2.勇者への夢



 何年か前。ロジエは父親と共にジャンの住んでいた村にやって来た。


 同世代の友達があまりいなかったジャンはロジエを見かけるとすぐに話しかけ、臆病なロジエは最初は渋って父親の影に隠れていたが、すぐに仲良くなって一緒に村の中を走り回った。ロジエの父親は旅の途中で休む為にこの村に立ち寄ったそうなのだが、生憎と村の中に宿屋はなく、困っていたロジエの父親に、ジャンとロジエが仲良くなったのを知ったメイアが提案して、数日間だけロジエとロジエの父親が家に泊まったのをジャンはよく覚えている。


 暫くして、ロジエは父親と共に村を出て、次の街へと行ってしまった。その時は互いに寂しさのあまり泣きだしてしまったのだが、まさかこんな所で再開できるとは思いもしなかった。





「ロジエッ!」


「……あっ、ジャン!」


 振り向いたロジエは、背が伸びて顔つきも少し変わっていた。それでもロジエだと分かる。ジャンは昔のままの気分で、手を振りながら駆け寄った。


 振り返ったロジエも、嬉々として手を振り返してくれている。


「久しぶりだなー! 元気だったか?」


「ジャンこそ、びしょ濡れで気を失ってたからびっくりしたよ」


「はは……ちょっと川に落ちちゃって……」


 川に落ちたのは完全に自分の失態だ。それを思うと照れくさくて、ジャンは鼻をかきながら礼を述べた。纏う雰囲気も静かな物言いも最後に別れた時のままで、ロジエの気心は知れているから全く嫌な気分はしない。


 すると、ロジエは振り向いて、気まずそうに目を上げる。ロジエの背後には、背が高くがっしりとした体の大人が、少し厳めしい顔つきで腕組みをして立っていた。


「バロック先生、……稽古の続き、明日でもいい?」


 ロジエが嘆願するように呟くと、バロックと呼ばれた大人はしかめた表情を崩し、溜息を吐いた。


「……まぁいいだろう。だがロジエ、家族にゲーテの放牧を頼まれていたんじゃないのか?」


「あっ……そうだった」


 ロジエははっとして、家の隣にある、横長の大きな建築を見つめた。付近に積まれた薪や干し草、そして外観は村にいた時にも見覚えがあり、きっと何かの畜舎であろうとジャンはあたりをつけた。


「俺は向こうにいる、ゲーテが言うことを聞かなかったら呼べ」


 何やら言い残されたロジエは頷き、バロックは背を向けて歩いて行った。


「なぁ、今から何かするのか?」


「ゲーテを小屋から出すんだ、ジャンも一緒にやろうよ」


「ゲーテ?」


 聞き慣れない単語にジャンは首を傾げたが、尋ねるより先にロジエが手を引っ張ってきたので、それにつられるよう、ジャンは建築に向かって歩き出した。





 ロジエはやや錆びついた大きな扉の楔を外すと、子供が入れる程度に扉を開けてジャンをその中へと案内した。中は穏やかな獣の鳴き声と、少し鼻の先に引っかかる干し草の匂いが充満していた。


「ゲーテってあれの事か?」


「うん、そうだよ」


 住処を分けるよう張り巡らされた柵の向こうに、見たことの無い生き物を見つけてジャンは柵に飛びついた。ロジエはその柵の扉から栓を抜き取りながら答える。


 ジャンの視線の先には、全身が茶色の毛で覆われ、牛と猪を合わせたような姿をした、大柄な獣が干し草の上に寝転んでいた。不可解なその姿を今まで見たことはなく、周囲を見渡してみれば、他の柵の中にも同様の獣の姿が見て取れる。


