 自分はきっと、ろくでもない消え方をするだろうなと自分を嘲ってばかりいたから、この成し遂げたという感覚を胸に抱いて消えることが叶うのは、思いのほか心地の良い誤算だった。


「……いや、成し遂げてねぇけどな」


 アーヴィングは自分で言って、笑った。


 崩壊を待つばかりの天井をいつまでも見ている必要はなく、自分がここまで連れてきた人間の子供の顔を頭に浮かべて、ひっそりと目を瞑る。


 ジャンは、これからどうするのだろうか。一人で旅を続けるのか、それとも家族の元に帰るのか。今のジャンならばそのどちらも選べるだろう。旅に必要な知識の大概は叩きこんでおいたし、このまま次の街へ行くことも、家族の待つ家へ帰ることも一人でこなすだろう。


 どちらにしろ、短い時を共にしていた魔王の事なども、忘れてしまうか、あっという間にうろ覚えの思い出にしてしまうに違いない。ある意味それは、アーヴィングの望んだことでもあった。別に消滅を憐れんでほしいとは考えないし、寧ろ自分らしく、後腐れのない消え方でいいかと思っていた。


 だが……。


「……はっ、いまさら、欲が出てきやがった」


 ジャンにもう少し、いろんなことを教えてやってもいいと考えている自分がいる。アーヴィングはだらりと開かれていた手を、その熱を取り戻したように固く握り締めた。


 男と再び戦う直前、ジャンから嘘吐きと言われた。自分を勇者にしてくれると言ったのに。責めるようにこうも言われた。魔王なのだから嘘などついて然りだが、ちんけに嘘吐き呼ばわりされたままなのは、なるほど気分の良いものではない。


 岩のはがれる音が絶えず轟く。頬に天井からの岩くずが雨のように落ちてきて少し痛い。本格的な崩壊の前兆が見えだした。このままここに埋もれてしまうのか。その覚悟は固めて筈なのに、ジャンとの新鮮な日々を思い返すと虚しさが胸を通り抜けた。それがもう終わりなのだと思ったら、途方もない感覚に襲われて身震いがした。


「悪いな……ジャン……」


 岩の雪崩れる音が、その微かな呟きなどかき消してしまった。宙に漂う魔力をある程度体に集めて、その体を癒す過程に強制的に突入してしまったアーヴィングは、頭が命じるままに、意識の底に沈むようにして薄らいだ目蓋を閉じる。手足の先から体の感覚が失せてゆくのを虚ろな思考の中で感じる。水の上に浮いたような、そんな酔狂な夢心地に陥ってしまう。


 その中で、最後までジャンに付き合えない事を悔やんだ。このまま影となって消えてしまう、暗い目蓋の裏に悪夢のようにそれを感じる。崩れゆく洞窟、それに伴い自分の消滅が近づいていることが悔しくなってくる。


 だが、ジャンは言った。「諦めちゃダメだよっ!」、幼い必死さで、消滅を安易に受け入れようとしていた自分を叱咤していたっけか。


「……だよな、諦めんのは……」


 殆ど失われたおぼろげな意識の中で、それでもアーヴィングの唇は囁いた。


 崩壊は止まらない、辺りには巨大な岩石が降り注ぎ、絶え間なく壁がひび割れて、身体を揺さぶってくる地響きは収まるところを知らない。岩と岩がぶつかりあう騒音が満ち、壁に並ぶ蝋燭の灯がいよいよ消えた。終わりへの数え歌のように崩壊の音が止まなかった空間が、いよいよその時を告げるかのように一瞬で闇に閉ざされる。



 間もなくして、音が止む。洞窟が崩れ去った。

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