2.嘘と真実
夜。
宿での夕食が終わり、数日前から二人で借りている一室に、ジャンの熱のこもった声が響いていた。
「剣とナイフを一瞬で持ち替えて! クルっと回った時には魔物を何匹も倒してて! すっげぇかっこよかった! 俺もあんな勇者になりたい!」
「はっ」
しかと見たあの光景を今一度頭に思い浮かべ、空の手で剣を振るマーサの真似をして、大人用のベッドの上で跳ね回っている。
話が始まったのは宿での夕飯の時からだった。間近で見たあの鮮やかな戦闘劇をただ胸の中にしまっておく事など出来なくて、思いつく限りの感想を高揚した声で語り続ける。熱弁し始めて暫く経っても、それをまるで自覚していないジャンには口を閉じる気配など一向に見られなかった。
家にいた時には、たいてい姉が興奮したジャンの話を聞いてくれる役目を担っていたのだが、その役目は必然的に同じ部屋で寝止まりしている《彼》へと転がってきた。
当然、《彼》が快く耳を傾けてくれる筈はなく。黙れと言っても黙らない。酒瓶片手に舌打ちばかりを返し、あからさまに面白くなさそうにしている。それでもジャンは気にせずに、目を輝かせて話を続ける。
「でさ、夢を持てば、辛いことも頑張れるって。オレもそうするべきかな?」
「知るか」
「いいなぁ。俺も、マーサさんみたいなカッコいい勇者になれるかな?」
優しくて強くて頼りになる。《彼》のように意地悪もしないし殴りもしない。そんな人が自分の師匠だったらとも考えた。現実は随分と非情なのだが。
ふと、もっと朗らかな性分に《彼》を置き換えて考えてみた。あの顔あの声でそんな風に優しくものを言われたならどうだろう?
「ジャン、一緒に遊ぼうか!」「ジャン、剣はこうやって持つんだぞ!」「ジャン、ご飯は美味しいか?」……。
……後悔で頭を振るう、想像するだけで吐き気がこみ上げてきた。
「ねぇ?」
「あ? 俺に聞いてんのか? なら」
「え、なに?」
「諦めろ。お前はあの女みたいのにはなれねぇ」
「なっ! んなことねぇよ! 練習だって頑張ってるし!」
「腕っ節の話じゃねぇよ、そんなのはどうだっていい。お前の才能がさじ一杯分だろうが、俺が一丁前に勇者やれるまで教えてやる。なんの問題もねぇ」
「じゃあ、何?」
拗ねた口調でジャンが首を傾げる。ずっと窓際の椅子に腰掛けていた《彼》は机に酒瓶を置くと、ジャンのベッドの上にやってきて胡座をかいた。ベッドのスプリングで飛び回っていたジャンも、自然と《彼》の前で腰を落ち着ける。
「聞くが、ガキ。お前は、金や名声の為に勇者やんのか、魔物殺したくて勇者やんのか。どっちだ?」
久しぶりに目線を同じくして睨まれて、ジャンはふてくされたように目をそらし、歯切れ悪くぼやいた。
「そんなの、どっちでもないし。俺は……」
「何度も言わせんな、どっちだ?」
選びようのない選択だった筈が、それでも選べと《彼》が更に語気を強めてくる。下心を覗き見られているみたいで気分が良くなかったが、これ以上口ごもれば殴られてしまう。《彼》からいよいよそんな気配が醸され始めたので、ジャンは納得の行かない顔を隠すよう、やや伏し目がちになって答えた。
「どちらかっていえば、一つ目の方……。当たり前じゃん、魔物を殺したいわけないよ。戦うの怖いし、怪我は嫌だし……」
意地悪な質問だ。そして、否定しきれない苦さもある。勇者とは、沢山の人を魔物から救う存在。つまり、何の害もないか弱く小さな魔物を百匹殺したところで、その者は勇者ではなく、それの陰に隠れた臆病者と蔑まれる。勇者成りうるにはまず人々から必要とされなければならないのだ。つまり、勇者は自ずと名声を集める。名声が添えられれば金も集う。
人々に頼られない勇者など、勇者ではないのだから。それが、名声や金欲しさに勇者を目指す薄汚さだというのなら、この世には本に書いたような誠の正義心を持つ勇者など一人も存在しないことになる。だが、そんな事があるはずもない。
誰かに認められたいと願う気持ちが、そこまで邪なのか。それが心の汚さで、名声への欲だというのなら、なるほどジャンの勇者への動機は不純なものとなるかもしれない。
だが、権威や金の為に勇者になるなどとは、自分でも認めたくはない。
「でもっ、金の為だとか、そんなふうに言うなよな……」
「はっ。じゃあお前はなんで『勇者』になりたいと思ったんだ? ご立派な『前例』があるからだろうが」
「むぅ……」
ジャンが憧れてきた勇者や冒険者たちは、本に載る位有名であるが故に、遠い地に住むジャンの憧れとなり得た。即ち彼らが人気をかき集めた結果だと。《彼》が言いたい事はそんな所だろう。事実、勇者として確かな実力を持つマーサのことを、ジャンは自己紹介を伺うまで知らなかった。そしてマーサも、自分のことを魔物の退治屋と自称した時もあった。今思えば、彼女は自らをはっきり勇者と名乗った機会もなかったような気もする。
《彼》はベッドに横たわり、土足のままでシーツを蹴った。
部屋の古い時計が鐘を鳴らす。
そして、暫しの沈黙。
「とにかく、お前は魔物をぶち殺したくてたまらないんじゃねぇんだろ?」
「え? う、うん……当たり前じゃん」
そういえば、そんなことも言っていたっけかとジャンは思い出した。《彼》から突きつけられた二択の中で選びようがなかったのは、その選択肢はそもそもにして意味がわからなかったからだ。
魔物を殺したい? なんで? それがジャンの感想である。
「じゃあ、明日は絶対にあの女と会うなよ。てか会わせねぇ」
「な、なんで!? もう約束しちゃってるし!」
「知るか」
「すっぽかすなんて、できないって!」
