第三章
1.再会
●
メイアお姉さんへ
お元気ですか? 僕とマオウさんは元気です。ただ、僕が本を読んであげなくてもぐずっていないか、ジュリの事をちょっとだけ心配しています。
この前、勇者の女の人と出会いました。その人が戦っているところを見て、とにかく感動しました。とっても強くて優しい人で、僕もあんな風になってみたいと思いました。今まで沢山の魔物を倒してきたそうで、それを想像すると、やっぱりかっこよくて憧れます。
あと。相変わらずマオウさんはちょっと怖いけど、それでも少しは仲良くなれたのかなと思って安心しています。そんな時のマオウさんを見ていると、まるでお兄さんが出来たみたいな気持ちになり、なんだか嬉しくなりました。最近はマオウさんに直接剣のけいこをつけてもらうことも多くなり、その時のマオウさんは本当に強くて、僕はまだまだ手も足も出ません。
お姉さんからの返事はまだ届いていないのですが、旅人郵便はいつ届くか分からないと配達の人に言われたので、きちんと届いていると信じて待つことにします。
またお便りを書きます。 ジャンより
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深夜。
窓には真夜中の闇が広がり、青白い月が浮かんでいる。今宵は陽に劣るとも勝らない光を放つ、一切の欠けが無い満月であった。
道中通りがかった街の宿にて宿泊しているのだが、《彼》は眠ることはなく、ベッドに腰を降ろしていた。傍にある机の上には、ランプの灯がゆらゆらと揺れている。
そんなささやかな灯し火を頼りに、《彼》はちらと目をやってみた。
向こうのベッドでは既にジャンが寝息を立てている。小さくもごつごつとした男の手で毛布を握り締め、それでもどこか甘えのある口元と瞑られた目は、ジャンがまだ未成熟な子供であることを再認識させる。
その表情は、やや悶々としているように見える。ひょっとしたら、先日の悪夢を振り返っているのかもしれない。
その無防備な表情は、魔物と戦っている時には全く見られないものだ。《彼》は静かに立ち上がり、より近くに寄って、眠っているジャンを冷徹に見下ろした。
ジャンを旅に連れ出した時から今まで、幾度となく魔物と遭遇した。最初の方こそ助けてやらねばならなかったが、最近はそれも随分と減った気がする。大したことの無い魔物相手ならばそろそろ任せっきりでも問題ないだろう。それでも《彼》の考える、いわゆる普通レベルの魔物が相手では少なからず手こずる顔も見られるが……。
全体的に評価すれば、戦闘中にじっとしていることが少なくなったし、剣の扱いも当初と比べれば動きの自由さが伺えるようになった。ジャンの成長は、予想より遥かに順調だった。子供の成長が早いとはよく言ったものだが、どうやらそれは魔者でも人間でも変わらないらしい。
(だが、油断は禁物だな……)
予想以上に使える。が、それでも、不安の要素はある。
ジャンが、これ以上の旅を拒否し出す危険性だ。
自分の性格が傲慢であるとは理解している。自分は魔王であるのだから自我や意見を押し通すのは当然で、今更それを直そうとは思わないが、自分の周りにいる者にとってそれが当然でないのは、それが気に食わないとは思いつつも《彼》は重々承知している。
《彼》はジャンのベッドの端に腰を降ろし、首を横に逸らした。足を組んで頬杖をつきながら、以前ジャンに、ワガママ大王、だとか言って罵られたのを思い出す。
魔王になってから初めての事であった。自分が我が儘である指摘を受けたのは。
「違いない」
その幼い寝顔を見やりながら、《彼》は自分自身を鼻で笑っておいた。その時はジャンの不敬な態度に本気で激高したが、同時にその強気な態度に驚いてもいた。ジャンを配下や召使いとして認識していたわけではないが、そこまで堂々と罵られるとは思いもよらなかった。
