第二章

1.ベテラン勇者



 お姉さんへ


 村を出てひと月が経ち、僕は今、旅の途中に通りがかった街に立ち寄っています。親切な宿の人に便せんをもらってこの手紙を書きました。旅人郵便はちゃんと届くか分からないって聞いたけど、お姉さん達の新しい家にまできちんと届きますように。


 そういえば、ジュリは元気ですか? 引っ越しを終えた後も変わりありませんか? 僕が出発するとき凄くぐずついていたけど、それを時々思い出して僕もすごく寂しくなります。


 でも、ここの街の人はみんな親切にしてくれるし、こっちにはマオウさんもいるので大丈夫です。ちょっと怖いけど頼りになるし、剣の扱い方や魔物の種類を教えてくれます。最近では、街の道具屋の秘密について教わりました。お姉さんはとっくに知っているかもしれないけれど、道具屋さんの中には、旅の勇者が山で採った薬草や肉を買い取ってくれるお店があります。そうやってお金を稼ぐんだなと知ってとてもびっくりしました。


 僕は元気です、だからあまり心配しないでください。



 次の街でもまた手紙書きます   ジャンより





 街の中央にあった立派な建物。いくつか並ぶ看板の中に、ポストのマークがある。


 街とその他の外交を司る役所施設の中にジャンはいた。いい身なりをした忙しない大人たちが行き交う広間の端にはいくつか窓口が設けられており、様々なマークの看板が吊られている。


「これっ、お願いしますっ」


 少し迷ってから、それらの中にポストのマークの窓口を見つけて駆け寄ると、ジャンは手の内で温めていた封筒を突き出した。言葉足らずでも今の思いを込めて姉に宛てた手紙だ。


 受け付けてくれたのは、やや長い赤茶色の髪をした、軽薄そうな顔つきの青年だった。渡した手紙が秤に乗せられる。その針を読みとった後に代金を提示されたので、ポケットから財布を出して代金を手渡した


「いつくらいに届きますか?」


 質問すると、青年は「おや?」と口を丸くした。目はやや垂れていて、毛糸のセーターの上に古ぼけた紺のコートを羽織っている。その胸に縫いつけられたワッペンには「旅人郵便 シガラグ・ナナウェル」と書いてあった。


「さぁ? いつ届くか、っつう保証はできね。旅人郵便はそういうもんだ、新米勇者くん」


「え、分かるの?」


「その質問でバレバレさ~」


 手慣れた様子で作業は止めずに、飄々とした口ぶりで青年は答えた。


 封筒に判が押され、名簿に記帳がなされる。その手紙を背後のかごに放り込んで、一通りの作業を終えたらしい青年はジャンを見つめるや、カウンターの向こうから上半身を乗り上げてきた。


「配達員のシガラグだ。シグでいいぜ?」


「ど、どうもっ!」


 握手を求められ、ジャンは慌てて手を差し出した。細身に見えたが、随分と皮の固い手をしている。


「もしかして、もう魔物を倒したことあるのか?」


「え、何で?」


「いや、これでも新米勇者を結構見てきたからさ。何となく分かるんだよな、年の割に肝がすわった顔してるぜ」


 その言葉で、ジャンが照れ隠しにはにかむのも束の間、青年はその陽気な声を潜めた。


「でもよ。名無しの魔王、あれには気をつけろよ」


「っ!」


 囁かれたその台詞に、ジャンは肩をびくつかせる。


「近ごろ出るって噂の名無しの魔王だよ、知らねぇのか?」


「う、うん……」


 ……ここで正直に言えた空気ではなく、歯切れ悪く頷いておく。すると青年に手招きされて、気が進まないながらも耳を近づけた。


「最近、名のある魔王が次々と失踪してるんだってよ。全く無名の勇者が妙な術で魔王の名前を剥がして回ってるらしい。ほら、魔王や魔者は名前を無くすと力を失うだろ? そんで、抜け殻同然になった魔王が人間の街をうろついて、ごまかしでも何かをその身に取り込むために、手頃な子供をつけねらって」


 つけねらって……? ジャンは唾を呑み込んで、その続きをせがんだ。


「グバァッッ!!」


「ぎゃあっ!!」


 じわじわとよってきた青年の顔、その口が突然猛威を振るう。意外にも皮の堅い手でがっしりと頭を掴まれ、かと思えば次の瞬間、青年の犬歯が目の前にまで迫っており、人目もはばからず飛び上がってしまった。


「って、頭からバリバリ喰っちまうんだってよ~」


「び、びっくりした……」


 その反応に満足したようで、青年はけらけらと笑いながらジャンの頭から手を離す。


 尚も見開いた目のままで、胸をさすってその鼓動を落ち着けつつ、ジャンはゆっくりと後ろを振り向いてみた。


 いるのだ、視線の先に。今の青年の話と全てが一致する存在がそこにいる。


 入り口近くのベンチに座り、カウンターまで手紙を出しに行った自分を待っている《彼》が、翼を隠せば誰しもが人間だと信じて疑わないだろう容姿をしてそこにいる。相変わらず不機嫌そうな顔で足と腕を組んでいた。


 名無しの魔王……青年の言葉を思い返しながらその姿を見つめていると、《彼》と目があってしまった。途端に一層目を細め、早くしろと睨みつけてくる。そういえば、前に待つのが嫌いなどと言っていたのを思い出した。


「ま、喰うとかは冗談だけど、手紙を出しに来た旅人全員に注意喚起しておけ、つって上から言われてんだよ。だからまぁ、アヤシイ奴には気をつけな?」


 その言い口はいちいち言うのが面倒臭いと言わんばかりであった。青年も実際に目の当たりにした事はないのか、単なる噂話と付け加えて一笑している辺り、さほど気にしてはいないようだった。