「チッ……。なら、俺が話をつけてやる、それで文句ねぇな?」
「ないわけないだろっ!」
どうして《彼》がこれほどまでにマーサを嫌うのか。ジャンが見ていた限りで心当たりは全くない。やはり魔王と、実力者の勇者であるマーサとでは気分の問題で相性が良くないのだろうか。
だが、マーサの側に《彼》に対する敵意は全くなかった。そもそも《彼》が人でないとは知らないだろう。だというのに、理不尽にそっけない態度を取られる気分は決して良いものではない筈。なのに、マーサはそれを、少なくとも《彼》の前では口にすることはなかった。あの人は最後まで大人だったのだ。
一方、《彼》が何かのあてつけで気まぐれにマーサさんに冷たくあたっている可能性も、今まで《彼》と顔をつき合わせてきたジャンは大いにありうると踏んでいた。子供である自分が言うのもなんだが、大人気ないなぁとずっと考えていた。《彼》に徹底的に欠落した社交性の問題であり、人を嫌うのに意味なんてないのかもしれない。
「なんでいっつも冷たいんだよ! れっ、練習の時とかだって! ちょっと位褒めてくれたっていいじゃんかっ!」
「あ? 魔王に言ってんのか? それ」
「ふがっ!」
あくまで日頃から感じていた不満の、ほんの僅かひとかけらをぶつけたつもりだった。
だが、たったのその一言で、ジャンは眉を吊り上げた《彼》から頬を鷲掴みにされる。こちらの不服さとは裏腹の間抜けた顔を晒す羽目になる。
そして、《彼》はそのままジャンの顔を無理やりに引き寄せた。嫌がるジャンの顎を自身の眼前まで引っ張ってきて、有無を言わさぬ迫力をもって睨みつける。
「テメェが文句言える立場か? どっちが目上かいっぺん体に叩き込んでやろうか? 何度も言わせんなバカガキ。分かったな?」
「もごっ……」
何かを言おうにも、頬を掴まれていては口をもごつかせるしかない。早口で吐き捨てる《彼》は手を離さず、最早返事を言わせる気も無いらしかった。
●
「ふぃぃ~~……」
シャンパングラスいっぱいの甘い発泡酒を片手に、ご満悦の吐息。
ほころびの目立つ上着や、その下にまとっていた薄手の鎧は脱ぎ去って畳んである。丸みと引き締まりの備わった四肢にはそれらの代わりにバスローブを纏い、彼女はシャワールームを後にした。
街によっては、旅人が外泊する宿にもランクがある。街長直々の来賓であったマーサは街一番の設備を誇るホテルに身を置いていた。街の端にある旅人向けの宿屋よりも豪華な個室が設けられ、生活の魔法による冷暖房装置の完備。おまけにルームサービスつき。
それでもマーサは、最初は断ったのだ。しかし気のいい街長に押されてしまい、契約期間中はこのホテルを紹介されてしまった。
ベテラン勇者として幾多の国から何十枚もの紹介状を集めたマーサにとって、仕事を受注した際にはこのような待遇など珍しくもなんともないが、一人では持て余すような部屋やベッドより、森の中で虫の音でも聞きながら寝袋で休む方が落ち着く時もある。
それでも、シャワーを望むだけ使えるのはありがたい。マーサは爽快感を鼻歌に乗せ、未だ湯気の立つ濡れ髪をかき上げて熱気を払った。
部屋は明かりがついておらず、射し込むのはシャワールームから漏れた光のみだ。外は月夜のはずだがカーテンは閉ざされており、照明もついていない。たまにはこんなムードもいいかなとと考えていた為に照明は敢えて消しておいたので、部屋は薄暗かった。
だが、どういうことだろう。
シャワーを浴びる前に、カーテンはしっかり開けておいた筈だが。
「あぁ、それ?」
薄暗くとも、目を凝らすだけでマーサには見える。部屋の闇の中で、机の上に用意していたフォークが揺れている。くるりと回転し、誰かの長い指で弄ばれているのがわかる。
「最近、夜更かしてケーキを食べるのがマイブームなんだよね」
次の瞬間。闇の中で踊っていたフォークが飛んできた。
突き刺さるほどの勢いで遠投された刃物を、しかしマーサは顔の前で攫うように受け止めた。銀の輝きを受け止め、その影で笑みは変わらない。マーサは微笑みのまま、発泡酒のグラスを机に置いた。行儀の悪い子供がするようにフォークを噛んで、首を斜めに傾げる。
「なんだ、君か。てっきり殺し屋ちゃんかと思っちゃった」
「はっ、心当たりがあるのか?」
「ま、ね。こーんな、同業の妬みを買うような仕事やってたらさ」
一歩間違えれば眉間に三つ穴が空いたかもしれないというのに、マーサは悠々とした表情のままで部屋の闇の向こうに会話をけしかけ、部屋に忍び込みフォークを投げた《彼》もまた、その事に一切触れず悪びれもしない。今の一瞬には敵意はあれど、殺意はなかった。それを両者は黙認している。
その後、なんの躊躇いもなくマーサがベッドまで歩き、腰を落ち着けた。それを尻目に、《彼》はベッドの前に踏み出す。マーサがベッドの端にあったランプをつけたことで、《彼》を覆っていた部屋の影が大きく払われた。
マーサがどこか意地の悪い笑みで見つめる。黒い髪に黒い服。鈍い輝きを放つ鎖。それから油断のならない瞳が二つ、マーサを鬱陶しそうに睨んでいた。
「ところで。乙女の部屋にどうして君が待ち伏せしてるのかな? 盗むモノなんて下着しかないと思うけど?」
「見当はついてんだろうが」
「あ、やっぱりか。でもさ、理由は知りたいかな?」
それほど知らない、しかも第一印象の決してよくない男がいつの間にやら自分の部屋にいる。こんな夜遅くに、風呂上がりの自分の目の前にいる。相も変わらず他人を見下したような傲慢面を引っさげて。マーサはこれでも冷静を保てている方だと自分を褒めてやった。勇者を夢見るあの子の連れ。その素直なジャンに自分は好感を抱いている。だからこそ、マーサにとってはそれだけが、目の前にいるこの不埒な男との対話を保っている唯一の糸だ。