「知らない? ミルクを絞るんだ。死んじゃったら影に戻るから、肉を食べることは出来ないけど」


「あれ……普通の動物じゃなくて、家畜魔だよな?」


 尋ねるとロジエは頷き、慣れた手つきで次々と柵の扉を開いてゆく。ジャンは呆気にとられながらも、見よう見まねで他の柵の栓を抜くのを手伝った。


 人の生活に密接に根付いた魔物を、魔物と呼ぶことは少ない。そういった魔物は『家畜魔』と呼ばれ、手懐けるのは難しいが、普通の家畜より頑丈で育てる利益も大きいから、その魔物を御し切れる人たちからは重宝されている、らしい。


 ジャンはぼんやりと、いつかの《彼》がしてくれた話を思い出していた。旅の道中に訪れた街で押し車を引く家畜魔を見かけたことがあり、その風貌に背筋を震わせながらも《彼》に聞いてみると、面倒くさそうにしながらもそのことを教えてくれたのだ。


 考えながらも、ロジエと二人掛りで全ての柵の扉を開く。と、ロジエは入り口の近くにあった大きめのベルを取り、高らかにかざして振り始める。ジャンはその隣で、軽快な音色が畜舎にこだまするのを見守った。


 暫くして、ゲーテたちは緩慢な動作で各々の柵の開きっぱなされた扉を潜り、ベルの音が鳴る入り口の方へと移動を始めた。ベルの音が合図になるよう躾けてあるらしい。


「そういえば、ジャンはどうしてここに? お姉さんは?」


 ゲーテたちが問題なく動き出したのを見て、ロジエはベルを元の場所に戻すと、畜舎の入り口をより大きく開きながら尋ねてきた。ジャンもそれを手伝いながら、自分のこれまでの軌跡を思い返しつつ口を開く。自分たちの住んでいた村が魔物に襲われて無くなってしまったこと、家族は他の村に引っ越したこと。そして自分は今、勇者を目指して旅をしていること。


 聞いたロジエは、やはり驚いているようだった。


「そっか……家族がいないと寂しいよね」


「うん。でもマオウさんがいるから大丈夫だけどな」


 開き切った扉から次々とゲーテが解き放たれてゆくのを見つめながら、ジャンはロジエに向ける為の笑みを取り繕った。


「マオウさんって、ジャンと一緒にいたあの人?」


「あぁ、剣の使い方とか旅の事とか教えてくれるんだぜ」


「そうなんだ、じゃあ僕と一緒だね」


「うん……って、ええっ!?」


 さも当たり前のように言うものだから目を見開いてしまった。ロジエに悪気はなかったようだが、ジャンのその顔を見て可笑しそうに笑っていた。


 魔王? あの人も?


「さっき会ったでしょ。バロック先生も魔王なんだって。すごく強くて、いつも稽古をつけてくれるんだ。ちょっと厳しいけどね」


(結構、多いんだな……)


 今更、魔王が人の姿をしていることに驚きなどないが、それでも、先程の人がまさか魔王であったという事実に空いた口をふさげないでいた。他にもいたのか。そういえば旅人郵便のシガラグからも名無しの魔王が巷の噂になっているという話をいつかに聞いた。最初、魔王という単語には畏怖ばかりが募っていた筈なのに、ずっと《彼》に振り回されていれば、えらく身近なものに思えてしまう。