 手紙を出し終わり、青年にお礼を言ってそそくさと歩き出す。背筋は緊張で妙に反り返り、その顔色は、初めての旅人郵便の利用にわくわくしていた時とはすっかり変わってしまった。


 なんというか、嫌な話を聞いてしまった。話を紡ぐ青年の言い口に緊張感は皆無であったが、冗談の域を出ないとは言え、まさかそんな噂が流れていたとは。


 火の無いところに煙は立たない。自分はその実在を知っているし、実際目の前にいるのだ。魔王を自称する名無しの存在。《彼》の元へ戻る足取りも重たくなるというもの。


(まさか……まさかだよな)


「あ、シグ、これもお願いー」


 考えながら歩いていれば、すぐそばで聞こえた快活な声に、ジャンは顔を上げた。


 封筒を片手に、スキップ混じりの足取りでジャンが先程までいた窓口まで歩いていく人。その格好を見て、ジャンは自然と立ち止まり、その姿を目で追った。


 ほぼ下着に近い動きやすそうな服を着て、その上にすたれた長コートを羽織っている。ナイフや小さな荷物入れなどを腰に携え、そんな対魔物の装備とは裏腹の愛らしい顔つき。その人は女性だった。


 旅人の女性だ。気楽な口調で喋りながら封筒を掲げ、ジャンの横を通り過ぎていく。ジャンが茫然とそれを眺めていれば、その途中、女性と目があった。


「あっ……」


 にこりと、微笑まれた。その仕草にジャンがはっとした時には、女性は窓口へともたれかかって先程の青年と話をしている。


 綺麗な人だと思った。ほんのわずかな視線の交錯だったが、そう思った。身近な異性としてまず思い当たるのが、ジャンにしてみれば姉であるメイアだが、知的でしとやかな姉とは違う、弾けるような活発な綺麗さだとジャンは息を呑んだ。


 勇者や冒険者にも、いろんな人がいる。ジャンはしみじみと思って、いつまでも見てはいられないので再び歩き出した。


 《彼》の元へと戻った時、先程に聞いた妙な噂の記憶が、そんな女性を見て気分の浮いていたジャンを現実へと引き戻す。


「……マオウさんってさ、普段は何食べてるの?」


「あ?」


 気まずいからそこの観葉植物でも見やりながら、戻った途端にジャンはそう切り出した。


 いきなりの質問に《彼》は首を傾げていたが、いいから、とさらに返事を催促する。後ろで指をもじつかせ、緊迫の中でジャンは答えを待った。


「人間」


「!!」


「の作ったもんは基本食える、お前らとそんな変わんねぇよ」


 どうやらこの後の昼食の話だと思ったらしい《彼》がそう答えるのに、言葉の始めで一瞬硬直したものの、間もなくジャンは強ばっていた表情を弛緩させ、力なく笑みを漏らした。


「……んだよ今更、知ってんだろうが」


 今までにも一緒に食事をしたことが何度もある。だからその質問の真意が分からないのだろう。《彼》は立ち上がりつつ呟いた。


「俺っ! マオウさんの事信じてるからっ!」


「はぁ?」


 単なる噂とは思っている一方、そんなことはさせまいと釘をさす意味でぐっと拳を握って声を張った。それにどれほどの意味があるかは不明だが、家を出てここまで来てしまった以上、そのような結末を迎えないことを祈るしかなかった。





「で、これは?」


「……戦いの最中に剣を手放さなくする訓練だ。見りゃ分かんだろ?」


 「これ」に目をやりジャンが疑問符を浮かべれば、《彼》は面倒そうに淡々と答えた。

昼食を終え、ここは街の外れを少し歩いた森の中。剣を教えるのに人の目が鬱陶しいとの事でここまで連れ出されたのだ。木々のざわめきや鳥の声の他に音は無く、確かに集中できそうではある。


 場所はいいと思った、しかし疑問だ。ジャンは手を持ち上げる、すると、もれなく剣まで持ちあがる。


 ここに来た直後、《彼》に剣を握ってろと言われて従うと、そのまま両手と剣を纏めて束ねるように布でぐるぐる巻きにされてしまったのだ。文句を言う暇もなく、顔を渋めた次の瞬間にはきつく睨まれた。そしてこの様だ。思いのほか頑丈に縛られて、両手だけとはいえ窮屈で仕方がない。


「なんで?」


 ジャンが首をかしげると、《彼》は唾をそこらに吐き捨てた。


「テメェはアホか。今まで何度剣を捨てやがった? 魔物の前で獲物を手放すのはただの自殺だ、覚えとけアホガキ」


「…………むぅ」


 そこまで言われて、ジャンは頬を少しむくらせながらも俯いた。


 毒々しい口ぶりはともかくとして、ジャンにはその言われように心当たりがあった。今までに何度か行った《彼》との剣の打ち合いについて言っているのだ。《彼》の言うとおりで、ジャンは剣を強く弾かれた折、そうでなくとも大きく後ろに仰け反った時や尻餅をついた時、図らずも剣を手放してしまったことが何度かある。


 その都度、《彼》に訝しげな目を向けられたのをはっきりと覚えている。明らかに不満な面をしていたのだ。いつかは悪態を添えて注意されるかと覚悟はしていたのだが、それがまさか、口だけに留まらず、このような強引な矯正方法が取られるとは流石に思わなかった。


「別にお前だけじゃねぇ。慣れてねぇやつはすぐに手放しやがるから、今のうちにしっかり握りこみを覚えとけ」


「うん、分かった……けどさ、ちょっと痛いから一回解いていい?」


「はっ、やれるもんならやってみろ」


 遠回しに解いてほしいと頼んだつもりがそんな返事が返ってきて、悠々と腕を組んでいる《彼》の挑発的な笑みもまたカチンと癪に障った。仕方がないから唯一自由な口を使うしかない。縛られた手を口まで近づけて、結び目に噛付き、引っ張ってみる。


