約束と旅立ち


 朝。


 一瞬、体が固まってしまった。見知らぬ寝顔があるかと思えば、見知らぬでは済まされない存在がそこにいる。腕を枕にして微かな寝息とともに眠る《彼》の存在は、昨日のことをただの悪夢ではなかったかと思う余地すら与えない。


 そして、こんな状況に陥ったとしても変わらず健康的な快眠を得たジャンは、ボサついた頭をかきつつぼんやりと昨日の出来事を思い返す。《彼》は勝手にベッドの中に潜り込んだかと思えば、いつの間にやら勝手に眠っていて、今更姉に余分のシーツを出してと頼める訳もなく、かといって自分の部屋だというのに何もない床で寝るなどという選択は有り得なくて。


 結局ジャンは、その日突然狭くなったベッドの端で小さくなって眠るに至った。お泊まり会はいつだって楽しいが、まさか、魔王と一緒に寝る羽目になるとは流石に考えた事もなかった。


 すぐそこにある、昨夜の不機嫌な面持ちとは打って変わった、心地よさげに閉じられた目蓋に目覚めの気配は無い。見るともなしにそれを細い目で見やりながら、おぼつかない足取りでジャンはベッドを出た。


 朝の肌寒い空気に身を縮めつつ部屋を出て、階段を降りる。するとすぐ香ばしいシチューの匂いが漂ってきた。いつも通り一番に起きた姉が朝食の準備をしているのだろう。


「おはよう、お姉ちゃん」


「ジャン、おはよう」


 本を読みながら椅子に座っていたメイアに習って腰を下ろす。ささやかな緊張と共にちらと姉の表情を伺ってみれば、いつもどおりのクールな表情をしていた。


 特別起きるのが遅かったとは思わないが、自分が手伝うまでもなく朝食の準備はすでに終わっているようだった。テーブルの上にはすでにシチューやパン、ポテトサラダが並べられていて、待つことなく朝食へとありつくことができた。


 隣には汚れていない空のスープ皿がある、ジュリはまだ眠っているのだろう。


「そういえば、さっき魔法使いのおじいちゃんが来たの」


「え?」


 早速ジャンが一すくいしたシチューに息を吹きかけていると、メイアが若干躊躇いつつ口を開いた。


「後で家まで来てほしいそうよ。随分と調子が悪そうだったけれど」


「? うん、分かった」


 昨日会ったばかりなのに? 何の用かと首を傾げながらジャンはシチューをすすった。


 程よく冷めた温もりが喉を伝って体を芯から温める。濃厚な味付けと共に眠気を払拭してゆくが、それは同時に、忘れていたい記憶さえも揺さぶり起こす。


 約束の三日間。今日はその一日目。


「あ、あのさ、お姉ちゃん……」


「?」


 旅に出てもいい? ……なんて、やけくそでもそう続けるつもりだった。しかしダメだ。既に話を振ってしまっているというのに、肝心のその内容が喉の奥で震えあがって出てこない。結果は分かり切っているからか、自分でも驚くほどに言葉が出ない。


 寧ろ、しようと思えば簡単に、冷たい目をした姉の姿を想像できる。言葉の続きが来なくて怪訝そうにしているメイアの様子は、更なる緊張を負荷してきた。


(やっぱ、ムリだって!!)


 このような無茶を強いてくる《彼》を密かに怨みながら、やつ当たるように勢いよくシチューを口にかきこみ、空にした皿を突き出した。


「おかわりっ!!」


「?」


 舌が熱くてヒリヒリする、しかしなんとかごまかせたようだ。心の準備が全く出来ていなかったのもある。取り敢えずはおじいちゃんに相談してみようと心に決め、今は無理だと諦めをつけるしかない。


 皿を受け取った姉が台所を向いたのを確認すると、ジャンはこっそりと、パンを二つほど取って寝間着の袖の下に隠した。





「ごちゃごちゃとやらは解決したか?」


 折角渡してやったパンに感謝などなく、気怠そうに頭をかきながらそんな言い振りをする《彼》にジャンは苛立ちを隠さない。


「そんな早くに出来るわけないだろっ!」


「早くしろ。待つとか、嫌いなんだよ」


 パンを口で引きちぎりながら、ギロリと視線を強めてくる。


 どかりとベッドに腰を降ろしながら気ままにくつろぐ横柄な姿も一晩たてば不思議と見慣れたもので、普段から幼い妹の面倒を見ているのもあり、その行為自体に何ら感じる所はなかった。


