3.白の男



『なぜ、影が白いのか?


なぜ、魔物ですらないのか?

なぜ、影から生まれておきながら?

問われても、この影には返す言葉はない。


 この影は、失敗作。だが生まれ堕ちた以上、今更魔王は望めない。こんなものなど幻の偶像で、吹いては立ち去る雲でしかない。

この失敗作は、鏡を睨む。己が何かもわからないので、何から始めればいいのか、何が始まりかもわからない。


 とにかく、もう人でないことはわかったので、まずは他の名前を奪うことから始めたようだ』





 洞窟を進む《彼》の足に迷いはない。あの影を見間違えようがない。忘れようがない。


 その気配の主を、自分はいよいよにして追い詰めている。もう、目の前だ。仕留めるべき相手に追い付いて心が滾るのがよく分かった。


「よぉ、久しぶりだな、コソ泥野郎」


 岩肌の闇の中をしばらく歩けば、光景は一変し、白い光で淡く輝く石造りの広い空間が広がった。


 壁には火の灯った蝋燭が立てられ、周囲を明るく照らしている。


 空間には、だれもいない。だが《彼》は鼻をふかして笑った。


「はっ、奪ったのは俺だけじゃなかったのか? んで、こんなド田舎の洞穴でビビって隠れてたわけか」


 罠や不意打ちなどに臆することなく踏み込む。すると、不自然な煌きを見つけて《彼》は目を細めた。


 映ったのは、己の顔。


 鏡だ。洞窟の壁の至るところに、大小様々な姿見が立てかけられている。金銀を惜しみなくあしらった細やかな装飾は、どれもこれもが決して安物ではないことを伺わせる。


 鏡に、顔が映る。《彼》は自身の顔を凝視した。


 その隣に、ふわりと白い影。


「どれもいい品だろう? 鏡を見ると、落ち着くんだがな。やはり抜け殻如きをここに招くんじゃなかった。ぐちぐちとやかましくて叶わない」


 振り返ろうが、その姿は捉えられなかった。《彼》は苛立ち紛れにその鏡を叩き割り、周囲を見渡す。


 今、久方ぶりに聞いた声。その主を見つけ、叩き潰すめに。


「お前を認識したのは、ほんの偶然だ。新たな名を得た魔王を見張っておいたのが、まさかお前を見かける事になるとは」


 どこからともなく響く言葉の途中。《彼》は目の前の鏡を更に蹴り破った。


 破片が散り、それら全てに、《彼》の冷ややかな瞳が映る。未だ見つけられぬその姿へ執念を燃やし、細めた目で周囲を探りつつ、唸るように威圧する。


「出て来やがれっ!」


「遊んでやってもいいが、抜け殻を処分したところで、こちらに利はないんだがな?」


「ここで俺を消せば、俺の作った勇者に消されなくて済むかもな」


「ふっ。なるほどな。バカバカしいが、一理あると乗ってやろうか」


 数枚を怒りのはけ口にしてみても、鏡は他にいくらでもあった。怒りに囚われ雁字搦めの姿を嘲笑するかのように《彼》を映す鏡。苛立ち引きつった《彼》の顔を黙々と映している。


 《彼》はその鏡を訝しげに睨み、鏡は己に映した《彼》の姿で、《彼》を訝しげに睨み返す。


 《彼》の背後に、白髪の男の顔が映った。





 殆ど見えない視界の中。壁を頼りに、一歩、また一歩と足を進める。


 ジャンとしてはなるべく急ぎたかったのだが、ランタンや松明など気の利いたものは持ち合わせてなくて、洞窟さながらの足場の不安定さと薄暗さで次に踏む一歩を探るのにすら苦労した。


 壁に手を這わせているからわかる。壁も地面も岩礁のように刺々しく、そんなやすりのような岩場で膝をすりむけば、皮が抉れ出血必至なのは勿論、極めて直りの遅い傷となるだろう。


(!)