そして、この男がここに現れた目的も、なんとなく察しはつくというもの。どこから入ったのかも、目的のその理由すら未だに不明瞭だが。
「そんなに、ジャンと仲良くしちゃダメなの? そんなに私がお嫌い? 私、知らないうちに君に何かしたのかな?」
「テメェがどこで何してようが、俺には関係ねぇ。それはテメェもだろ?」
細い線の指で唇をなぞる。マーサが蠱惑的な素振りを見せながら挑戦的な言葉を紡ぐのに、《彼》は淡々と冷たい言葉で迎え撃つ。
「関係ねぇのに、ジャンに妙なこと吹き込んでんじゃねぇ。これ以上ジャンに近づいてくんな」
マーサの見当は、まさしく的を得ていた。《彼》は拒絶の意思を隠そうともしなければ、刺のある言葉を使って威嚇してくる始末。マーサは嘆息を吐きながら《彼》の表情を伺った。憎まれ口すら許してしまえる程の親しい関係でもなければ、明確に敵対した覚えもない。自分たちはほぼ初対面であるというのに、《彼》は投げかける言葉をオブラートに包む気遣いはしなかった。
いや、《彼》にとって、自分は最早敵なのか? 見下ろしてくる冷たい瞳に意図は覗けない。まぁ同業者から疎んじられるのは慣れっこだ。こんな立派な部屋で争いなど御免こうむりたかったマーサは無理やりにでも納得し、質問を投げかけて暫く様子を見ることにした。
「あなたはあの子のなに? 家族……じゃないよね。悪いけどそんな雰囲気に見えないし」
「どうでもいい」
「ま、そんなの言ってたら、あたしだってあの子のなんでもないけどさ」
楽しげな口ぶりをして、ベッドからはみ出た足を無邪気に揺らす。《彼》との会話が楽しいわけではない。ジャンのことを思い出すと胸が弾むのだ。
「応援したくなるんだよね。ああいう、勇者を目指して目を輝かせてる子を見るとさ。私がそうだったから」
ジャンはいい子だ。自分の話を聞いてくれた。そして、ジャンも自分の話を聞かせてくれた。故郷の村に住んでいた知り合いの魔法使いと誓いを交わし、剣もその老人から受け取ったのだという。素敵な約束だと思う。老人は死んでしまったけれど絶対に約束は守ると、ジャンは子供ながらの純粋な心で意気込んでいた。その顔を見て、マーサも胸が温まる思いがした。
まだ、この時代にそんな子供がいたのかと、安堵のあまり笑みがほころんだくらいだった。
勇者を目指す子供は何人かこの目で見てきたが、同世代より一足先に大人のひしめく社会に出てきた作用なのか、皆干からびたような考えをして何事にも擦れきっており、我慢に我慢を重ねた末に損得を計算してしまう。
保守的なのだ、マーサに言わせればひどく生意気な連中ばかりだった。中には夢を持つ事を馬鹿にしてきた子供もいた。自分がどれだけ訴えたとしてもまるで耳を貸そうとはしない。己の正義がないわけではなかったが、淋しいことだと思った。ただでさえ危険な仕事だというのに、このまま何ら希望を抱くことなく、白い目をして魔物との戦いに身を投じていくのだと思えば、互いに他人の事だとはいえこちらまで虚しくなった。
だが、今思えばそんな彼らもまた、旅立ちの当初はジャンのように水々しい無邪気さを抱いていたのではないだろうか? これから待ち受ける冒険に胸を躍らせ、初めて見る外の世界はさぞ煌びやかに映っていたのかもしれない。それが、魔物との過酷な戦いや同業者との不毛な争いの末、彼らを変えてしまったのかも。
久方ぶりに目にする事となった夢見る子供の瞳は、マーサにそんな思いを抱かせた。だからこそ、おせっかいかもしれないが、散々に苦い思いをしてきた先輩からアドバイスを送りたいと思ったのだ。擦れ切る前ならまだ間に合う。それでジャンが自分の考えに同調してくれたなら、今後も是非、頼れる同業者として仲良くしていきたいと思ったから。
(けど)
そんなマーサの願いを快く思わない者が、ジャンのすぐ隣には存在した。
勇者を目指す子供がまず見習いとして現役勇者と旅を共にするのは珍しくない。最初に二人を見た時にはそういう事かなと踏んでいた。だが、どういうわけか《彼》のことを尋ねてみても、ジャンは目をそらして口を濁らせるばかり。誇れる師匠ならばそうだと教えてくれる筈なのに……、何かを隠しているのは明らかだったが、こちらとしても無理やり聞き出すことはできなかった。
「キミは何の為にジャンといるのかな? あの子の事ちゃんと考えてる? 今が一番大事な時期なんだよ?」
《彼》は返事の代わりに舌打ちをうってきた。やはり、そんな程度かと理解して、マーサは目を細める。
「テメェに文句を言われる筋合いはねぇ」
「でも」
「もうジャンと会わないと約束するなら、いいことを教えてやる」
「え?」
そんな《彼》が、そんなことを言い出してきた。こちらが食い下がろうとしたのを見て、その会話を区切るように。
「勇者どもの今後に関わることだ。特に、テメェにとってはな」
「いいよ、聞かせて?」
迷いなく頷くマーサに、約束を守る気配は見られない。とりあえず聞いてみて、それから考えようとする好奇心が見え見えだった。
それが伝わったのだろう《彼》は輪をかけて表情を渋めたが、これ以上の問答を避けるように口を開いた。
「今すぐ武器を処分して、勇者をやめろ。でないとテメェは死ぬ」
「?」
一瞬、耳を疑った。
だが聞き返すまでもなく、この男は勇者をやめろといった。でなければ死ぬと。これは脅しか? やはり当初の読み通り、この男は同業者か他所の国かにでも雇われた殺し屋だったか?