もし、もしもそれがジャンの本音であるならば、自分といて嫌になったりしないのだろうか。時折むくれた顔を見る時はあるが、それだけだ。嫌だとか帰りたいだとか、人間の子供に勇者のいろはを叩き込むと決めた時から、いつかは聞くだろうと想定していた台詞を、しかしその口から一度も聞いたことがないのだ。いつも楽しそうにへらへらと笑っていてジャンの本音が見えない以上、用心は重ね重ねしておかねばならない。
戦闘技術は教える。それはあの白髪の男を打倒するのに必要だからだ。それから旅に関する知識も、それもやはり、必要だから。
「…………」
本当に、今もまだ、この人間の子供は自分を勇者にしてもらえると信じているのだろうか。この俺が、本当に最後まで約束を果たすと。
「甘いな、やっぱガキだ」
ならば、最後までそれを利用するだけ。
《彼》はなげやりに呟いてランプの灯を消すと、部屋を包む闇の中、自らのベッドへと戻って行った。
●
目覚めて早々に身支度をして、ジャンは宿の一階に広がる食堂へと降り立っていた。
早くに起きなければ朝食を逃してしまう。昨晩に宿の主である小太りの女性に忠告されていた事だ。
毎度の事ながら、ジャンが部屋を出た時には《彼》はまだベッドの中にいた。そろそろ起こしに行かなければ……時計を睨みながらそう考えていた矢先、階段を下りる音が聞こえてくる。
《彼》がややぼさついた後ろ髪をかきながら食堂に現れた。
「マオウさん、こっち」
「…………」
《彼》の分まで陣取っていた座席から手招きする。《彼》はジャンを見つけると、不機嫌そうに寝ぼけまなこをくすりながら歩み寄ってきた。
ジャンのテーブルには既に、程よい焼き色のトーストやグリーンサラダ、目の覚める程に熱々のスープとコップ一杯の牛乳などが用意されている。
「あそこにいるおばちゃんに言うとくれるよ?」
「…………」
厨房の入り口にいる女性を示すと、《彼》は黙って頷き、歩いて行った。
ジャンは椅子から足をぶらつかせながら待っていたが、既に用意されていたらしく、《彼》はプレートを持ってすぐに戻ってきた。
腰を降ろした彼がさっそくサラダをフォークで突き刺して、ジャンはやっと、いただきます、と朝食に取り掛かり始めた。
「昨日もまた、変な夢を見ちゃってさ。マーサさんが魔物になっちゃう変な夢。もう何度目かな?」
「……先に食ってなかったのか」
「え?」
突然、サラダを口に運びながら《彼》が尋ねてきた。ただでさえ口数の少ない《彼》なのに食事の最中に話しかけられるのは珍しくて、少し驚きながらもジャンは答える。
「だって……ごはんはみんなで食べた方が美味しいじゃん?」
「…………」
それは常日頃から姉に言われていた事だ。家にいた頃は、いつも家族全員欠かさずに揃ってから食事をとっていた。陽が沈むまで遊んでいてジャンの帰りが遅れた時でも、メイアとジュリは夕飯を食べずにその帰りを待っていて、料理がすっかり冷めてしまったとジュリにぷんすか怒られたものだった。
そんな話をしてみても、《彼》はつまらなそうな顔を変えない。それはジャンも承知の上だったので、特に気にすることなく、こんがりした焼け色にバターがしみこんでいるトーストを手に取った。
「よっ、ジャン」
トーストをひとかじりした時、唐突に背後から名を呼ばれて振り返った。
声の主は、毛糸のセーターを腕まくって、腰に紺のコートを巻き付けている赤い髪の青年だ。自分達と同じ朝食のプレートを持って、気さくな笑みで手をかざしていた。
「あっ! ……えーっと、シグさん!」
「はは、覚えてくれててサンキューな」
以前にジャンの手紙を担当した旅人郵便の配達員、シガラグだ。顔は覚えていたものの、しかしその名を思い出すのにジャンは若干苦労してしまった。
あの時から何ヶ月たったろうか? シガラグは軽い調子で笑いながら、ジャンと《彼》の隣にどかりと腰を降ろした。
「手紙、届けたぜ。途中で魔物と遭遇してちょっとばかし予定日より遅れたけどな」
「え、シグさん大丈夫だったの?」
「まぁ、なんとか」