 だと考えていたのだが、ジャンはそれでもかまわずに走り出した。向かう先にほんのりと橙の光が見えたのだ。そして何やら声が反響してくる。


 誰かがいるのは明確だった。ジャンはそのまま中に飛び込もうとしたが、その寸前、光の向こう側からした破壊の音に背筋が縮こまった。途端に足を止めると洞窟の壁に隠れ、そこから中の様子を恐る恐る覗き込む。


 中の様子に、広がった光景に、ジャンはたまらず驚愕した。


 そこは洞窟の内部とは思えないほどに天井が高く広々とした空洞で、丁寧に削られた岩の壁には蝋燭、そして精巧な細工の鏡がずらりと並んでおり、それらがこの空間一体を眩く照らしていた。


「っ!!?」 


 また、破壊音だ。ジャンは咄嗟に身を引き壁に身をひそめ、それからまた、慎重に中の様子を伺いにかかる。


 先程の音は、振り下ろされた巨大な鉈が岩を粉砕した音だった。


 つい先程にも見かけたばかりの謎の白髪の男が、身の竦むような嘲笑をその顔に張り付けながら鉈を握っており、岩の瓦礫の中からそれを引き戻すと、勢い鋭く駆けだした。


 まさか……ジャンが予感しつつも、その姿を目で追っていると。


(マオウさんっ!!)


 ジャンは咄嗟に口を押え、声をあげそうになった自分を寸前で諌める。声を荒げる男の向かう先に、それを迎え撃つようにして《彼》は立っていた。


 その表情は、極めて険しい。いままで《彼》と共にいて、今までずっと見てきた余裕そうな態度が完膚なきまでに失せていて、ジャンはその形相に息が詰まる思いだった。


 《彼》と、謎の男が敵対している。歯をぎしりと噛みしめ、振り下ろされる鉈を身を翻して避けている。《彼》が本気で戦っているのは、しかもそれが《彼》にとって有利な状況でないのは、ここから見ているだけでもすぐに分かった。


「名を失った状態で勝てるとでも? 抜け殻の癖に威勢だけは一丁前だな」


「はっ、その抜け殻相手に逃げたのはどこのどいつだ! ビビり虫がっ!」


 苛立ちを吐き散らかして、《彼》は飛び掛かった。男はすかさず飛び退いて、《彼》の拳はその背後にあった岩を軽く粉砕した。


 舌打ちをうった《彼》は尚も、威嚇するように翼を大きく広げ、男に雪崩れ込むように踊りかかった。岩を砕く殴打に長い足で繰り出す蹴り、《彼》は休む暇を与えず次々と攻撃を繰り出したが、それら全てを男は鼻で一笑し、鉈を用いて紙一重で避けたり防いだりしまう。


 見ているだけで頬に冷や汗が滴るような攻防を、ジャンは自分の服の裾をしわになるほどに強く掴んで見守っていた。激闘の最中、男からの鉈による斬撃がかかってきたところで、《彼》は強く地面を蹴りあげた。身軽な駆動で宙返って回避する最中、《彼》はズボンに垂れた装飾の鎖を掴み、縄のようにして放つ。それはあたかも意思を持った蛇のように男へと向かうと、瞬く間にその胴体と腕を一纏めに縛り上げた。


 ジャンは心の内でやったと拳を握る。しかしそれは違うのだと、すぐに思い知らされる。着地して握った鎖を引き、男を腕ごと拘束しても《彼》の表情は苦いし、息も少し荒れている。


 逆に男の顔には、まるで見せつけるかのような余裕が浮かんでいた。


「必死だな、あのガキに、本当に俺が倒せると思うのか?」


「言ってろ。この俺が必ず仕上げてやるよ」


 鋭い目つきで《彼》は言う。ジャンはそれを、激しい動揺の中で聞いていた。


 《彼》は黒い羽を何本か手にし、ダーツを飛ばすようにして放った。それは弓ではじかれた矢のように直線的に飛び、鋭利な切っ先で突き刺そうと男を狙う。


 その瞬間、男は身じろぎしたかと思えば、その身を縛っていた鎖が音を立ててはじけ飛んだ。間もなくして男は、担いでいた鉈を盾にして羽の矢を防ぐ。結果、金属が叩き合う音が響くだけで、羽は敢え無く、ふわりと男の足元に散ってしまう。