「それは、あなたに殺されちゃうってこと?」
「察しがいいな、と言いてぇ所だが。その必要もねぇ。このまま魔物を狩り続ければテメェは死ぬ。少なくとも、マトモな人間ではなくなる」
《彼》に悟られぬ程度に身構えたマーサだったが、されど口調ほどに殺意は感じられなかった。だからこそ、冷静なままで会話を続けることが叶った。
「それって、あの噂話のことかな?」
実は、心当たりは浮かんでいた。マーサはおぼろげな記憶をあさり、指を立ててそれを口にする。
「魔物を殺しすぎた勇者は、魔物になる呪いを受ける」
「知ってたか」
「信じてはないわよ? 私はこの目で見たものしか信じたくないし、この目で何人も勇者を見てきたけど、そんな人は一人もいなかった。それらしいのを見たっていう人もね。
それか、魔物を百体抜きした勇者は、もう魔物みたいに強くて怖くてヤバすぎるわ! っていう、面白おかしい例えばの表現とか?」
《彼》を鼻を鳴らして笑った。が、マーサの冗談めいた口ぶりを笑ったわけではないようだ。
「はっ、お気楽なこった」
「悪いけどさ。そんなことを本気で言い出す君の方こそ、私にはお気楽に見えるよ。だって勇者にまつわる作り話は他に五万とあるんだよ? 妖精の住む泉を見つけた者は幸せになれるとか、一度でも人を殺した勇者の魂は魔物に生まれ変わるとか。第一、どういう原理なのかも分からないしね」
その中でも、マーサがわざわざその噂を記憶していたのは、少し珍しかったからだ。勇者になることに否定的な噂は、実はそれほど多くない。人々の間で流言される伝承や噂の殆どは、聞いた子供が勇者への憧れを強めたりする、もしくは悪の道へ進む勇者を罵るような内容が大体だ。魔物が絶えぬ以上、それと戦う者は常に求められるのだから人々は勇者を慕って崇めてくれる。そんな勇者という存在を否定的に教育しないのは当然といえば当然なのだが。
「ただ、魔物みたいな姿に変身できる魔法と、それを使う魔法使いの実在は知ってる。だからこんな噂は、そういう連中が魔法の失敗をごまかすために作った与太話かなって」
本当にそんな程度のことだと思っている。魔法が存在するのだから、呪いの実在そのものを否定はしないが、他者を魔物に変えてしまうような黒魔術の実在までは流石に信じえない。そんな魔法など開発されても、決して人の役には立たないではないか。そんな魔法など所詮は頭のおかしい開発者の自己満足であり、もし実在したならばそんな魔術師を許すことはできない。
マーサはバスローブの襟をはたつかせながら、なんの面白みもない推測を肩をすくめながら言う。
暫くの沈黙の後、《彼》は再び口を開いた。
「魔物は消えるとき、影となって霧散する。その影の正体は?」
「知ってるわよ。その影が、魔物が部下を増やす時とか、魔法使いが魔法を使うときに利用される、大気宙の魔力のことでしょ?」
突拍子な会話を持ち出してきたかと思えば、今更何を聞くのだと思った。
魔物を狩れば、その身は弾けてただの魔力に戻る。そんな知識、勇者や冒険者にとっては、聞くのが無礼にあたるほどに常識すぎる。
「魔物を狩る度、魔物を仕留めた武器と勇者は少しづつ強くなる。仕留めた魔物が霧散した時に浴びた魔力が、少しづつその身に染み込んでいるからだ」
「それが、俗に言う経験値。それも知ってる。ねぇ、結局何が言いたいのかな?」
どれもこれも、長く勇者をやっている者にとっては今更な知識だ。元々我慢が得意でないマーサはしっくりこない顔で話の本質をせがんだ。
「聞くが、テメェは魔物がどうやって生まれるか、知ってんのか?」
「それは……、やっぱ親の生んだ卵とかで増えるんじゃないの? 知らないけど」
「ならテメェは、魔物の卵を見たことがあるんだな?」
「…………」
そんな事、考えたこともなかった。適当に答えるしかなかったがそれに悔しい気持ちはない、どうでもいいとさえ思う。どうせ狩るのだから。
ところが《彼》に意地悪く問われて、マーサは少しむくれながらも記憶を掘り返した。魔物の卵など見たことはない。卵のような魔物ならどこかで見たような気はするが。
「魔力はな、一箇所に大量に集めておくと、自ずと魔物を生む。魔物たちの憎悪や怒りで刺激されると、それはますます加速する」
マーサが納得しないままで、《彼》の話は続いた。最初から何もかもが現実味に欠けており、いっそ空想だと思って聞いたほうがしっくりくる内容が続く。今には、魔物は魔力から生まれるだとか言い始めた。真面目に話す気さえないのかと口にしかけたが、ただ単に自分をたぶらかして遊んでいるだけのようにも見えず、話の腰を折る気も失せて言葉を押しとどめた。
「普通、邪魔な魔物を消す程度に抑えてりゃ、たかだか百年程度……人が一生勇者やってもこんなことにはならねぇ」
「こんなこと?」
マーサの顔に浮かぶ疑問を無視して、言葉を続ける。
「だがテメェは、魔物を屠りすぎた。見りゃわかる。人里離れたねぐらすら踏み荒らし、ガキの魔物一匹も見逃さずに殲滅してきたんだろう。散々に魔物の断末魔と、返り血代わりの経験値……魔力を浴びてきたテメェの体は、もう殻の割れかけてる魔物の卵みてぇなもんだ」
そこまで来て、マーサは《彼》の言葉をようやく理解した。
一箇所に、大量に集めた魔力。
即ちそれは、魔力とイコールである経験値をふんだんに溜め込んだ、歴戦の勇者の体そのものであり、その状況が今の自分だと言っているのだ。
事実、自分は数え切れないほどの魔物をこの手で屠ってきた。依頼でも、そうでなくとも。魔物を狩るのが勇者だから罪悪感を覚えたことはない、寧ろ、人を救えない事への罪悪感の方が恐ろしくて仕方がない。