話しながらも、シガラグは自分のプレートのトーストをかじり、それをスープで流し込む。急いでいるのか、食事のペースはジャンたちより少し速かった。
「そうそう、ジャンのおふくろさんからの返事、預かってるぜ」
「えっ!?」
聞いた途端にジャンは椅子から飛び上がった。シガラグが胸の内のポケットから一通の封筒を取り出したので、嬉々としてそれを受け取る。
少し砂埃で汚れた、飾り気のない白の封筒だった。裏向ければ差し出し人はメイア・ウィレッジとなっている。
待ちに待った家族からの返事にその場ですぐ封を開けようと思い立ったが、もし姉がこの場にいたならまず食事を片付けてからと言うに違いない。ジャンは一先ず楽しみを取り置いて、朝食を平らげてからにしようと椅子に座りなおした。
「そういえば、オレたちの居場所とか、シグさんはどうやって調べてるの?」
「そりゃ勘弁。俺たち配達員だけの企業秘密」
「えぇ~、ちょっと位いいじゃん!」
「ダーメだーって、俺が叱られるんだぜ?」
「そこをなんとかっ、気になるって!」
「うるせぇな、朝飯ぐらい静かに食わせろ」
先程から《彼》とは会話が弾まなかった分、親近感を見せるシガラグに対しては浮かんだ疑問をままに口にしてみたが、シガラグはおどけた様子ながら頑なにその質問をかわし続ける。
だからこそ、より一層気になってしまい手を合わせて食い下がったが、しつこく頼み込んでいれば、終いには隣に座る《彼》に横目でギロリと睨まれてしまった。
脅かされるのはある程度慣れたものだったが、ジャンは渋々諦めて《彼》へと目をやってみる。その仏頂面は文句を述べる以外は我関せずと言った調子で頬杖を突き、朝食を順調に進めていた。
……いや、いやいや。よく見れば順調というには何か違った様子に気付いて、ジャンは目を丸めてしまった。同様にシガラグも呆気にとられた顔で、無遠慮に《彼》の食事を凝視している。
そこには、《彼》には決して似つかわしくない幼げな光景があった。
《彼》はどうやら、サラダと格闘しているらしい。サラダに混ぜ込んである玉ねぎのスライスを、《彼》は鬱陶しそうな目で念入りに探し出しては、フォークで突き刺し皿の端に移動して、それ以外を事細かに選別して口へと運ぶ。そうして山積みになった玉ねぎのスライスは、いつになっても口に運ばれる気配はない。
「マオウさん」
「あぁ?」
「玉ねぎ、嫌いなの?」
「……うるせぇ」
好き嫌いなど一つもない。それを堂々と自負できるジャンが首を傾げて指摘すると、少なくともジャンより遥かに年長である筈の《彼》は不機嫌そうに呟いて、そっぽを向いてしまった。
「あー、聞きたかったんだけどさ」
「……あ?」
《彼》から放たれる、それ以上話しかけるなと言わんばかりの空気にジャンは自ずと黙りこんだが、シガラグはその空気に気付いていないのか、もしくは敢えてなのか、全く意に介せずにして口を開いた。話している最中も食事のペースを崩さなかったシガラグはいつの間にやら朝食を全てたいらげており、プレートの上に空の食器を重ねて置いて、前歯でフォークを咥えてもてあそんでいる。
「あんた、ぶっちゃけ、魔者?」
「!!」
唐突なその発言には、ジャンの方がびくついてしまった。
《彼》は一切の動揺を見せず、ただ冷たくシガラグを睨み付ける。
「……だったら、どうする?」
「まさか、名無しの魔王、じゃねぇよな?」
「……だったら?」
半笑いのシガラグが咥えているフォークを手に取り、《彼》に突き付けると、《彼》の目が輪をかけて細く、冷たくなる。同様に温度の下がった《彼》の声が、ずかずかと秘密に踏み入ろうとするシガラグを明確に威嚇していた。
更に何か言われれば、胸倉に掴みかかってしまうのではないか。その剣幕にジャンは緊張を強いられたが、次の瞬間、シガラグの表情は呆気なく緩んだ。
「いやいや、ねぇな~」
「……っ?」
「お宅、いかにも甘やかされたお坊っちゃんて感じだし、世間ずれしてなさすぎだろ」