 地面に立てた鉈を担ぎ直して、にんまりと口元を緩める。そしてゆっくりと顔を上げた。


 しかしそこに、《彼》の姿はない。


「はっ、魔王相手に油断したのが運の尽きだったな」


「ぐっ!?」


 男が表情を変えた時には、その首に背後から《彼》の腕が巻き付いていた。不意を突くように首を絞められ、苦悶の様子で目を振り絞っている。《彼》が本気で力を込めているのは半袖だからこそよく分かった。男を締め上げるその腕は小刻みに震えて引き締まり、筋肉の形と血管が皮膚の下から浮き出ている。


「はっ、なんならこのまま、消してやろうか?」


「……調子に乗るなよ」


「あぁ?」


 男が低く唸る。その台詞に《彼》が顔をしかめた瞬間。


「っぁ!?」


 男が手を振った。次の瞬間には《彼》の顔に降りかかる白い物質。粉かカビの胞子かも分からないそれは、しかし不意を突いて顔に浴びせられれば、《彼》を怯ませ隙を生み出すには十分だった。


 ジャンは咄嗟に声を掛けようとしたが、喉が震え、唇を開くのみに終わってしまった。拘束する腕の力が緩んだ瞬間に、男は《彼》の脇腹に肘を打ちいれる。途端に滞った呼吸に《彼》が目を見開いた隙を見逃さず、その腕を掴み、引き摺るようにして地面へと叩きつけた。


 地面に頬を擦り付け、砂埃で汚れた《彼》の顔には悔しさがみなぎっている。男は足を上げると、震える腕で立ち上がろうとしたその背中を、骨まで砕かんとする勢いで容赦なく踏みつけた。


「ぐあぁっ!!」


「何故、俺がお前たち抜け殻どもを消さないでおいたのか、教えてやろうか?」


 衝撃が腹の中にまで轟いたような、悲痛な叫びが唾と共に《彼》の喉から飛び出てきた。生まれてこのかた聞いたことの無いような誰かが悶え苦しむ声に、ジャンはたまらず目を瞑ってしまう。


 すると、荒れた息使いが聞こえてきて、ゆっくりと目蓋を開く。《彼》は苦しげに咳き込みながら、それでも自分を足蹴にしている男を激しく睨み付け、地面に爪を立てていた。


 男はその猛然と向けられる敵意を軽く鼻で笑うと、口を開く。


「お前たちを消すと、折角お前たちから奪った名と、その魔力まで消えてしまうからだ」


 《彼》の背を踏みつけたまま、男はまるで勝利に酔いしれた、敗者をこけにする声でそんなことを述べる。聞いたジャンは、しかしその訳の分からない事情よりも、まともに身動きの取れない《彼》ばかりを見つめていた。口を抑え、そんな《彼》に何かをしようとしている不吉な男の手に意識を向ける。


 一体何をしようというのか。祈る思いでジャンはそれを目の当たりにしていると、男は愉しそうに笑って《彼》の翼を乱暴に鷲掴む。轟々と怒りを燃やしている《彼》の睨み付けに構わず、男はその黒い羽を、あたかも雑草を引き抜くかのような気軽さで、無慈悲にむしり取った。


「ぐああぁっ!!」


 耳をつんざくような、激痛の訴えが洞窟に轟いた。


 《彼》は限界まで見開かれた目で暴れ出したが、男は頑なにその背を踏みつけ、《彼》を地面に張り付け続ける。体を捻ることも、のた打ち回る事すらできず、《彼》は頬を地面に擦り付け、痛みを噛みしめているしかない。