 それを思うと苦笑いがこみ上げたが、ふと、ジャンは考えに耽った。


 どうして、《彼》だけには名前がないのだろう。本人は確か、奪われたと言っていた。


「ジャン、どうかした?」


「え?」


 はっとして振り向くと、ロジエが心配そうに見つめてきていた。大丈夫? と続けられたあたり、まだ体調がすぐれていないと思われているらしかった。


「な、なんでもねぇよ、それより、ロジエはいつもこんなことやってるのか?」


 心配させるのは悪かったので、ジャンは一先ずその疑問を頭の片隅に追いやって、広々とした草原に放たれて思い思いに草を頬張っているゲーテたちを眺めながら尋ねてみた。


 いきなりの話題の転化にロジエは首を傾げたが、間もなくして口を開く。


「うん、家は一応、格闘術の道場なんだけど……なかなかお弟子さんが来ないから、それとは別にゲーテのミルクを作って売ってるんだ。その手伝い」


 それは初耳だった。家が道場をやっているというのにはピンとこないが、なんとなく強くてカッコいいイメージがある。


「じゃあ、ロジエもこう……格闘のワザとか得意なんだ?」


「う、うん……」


 ジャンは悪戯気に笑って拳を突き出すふりをしてみたが、ロジエは何故だか後ろめたそうにして語気を弱めた。


「どうしたんだよ、ひょっとしてロジエはやってないのか?」


「ううん。でも僕、兄弟の中で一番弱いし、怖がりだから、格闘家にはなれないかもしれない……」


 疲れた表情で俯いたロジエは、そこいらで拾った枝きれで地面をほじくりながら呟き始める。


「昔からそうなんだ。一人じゃ何もできない。少しでも強くなろうとして、お父さんの武者修行に連れて行ってもらったりしたけど、結局何も変わらなかった……」


 のびのびと草原を満喫しているゲーテたちを見つめるその目はどこか儚げで、本当にゲーテを見ているのかすら微妙だった。弱気が過ぎるとはとても口にできない。ロジエにとっては深刻な悩みだと思ったから、ジャンは隣で黙って聞いていた。





「何、呆けてんだ」


 特にすることも無く、ジャンたちの光景を離れた場所から眺めていた《彼》は、隣にいる、驚いた様子で口を少し開いているバロックに尋ねた。


「……ロジエがあんなに楽しそうに喋るのを初めてみた。家族の前でもああはならない」


「へぇ……、有望か?」


「いや、全く」


「だろうな、俺のもだ」


 剣と格闘術の違いは有れど、人の子供に戦い方を教えているのは変わらない。色目が入り込む隙もなく断言するバロックに、《彼》は乾いた笑いで答えた。


「才能がないわけではない、そこいらの子供よりは当然戦えるだろう。だが自己に対する劣等感が強すぎる。原因は分かっているが、そればかりは本人が解決する問題だ」


 目の前の移ろいゆく光景を見つめながら、バロックは言葉を紡ぐ。


 遠くの小さな背中が二つ。ずっと座り込んで黙々と話していたのが、唐突にじゃれあいが始まった。


 当初は仕掛けたジャンが優位に立っていたのだが、今度はロジエが上になってジャンを押さえ込んでいた。


「あの子の家系は、この地域にある格闘家の家系の中で唯一、魔王を討った先祖がいないらしい。他の家の歴史書には魔王を討ったか、一矢報いた記録があるのだというのに、だ。ロジエの家にはそれがなく、どころか敵前逃亡までしてしまった先祖までいるのだそうだ」


 だから、ロジエの家とその家族は、格闘家という面ではあからさまではないにしろ周囲から軽んじた評価と扱いを受けてきた。街に魔物が現れたらまず他の格闘家の家に頼られて、同じ格闘術を学ぶにしても、この流派に交わるくらいなら他に行くと避けられてしまう。


 語るバロックの目には何も伺えない。少なからず同情はないのだろう。ただ、向こうでジャンと戯れている無邪気なロジエの姿ばかりが映っていることに気が付いて、《彼》は何も言うことはせずにその話を聞いていた。


「ロジエは、家族が名誉を得るためには魔王を倒すしかないと考えている、家族の中で一番弱虫な自分が魔王を倒すのだと、泣きながら俺に誓った。だから俺はロジエに格闘術を教える、例え毛嫌いされようとな」