皿に残された玉ねぎのスライスをちらと見て、肩をすくめながらシガラグが言う。一瞬で、ジャンはその場から逃げ出したい気分になった。
ドカッ! 椅子が倒れるほどの勢いで《彼》は立ち上がる。ジャンの予想は裏切られなかった。揺れたテーブルにジャンはびくりと肩を震わせ、恐る恐る《彼》へと向いてみれば、静かに苛立ちを漲らせた触発寸前の爆弾のような表情をして、今にも殴り掛からんとシガラグを睨み付けている。
「マ、マオウさん、ダメだって!」
ジャンは咄嗟に立ち上がり、シガラグを庇うよう間に割って入った。ここが宿の中であるのは勿論の事、魔王である《彼》が本気で怒りをぶつけたとしたら、ただの人であるシガラグがただで済む筈がない。
「……どけよ、ジャン」
「マオウさん、落ち着いてって!」
「おおっと、ジャンがどうなってもいーのかい?」
飄々とした態度は変えず、寧ろ挑発するようにシガラグは唇を尖らせる。
苛立つ《彼》を前にしてジャンは息を呑んだが、その直後、どういうわけか背後から頭をがっしりと掴まれてしまった。振り向くまでも無くシガラグの仕業で、人差し指を突き出した指鉄砲が、へ? と漏らすしかないジャンのこめかみに突き当てられる。
冗談とはいえ、あろうことか人質にとられてしまった。シガラグを庇ったつもりが、いつの間にやら前にも後ろにも逃げ場はなくなっていて、せめて《彼》が落ち着くように目で合図を送ってみる。
ここまでずっと旅を共にした仲なのだから、情や信頼が芽生えていると信じて。
「知るか、なんなら一纏めにねじ切ってやろうか?」
にべもなく、却下された。
「うわっ、ひどっ!」
「ははは、まぁこの辺で。配達あるからそろそろ行くわ」
「えっ?」
ジャンの頭から手を離し、その頭をポンポンと叩くと、朝食の済んだプレートを片手にシガラグは立ち上がった。
もう行ってしまうのか、早々と歩き出したその背中にジャンは慌ててお礼の言葉を述べ、シガラグは後ろ手を振って答える。
「じゃあまたな、ジャン、それと、マオウさん?」
尚も《彼》に睨み付けられる中、シガラグは含み笑いで肩をすくめつつ、ちらと顔だけで振り返った。最後の最後に空気を読んだのか、《彼》の横を通らぬよう、敢えて回り道をして食堂を出て行った。
「ちっ、ふざけやがる」
最後まで見送るなどするはずもなく、《彼》はどかりと椅子に座りなおして悪態をつく。明らかに機嫌を損ねているのは明白で、ジャンもまた、気まずそうに《彼》に目をやりながら腰を落ち着けた。
「でも、マオウさん。俺も好き嫌いはよくないと思うけど……」
「……あぁ?」
瞬間、《彼》の熾烈な視線がギロリとジャンを射抜く。いらぬ発言だったと気付いたジャンの必死な静止をものともせず、ジャンは瞬く間に《彼》の影に覆われる。
直後、その脳天に、やや理不尽な拳骨が突き落とされた。
●
見渡す限り一面の木々。雨を浴びたばかりらしい腐葉土の匂い。それから気味悪く素肌を這う湿気。
深緑に包まれた薄暗い林の中で、振り上げたジャンの剣が鈍く光る。景気の良い掛け声と共に振り下ろした時、既に《彼》はそこにはいない。だとしても避けられることは想定済みで、反撃が来る前にとその場に落ち着くことをせず駆け出した。木々の間を縫うように走りながら、《彼》を探して周囲に目を配る。
すると、すぐ隣に迫る影を察して、ジャンは剣を振りかぶった。《彼》は今度は避けることはせず、悠々とその刃を手で掴む。
少し《彼》の靴が地面を引き摺る程度の衝撃の後、それでも《彼》の表情に揺らぎがないことに驚かされる。剣を受け止められ、完全に斬撃の勢いを殺され、その上に刃を離してくれない。ジャンは歯を食いしばりつつも、《彼》を睨み付けて奮闘の意思を示した。
「……もう少し、ふんばれねぇのか?」
「これが全力だってっ!」
不服そうな《彼》の言い草に声を張って答える。ジャンがいくら力を込めようと、剣は小刻みに震えるだけで《彼》の手の中から抜ける気配はない。