 ジャンは「ひっ!」と怯んで、肩を抱いて縮こまった。


 だが響いた悲鳴に火がついたらしく、男はその無慈悲な作業を休めなかった。


「だが、お前ひとり消したところで」


「がああっ……! あぁっ!!」


「無数に奪った名の一つが消える程度」


「ぐあ……が……っ!」


「本当に、俺に勝てると思ったのか? 無数の魔王の名と魔力を持ったこの俺に?」


 単なる傍観者にすぎないジャンにとって、視界に広がる光景はおぞましく、凄惨だった。狂気そのものの顔をした男は言葉の途中にて、息を吸うついでに《彼》の羽をちぎっては捨て、ちぎっては捨てる。繰り返される苛虐に《彼》が激痛にまみれた悲鳴を張り上げると、男はますます恍惚の笑みを浮かべ、そのペースは更に加速した。


 続く拷問と、苦痛の叫び。腰が竦んで立っていられなくなりジャンがその場にへたり込んだ頃には、痛みを散々に叫び尽くした《彼》の声はかすれきって、二人の周囲には、鶏をさばいた後のように赤の滴と黒の羽がごみくずのように散らかされていた。ぼろぼろになった二折の翼はその両方があらぬ方向に折れ曲がっており、掻き乱された羽しか残っていない。


 ジャンは滴を浮かべた瞳で、その光景の結末を今一度確認した。《彼》は地面に顔をつけて、動かなくなっていた。まだ生きているのか、……死んでしまったのか、そればかりは近くに寄らなければ分からない。だが、自分に翼はなくとも、あの喉を捻り潰すかのような悲鳴、そして生々しい羽をもぐ音を聞けば、男の仕打ちが尋常でない苦痛に値するとは想像に容易かった。


 そこまでに至って、やっと男は満足したように《彼》の背から足をどけた。ぐったりと横たわる《彼》を男は静かに蹴って転がすと、口が半分ほど開かれたままの、生気を感じない《彼》の表情が露わになった。


「そんな……マオウさん……」


 男に嬲られたその姿に、しかと目の当たりにした結末に、ジャンの目から一滴、また一滴と、温い感触が零れ出て頬を伝った。あの男は一体なんなのだ。どうして《彼》があんな目に遭っているのか。あのような姿になっているのか。まだ自分は勇者にしてもらっていない。一緒に遊ぶことも、《彼》の名を呼ぶことすらもしていない。まだまだ旅は続くはずなのに、それなのに、どうして?


 どうして、自分は見ているだけだったのか? こぼれ出る涙が突き刺すように胸を責めたてる。だが、自問自答の必要などなく、その答えは既にジャンの中にあった。


 怖かったからだ。《彼》が劣勢に陥っても、羽をもがれて苦しんだとしても、頭のおかしいあの男が、そして苦しみもがく《彼》の様すらも怖くて恐ろしくて、どうしようもなかったのだ。腰が砕けて立つことも出来なかったのだ。今も全身が震えすぎて痺れてしまい、涙をふき取る事すらも出来ないのだ。


「だって……だって……」


 《彼》が負ける姿など、想像もしなかった。常に強気で、偉そうで、少し怖くてイジワルで、けれども魔物との戦いでピンチになればいつも割って入ってくれる。分からないことを質問すれば、髪をかいて面倒臭そうにしながらも、きちんと納得するまで教えてくれた。


 《彼》が負けるだなんて、あんな目に遭う姿など、とても考えられなかったのだ。一目見て、あの男は怪しい人だとは察していた。だが、追いかけていった《彼》がそれに屈するとまでは察せなかった。こうなる事が分かっていたならば、当たり前だがこんな洞窟に入ることなど止めていたに決まっている。そう、分かっていたなら、例え怒鳴られようとも殴られようとも、《彼》の服をつかんで離さなかった筈なのだ。


 だが、何もかももう遅い。《彼》はあんな姿になってしまった。殺されたか、間もなく殺される。理由など知らない。今更あの男が残虐の手を緩めるなどしてくれるはずがない。そして次は自分だ。ここにいればあの男にいつかは見つかり、そして殺されてしまうのだ。