「はっ、それで? 都合よくあいつのボスになってくれる魔王がいるか?」


「いざとなれば、俺がいる」


 涼しい顔で言ってのけるバロックに、正気かと《彼》は目を見開いた。


「その時が来たら、惜しみない本気で相手取るつもりだ。だから少しだけ、無くした名への未練が捨てきれない」


「つくづく損な役目だな、わからねぇ」


「それはお互い様だろう?」


「あ?」


「お前は、人の子と一緒にいて何も感じなかったのか? 確かに、魔王は勇者の敵だ。だが、勇者が魔王の敵とは限らない」


 笑いをかみ殺すバロックの言葉。ジャンのことを言っているのか? ならばどうしようもない見当違いであると、《彼》は鼻を鳴らした。


 この男を人の世で見つけて、理解したことが二つある。


 ひとつは、自分の他にも名を奪われた魔王がいたということ。


 もうひとつは、人の子供を連れている物好きが他にもいたということだ。


「……名がないと不便か?」


「あぁ?」


 暫しの沈黙の後、今度はバロックが問いを投げかけてきた。


「当たり前だ。それに、アンタもあのガキに倒させるんだろ? あの白髪の男だ」


「確かに、俺はあの男に名を奪われた。しかし俺はもう、ロジエから今の名を受け取っている。あの男を倒したところで、今さら元の名を取り戻すことはできない」


「はっ、覚悟の上だと?」


「他にも多いらしいがな。名を奪われ、奪われた古い名を捨て、新たな名で勇者の子供と行動を共にする魔王は。

ある意味では、それは閉鎖的な世界に生きる魔王の念願だった」


 この魔王の真の名、奪われる前の名は、バロックではない。そしてバロックという新たな名を冠した以上、もう前の名には戻れないし、そうなれば元の魔力を半分も取り戻せないだろう。


 人の子供を育てる目的はてっきり自分と同じかと思っていたのだが、既に名を捨てる覚悟は据わっていたらしく、《彼》は黙り込むしかなかった。


「名などに未練はなかった、といえば嘘になるが……俺はロジエに名を取り戻してほしかった訳では無い。当初、そうなればと期待はしていたが、望みはしなかった」


 バロックの言葉に隠れた魂胆は見えない。本当にロジエの為になりたい思っているからこそ、遠い目をしてそんなことが言えるのだろう。


 《彼》は、そんな偽善的な考えを聞かされるのに耐えきれず、苦い表情で唾を吐き捨てた。魔王のくせに。無欲の皮を被っているのだと考えれば苛立ちがこみ上げ、あの男を打倒しようとしているのが自分だけかと思えば吐き気がした。自分の目的のために自分の配下の名前まで見捨てるというのだから、本質は魔王らしく冷徹なのは間違いがないのに、この人間の子供に対する態度の豹変は一体なんだというのか。


 子供の側もそうだ。どうして魔王に懐く? 一体親から何を学んできたのか。魔物についてどのような甘い考えを孕んでいるのか。


 ジャンは一体、何を考えているのか? 


「人は死んだなら帰ってこない。果たしたい願いがあるなら、今を貴重にすべきだ。互いにな」


「俺は諦めねぇ、絶対に」


「別に止めはしないさ」


 即座に返されたのには腹が立ったが、仮初とはいえ新たな名を持った魔王と名無しとでは戦いにすらならない。元より荒だった行動に及ぶ気はなかったが、そう宣言することで頭から疑問を消し去り、《彼》は冷静さを取り戻した。他の全ての魔王が堕落し、自身の名を諦めたとしても、自分だけはあの男を消して名を取り戻す。


 その為に、勇者となりうる人間の子供は必要不可欠だ。だがそれは別にジャンでなくてもよかった筈。たまたま都合のいい条件でそこにいたのがジャンであっただけ。最後にあの男の消滅という結果が残れば何でもいい。余計なことは考えずにそれだけを求めればいい。


 勇者は魔物と果敢に戦うもの。


 だからこそ、人は勇者を特別視して崇めてくれる。金も名声も用意される。そして、余程の事情でなければ、瑣末な気の迷いも、その舞台から降りることも許されない。属する国だけでない、世界の風潮が許さないのだ。魔物との戦いに疲弊し、もしくは臆病風に吹かれて戦いから逃げ出した勇者は、今まで自分が身を挺して守ってきた者たちから石を投げられる羽目になるのだ。勇ましくない者は勇者ではない。剣を天に掲げたその日から、勇者は絶対的な正義感を背負うことを義務付けられるのだ。