マーサの瞳に反射する、ランプの光が淡く揺らいだ。
「なるほどね。その理論でいくと、私は魔物になっちゃうわけだ」
「人が魔物になるわけねぇだろ。魔物と人が仲良く一つに交わるわけがねぇ。その先は、ただの魔物の出来損ないだ」
例えどんな答えが返ってこようと、笑みが崩れるには至らない。マーサの返事には全く覇気がなかった。
「お前が明日殲滅しようとしてる、あの魔物ども。あれらは典型だな。自分らの領域を決めて、仲間内で楽しくやってる。あいつらは自分の領域に踏み込んできた獲物しか襲ってねぇ。奴らは奴らなりの線引きを守って上手いことやってやがる。
長話は嫌いだが、教えてやるよ。奴らを皆殺しにしてその怨念を一気にかぶれば、お前が今まで溜め込んできた魔力は間違いなく魔物を孵化させる。そうなれば、終わりだな」
「んで、私にどうしろって?」
風呂上がりで少しふやけた爪をいじりながら、マーサは問いかけた。
「積み重ねた経験値は風呂に入ったくらいじゃ落ちねぇ。命が惜しいなら、魔物を狩った時に着てた服を全部燃やせ、もちろん武器もだ。あとは魔物と戦わずにおとなしくしてろ。それで済む」
「あ、そう」
そして、返ってきたのは現状の打開策。多少の気遣いはあるのか、それともこのネタで先ほどの約束の代価を払ったつもりなのか。
どちらにしても、不毛だった。せっかく長話に付き合ったというのに、退屈凌ぎにもならない。イマイチ盛り上がりに欠ける寝物語。
「あーあ、聞いて損しちゃった」
「……あ?」
もう気を使うこともやめよう。無礼なのはお互い様。マーサは退屈さを見せつけるように大きくあくびをした。
途端に、不愉快さで目を吊り上げた《彼》へと、その理由を説明してやる。
「あのさ。出会ったばかりの、いつの間にか部屋に忍び込んきた男がいうそんな突拍子な話を鵜呑みにできると思う? 魔物を狩るのをやめろ? 勇者が魔物を狩るのをやめて何するのよ。誰が魔物から人を守るのよ」
それでこの男が納得しないなら、この男は本当に自己都合でのみ生きている。意見の決着などないのだからなんら話す意味はなく、もう追い払ってしまおうと心に決めていた。ホテルマンを呼んで、街の憲兵を呼んでもらえばそれで片はつく。そして、ゆっくりとデザートにありつける。
《彼》のにわかに信じ難い話を信じるのか、信じないのか。そういう選択で決めたのではない。もっと良識的な態度で接してくれたなら、こちらとて聞く耳をもっただろうから。
「君が知るはずもないけどさ、あの魔物の被害にあった人がいるんだよ。例えばこの街の街長さんのご親戚。森に迷い込んだところを襲われて帰らぬ人になってしまった。被害は実際に出てるの。それに何より、あの魔物たちが自分たちの領域を守ってるって言ったけど、それをこれからも律儀に守り続けるかは分からないよね? もたもたしてて数が百倍に増えてからじゃ遅いのよ。その時になって、波のように街に押し寄せてきたなら、どれだけの人が犠牲になるか分かる? そんなことを言って、後になってこの街が崩壊しても責任取れる?」
「知るか」
「そういうこと。あなたは何もわかってない。だから、あなたの言葉は聞けない。お帰りはあっち」
冗談めかして言うが、拒絶の意思ははっきり伝えた。手で部屋の扉を示しただけで、マーサは口を閉じる。
それ以上の会話を拒否する絶対の意思表示。だというのに、《彼》は目の前に立ったまま、その場から動こうとはしない。マーサは頬を引きつらせながらも、自分の理性が弾ける寸前まで待つことにした。
それが仇となったか。《彼》は部屋を去るどころか、性懲りもなくまた口を開き始めた。
「正論なんざ、どうでもいい。テメェはそんなお綺麗な性分か? 知ってんだよ。テメェのその、魔物と人とをすぐに見比べる目つきの癖」
《彼》が一歩、近づいてきた。
細く絞られた目が。先ほどより少し迫ってこちらを見下ろしてくる。こちらの心を見透かすような、そして図星を貫いたかのような勝気な態度には震えを覚えた。
そして、上から叩きつけられるように浴びせられた言葉に、無視を貫く考えだった筈のマーサの目が見開かれた。目をそらし、それからすぐに下を向いた。《彼》の物言いで心に動揺が浮かんだ瞬間だった。これ以上目を見られまいとする咄嗟の抵抗だった。
尚も、《彼》は言葉を続ける。マーサは密かに奥歯を噛みながらもそれを聞いた。
「ジャンを引き込んでどうする? 仲間にでもするつもりか? ガキのあいつなら、テメェのその異常さを理解してくれるとでも考えてんのか? 人を助けたいだとか、正義面かまして魔物を狩る自分を肯定してる嘘っぱちを、見て見ぬふりしてくれるかもってか?」
《彼》の言葉には遠慮はない。最初から思いやりなどとは無縁の語り口だった。粗野な言い回しで口汚く罵ってくる。今すぐ立ってその頬を張ってやれば、少しは黙ることを覚えるだろうか? 鼻高々なら頭突きでも食らわせてやろうか? 鼻血を垂らせばそれどころではなくなるだろう。
それを思い、マーサは笑った。ぐったり力なく笑った。
「テメェは、魔物を殺したいだけじゃねぇのか?」
《彼》の言葉に、遠慮はない。ただ《彼》の中の真実を無慈悲に突きつけてくる。対するマーサは肩を震わせ、俯き、そして顔を上げた。
マーサは、口元だけで微笑んでいた。
「化けの皮、剥がしたったり! って顔してる」
泣き寝入りでもすると思っていたのか、《彼》が僅かに口を開いている。話を聞いていた最中の自分はそれほどにしおらしく見えたのか。
無礼な男に何を言われたところで、心には響かない。欠点を指摘されようとも、それと向き合う道理はない。ただ、苛立ちを覚えるのみだ。