《彼》が鼻を鳴らす。それを聞いた途端、身体が引き寄せられる感覚に襲われた。バランスを失って目を見開くと、足が地を離れ、体が宙を浮く。
足を絡めとられ、流れに沿って背後へと投げられたのだ。地面に背中から叩きつけられ、やっとそれに気付いたジャンは痛みと悔しさに顔をしかめた。地面は湿っていて軟らかく、手加減もしてくれたようだが、その後に差し延べられる手はなく、そうなれば自力で立ち上がるしかない。
「これで八度目の尻餅だな。いい加減、一発くらいあててみろ」
「……だってここ、コケとか落ち葉で滑るし……」
ズボンの尻についてきた落ち葉を払いながら立ち上がると、こちらを見下ろす《彼》が嘲笑混じりに言い放ってくる。その余裕ぶった態度を崩してやりたいと躍起になるが、しかしそれが出来ない現状が悔しくて、ジャンはせめてもの反撃に目を逸らし、不満げに言い訳をこぼしてみた。
《彼》と出会ってから幾度となく繰り返された剣の特訓も、最近はかなり本格的なものと化していた。以前のように《彼》の作り出した魔物と模擬的に戦う稽古もあれば、今日のように
「ていうか、俺がマオウさんに勝てるわけないじゃん!」
「当然だ」
何の気遣いも無く即答されて、ジャンは肩を落とすというより、口をあんぐり開けて黙ってしまった。魔王に勝てないなら何の為の訓練なのかと《彼》を睨んでみたが、一方の《彼》はジャンを見ることなく、周囲に目をやりながら歩き始めた。
「……荒れてるな」
ジャンにしてみれば単なるあてつけに過ぎなかったのだが、《彼》には何か思うところがあったらしい。木の間をすり抜け、林のやや奥まで行ってしまった《彼》は振り返ると首を振って合図をしてきたので、ジャンは渋々ながら《彼》の元へと駆け寄った。
すると、どこからか聞こえていた水の流れる音の正体、大きな川があった。最近に大雨でも降ったらしく、川はその限界まで水量を増し、折れた木の枝や落ち葉を呑み込んだ、激しい濁流と化してしまっている。
あんな激流に呑み込まれればひとたまりもないだろう。身震いしつつも目を奪われていると、背後から《彼》に肩を叩かれた。
「落ちたくねぇだろ。場所変えるぞ」
「う、うん……」
それはその通りだ。ジャンは荒れ狂う川を尻目に、早々にその場から立ち去ろうと《彼》の背を追いかけた。
いつもの事ながら、《彼》は少しも待ってはくれず、ずかずかと先に行ってしまう。こんな林で迷子になってしまってはたまらない、ジャンは勢いをつけて駆け出そうとした。
「っ」
それが、仇となった。
特別に声は出なかった。それほど呆気なく、颯爽と踏み出した足が、あらぬ感触を踏みつけてバランスを崩す。意思に反した方向に倒れ行く体。濡れた落ち葉がジャンの靴を滑らせた。
本当に一瞬の出来事であった為、ジャンは体が傾いていく感触をいまいち実感できなかった。
「マオウさんっ!!」
「……ジャン!?」
反射的にジャンは悲痛な声で《彼》を呼び、《彼》は咄嗟に振り返ったようだったが、遅かった。
水の中に叩きこまれる音と高く跳ね上がる水しぶき。視界に広がるのは淀んだ水、感じるのは後悔と息苦しさ。すぐに大口を開けて浮き上がったが、いくらもがこうが圧倒的な水量にそれを軽く凌駕され、荒れ狂う流れのままに体は連れ去られてゆく。
いくら手を伸ばそうと、それが《彼》に届くことはなかった。必死に助けを求めようとすれば口の中に水が入り込み、咳き込みながらも必死に足をばたつかせる。
(あ……れ? ヤバい……かも……)
このような激流に呑まれては、川辺まで泳ぐなど叶うはずもない。子供であるジャンの足が水底についてくれるはずもない。いくら腕を振るっても掴めるものは何もなく、水ばかりが指の間をすり抜けてゆき、次第に水底へと足を引かれるような、身体が重たくなってゆく感覚に四肢を支配されてゆく。
「チッ……!」