 そしてもう一つ。魔物を殺しすぎ経験値を溜めすぎた勇者の末路については、地下社会にのみ露見されている秘密となっている。勇者ならば誰もが覚悟すべき運命なのに瓦礫の下に隠されて、たとえ瓦礫がめくられたとしても、勇者本人がそんな与太話は信じようとしない。


 勇者もまた、心を持つ人なのだ。今まで自分たちが守ってきた国や世界から隠し事をされて、代わりなどいくらでもいる生物兵器だと認識されていた事を受け入れられる人間はほぼいない。


  魔物対策の使い捨て兵器。


 それを、勇者だなんて皮肉な名でまつりあげられて、理不尽な役目を負わされる。


 魔物と世界を共にする人間世界のそのシステムの全てを理解した時がきたら、あのガキはそれでも勇者が夢だなんて喚いていられるか? 勇者の仕組みを理解しないままでいるのが不幸か。全てを知って己が将来に描いていた夢が絶望に染まってしまうのが不幸か。あの女のように、行き過ぎた信念の末に魔物の出来損ないと化してしまうのが不幸か。

あのガキにとっての幸せとは何だ? いや、人の幸せなど、魔王には理解できる筈がない。


 だったら。


 何も知らねぇアホガキなら、知らないままで、利用してもいいだろうが。



「……すぐにここを経つ、時間はあまり無いらしいからな」


「そうか」


 バロックに吐き捨てると、《彼》は静かに歩き出した。様子を察するとロジエとのじゃれ合いにジャンは敗北したらしかったが、そんなことに感想を述べている暇はない。


 胸の中の微かな戸惑いを踏みにじるように……、ジャンを睨む《彼》の目は鋭く、表情にはいつも以上に厳めしさが張り付いていた。





「うーん……相変わらずロジエは強いな~」


「余分な動きが多いんだよ。大ぶりな動きは型通りにやれば防げるからね」


 草原の上に大の字になって寝転んでいるジャンが荒れた呼吸を整えつつ、悔しげにそうこぼすと、同じようにして隣にいるロジエが答えた。その声色に見下した様子はなく、しかし完膚なきまでにのされたのは悔しくて、ジャンは立ち上がる気力も出ずにただただ呻いていた。こんな遊びは昔にやった時もジャンは敗北が喫していて、それを思い出すと顔がますます苦くなった。


「……でも、ロジエは格闘家に向いてると思うぜ? そんなに強いんだしさ」


「…………」


 その一方でジャンは、遊びとはいえ自分を簡単に負かしてしまうロジエの事を尊敬した。華奢に見えてもやはり格闘家の家の子なのだと思って、素直にその感想を口にする。


「ジャン、よかったら……これからも一緒に遊ばない?」


「え?」


 そのまま、草原の上で一休みしようと頭の下で腕を組んでいると、いきなりそんなことを言われてジャンは聞き返した。目をやってみるとロジエは上半身を起こし、しかしジャンの方は向かずに、ゲーテたちを含む広い草原を眺めていた。


「ジャンと一緒に居ると楽しいんだ。もちろんバロック先生との稽古の時間も大切だけど……」


「…………」


 素直にそう言われて、ジャンは返事に詰まってしまった。普通なら照れてしまうような言葉でも正直に言えてしまうのが、ロジエの良いところでありずるいところなのだろう。ロジエと遊ぶのは何をしていても本当に楽しいし、初めてできた年の近い友達なのだから、ロジエのその願いを聞き入れるのはやぶさかではないが……。


「悪いな、無理だ」


 返事を口にする前に低い声が聞こえて、ジャンは咄嗟に上半身を立たせて振り返った。


 冷たい表情でゆっくりと歩み寄ってくる《彼》がそこにいる。


「こいつは勇者になる。お前と遊んでいる時間はない。そもそもお前も、あの魔王に師事して勇者になるんじゃねぇのか?」


「…………」


 《彼》の手が、立ち上がったジャンの肩にのしかかってくる。ロジエの言葉を切って捨て、少しだけなら、と考えかけていたジャンの意思をもすりつぶすかのように。


 強面の《彼》に人睨みされれば、元より人見知りの強いロジエは何も言えなくなってしまった。口をまごつかせるばかりのロジエにジャンは気まずさを覚え、ふとした思い付きを口にしてみた。