 《彼》はそれを止めさせることはせず、ただじっと眺めていた。


「……!?……」


 ところが、思いのほか結びが固くてもう一回。しかし解けずにもう一回。どうしてかと謎めきつつもう一回。無駄な努力とでも言いたげな《彼》の笑みが悔しくてもう一回……。

 しかし何度試そうが、顎に痛みが生じるくらいまで力を込めたとしても、その結び目は全く動じなかった。


 おかしい、どれだけ固く結んだとしてもこれはあり得ない。唯の布の感触なのに、これっぽっちも緩む気配がなく、まるでそこだけ時が止まったかのように微動だにしないのだから。


「な、なんで……?」


「いっとくが、それ、俺しか解けねぇから」


 指をさして言い捨てると、突如、《彼》の背中から影が生える。それは形を成し、実体を得て、ばさりと開く音と共に漆黒の翼へと姿を変えた。


 街にいた時には隠していた翼を展開したのだ。それを知ってはいても見慣れてはいないジャンが呆気にとられている間に、《彼》は自らの翼から羽を何本かむしって宙へと放った。


 その軽さで舞い上がっては、ひらひらと落ちてゆく黒い羽。その謎の行動と《彼》の悪戯な笑みにはとてつもなく嫌な予感を覚えたが、《彼》の言う通りで手の拘束は本当に解けないのだから、その行動を茫然と見守るしかなかった。


「全部倒したら、解いてやる」


「っ!?」


 《彼》が不思議なことを言う。だがジャンにとっては、もうそれどころではなかった。

なにしろ、凝視していた羽が、羽だと思っていたそれらが、地に着いた瞬間に黒い絵の具のようになって地面に溶け込んでしまったのだ。変化は止まらない。かと思えば粘土のように変形し、地面から芽が伸びるように浮き上がってくる。


 目の前で起こる不可思議さに一歩たじろいだ頃には、舞い散った羽の全てがその姿を変え、単なる影ではなく立体を得た形となっていた。


 例えるならば、大きな鳥の姿を成している。


(カラス……?)


 真っ黒なその体に一瞬それを連想したが、カラスと呼ぶにはそれより鋭利そうなくちばし、単純に大きな体躯、そしてどこか威厳さえ感じる古代の装飾のような鶏冠。


 そう、これはカラスなどではなく、どちらかと言えば……。


「ま、魔物……」


 気付いてしまった、そんな自分の呟きに背筋が凍る。人生二度目の魔物との遭遇であった。


 一、二……数えれば五頭いる目の前の魔物たちはこちらに向かって吠えたりなどはしないが、その全てが雁首を揃えてジャンを睨み付けていた。明らかに自分に敵意を向けている。鳥類独特の丸い瞳に自分ばかりが映っているのには身震いを覚えつつ、それらを挟んで奥にいる《彼》へとすがる思いで目をやってみた。


「全部倒したら……って、こいつらを?」


「あぁ」


「……俺一人で?」


「当たり前だろうが」


「すげぇ俺の事睨んでるけど……」


「……始めるぞ」


「ま、待ったぁっ!!」


 悲しくも、その言葉は受け付けられなかった。


 《彼》が指を鳴らして合図すると、待っていたと言わんばかりに魔物たちは翼を羽ばたかせて躍り掛かってくる。


 自分の視界が迫り来る黒い翼たちで覆われる恐怖は、空高く悲鳴を上げるには十分すぎた。


「本物の魔物と思え。落ち着いて、一匹ずつ処理しろ」


「いたっ! 痛いって!!」


 呻きつつも慌てて剣を構える。そもそもにして手と剣を縛られているのだから構えるしかなかった。


 くちばしで突かれ、爪で引っかかれ……それらを何とか剣でいなして……実際には大ぶりに振り回しているだけなのだが、何とか凌ぐ。それでも避けきれなかった一撃、一撃がチクチクと肌身に沁みてくる。


 あまりに猛烈な攻勢に、とてもその場に立ち止まってなどいられなかった。辺りを駆け回りつつ、何とか反撃をと隙を縫って試みたが、上手くいかなくて更に焦りが生まれる。


 多勢に無勢、一匹に集中した隙に背後から別の個体に頭をつつかれながら、そう考えざるをえなかった。空を飛んでいては攻撃がかすりもせず、近寄ってきたと思ってもこちらの剣はその身軽さで簡単に避けられてしまう。ジャンにとっては前に倒した魔物の記憶のみが戦いの経験の全てだというのに、その特徴の全てがそれらとは違っていた。


 では、一体どうすればいいのか。おぼつかなくとも必死に応戦しつつ、これらを不思議な力で用意したらしい本人に目をやろうとしたが、あろうことか《彼》は知らぬ存ぜぬと目を閉じて、いつの間にかやや遠くの木にもたれかかっていた。


「なぁっ! いてっ! こいつらどうしたらっ!?」


「さぁな」


「なっ!? 教えてくれるって言ったじゃん!!」


「それくらい、自分で考えやがれ」


 それだけ吐き捨てられ、苛立ちは瞬く間に膨れ上がったが、抗議の間にも魔物たちの猛攻は続く。自分で考えろ? 命の危険はないかもしれないが痛いものは痛いのだ。そんな間が一体どこにあるというのだろうか。