自らの命を諦める間もなく、意識が溶けるように薄らいでゆく。水の中に体がうずもれゆく冷たさの中、めまぐるしい水流と水中で気泡の生まれる音に紛れ、《彼》の舌打ちが聞こえた気がした。
●
「はぁ……はぁ……」
《彼》は息を荒らしながら、やっとの思いで川辺の砂利を踏みつける。随分と水を含んで重くなったコートや頬に張り付いた髪に水の滴をしたらせながら、ここはどこかと周囲を見渡してみた。
川の底へと沈みゆくジャンの腕を掴んだまではよかったものの、それから何処まで流されてしまったのか。視界に広がる光景は元いた林ではなく、代わりに土を踏み固めただけのなだらかな道と、田舎らしい民家や古ぼけた鳥小屋などがきれぎれに見えた。
現在地が特定できないことを憂いながらも、《彼》はちらと背後に目をやった。背には意識を無くしたジャンがもたれかかっている。その手は力なく宙に垂れていて、ぐったりとその身の重さが背中にもたれかかってくる。
「手間、かけさせやがって……」
《彼》はコートを脱いで砂利の上に敷くと、その上にジャンをそっと安置した。その体は長時間水にさらされたせいで冷え切っていて、頬を小突いてみても全く反応は返ってこない。
「まさか、死んじまったんじゃねぇだろうな……」
半袖になった《彼》は自身の服の袖を絞った後、ジャンの胸に耳を当ててみた。息はある、先程に水を吐き出したのを見たが、しかしそれからの意識はないに等しい。その頬は生者のものとは思えないほどに青ざめ、目に見えて危険な状態であるのは疑いようがない。
かといって、すぐには元居た宿に戻れそうもなく、ここいらに医者の家があるかも分からない。取りあえず必要なのはジャンを暖める為の焚火か。それから、魔物を出して周りの様子を調べさせる。とにかく火付けの薪でも集めようと《彼》はすくと立ち上がった。
すると、自分たちに向いている視線を感じ、《彼》は途端に目を細めた。
振り向いてみれば、向こうにある道の端に、小さな人影が一つ立っている。背丈はジャンと変わらないほどで、買い物の帰りなのか、中身の詰まった紙袋を両手で抱えながら、驚いた様子でこちらを見つめていた。
まぁ、そこいらに住む通りすがりの子供だろう。《彼》は意に介することなく無視し、さっそくそこに落ちてあった枯れ枝を拾おうと手を伸ばした。
「ジャンっ!?」
しかしその人影が、驚愕の声でそう叫ぶのに、《彼》はその手を止めてしまった。
●
「……ん……?」
体を包む、柔らかなシーツとよく干された羽毛布の感触。そして見知らぬ家の匂いが鼻をくすぐって、ジャンはうっすらと目蓋を開いた。
やや頭の奥に感じる鈍痛に顔をしかめながら、ちらりと周囲に視線を這わせてみる。部屋の中央には大きなテーブルに、様々な大きさをしたイスの数々。さらに目をやれば部屋の半分が台所になっていて、果物のカゴや炊事場の他、フライパンや鍋などが壁に吊るされてあった。少し珍しかったのは、テーブルの隅に畳まれていた何着かの道着らしい衣服と、壁の角に立てかけられた、滑らかに手入れされた木の棒……棍が何本か立てかけられている位、それ以外には目立って不思議な所は見られない。
ごく普通の民家だった。家の中は木材の雰囲気が温かく、ジャンの暮らしていた家ほどでは無いにしろ、なかなかに田舎らしいことが伺えた。そして誰が親切をくれたのか、自分は部屋の隅にあるベッドに寝かせられ、丁寧に肩まで毛布がかけられている。
何故自分はここにいるのか? そもそもここはどこなのか? 痛む頭を押さえながらも記憶を辿る。確か自分は、滞在していた街の裏手に広がっていた林にて《彼》に稽古をつけてもらっていた。その時、ふとした拍子に足を滑らせ、《彼》に手を伸ばすも届かず、そのまま濁流に呑み込まれてしまったのだ。
うん。ここまではっきりと思い出せたことにジャンは頷き、安堵した。と同時に、幼さから来る一抹の不安に肩を震わせた。
あれから自分はどうなってしまったのか? それから先だけはどうしても思い出せないのだ。
(ここ……天国じゃないよな……?)