「ロジエ」


「……?」


 声をかけると、ロジエは顔を上げた。そして、ジャンが唐突に突きだした小指を不思議そうにして見ている。


「競争な、どっちが先に勇者になるか、競争」


 何を求めているかは言わなくても伝わっている筈だ。ジャンは言うと歯を剥いて笑いかけ、するとロジエも、それが伝播したように笑みを取り戻した。


 ロジエは頷き、同じようにして小指を突き出してくる。ジャンはそれを自分の小指と絡ませると、その後に呪文めいた童謡を口ずさみながら振って上げ下げした。暫くそれを続けた後、最後の誓いの言葉を同時に重ね合わせ、ジャンとロジエは小指を解いた。


「約束したからな。破ったらひどいぞ」


「うん、分かった。変なこと言ってごめん、ジャン」


「そんなのいいって。ていうか俺も、ロジエとちょっと遊びたかったし……」


 実の所の本音を漏らすと、《彼》に横目で睨み付けられたので、ジャンは気付かない振りをしてそっぽを向いておいた。


「……ふん。とにかく、前の街に戻るぞ」


 《彼》からの視線を苦笑でやり過ごし、仏頂面でジャンの寝ていた家へと歩き出す《彼》の後をジャンはついて行った。そういえば自分が来ている服は自分のものではなく、察するにロジエのものだろう。敢えて言うことも無かったが、《彼》もやや珍しい半袖の出で立ちで、いつものコートを羽織ってはいなかった。


 ロジエが服や寝床を貸してくれたのだ。今一度それを認識して振り返ると、いつの間にそこにいたのかロジエの先生であるバロックが、ロジエの肩に手を置いて何か告げているのが見えた。また稽古を再開するのだろうか、それを想像するとスゴイなと感嘆を覚える反面、一日にどれだけの練習を積んでいるのか、ロジエの身体が少し心配にもなった。


「あのガキは、決意だけは本物らしい」


「?」


 不意を突くように、《彼》がそんなことを言った。やや離れた背後にいるロジエをちらと見た後、ジャンは《彼》を見上げる。


「で、お前は? 俺とここまで来たことに後悔はねぇのか?」


 普段から《彼》の口数が少ないのは承知しているが、それより更に漠然とした聞き方をして《彼》は質問を投げかけてきた。何か深い意味合いがあるのかと不思議になったが、結局それを言い当てるまでには思い至らず、ジャンは投げかけられたその質問に対し、妙に飾らず、咄嗟に思った事だけを口にしようと判断した。


「なんで?」


「っ。だから、だな。……俺は、後ろの魔王みてぇに甘くねぇし……」


 見上げた《彼》の顔は気のせいか、少し切なげで、寂しそうな顔をしていた。


「俺は、マオウさんとここまでこれてよかったと思ってるよ?」


 だから、そんな湿った雰囲気を吹き飛ばす意味も含め、ジャンは快活に声を張って答えた。聞いた《彼》は一瞬で表情を変える。意外そうな目をしていた。


「俺、絶対勇者になるから!」


 こちらを見下ろす《彼》は、どうしてか目と口を半分ほど開いていた。ただ驚いているのではなく、何かの意表を突かれたような、そんな返事が返ってくるとは思ってもみなかったような、そんな驚き方をしていた。


「そんなことが聞きてぇんじゃねぇよ……」


「?」


 やはり、深い意味があっての質問だったか? ふん、と鼻を鳴らして先を行く《彼》の後ろで、ジャンは回答の外れを自覚して小さくなっていた。それでも、普段通りの無愛想な物言いは変わっていなくて、先程の顔に垣間見えた憂いの表情は、やっぱり気のせいだったのだと知って安心した。