 脳天をくちばしで突かれる痛みに、ジャンの鬱憤はついに爆発した。《彼》からの助けは期待できない、ならば時間を稼ぐ方法は一つ。


 思い切り息を吸い込み、この怒りをばらまくような大音量で、ジャンは吠えた。


「マオウさんのバーカッ! 世間知らずのワガママ大王! 子供相手に大人げねぇんだよっ!」


「っ!? てめぇ!」


 逃げるついでに精一杯溜め込んだものを吐き出して、同時に回れ右。


 《彼》の表情を気にしている暇などなく、ジャンは颯爽と走り出した。





「はっ、はっ……、うわっ!」


 バランスを崩し、木の根に足を引っ掛けて転んでしまう。


 何しろ、両手を拘束されているのだ。走りにくいことこの上なかったが、それでも、足が自由だったおかげでここまで逃げられたのは幸いだった。


 頬の土汚れを拭うこともできないまま、ジャンはその木の根元に腰を下ろした。散々に走り続けた疲労感のままに、荒れた息をこっそりと整える。


 (あ~、なんで俺逃げちゃったんだろ……、絶対怒ってるよな……)


 今一度冷静になって自問したところで、答えなど見え透いている。《彼》の破天荒な教育方法に痺れを切らしたからだ。あの出来て当然と言わんばかりの傲慢な顔は、今思い出しただけでも無性に腹が立つ。


 だが、馬鹿なことをしたとも思う。自分は教え方に文句をつけられる立場ではない。いくら理不尽な目にあったとしても、勇者を目指す自分は結局にすがるしかないというのに。


 老人も言っていたではないか。勇者を目指すなら必ず知識を持った大人に教えを請えと。ジャンは嘆息を吐いた。


「あ~……。どうやって許してもらおう……」


 ただ謝るだけで、果たしてあの暴君が素直に怒りを収めるだろうか? 否。八方塞がりのこの状況にジャンは髪をかきながら唸った。周りは草や木に深く囲まれ、人の気はない。多少独り言で騒いだところで、怪奇の目で見られることもないだろう。


 そう、思っていた。


ザッ。


「え?」


 草が、微かに揺れる音がした。


 だが、風が通り過ぎただけにしては、いやにはっきりとした物音だった。


 まさか、マオウさん? ジャンは途端に顔面蒼白して即座に立ち上がった。こんな森の奥に、偶然立ち寄った人がいる可能性はとても信じ得なかった。


 それとも、ただのねずみか? 叶うなら後者だと信じたい。そう祈りつつも、ジャンは頑なに姿勢を正し、繰り出す謝罪の一文目を必死に組み立てていたりした。


 ザッ。


「ごめんなさいっ! つい出来心でっ!!」


 二度目の物音で、ジャンは反射的に頭を垂れ、声を張った。


 《彼》だと信じて疑わなかった。凄まじい剣幕で胸ぐらでも掴まれるかと戦慄した。だが、怒声が返ってくることはなく、それらしい気配もない。


 ならば……ただのねずみか何かか? ジャンは命拾いした思いでそっと顔を上げた。


 そして、目を見開いた。そこに《彼》がいたわけではない。


「……あれ?」


 物音がした先、恐る恐る目を向ければ、目に飛び込んだものにジャンは首を傾げた。


 そこには、ねずみでもなんでもなく、綺麗な花が咲いていた。純白の花びらに赤い斑点を散らした、血飛沫のような不気味な色合いだが綺麗な花だった。派手な色をして、大きさはジャンの手のひら程はあろうか。そんな花が目の前に咲いている。どうして今までは気がつかなかったのか。視界にちらとでも入れば嫌でも凝視してしまうはずなのだが。


 もしかしたら、珍しい薬草かもしれない。それなら高く売れるかもしれない。《彼》の機嫌を取るきっかけになりうるかと、ジャンは期待を胸に一歩近づいてみた。


「…………うわっ!?」


 だが、すぐにまた、一歩分後ろへ飛び退く羽目になった。


 ジャンは見開いた目で花を見つめ続ける。自分は確かに、その花を摘み取るつもりで近づいた。

 だがまさか、花に逃げられるとは思わなかった。


 何度見直しても変わらない通りで、決して気のせいではない。摘もうとしたジャンの意思を悟ったかのように、突然、花が動いたのだ。そしてよちよちと逃げていく。よく見れば茎の下に、葉に隠れて足のようなものが生えている。それで歩いているのだ。あたかも立ったばかりの幼児のように。


 花は、口をぽかりと開けたままでいるジャンから少し距離をとった後、木の幹の陰に半分隠れて、ジャンの様子を伺っている様子だった。


「ま、魔物?」


 そう呼ぶには見目があまりに弱々しく、妙な気分がしたが、ただの植物である筈がないとジャンは見当をつけた。


(じゃ、じゃあ、まさか……)


 こんなところに魔物? その不自然さは、ジャンにひとつの考えをよぎらせた。


 つまりは、そういうことなのだろう。不思議な力で魔物を生み出す術を持つものを自分は知っている。自分を捕まえる為に《彼》が魔物を増員した。あの黒い鳥の魔物と同じように。即ち《彼》を本気にさせてしまった。


 なにせ、思い切り暴言を吐いて逃げたのだ。《彼》は間違いなく怒っているに違いない。常日頃から不機嫌そうで怖いというのに、そんな状態の彼に捕まったら一体どんな目に遭わされるのか。


 ジャンは辺りを見渡して、必死に《彼》の影を探そうとした。そしてまた、思わぬ衝撃に絶句する。


(……うえっ! いつの間にっ……!?)