「…………?」


 ジャンはとめどなく溢れ出す涙をぬぐうことなく、潤んだ視界で地面ばかりを見て、後悔と自責の念にズボンを握りしめた。


 救いのかけらも見えない絶望に頭をふらつかせていれば、朦朧とした意識の中で気付いた。いつからかポケットにねじ込まれていた、何かの感触。


 そんなものには、今の気分の前には興味すらわかなかった。だから、本当に無意識の行動だったのかも知れない。


 ジャンは力の抜けきった手を動かし、それを取り出してみる。しわだらけで、ざらざらした触り心地の封筒であった。ジャンはやっと涙をぬぐい取り、それをよく見てみれば、既に封が開けられた形跡があり、炎であぶったらしく隅が少し焦げている。


 そこで、ジャンの意識がやっとそれに興味を抱き始めた。


 それは姉からの返事であった。元々はこれほどのしわなど無かったはずの封筒を見て、思い出す。確か自分は手紙を持ったまま、あの激しい濁流へと転落したのだ。


 しかし、その手紙は、読むだけならばインクが少しぼやけている程度で、宛先もはっきりと視認出来た。間違いなく、濡れてから間もないタイミングで誰かが乾かしてくれたに違いない。


「……マオウさん、が……?」


 《彼》がそういう気遣いとは無縁に近い性格をしているのは承知している。だがジャンは間違いなく《彼》だと思えた。ロジエかバロックだという可能性もない訳では無い、だが、この姉からの手紙の存在を知っているのは《彼》だけだ。自分が姉からの手紙を楽しみにしていたことも、それをまだ読んでいなかったことも《彼》しか知らない。でなければ、すぐに手紙の存在に気付き、乾かすまでに気を回すのはほぼ不可能だろう。


 まさかの意外さでジャンは驚愕した。そして手が動いて、封を破っていた。《彼》はそれらしいことなど一言も口にしてはいなかったが、おそらく真っ先に手紙を炎であぶって乾かし、わざわざ封をし直して、自分が寝ている間にポケットへと忍ばせてくれたのだろう。


 ジャンは震える指先で封を開き、二つ折りの手紙を取り出して開いた。


 それもやはりしわだらけで、隅が少し焦げている。





 ジャンへ。


 ジャンからのお手紙読みました。到着が遅れたらしく、こちらには二通まとめて届いたのですが、旅人郵便を利用すればままある事なので、どうか心配しないでください。


 私たちは新しい街でも元気に暮らしています。ジュリも元気を取り戻して、自分から家の事を手伝ってくれるようになりました。ジャンも元気に頑張っているのでしょうか? 姿を見られないのはとても寂しいですが、ジャンの成長ぶりを確認するのは、ジャンが私たち家族の元に帰ってきたときの楽しみにしておきます。


 それから。魔者の彼は元気にしていますか? 私はそれが少し気になります。彼の心を気にしてあげていますか? 魔者が人の世界で暮らすのは、ジャンが思っているより遥かに苦しい事かもしれません。街は人ばかりでうんざりするかもしれないし、食事が口に合わなかったりするかもしれない。


 それでも、人の世界には、実は沢山の魔者が住んでいます。


 勿論その中には人にとって害をなす存在もあります。だから私は戸惑ったけれど、彼を信じたジャンの心を信じることにしました。私にも、良くしてくれた魔者の知り合いはいます。それに彼との事を、お兄さんが出来たみたい、と、とても楽しそうに書いていたのだから、ジャンは心から彼を信じ、とても慕っているのだと思いました。


 最後に。私はいつでもジャンの味方です。だから、忘れないで。この手紙のやり取りがいつか途切れてしまうのではと毎日心配していることを。あなたに降りかかる不幸は、そのまま私たちを不幸にすることを。


 どうか、己の戦いに酔うような勇者にはならない下さい。



 あなたの家族 メイアより





「ぐぅっ……!」


 ジャンが手紙を読み終えたと同時に、小さい呻きが聞こえた。


 岩の壁の陰からまた覗き込めば、男が《彼》の腹を踏みつけていた。その手には鉈を握っていて、切っ先を《彼》の首へと向けている。


 とどめだ。そう告げんばかりに男は嗜虐的な笑みを浮かべ、断頭の一撃を落とす場所を見定めている。茫然と目蓋を閉じている《彼》に、抵抗する気力が残されているようには見えなかった。