「残念だけど、見当違い。でもそっちがそんな失礼な気分なら、私もさ、あなたの正体を暴いちゃおうか? あなたこそ、退治屋を目の前にして隠し事してるよね、子供のジャンは知ってるのかな?」
そう、いざとなったら、ジャンを助けなければならない。得体の知れないこの男に、勇者を志す純粋な少年が騙されている。実に耐え難い理不尽さだ。
「キミ、なんだろうね? 人ではないようだけど、魔王がこんなところにいる筈はない。魔物にしては知的だし、魔者にしては育ちが良さそうだし」
頬杖をついて、悩ましげに唇を尖らせた。
しかし、いくら推理を並べたところで、そればかりは分からない。ただ一つ分かるのは、《彼》が人ではないという事実。いくら人の姿を取っていてもこの目は見逃さない。その肌を刃で裂けば、吹き出てくるのは鮮血ではなくどす黒い影の筈だ。
「キミこそ、ジャンをどうする気かな? 人でないキミが、勇者を目指す少年と一緒に、何をしようっていうの?」
聞いたところで、答えないだろう。だが、人でないという点に関し、《彼》からの否定は返ってこなかった。
そして、静寂。
互いが互いの表情を読み合う刹那、次に口を開いたのは《彼》だった。
「もう、テメェはでしゃばんな」
「どうしよっかな、もうジャンと約束しちゃったんだよね」
敵意には敵意で迎え撃つ。極めて不愉快そうに《彼》が吐き捨てるのに、マーサはふざけた調子を見せつけるように手をひらつかせた。どちらが先に動くか根比べ、そう思っていた。
その考えが、甘かったとは思わない。こちらもすぐに対応できるよう身構えていたつもりだった。
空気が変わった。マーサはベッドに手を添わせ立ち上がろうとする。だが、その寸前、今までは手を出してこなかった《彼》により乱雑に突き倒された。すぐに体を起こそうとしたが、それより先に、シーツごと肩を押さえつけられる。男の力だ。生半可な男の力なら不利な態勢からでも突き飛ばせるつもりだったが、伸し掛ってくる力は、現役の勇者であるマーサの更に上をいった。
獣が獲物を逃がさぬように。そして、目の前の獣は牙をぎらつかせるように鋭く睨んでくる。氷のように冷たい瞳。夜の闇を背後に、《彼》の顔が間近に迫っている。
「言ったよな、俺はテメェを助けたくて忠告をくれてやったわけじゃねぇ。寧ろ死ね、クソカマトト女」
「……ひどい言われよう。キミ、恋とかしたことないでしょ?」
「女はベッドで十分だ。テメェじゃ、慰めにもならねぇけどな」
ベッドに押し倒され、マーサは動揺をひた隠して笑みを浮かべる。《彼》は四肢に至るマーサの動きを無理やりに押し込めつつ、マーサの胸元をちらとみては嘲笑を返した。
「何のつもりかな?」
「これ以上、ジャンをたぶらかされたら、俺の目的の邪魔になる。破滅寸前のメス豚が。黙って言うこと聞いときゃ、ちっとは長生きできたのによ」
低い声で囁くのは、愛の言葉でも何でもなく、明確な宣戦布告。しかも既に勝ち誇っているような。
ただ甘やかされて育ったような、世間知らずな性格に隠れていたらしい本性。今度こそ本物の殺意を素肌で感じて、予想していたよりも遥かに危険な男だと悟った。
「テメェは、殺してやろうか?」
鎖が揺れる音。
《彼》の手が、マーサの目の前に迫る。
「今、ここで」
伸ばされた手から、暴れて逃れるでもなく、じっと見つめる。
マーサはあくまで冷静に、悲鳴の一つも漏らさずに表情を変えた。
タオル着一枚でも自分は勇者なのだ。だから《彼》も油断はできない。だからこそ、急に押さえつけている女から抵抗の手応えを感じまくなった《彼》は、分かりやすい動揺の仕草は見せず、僅かに口元を歪めるに留めたらしかった。
「ねぇキミ。そういえば、せっかく乙女の部屋に来たんだからさ」
それから、マーサの声色が少し変わった。
《彼》の筋張った首筋に、柔らかな感触の腕が回される。漆黒の後ろ髪を撫でて、頭をそっとたぐり寄せる。
「人間とは、したことあるの? こういうコト」
耳元で囁き、そして囁いた唇が、《彼》に迫る。艶やかな唇。目と鼻の先に艶やかな色気が迫ってきても、《彼》は冷ややかな表情を崩さない。
それでも、少し目を見開いている様子だ。存外に初心な反応であり、このまま呆気なく落ちてしまうのではないかとさえ勘ぐった。
このタイミングで、部屋のドアがノックされる。
マーサの顔に焦りは見られない。《彼》が顔をあげ僅かに動揺した、直後の事。
「っ……!」
隙を見計らった一撃だった。《彼》の腹を、ベッドに垂らしていた右腕が勢いよく突き上げた。いつの間に手にしていたのか小さなナイフが握られている。
手応えは……ない。羽の詰まった枕でも突き刺したような感触だった。
「……チッ……!」
のけぞった《彼》を更に蹴り飛ばして活路を見出そうとした時。マーサが颯爽と上半身を起こして目をやれば、もうそこには、部屋の闇だけ。《彼》の姿はどこにもなかった。
「ヘロイーズ様?」
扉の向こうで、ホテルマンが不思議がっている。マーサはすぐにベッドから飛び降りると、着崩れたバスローブを整え、ナイフを再び枕の下に隠してから、扉の鍵を開いた。
「お待たせしました~」
「あの、お約束のルームサービスをお持ちしましたが……どなたかいらっしゃいましたか?」
「い―え、全然」
マーサがそそくさとホテルマンの持ってきた皿を受け取る。礼を言って扉を占めると、誰にも気づかれぬように安堵の息を吐いた。
寝る前だというのに、嫌な冗談を聞いてしまった。ふと、床を見やれば、黒い羽がひとひらだけ散っている。やはり人ではなかったのか。仕方がなかったとはいえ、見逃すべきではなかったのかもしれない。