 《彼》は見つけられない。その代わり、また白い花を見つけた。

 木の枝の上、草むらの中、上下左右、いつの間にやら至るところに咲いている。指折りで数えていてはきりがない程に沢山。一体どこから現れ出たのか。先程までは追いかける側だった筈が、苦くもジャンは逃げる隙間なく囲まれてしまっていた。


 足で歩き、花が揺れる。目があるようには見えないが、見られている。一匹一匹は特別体が大きい訳でも鋭い牙や角を持つ訳でもない。だが、沢山いる。花が二本足でアリのように蠢く様はどの角度から眺めても異常であり、不気味でならなかった。


 その場に呑まれてジャンが後ずさった時、足首に、冷たい感触。それが痛みに変わるのに時間はかからなかった。


「いたっ……、わっ!?」


 痛みに目を落とせば、これまたいつの間にか、花の蕾をたくさんつけた蔦が自分の足に絡みついていた。蔦を視線でたどれば、その先端は木陰に隠れていた花の魔物へと繋がっている。小さな体躯なりに数匹集まって懸命に、ジャンをいずこかへと引っ張ってしまおうとしているようだ。


 《彼》からの使いで来たのだろうから、連れて行かれる先といえば、聞くまでもない。ジャンは少しづつ引きづられながらも口を開いた。


「分かった! 分かったからっ!」


 しかし、魔物たちは聞く耳など持たず力も緩めなかった。これくらいの蔦なら剣で引き裂けるか? ジャンは考えたが、同時に考える。これ以上抵抗するのは果たして得策か? 《彼》の怒りを買う結果には終わらないか?


 結局、だらしなく引きずられるままになるしかなかった。遠巻きに見ていた花たちも、ジャンの白旗を悟ったかのように足元まで寄ってくる。葉を腕代わりにしてジャンの背を押し始めた。


 まるで絞首台にでも連れられるような気分で、ジャンは花たちの先導を受け入れた。諦めの意思をさらに強めたのは、近づいてくる敵意。空からの襲来者の影だった。


 「こっ、降参っ! もう何もしないからっ!!」


 けたたましい羽音。最初にジャンにけしかけられた、黒い鳥の魔物たちまでやってきた。


 また頭をつつかれると思えば、ジャンは慌てて手を振った。黒い鳥は猛々しく吠え合って、それでもこちらに向かってくる。まさしく地表の獲物を狙う鷹の形相だ。


 無理やり引きずられて、髪まで引っ張られてはたまったものではない。ジャンは縛られた手で剣を構え、懸命に追い払おうとした。


 鳥たちは、ジャンの足元へ降り立つ。同時に、花たちが蹴散らされるように逃げていった。


 (……あれ?)


 振りかぶろうとした剣を、ジャンは寸前になってそっと降ろした。ジャンを連れていこうとした花と鳥の魔物たち。目的を同じくしていたと思っていたのが、意外な光景にジャンは肩をびくつかせた。


 いくらおののいていても、その鋭い爪やくちばしが、ジャンに繰り出されることはなかった。


(助けて、くれてる?)


 どういうわけか、ジャンの周りにまとわりついていた花たちに対し、鳥の魔物は翼を開いて威嚇し、それらを追い払っているようだった。自分より大きな魔物にくちばしでつつかれれば花たちは慌てふためき、錯乱したようにその場で駆け回った。


 腰を抜かすジャンの周りを、翼を見せびらかすようにして歩き回り、なおも近づいてこようとする花たちを牽制している。



「ねぇっ」


「わっ!」


 訳が分からずじっとしていれば、背後から声をかけられた。


 ジャンは肩をびくつかせ、引きつった顔で振り返る。《彼》かと思ったが、その声色は《彼》より高らかで、陽気なものであった。


「キミ、大丈夫? 怪我はない?」


「あ、え、えっと……」


 さらに声をかけられて、ジャンはふとして立ち上がり、声の主へと目を向けた。


 瞬間、いい匂いが鼻先をくすぐった。風に流れる髪、形の良い瞳が、ジャンのすぐ目の前にある。


 額が触れ合うかどうか、そんな距離の先に、美人がいた。こちらに跳んできて、かと思えば手に温かな感触。蔦を切られ、手を握り、そして引かれた。鳥の魔物たちが吠えている。だが女性は目もくれずに、呆然とされるがままになっているジャンを連れていく。


 花や鳥の魔物が見える程度にやや離れた場所で、ジャンは手を離された。


「もう、まさかこんなとこで誰かが襲われてるなんてね。でも間に合ってよかったよかった」


「……! あの時のっ!」


「うん。役所であったでしょ? また会ったねー」


 なんとなくの見覚えをあてに思い返してみれば、ジャンは手を叩いて表情をほころばせた。


 直ぐに見当がついた。旅人郵便を出しに行った時、一目だけした旅人の女性だ。一瞬の羨望を抱いていたジャンの側ならばともかく、向こうにすれば本当にすれ違う程度の関係性だった筈が、嬉しくも自分のことを覚えてくれていたらしい。


 陽気な口ぶりで話を続けつつも、女性は腰から提げていた細身の剣を二本、鞘から引き抜いた。慣れた手つきでぐるりと手繰り、力みなどまるで見えない顔で両手に構える。


 彼女が魔物と戦う術を持つのは、装備に包まれたその格好で明確だった。ちらと見た横顔には、面白おかしい笑みばかりが浮かんでいる。戦いに臨む戦士の顔には見えなかったが、何故だろう、ジャンには彼女があっさり負ける姿など想像できなかった。ほぼ初めて会ったというのに、纏う雰囲気が自分とは別格であることを感じ入った。


「ま、ちょこっとここで見学しててね。さっさと実戦したいのは、山々だろうけ、どっ」


 細身の剣を振り、風を切る音に自身を追わせながら、彼女は木の根を蹴った。


 まさかの再開に言葉を交わす間もなく、彼女は再び、ジャンが元いた場所に駆けていった。


 いまだ花の魔物がうじゃうじゃといる場所へ。二本の剣を操り進んでいく女性を、ジャンは胸を抑えながら見守った。


 見学というにはあまりに途方もなく、彼女の剣は鮮やかだった。

 石の上を跳んだその勢いのまま、そこにいた一匹の花、その花弁の中央を二本の剣で突き刺す。交差した剣を対称に振り、引き裂くと同時に、花は煙たい影と化してかき消えた。


 彼女は余裕の笑みのまま、さらに一歩踏み込んで剣を振る。そこにいた花二匹にも両断の線が引かれて、影と化した。花は逃げ惑い、もしくは蔦を伸ばして応戦しようとするが、それらにも次々と線が引かれていく。