「マオウさんっ!!」


 武器すらない自分が行って、何ができるのか、そんなことまでは考えられなかった。


 ただ、《彼》を助けてあげたい。先程までとは一転、生まれたその思いが体の震えを止め、恐怖に掬われていた足取りを軽くした。


 この手紙を読んでよかった。でなければ、自分はいつまでもここに隠れて、男の残虐さの前に身を震わせているばかりだったろう。

 拳を握り、ジャンは駆け出した。その目から溢れていた涙は、すっかり干上がっている。


 やや赤く腫れぼった目で男を睨み付け、蝋燭の灯が照らす空洞へと飛び込んだ。その傍にまで猛然と距離を詰めると、腕を大きく振りかぶる。


「マオウさんから、離れろっ!」


「ほう、いたのか」


「ジャ……ン……」


 どれだけジャンが敵意を纏って迫っても、男は顔色一つ変えない。さっそく地を蹴って上段から繰り出したジャンの拳を、男は《彼》の首に突き付けていた鉈を持ち上げ、身を翻す。がむしゃらな突進でバランスを崩しかけたジャンに、《彼》がうっすらと目蓋を開き、擦れた呻きを漏らす。


 軽々しい笑みで余裕ぶる男を睨みつつも、ジャンはちらと目をやってみた。近くで《彼》の有様を見て、改めて息を呑む。爪は割れ、腕は青あざと傷だらけ。頬は土汚れにまみれ、翼は無残にむしりとられており、今も男に腹を踏まれたままで横たわっている。


 だが、生きている。


 その事実に、未だ目の前の男が健在とはいえ、ジャンは安堵を隠せなかった。


「分身が相手ではちょっかい程度にもならんか、少しは出来るらしい」


「そんなのどうでもいい! なんで……マオウさんにこんな事するんだよっ!」


 入口の周りにいたトカゲのような魔物について男は言っているのだ。ジャンは大きく首を振り、威勢よく声を荒げた。


 男はそれすらも面白そうに、ジャンの怒りを鼻で嘲笑して、逆に問いを返してきた。


「お前こそ、どうしてコイツの言うことを聞く? 何か甘い言葉でも掛けられたのか?」


「っ!!」


 ジャンは歯ぎしりした。


 男の言葉は、まるでこちらの心を見透かしているかのようで気味が悪かった。


「忘れているようだが、コイツは魔王だぞ。何を吹きこまれたのかは知らんが、その言葉を嘘だとは思わなかったのか? 魔王を庇うなど、子供だからと許される罪ではないぞ? なにより、魔王とはお前たち人間の永遠の脅威だ。それを分かっているのか?」


 話を大題的に繰り広げ、聞く者の不愉快さなど意に介せずに男は喋り続ける。懐柔するような言い口でいくら言葉を並べても、ジャンは男を強く睨み付け、絶対の拒絶を顔で示してみせた。


 すると、男は呆れたように小さく嘆息をつく。構えていた鉈を降ろし、あろうことか、空いている片方の手をひらつかせてきた。


「俺は今気分がいい。お前だけは見逃してやろう。俺がこの魔王の首を落とすところを黙って見ているがいい。

 それとも、お前がやるか? そうすれば、晴れてお前は本物の勇者になれるぞ?」


 言うと、男は鉈を持ち替え、その柄を突き出してきた。自分では到底持てないような大柄の鉈を前にして、そして自分の事を敵であるとすら思っていないその対応に、ジャンは一歩後ずさった。


 背筋が凍るような思いで、ジャンは《彼》へと向いた。《彼》の目が見開いているのが見える。この男は一体何を言っているのだと言わんばかりの顔をしていて、しかし声を張り上げるような余力もなく、男の笑みをただただ目の当たりにしているようだった。