疎んじるように人睨みだけしておくと、すぐに目つきを歓喜のものに変え、今しがた受け取ったばかりの一更に向けられる。
お待ちかねの、ラズベリーチーズケーキ。
「わーい。ケーキ♪」
いけずな男のことなど忘れて、さっさとこの甘さに夢中になってしまうことにした。
●
夜の街の影で、一人、再考する。
路地の木箱にそっと身をもたげ、少し荒れた息を吐き出した。腹から漏れ出る影を抑え、《彼》は我慢ならない悔しさを磨り潰すように歯ぎしりする。
あの女の脅迫。あの女の殺害。両方が失敗した。名を失い、力を失っているこの状態では仕方がなかったのかもしれない。だが、こうなれば是が非でもジャンを会わせるわけには行かなくなった。
ジャンに、このことを知られるわけにはいかない。あいつは黙って、バカみてぇに勇者に憧れていればいい。だからこそ、勇者への志を挫くような可能性は決していただけない。
あの馬鹿女が、孵化する瞬間を見せるなど、もっての他だ。
●
朝。
マオウさんへ
マーサさんと一緒に森の外れに行ってきます。お昼過ぎに戻ります。
ジャン
そんな呑気な内容が書いてあったテーブルの書置きを握り潰し、《彼》は寝癖の残る髪を苛立たしげにかいた。
そして、自身の迂闊さにも苛立ちを覚える。寝過ごした。あのガキが無駄に早起きなのを忘れていた。昨日のうちにベッドに縛り付けておけばよかった。そんな後悔で表情を苦める。
時計を見やれば、時刻は既に昼を回っていた。どれだけ前に出発したのか、まだ間に合うか。考えている時間すらも惜しくなった。
「クソガキ……」
蹴り飛ばすくらいで抑えられようか、この怒り。なんて身勝手さをかましやがる。
向かった場所すら、自分は聞いていない。絶対行くなと頭ごなしに押さえつけたのが仇になったか。書き置きの通りなら、とりあえずは昨日の森かと見当をつけ、《彼》は部屋を飛び出していった。
●
『この影は、仲良しこよし
協力こそ、この影の本能。遊ぶのも獲物を採るのも、いつでもいっしょ。淋しい気持ちは花を枯らしてしまうので、この影たちは孤独を憎み、仲間同士で輪を作って踊るのが、肥やし作りの次にお気に入り。
一人で泣くのはもうやめた。優れたものなど一つもいない。切り株から見渡したなら、みんなみんな同じ花。同じ葉っぱ。この影たちにはそれが誇りであり、同じなのに違うといって汚し合う他の種を、なんて可哀想だとしくしく哀れんでいる。
優しくて、賢くて、力持ち。その上潰して混ぜれば肥やしにもなるのだから、この影は、人とも手を繋ぎたいと考えている』
●
足のように葉を器用に動かし、トコトコと歩く。
苔の生えた木の幹や岩の上、様々な場所で、彼らは揺れていた。白い花弁に、血しぶきのような斑点模様。蟻のような胴体だが、それらは若草色の茎と葉で構成されている。
森の奥深くにこしらえられた、彼らの住処。木漏れ日が届く開けた場所に彼らは群れを作っていた。あるところでは、何匹かが協力して獲物を運び、あるところでは、それを埋める為の穴を掘ったりしている。
彼らにとっての当たり前の日常。切り株の上にいた一匹が、あちらこちらと花を揺らし始めた。人が周りを見渡すかのように。
嫌な予感がする。注意。注意。
花たちの間に言葉はない。だが空気の機微を感じ取り、揺れながら互いに警戒のサインを送る……その一匹が、刺し貫かれた。
「みーつけたっ」
仲間が影と化し、彼らにとっての非常事態を認識するまで一拍。その後、花たちは一斉に逃げ回り始めた。かと思えば、迎撃を企むように蔦を伸ばしているものもいる。
マーサは剣を振って刃の周りを漂う影を払い、一瞬でその場の魔物の位置を目で把握。そうしている間に、視線すら送らないままで足元の花を地面ごと剣で貫く。
「ジャン、質問は後にしてね? まずは終わらせちゃうから」
「は、はいっ!」
マーサは顔だけで振り返り、すぐに地を蹴った。二対の細剣を両手に構え、手馴れたように躍りかかる。
ジャンはやや離れて、マーサの剣技と薙ぎ払われてゆく魔物たちを見守っていた。口を丸く開け、しかし言葉は出ない。マーサの、現役の勇者の戦いを見るのはこれで二度目だが、何度見てもキレがよくて無駄がなく、見ているこちらが唖然とさせられた。それはおそらく、今まさに斬り掛られている魔物側も然りだろう。
一歩踏み込んで切り裂き、二歩退いては貫く。二本の剣がそれぞれの領域を担当し、刃先の届く範囲の魔物を影に還して行く。間合いに魔物がいなくなれば、マーサが跳躍して移動する。それを秒単位で繰り返していく。まるで鮮やかな踊りを見ている気分になる。
ジャンは見学しているだけなのだが、その姿を目で追うのさえ余裕がなかった。風になびく髪、宙を舞う刃の銀色。そんなものにしか目を留めることができない。
柔軟な下半身で花を蹴り上げ、空中にて串刺しにする。剣を振ってそれを投げ捨てるや、自身の背後にいた魔物を、目をやることすらなくついでに貫く。マーサは余裕の笑みを浮かべており、未だ魔物の反撃に晒された様子もない。
「……、ちょっと、逃げちゃったかな?」
ここは、間違いなく魔物らの巣だった。十分とかからず一帯の魔物を仕留め尽くしたマーサは息を荒らす事もなく、入念に辺りの様子に目を這わせていた。
「ジャン、何匹か逃げちゃってたよね?」
剣を腰に戻したマーサに手招きされて、ジャンははっとした。いつの間にやら大半の魔物の退治が終わっていた事に気がついて、気を取り戻したように段差を滑り、マーサの元にやってきた。