 派手に飛び退くではなく、足で弧を描くように立ち位置をこまめに変え、剣を振る。悠々とそれを繰り返す様は優雅であり、重心に捕らわれない彼女の動きは楽しげに踊っているかのようだった。


 右手に握っていた剣を地面に突き刺し、それを支えにして、体を大きく仰け反らせる。頭を狙ってきた大振りの蔦を回避して、そのお返しとばかりに、目にも止まらぬ勢いで右手を振るった。


 その一秒足らずの先には、遠くの木の上を陣取っていた花が力なく落下し、地面につく前に影となって消えた。彼女の放ったナイフが命中したようだった。彼女は再び剣を地面から引き抜き、必死な花たちと舞い続ける。かかってくる蔦を叩き切り、不気味な模様の花弁を突き貫いていく。


「す、すごい……」


「もうすぐ終わるからねっ!」


 心の声が漏れ出てしまい、ジャンが呟く。すると回避のために背を屈めた彼女から、ウインクが飛んできた。そんな余裕すらすごいと思った。あれだけの魔物を蹴散らしたところで全く息を切らしていない。その細身の体にどれだけの対魔物の経験を溜め込んでいるのか。どれだけの域に達すれば、あのように魔物の反撃を見ることなくさばけるようになるというのか。ジャンは拳を固く握り、のめり込むようにその姿を見学した。


 この人は間違いなくベテランだ。ジャンはその華麗な戦い振りに興奮して頬を火照らせた。


 最後の一匹が貫かれるまで、あっという間のように感じた。影になって消えゆく魔物を見届けることなく、剣を引き抜き、腰の鞘に戻す。全てが終わってから気がついたが、鳥の魔物はどこかに逃げて行ったのだろうか? 彼女の戦いをじっと見ていたが、その餌食になったところは確認していない。いつの間にやら、姿をくらませていた。


 彼女は快活な笑顔で、ジャンに向かって手を振っていた。生き残りの魔物がどこかに隠れている様子はない。


「後輩ちゃんに見られてるってんで、張り切っちゃった。こんな戦いは真似しちゃダメだよ?」


「えっ! なんで! すっごいかっこよかったのに!!?」


 「やっぱりキミも勇者を目指してるんだ?」 女性は楽しげに言うと、胸に手を当てマーサと名乗った。マーサ・ヘロイーズ。ジャンもいそいそと名を名乗る。


「それ」


「え?」


「懐かしいなぁ。剣を握る時の訓練でしょ? 今でもやってる人いたんだね~」


「あ、あはは……」


 半腰になったマーサに指を向けられた先は、剣を無理やりに握らされている両手の拘束。


 どこか懐かしむ様子のマーサを尻目に、ジャンは思い出したように姿勢を正し、表情を引き締めた。


「あの、助けてくれて、あと見学させて貰ってありがとうございますっ! 戦い方とか、とても参考になりましたっ!」


「いやいやなんのなんの。私もたまたま下見に来てただけだし、間に合ってよかったよ」


 手をひらつかせるマーサに厳しい雰囲気はなく、先ほどの戦闘が嘘であったかのように謙虚でおおらかな物言いだ。《彼》とはまるで違う……思い浮かべかけたジャンは首を振り、興奮冷めやらぬ様子で食いつくように言葉を重ねる。


「だってあんなに沢山いたのに、あっという間に全部やっつけちゃって! なんていうか……! す、凄いですよね!」


「あはは、なんか照れちゃうかな~。もう癖になってんだよね、魔物を見逃さないよう立ち回るのってさ」


 コートの裾をいじりながら、マーサが口笛混じりに答えた。


「ジャンも勇者なら、ああいう小さな魔物でも見逃しちゃダメだよ? ほんのちょっぴりの油断が、あとで取り返しのつかない大災害まで成長することだってある。

 だからさ、引き受けた戦場では、勇者は最後まで責任を持たないとね。それがベテラン勇者を名乗ってもいい資格だよ」


「おおっ!」


 マーサの言葉に、ジャンはさらに目を輝かせた。


「あのっ、よかったらもっと話を聞かせてください! マーサさん。俺の中の勇者にぴったりっていうか、強くてかっこよくて!」


「よう、ずいぶん余裕じゃねぇか……」


 え?


 風を切る音、かと思えば大きく木が揺すられる音。


 ジャンの顎が、開けたままで停止する。背後に、何かが落下した。それから鎖の擦れる音。間髪置かずに聞こえた、低い声。


 それらには確かな覚えがあり、その途端に、ジャンは凍てついた頭で言い訳を考えざるをえなくなった。


「この俺に散々探させといて、自分は呑気に休憩ってか? 笑えるなぁオイ」


「いや……これは……」


 振り向かずとも、背後にいる《彼》がどんな顔をしているか分かった。凄まじい程の怒気がその唸るような声色に現れている。


「わっ……!」


 逃げよう、先ほどの後悔を忘れてまで決心した時には、もう遅かった。

 背後から首に腕を回されて、そのまま体を吊り上げられる。されるがままになって恐る恐る顔を上げれば、悲しくも予想を裏切らず、《彼》の怒りに染まった目と嗜虐の笑みがすぐそこにあった。


「オラッ! 暴れんじゃねぇ! もう逃がさねぇぞ!!」


「うわあっ!?」


「聞いたぞクソガキっ! なに呑気に攫われそうになってやがる!」


「ご、ごめんなさいっ!! もうしないからっ!!」


 それを目の当たりに、口では謝りつつもじたばたと暴れ出す。《彼》は捕えた獲物に今にも牙を突き立てんとする獣の形相で、そんなものに大人しく捕まってなどいられなかった。