「さぁ、選ぶがいい。ここには俺達しかいない。裏切りも恥ずべきことも何もない」


「っ!!」


 男が更に鉈の柄を突き出してくる。ジャンはもう立ち止まっていられなくなり、高く声をあげてまた拳を突き出した。


 不意を突いたはずが、それが分かっていたかのように男は柄を差し出していた鉈を瞬時に持ち直し、片手で手繰ると、それを軽くいなしてしまう。


 鉈を振られ、ジャンは慌てて腕を引っ込めた。


「バカなヤツだ。人間が魔王に肩入れするとはな」


「でもっ、マオウさんはいい人だっ! だから俺がっ!」


「全く、青臭い」


 急に男の口元に悠々とした笑みが浮かんで、それに危険を感じ取ったジャンは後ろに跳んで距離を稼いだ。


「なら、死の向こう側で後悔するがいい。このような愚か者を信じたがために、お前はその命を落とすのだ」


「っ!!」


 ぴたり。


 足に何かが張り付く感覚がした。ジャンは反射的に足元に目を落とす。


 白い綿状の、カビのようなものが靴の底から這うようにせりあがってくる。咄嗟にその場から逃げようとしたが、何度後ろへ足を踏み出そうとしても、まるで根を張ったように足が地面から剥がれない事に気が付いた。


 もはや靴を脱いでしまうしかないと思い立った時には、既に膝ほどまでに綿状のそれが侵食してきている。素肌の上にカビが生えてくるような、綿に全身が呑み込まれてゆくような怖気の走る感触と光景に、ジャンは表情を青く引きつらせた。


 男が鉈を肩に担いで、悠々と歩み寄ってくる。その顔には嗜虐の微笑。まずい。このままでは……。焦燥のあまりジャンは逃れようと必死に暴れたが、尚も浸食を続ける綿によって既に下半身の殆どが固定され、まともな身動きすらも叶わなくなっていた。


「なんだ、その目は?」


 いよいよ目の前にまで迫った男を前にして、ジャンは背筋を走る恐怖を、力強く拳を握って払拭した。徹底抗戦の揺るがぬ意思を瞳に浮かべ、対抗するように顔を上げて睨み付ける。


 男はジャンの存外な様子に納得していないらしく、不服げに首を振った。


 男の目には、《彼》を嬲っていた時程の熾烈さはないが、首筋に刃物を突き付けられているような静かな恐怖を感じた。


「そんな首を落としてもつまらん。まずは、その表情を歪めてやろう」


「うわっ……」


 つまらなそうな言い口と共に、男の大きな手が伸びてきた。逃げたくても逃げられない状況で、広げられた指が眼前にまで迫ってきて、ジャンはギュッと目を瞑った。



――その時。


「!!?」


 突如、ジャンの視界が暗転する。


 しかし、気を失ったのではなく、手足の感覚や思考は驚くほどに鮮明だった。


「ちっ、あの魔王、まだこんな力が……」


 闇の中で、舌打ちとそんな声がこだました。変わらず目の前にはあの男がいるらしい。ただ、闇に紛れてしまいその姿は全く視認できない。


 危機一髪で助かったものの、別の不安でジャンは周囲を見渡した。洞窟を通る風の音。それから微かな煙の臭いが鼻をつく。この空間を照らしていた蝋燭の火が全て消えてしまったらしい。


 ここが洞窟の奥だとは知っていたが、灯りが無ければここまで暗い空間だったのか。男や《彼》の姿などの全てが闇に閉ざされ見えなくなってしまい、拘束されているのでその場を動くことすらもできない。


 ドガッ!


「うわっ!?」


 かなり近い場所で、岩を粉砕する衝撃音。その後、ジャンはふわりと身体が浮きあがる感覚を覚えた。


 胸のあたりを抱きかかえられ、自分の身体がいずこかへ連れ去られているのが分かる。

唐突な出来事だったが、しかしジャンは安堵した。髪が風になびく感触を感じながら、されるがままになって暗闇の中で耳を澄ませる。


 やはり、そうだ。頭上から荒い息遣いが聞こえてきた。


「逃がすかっ!!」


 大分離れてしまったらしい場所から、男の声が悔しそうにこだましてきて、ジャンは一先ず嘆息をついた。

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