「あ、えっと、終わったんだ……。なんか見てる側があっという間っていうか……けどっ、昨日と一緒ですごかったです!」
「うん、後は残党刈りかな? 大丈夫とは思うけど、私の近くは離れないでね」
送られた賛辞にはにかみつつ、マーサは再びジャンの手を取って歩き出した。
魔物が死んだあとに死体は残らない。ジャンにとっては経験済みの光景であったが、何もなくなった一体の様子を眺め、胸中にひっそりと浮かんだ違和感に首をかしげた。
この辺りには木がなく、広場のようになっていた。あの魔物たちが自分たちの住処とするべく一生懸命に切り開いたのだろう。さぞ長い時間をかけたに違いない。
それが、今は何もいない。変化は駆け抜けるようにあっという間だったのだから、違和感は当然のものだ。
人を殺す魔物に同情するわけではない。
が……。
「あの。逃げちゃったのも、追いかけて退治するんですか?」
「もちろん。だって、危険じゃないわけじゃないし、また増えちゃうかもしれないしね」
「へぇ……」
昨日も聞いた話だ。そして相変わらずマーサの言うことは最もであり、先輩勇者の言葉を疑う余地はなかった。些末な疑問だったと首を振って、ジャンは手を引かれるのに身を任せた。
「マーサさんはさ」
「んー?」
「どうして、勇者になったの?」
「両親が魔物に潰されたからかなぁ?」
ジャンは足を止めた。なんて告白をあっけらかんというのか。
「あはは、そうだよね。普通引くよね、こんな話聞いたら」
「いや、あの」
ジャンが言いよどむと、マーサは気楽な笑みを浮かべて手を振った。
「この仕事が終わったら私には次の街があるし、ジャンと離れ離れになっちゃうもの。折角だし、ジャンの話も後で聞かせてよ、私もいろいろ話すからさ」
それから、マーサは何もなかったかのように歩き出す。
ジャンもそれにつられたが、渦巻く動揺までは隠しきれずに俯いた。会話を弾ませる為の何気ない問いかけだったつもりが、忌まわしいはずの過去を吐露させてしまった。マーサの側に気にした様子は一切ない。けれでも、何も感じない筈がないのだ。聞いたこちらが絶句したのだから。聞いてはいけない質問だったかと後悔がよぎる。
草をかき分けて進む途中、ジャンは足を止めた。手を引いてくれるマーサが立ち止まったからだ。
一瞬、ほんの一瞬だけ儚げな表情をして、なんでもない木の根につまずいていた。
「マーサさん、大丈夫……?」
「大丈夫。昨日、ちょっと寝不足でね……」
心配そうに目を向ければ、眉間を抑えたマーサが力なく答える。表情に疲労の色はない、先ほどの魔物たちとの戦いで怪我を負っている様子もない。
本当にただの寝不足なのだろう。再びマーサと目を合わせてジャンは確信した。顔を上げたマーサは体調不良の気や熱っぽさなど感じさせず、明るい笑みでけろりとしていた。
「さ、行こっか。もっとジャンに教えてあげたいこと。沢山あるんだ」
まるでピクニックにでも訪れているかのような嬉々とした気分が、繋いだ手から伝わってくる。その笑みは無邪気でどこか幼く、自分より一回りも年上だと知りながらも、ジャンは可愛らしいと感じて頬に熱がこもってしまった。
こんなに華奢な女性が、されどあれほどの戦いをこなす立派な勇者なのだ。裂いて霧散させてゆく。通り過ぎ様に一刺し、勘と計算を織り交ぜた戦いはあたかも単純作業のようで、マーサがいかに魔物退治で手馴れているのかをひしと感じさせた。
その腕前を、また見られる。
だが一方、この人と食べる昼ごはんも楽しみではあった。どちらかといえばそちらのほうが楽しみだ。そこそこ空腹だが辛抱できる。マーサさんならまた、一瞬で魔物を倒し尽くしてしまうだろうから。
両手に剣を握って立ち振舞う姿をまた想像しつつ、本日の昼飯にもうつつを抜かす。いつしかジャンは前をゆくマーサに手を引かれるがままになっていたが、ふと、足をとめた。
マーサさんが、またつまずいた。
「あれ? ちょっと。張り切りすぎちゃった……かな?」
呟き、首を前に屈め、立ち尽くす。
二度目のその様子にジャンは首をかしげたが、先程同様、またすぐに活発な笑顔が見れると信じて疑わなかった。だが、首を垂れたマーサの顔を覗き込んで、どうやら勝手が違うことを悟った。
まるで信じられないと、口だけで微笑んで目を見開いていた。その微笑みさえ、無理に浮かべているのが見え見えなほどに引きつりきっている。
マーサ自身が、自分の体調の変化に疑問を持っているような、そんな顔をしている。
「マーサさん?」
繋いでいた手が解けた。
様子がおかしい。はっとしたジャンはマーサの前に回り込み、その姿に視線を這わせつつ声をかけた。何度確認しようと、怪我を負った様子は全く見られない。だが、見る見るうちにマーサの表情は青ざめ、ついには膝を折ってしまった。ジャンは咄嗟に腕を伸ばして支え、マーサはなんとか地面に崩れ落ちずに済んだ。
ジャンの肩を借りる手も小刻みに震えている。風でも吹けば倒れてしまうような、不安定で弱々しい立ち方だった。
「あ、れ」
毒? あの花はみるからに毒々しい模様をしていた。あの魔物が毒を持っていたのだろうか。知らぬ間に毒をかぶって、それに身を蝕まれているのだとすれば、こんな風になるのではないだろうか?
ジャンは推測して、しかし、だとしたならどうすればよいのか分からずに頭を抱えた。
「マーサさん?」
実感など、得られはしなかった。
だから、寄り添って眺めるばかりのジャンはその顔を見上げて、名前をそっと漏らすしかなかった。
「マーサ、さん?」
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