 マーサは唖然とした様子でそれを見ていたが、ジャンに目で訴えかけられ、愛想笑いをうかべながら仲裁に入る。


「まぁ、まぁ。とにかくさ、みんなで森を出ない? 今日はやけに魔物が多いし」


「あ?」


 ジャンへの懲罰を邪魔されて、《彼》は苛立った顔のままでマーサへと振り向いた。喧嘩腰な《彼》からの強い視線に、マーサは小さく手を振って返す。


「…………。誰だ、テメェ」


「ギャッ!!」


 その姿を睨み、《彼》は少し口を開けると、何の前触れもなくジャンを捕えていた腕を解いた。直後、短い悲鳴と共にジャンの腰が地面に叩きつけられたのは言うまでもない。


「いてて……。あ、えっと、俺この人に助けてもらって……」


「マーサです。よろしく」


 いつまでもへたれたように尻餅をついているのは、憧れの先輩の前では少し恥ずかしかった。ジャンはすくと立ち上がり、腰をさすりながらも手で示して説明する。


 マーサは手袋を噛んで外し、にこやかに色白の手を差し出した。だが握手を求めても、《彼》はつまらなそうにそっぽを向いてしまう。


「行くぞ」


「あ、ちょ、ちょっと待って!」


 ふと、ジャンの手を縛っていた布が、呆気なく解けて地に落ちた。


 そのまま突き放すように舌打ちして、さっさと歩き出す《彼》だったが、ジャンは回り込んで無理やりに立ちはだかった。《彼》に紳士的な礼節など求めるのが間違いかもしれないが、だとしても折角助けてもらって、しかもこの人は勇者の先輩であるというのに、こんな冷たい別れ方もないだろう。


 行く手を阻まれた《彼》に不愉快そうに睨まれ、怯んだジャンは目をそらす。しかしその場から退くことはしない。


「あぁ? まさかテメェ、俺よりあの女の方がいいとか言うんじゃねぇだろうな?」


「そっ、そんなこと……じゃなくて、まだちゃんとお礼も出来てないし……」


「いいかクソガキ、あの女は……」


「あのー」


 指を絡ませながらぼやくジャンに、《彼》が何か言おうとした時、背後からマーサが遠慮がちに声をかけてきた。


「こんなとこでなんだしさ。街に戻ってちょっとお茶しない? ジュースくらいおごるからさ」


「あぁ? んでテメ」「わーわー! はい、喜んでっ!」


 先輩勇者の話を是が非でも聞いておきたいジャンには幸運な申し出だった。不機嫌さを吐き散らかすように一蹴しようとした《彼》のコートを全体重で引っぱってまで黙らせて、代わりに快諾の返事を送る。


 その代償に、怒り狂った《彼》に頭を鷲掴みにされてしまったが、じたばたともがいているうち、筋を浮かべた《彼》の手にマーサの手が重なってきた。


「はい決まり。じゃ、喧嘩してないで行こ行こ?」


 マーサに止められれば、《彼》は汚いものでも払うかのようにその手を振り払った。ジャンは解放され、頭蓋が軋むような痛みでクラクラする中、《彼》にそっと囁きかける。


「マオウさん、ちょっとだ」「先に宿に戻ってる、早く戻って来い」


 頭を傾けてお願いしたところで、《彼》は極めて不愉快そうに顔をしかめ、去っていってしまった。





 街に戻ると、マーサに案内されるまま、とある店の戸をくぐった。ベルの音を合図に店員が笑顔で歓迎してくれる。古風な作りの洒落た店内を進み、奥のテーブルへと案内された。


 マーサが腰の荷物を床に置いて席に座り、ジャンは少しの緊張を胸にその向かいに座った。


「マーサさん、やっぱ勇者だったんですね!」


「うーん。ま、今は、魔物の退治屋さんみたいになってるけどね」


 注文した飲み物はすぐに届いた。マーサがアイスティーで、ジャンがオレンジジュース。


「役所に、魔物退治の依頼を受ける窓口があったでしょ? この街にも仕事で来てるだけだから、ジャンともすぐにお別れかな?」


「そ、そうなんだ……」


「でも、せっかく会えたんだし。よかったら見てみる? 私が仕事してるとこ」


「え! いいんですかっ!?」


 続いたマーサの提案に、ジャンは淋しげだった表情を変えた。


「さっき、見かけた花の魔物。この街の街長さんから依頼された私のターゲットだったんだよね。今日は下見の予定で、明日に巣ごと退治する予定だったの。多分さっきので数は減ったからすぐ終わると思うけどね。朝に行って、昼には終わる予定なんだけど。どう?」


「はい! オレ、見てみたいです!」


「ま、これも経験。いろんなものを見て回るのは大事だもんね」


 マーサが意気揚々と話を進めていく。ジャンはその言葉全てに頷き、すぐ明日だというのに落ち着かない様子で胸を躍らせた。


 が、懸念材料が一つ。


「あ、でも……反対されるかも」


「さっきの、あの人? 私、嫌われちゃったかな?」


「ううん、マーサさんは悪くないって。なんとか説得してみるよ」


「あれま……、ジャンのお友達って、ちょっと怖い人なんだね……」


「友達っていうか……うーん」


 意味もなくジュースをかき混ぜ、ジャンは返事に困った。友達という関係性は即座に否定できたが、しかし代わりの言葉が見つからずに言葉を濁らせる。《彼》と自分との関係……一体どんな言葉がふさわしいのか。自分からすれば勇者と旅について教えてくれる先生……のようなものか、少し違うような気もしたが、友達というよりはそちらの方がしっくりくる。