まさかとは思いつつも、ジャンは当惑の視線で、またじとりと周囲を見渡してみた。先程と変わらず田舎町の家の中という光景が視界に広がるだけだが、考えればその中に人の気が一切ない。頭の上にわっかでも浮かんでいれば分かりやすいのだが、冷や汗混じりに手をやってみても、当然ながらそんなものが存在する筈はなかった。
「あの……」
毛布を握り締めながら、奥にある扉に向かって小さく囁いてみた。扉の向こうまで届くかどうかが自分でも微妙な声量であったが、他人の家で大声を張るのはなんとなく気が引ける。
少し待ってみたが、やはり返事は返ってこなかった。ジャンは戸惑いながらも、今度はやや大きく声を出してみる。これならば聞こえるだろうと確信したが、表情を固めて待っていたものの、またもその扉から誰かが現れることはなかった。
(そういえば……マオウさんは……?)
ふと、その存在が見当たらない事に気がつき、ジャンは自身から毛布をはいでベッドから床へと降り立った。途端に、体が粘土にでもなったかのような倦怠感に見舞われたが、《彼》を探して部屋を出る方が、このまま疲れに任せて寝ているよりも遥かに気が安らいだ。
毛布にシワが出来ないよう丁寧に折り畳んでから、ジャンはごくりと唾を呑み込み、少し体を引き摺るようにして歩き出す。
見慣れない家で目覚めたとしても、その家に誰も居ないらしくても、骨が軋んで身体が重たくても。そんなものは些細な問題のように思えてしまう。
《彼》の姿が見えないことが、何よりもジャンを不安にさせた。
●
威勢よく鍛錬に打ち込む声が聞こえてくる。《彼》は腕を組んで、ジャンを寝かせた家の裏手に生えている、一本の針葉樹の太い幹にもたれかかっていた。茫然とした瞳で、見るともなく目の前の光景を視界に映す。
放牧の為の草原が広がる田舎の風景。その中の、放牧場と家の庭との境を作っている柵の向こう側に、大と小の二つの人影が見える。
人影たちはめまぐるしく動き回り、互いに互いの動きを意識し合って立ち回っていた。しかしその技量の差は明白だ。小さい方がひたすらに拳や掌打を突き出しても、大きい方はそれを冷やかに受け流してしまう。時折その拳を掴んでは、無駄のない流れで草原の上に転ばせたり、組み伏せたりしていた。
小さい方は、何故だかジャンの事を知っていて、自分たちをこの家まで招いた人間の子供。確かロジエ・バーランドだとか名乗っていた。
ゆるく波打った髪も手伝ってか、良く言えばトゲのない、悪く言えば臆病で意志薄弱そうな顔つきをしている。何事にも積極的になりそうにない面構えだったが、何の偶然かジャンの事を前から知っていたらしく、力なく横たわるジャンを見るや慌てて駆け寄ってきて、ここまで案内すると共にジャンを寝かせるベッドを用意してくれた。
それからは、ジャンが目覚めるまで稽古の続きをするのだと、ああして格闘術の組手に勤しみ続けている。
では、大きい方は誰か。こちらこそ《彼》にとって一番の意外で、その姿には確かな覚えがあった。
長めのこげ茶色の髪としなやかな体躯。端正ながら、岩のように硬質で冷静沈着な顔つき。名前は思い出せなくともそれら全てを見知っている。きっと向こうも感じているだろうが、とんだ偶然もあったものだと《彼》は表情に出さずにして驚いておいた。
「バロック先生……」
やや息の荒れた呟き声が聞こえて、ふと《彼》は意識を目の前の光景に戻した。見事に組み伏せられ、地に伏していた少年……ロジエが、よろよろと立ち上がりながら遠慮がちに口を開いている。
バロックと呼ばれた人影は、ひとまず拳を下げて格闘の構えを解くと、腰に手をやりつつロジエの目の前にまで歩み寄った。
「また休憩か? 先程買い物に出たばかりだろう」