 目的の家がそろそろ目前に近づいてきたところで、ふと、ジャンは足を止めた。


 目の前の《彼》が立ち止まったのだ。


「おい」


「?」


「……その。他の、魔王と一緒にいる子供が羨ましいか?」


「え?」


 ジャンは首を傾げた。《彼》は振り向くことはせずに、また質問を投げかけてきたのだ。先程よりも落ち着いた静かな声で。


「俺とは、違うだろうが」


「……え? なんで?」


 何故そんなことを聞かれるのか分からなくて、ジャンはまた首を傾げた。《彼》はそれに苛立つことも何か言うこともせず、振り返る事すらせずに質問を重ねてきた。


「例えば……例えばだが、俺が実は嘘を言っていたとしたら……どうする?」


 背筋が冷えた。そんなことを聞かれて何と答えればよいのか。ジャンには《彼》の考えが理解が出来なかった。


「な、なんで? マオウさんはちゃんと、俺に戦い方を教えてくれてるじゃん」


「……クソガキ」


 その背中は、どことなく影が差している様に思えたので、ジャンは恐る恐る答えた。すると、《彼》の口から嘆息が聞こえた。それから自分でも変なことを言ったとの自覚があるらしく、《彼》は雑念を振り払うように首を振っていた。


 ジャンは安堵した。しかしその安堵は、次の瞬間には淡く消え去った。


「お前はここにいろ、すぐ戻る」


 その声に反応して、目を見開いたジャンは手を伸ばし、《彼》の服を掴もうとした。確信は無い、だが直感で、一秒先には《彼》が遠くに行ってしまう気がした。


 事実、《彼》はジャンの手が届く前に翼を展開して、颯爽と走り出した。《彼》の駆動で巻き起こる突風。ジャンは手を前にして目を庇い、眩む視界で遠くなってゆくその背を睨んでいると、どうやら何かを目掛けているらしいことが分かった。


 その時にジャンのこぼした短い悲鳴で、《彼》は一瞬だけ振り向き、また前を向く。その一瞬の表情をジャンはしかと目の当たりにした。


 とてもとても、恐ろしい顔をしていた。かつて絵本で見た挿絵や、今まで見てきた《彼》の不機嫌な顔が笑えてしまえるくらい、本物の『魔王』の表情をしていた。


 《彼》がその剣幕で駆けていくのに、理解は追いつかない。しかし、ただならぬ何かを一瞬で感じ取れた。ジャンはすかさず横にずれて、《彼》の進行方向を目で追いかける。

その先には、森の入り口。木々に紛れて、一つの人影。


「ジャン! どうしたのっ!?」


 その人影を見て、ジャンはその場にへたりと座り込んだ。頭に焼き付いた先程の《彼》の顔が頭から離れない。図らずも震える肩をさすっていれば、ただならぬ空気を感じ取ったらしいロジエとバロックが背後から駆け寄ってきた。


 心配そうなロジエが手を伸ばしてくれたので、ジャンは未だに信じられないものを見た目をしながらも、ゆっくりと立ち上がった。


「誰だろう……あれ」


 うまく説明が出来ないでいるジャンの言葉に、ロジエとバロックは神妙そうに顔を見合わせた。


 だが、尋常でない勢いで駆けていく《彼》と、《彼》が追いかけている影を見て、バロックは表情を変えた。


「……俺っ、行かなきゃ!」


 《彼》はここにいろといった。しかし不吉な予感がする。魔王の力を信じていないわけではないが、悠長に待っているなどとてもできなかった。


 首筋をつたう冷や汗をぬぐって、ジャンは《彼》の後を追うべく駆け出した。


「バロック先生、僕たちもっ!」


 焦燥に呑まれたジャンを見て、ロジエの反応は意外にも早かった。後を追うロジエに次いで、その冷静な顔に焦りをにじませつつ、バロックも走る。


「まさか、こんなところに……!」


 予期せぬ事態に、誰にでもなく呟くバロックの表情は苦しいものと化していた。





 木の間をすり抜け、時に根を蹴りつけて、ジャンは走る。


 《彼》の姿は見えない。声も聞こえない。それでも走る。太い木の根に転びそうになりながら、気付かず顔に纏わりついた蜘蛛の巣を取り払いながら、それでもかまわず走り続ける。