 では、《彼》は? 《彼》は自分の事をどう思っているのだろうか? 言葉は出会った時と変わらず粗暴で、こちらが何か話しかけても面倒くさそうな顔をして曖昧な返事を返すだけ。これといった心当たりは全くないのだが、もしかしたら自分は気に入られていないのかもしれない。


 考えると不安になってきて、ジャンは首を振ってその先の妄想をかき消した。


「話の続き。マーサさんはさ、どうして勇者になったの?」


「私?」


 《彼》のことを聞かれても話は続かないと思ったので、ジャンは無理やりに話題を切り替えた。単純に気になったし、当たり障りのない質問だとも思ったからこその質問。


 だがマーサは、悩ましげに唇を指でなでて、はっきりした答えが見つからない様子を見せていた。


「うーん、なんでかな? 十四の時……私の故郷にある兵学校を卒業した年に旅に出て、それからは成り行きかな? 困っている人に頼まれて魔物を倒したり、どこかの偉い王様のために悪者を捕まえたり。そしたら、いつの間にかこの仕事でご飯を食べるようになってたんだよね」


「今の仕事って……勇者?」


「うーん、勇者、かな? 多分」


 気ままに伸びをして、どこか遠い目で笑みを浮かべる。


「でも、後悔はそんなにないかなぁ? そりゃ危ない橋を渡ったことは何度もあるけどさ。今日のジャンみたく、助けた相手にありがとうって言ってもらえるの、やっぱ嬉しいし、何しろ自由だしね。仕事の条件さえ合えば、いろんな土地を自由に見て回れる」


「やっぱり、旅って楽しいですか?」


 自分よりも長い時間旅をしてきただろうその顔には、積み重ねてきた体験を見た夢のように語る幼さが覗き見えた。誰かに自慢できるような経験もまた、いまだジャンには備わっていないものであり、羨望の眼差しでジャンが問いかけると、マーサは朗らかな笑みのままで、また口を開いた。


「私ね? いつか世界中を見て回って、自分だけの世界地図を作るのが夢なんだ。名産品のこととか、美味しいものの事とかが書いてある、私の偏見たっぷりのおっきな地図。だから今は夢の途中かな。たまに、地位や権威を用意するからずっとここにいてくれって、国の偉い人に言われたりするんだけど、堅苦しいのはちょっと苦手なんだよね。お城での暮らしは便利だけどさ」


 そういう話は聞いたことがある。あっという間に魔物を倒してしまうような腕利きの勇者はやはり頼りになるし、大金を積んででも自分たちの国や街に留まって欲しいと願うのは当然の成り行きだろう。そういう偉い人にお抱えの用心棒としてスカウトされて贅沢な暮らしができるのも、勇者ならではの特権だ。


 マーサがそれを選ばなかっただけ。その気持ちはなんとなくジャンも理解できた。お金が魅力的でない訳はない。だがマーサは、自由な時間を大切にしたくてこの仕事をしているのだと言っていた。大金よりも大事にしたい夢があったからこそ、二つを天秤にかける事ができたのだ。自分の人生を自分で切り開いている。それはそれで、とてもカッコいい人がすることなのだろうし。


 だからこそ、自分にはまだ無縁だとも思う。まだ駆け出しでしかないジャンには、どこかの偉い人に声をかけられるような実力も名声もない。そもそも見定めるべき天秤すらないのだ。だからマーサの言葉は、勇者として成功している者にこそふさわしい話だと思った。


「それが、マーサさんの夢?」


「うん。ちょっと子供っぽいかな?」


「ううん全然! 凄いって思う。でも、俺はまだ……、だって、マーサさんみたいに、どこかの国に雇われるような強くて立派な勇者になれるか、まだ分かんないし」


「私はそんなイイもんじゃないよ~。それに、そんなのはなれるって勝手に思っとくんだって! 人生のうちで元気にはしゃげるのって半分くらいなんだよ? 若いうちに好きなことしまくっとかないともったいなくない? 明日どうなるかなんて、どうせ誰にも分からないんだからさ」


 明るい笑みでマーサは、きょとんとしているジャンの目の前で指を立てた。


「大事なのはさ、自分へのご褒美だよ。だって、勇者って言ったら響きはいいけどさ、やってることは、誰かの代わりに魔物と戦う危なくて命懸けの仕事だし。やっぱ辛いし大変だもの。

 だから、勇者はあくまで仕事と割り切ってさ。誰かの為じゃない、自分だけの時間とか目的とか、そんなのを一個でも持っとくといいよ。勇者じゃない自分の時だって満たされるし、ちょっとは長続きするかもね。この仕事」


 マーサの言葉は始終に渡って軽い口調で紡がれたが、それでも、ジャンよりずっと長い間旅をして、魔物をたくさん倒し、いろんな人に認められてきた勇者からのアドバイスなのだ。剣の握り方とか魔物の倒し方、その特徴の情報だとか、ジャンが想定していた先輩勇者からの言葉よりもマーサのそれは単純明快で、一切の厳しさがない緩やかな指針をしていた。


 自分の為の夢をもて、それが勇者を続けるコツ。他の勇者全てがこのように自由な考え方をしているのかは分からない。ひょっとしたら夢など無縁と自分に厳しくある人もいるかもしれない。だが、目の前の先輩勇者はその考え方を信じ、そして成功しているのだ。この人の弟子になった訳ではないが、学び取って参考にするには十分すぎるアドバイスだった。


 夢……。ジャンは腕を組んで呻いたが、それを察したマーサが慌てて言葉を足した。別に直ぐには決める必要はないと。


「ジャンにも、夢とか見つかるといいね~」


 マーサが両手で頬杖をつき、にこりと笑いかける。


 自分がマーサのような考え方のままの、自由気ままで他の目的も持った勇者になるかどうかは分からない。それでも間違った事は言っていないと思ったから、ジャンは笑って頷いた。

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