「…………」
「いいから立て、まだ終わっていない」
「……、もう、限界……かも」
手を伸ばされても、ロジエは草原の上に座り込みつつ、気まずそうにふいと目を逸らすだけ。その弱々しくも頑固で反抗的な態度にバロックは表情をしかめ、低い声色でロジエを威圧した。
「早く、立て。兄弟に劣ってばかりで、悔しくないのか?」
「悔しい……けど、痛いのは……」
「何?」
たまらず漏らしてしまった本音のようだが、そんな弱気をバロックが責めない筈がないのはやや離れた場所にいる《彼》にも明白だった。
《彼》はひっそりと耳を塞ぐ。
「何もせずに力をなどと、甘えたことを言うなっ!」
直後、竜の咆哮のような怒鳴り声が轟いた。それでも足りないのか、目尻を吊り上げ、困ったようにたじろぐロジエの腕を掴む。
「格闘術も経験値も二の次だっ、まずはその根性を叩き直してやる!」
バロックは声を張りながらロジエを引き摺り立たせようとしたが、その鬼気迫る形相に怖気ながらも、ロジエは必死になって立ち上がるのを渋ってくる。『魔王』相手に意外と根性の据わった行動だと、《彼》はささやかな称賛と憐憫の目でロジエを見つめた。
殴るか? 蹴るか? しかしバロックはそうはしなかった。寧ろこのままでは拉致が明かないと悟ったのか、バロックはロジエから手を離して、仕方がないと言った様子で溜息をつく。
「全く……、魔王に勝ちたいのだろう?」
「!」
そう告げるバロックは何度も言わせるなと言わんばかりの物言いだったが、何か深い意味があるのかその台詞で、ロジエは水を得た魚のように活気を取り戻し、すくと立ち上がった。
バロックは静かに頷くと、再び拳を構える。訓練の再開をロジエに指を振って示し、ロジエもまた、地面を蹴ってバロックにかかっていった。ロジエの目の色が先程とは違うのはここから見ていても分かる。それでも、その拳がバロックに届くことはないのだが。
「……らしくねぇー」
とても、魔王のすることではない。
一連の光景を傍観していて、《彼》の感想はそれだけだった。このように、ジャンを利用する自分の考えまで否定されたような、敗北感に似た気分は前にも味わっている。ジャンを甘やかそうとしていた勇者の女……マーサとやらを見ていた時と同じ気分だ。
そんなにテメェが嫌われるのが嫌か? 余計な情に何の意味がある? 複雑な心境で《彼》は鼻を鳴らす。不愉快さからその光景を見るのを止め、ジャンの様子を確認しに家へ戻ろうと振り返った。
「マオウさん!」
すると、丁度その家の戸が開き、ジャンが現れる。
ジャンはこちらを向くと、一目散に駆け寄ってきた。
「はっ、死にかけてたわりには、えらく元気そうだな」
「よかった……いなくなったかと思った……」
目の前にて立ち止まったジャンは、息を荒らしながらも安堵の笑みを浮かべていた。ジャンの間抜けさを皮肉ったつもりががそんな答えが返ってきて、《彼》は不可解さを覚えながらも、つまらなそうに目を逸らす。
「あのさ……ここどこ? 川で溺れたのは覚えてるんだけど……」
「……お前のお友達の家だろ?」
《彼》は首を振って示した。ロジエとバロックは今も稽古を続けている。ジャンが不思議そうに目をやって、ロジエを見つけた瞬間、疑うような何度かの括目の後、その瞳が子供らしく煌めいた。
「ロジエッ!」
叫ぶと、ジャンはロジエ目掛けて走り出した。先程までは意識を失っていたというのにどこにそんな体力が残されているのか。その背中を眺めて《彼》は呆れる一方、誰にも悟られぬようにそっと息を吐いた。
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