 木ばかりの地形を駆け巡っていれば、同じところをぐるぐる回っているような錯覚に見舞われて、森の中がまるで精密な迷路のように思えた。足が重くなって呼吸も滞り、激しい胸の脈動が、立ち止まって楽になれとジャンの心をせっついてくる。それでもジャンは止まらない。


 一刻も早く、《彼》を見つけないといけない。とても嫌な予感がするのだ。《彼》との旅が、ここで終わってしまうような予感。今思えば、少し前に繰り出された《彼》の質問は、図らずながらそれを《彼》も感じていたからかもしれない。


 《彼》があのような恐ろしい形相を浮かべたのには理由があるに違いない。《彼》が通りの先に見つけた、あの人影。あの男と《彼》は何かがあったのだ。その因縁の内訳は、悔しくもジャンには分からないのだが。


 暫く走って、周囲の風景ががらりと変わった。鬱蒼としていた木々は消え、代わりに茶ばんだ岩ばかりが見えてくる。草の茂る足元は乾燥した砂地になり、少し先に進むと、生ぬるい風が吹いてくる洞窟があった。

 天井から生えている尖った岩には水滴が滴り、その入り口はまるで大きな怪物の大あごのようでひどく不気味な感じがした。


 その入り口にて立ち止まり、ジャンはふと目をやった。


 黒い羽がひとひら、洞窟の手前に散っている。


「ジャン!」


 呼び声に振り返ると、ロジエとバロックが背後から追いかけてきた。


「あの人、いた?」


「ううん、でも」


 尋ねられ、ジャンは残念そうに首を振るが、その代わりにそこにある黒い羽へと指を差す。


「多分。この先にマオウさんがいる。何か空気もピリピリして……」


「魔力の衝突だ。既に戦っているのか……」


 洞窟の中の状況が分かるのか、バロックは落ち着いた声色で言いかけたが、その直後、はっとしたように目を細めた。突然の事に肩をびくつかせたジャンとロジエも、それに追従するように周囲に目を配り始める。


 不愉快なほどの金切り声が、周囲から聞こえ始めた。


 バロックは「下がれ」と短く指示して手をかざし、ジャンとロジエはバロックの背中へと張り付くようにして固まった。


 ! 今の一瞬、岩の陰から陰へ、素早く移動する何かが垣間見えた。


「魔物だ。数は多い。武装もしているな」


 バロックは極めて冷静に視線を這わせ、周囲について分析する。それを聞いたジャンはそれらと戦う武器がない己の状態を憂い、唾をごくりと呑み込んだ。


「僕たちは大丈夫だから! ジャンは先に行って!」


「えっ?」


 その自信に満ちた言葉に振り向いてみれば、ロジエが真っ直ぐにこちらを見つめていた。いつものロジエらしからぬ、力強い顔つきをしている。


「心配なんだよね? すごく不安そうな顔してるよ」


「……え、でも……」


「気にしなくていい、この程度なら問題ない」


 ありがたい提案だった。しかし申し訳なくなって声を潜めると、一歩前に踏み出したバロックがその背を後押ししてくれた。いつでも魔物に反応できるように、拳を握って迎撃の体制を整えている。確かに、《彼》と同じ魔王であるバロックがいるならば、ロジエは安心だろうという考えはあった。


 ジャンは少し迷った後、その心遣いに甘えることにした。洞窟まで駆け出しながら、顔だけで振り返って礼を述べる。


「ありがとうっ! ロジエ、バロックさん!」


「気を付けてっ!」


 礼を言って、洞窟の奥、《彼》を目指して真っ直ぐつき走った。洞窟の薄暗がりに入ってしまう前に今一度だけ振り返ると、手を振りかえしてくれたロジエの姿が小さく映った。


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