 その口が、自分の所業の何もかもを棚に上げて、そんな自己中心的な台詞さえ吐かなければ。


(何で、こんな事に……)


 それを思えば余計に腹が立ち、苛立ち任せに何か言い返してやろうと思い立った。が、いざ口を開けば上手く言葉が出てこなくて、代わりに重ったるい溜め息ばかりが零れだす。


 どうして、と言い出せば次々巻き起こる理不尽さを恨むしかない。夢を反対される理不尽、家族を人質に取られる理不尽、ベッドを横取りされる理不尽……原因ははっきりしているのに、それをどうすれば解決できるのかが分からない。分からないなら聞くしか無いのだが、直接どうすればいいと聞けるほどジャンは単純ではなく、奇策無しで姉や《彼》と対峙できるほどの蛮勇もない。


「どうして、そこまでしてくれるんだよ……」


 人には有らざる翼を抱き、人を食らうとまで言ってのけた《彼》への不信感は否めない、ジャンは溜め息のついでに目を伏せて尋ねた。せめて言い方に気をつけたのは、《彼》からの旅に連れ出してくれるという申し出自体は素直に嬉しかったからだ。


 家族を人質に脅されてさえいなければ、そして姉に反対さえされなければ、今頃舞い上がる気持ちで荷造りをしていたに違いない。


「俺が勇者になっても、お兄さん得しないじゃん」


 ただ、動機が分からなかった、故に真意が読めず信用ができない。自分が勇者になったところであげられるものなどないだろうし、この人もまた得るものなど無いだろう。何より、魔王……と名乗る《彼》が、自分の敵になりかねない勇者を教える。その行動がどれほど異常かは、それらを本の中でしか知らないジャンにすら大体想像がつく。


 《彼》が目を細めて睨んでくる。ジャンはそれに怯むことなく真っ向から受け止めると、《彼》は億劫そうに眉を曲げながらも口を開いた。


「別に何も企んでねぇよ」


「じゃあ、なんで?」


 問いを重ねると、《彼》は足を組み直し、物思いに耽るよう長い指で唇を押さえた。少しして、気持ちを定めたらしく顔を上げ、また口を開く。


「……お前にある魔物を倒してもらう」


「え?」


 魔物を倒す、その響きだけで胸が高揚した。未知の恐怖もあり、それを上回る恍惚が胸の中に溢れた。


 だが、新たな疑問が生まれる。


「なんで?」


「なんでもいいだろ?」


「お兄さん、その……魔王なんでしょ?」


 だからそこらの魔物よりも強いのでは? そういう意味での発言をどういう風に受け取ったのか、《彼》は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。


「……名前をとられたんだよ」


 吐き捨てるよう呟く。意味が分からず首を傾げると、《彼》は言葉を継ぎ足した。


「何度も言わせんな。名前を奪われたんだよ。だからそいつから取り返し、消す」


 しかし、折角足された言葉もジャンには全く要領を得ない。それでも、《彼》はその魔物に何かをされたのだと、そしてそれがただ事ではないのだとは感じ取れた。語るその眼差しは氷のように冷たく、その奥にある瞳には燃えたぎるような怒りがある。消すというのはその魔物の事か。今までの余裕ぶった奔放な振る舞いとは違い、本気で何かを悔しがっている様子が見て取れる。


 それだけで、ジャンは言葉を失ってしまった。それは自分に倒させると《彼》が言った魔物に向いた怒りであり、自分に向けられたものでないのは分かっているが、それでも明らかな空気の変化は好奇心からくる欲望を根こそぎ奪い去った。それが故意かどうかはともかく、問答無用と放たれた怒気がそれ以上の一切の質問を許さなかった。


「ったく、なんで俺がこんなガキを……」


 終いには、かろうじて聞こえる程度の苦い呟き声が床に向かって絞られた。どうしていいか分からず歩み寄ろうとすれば、それを拒絶するように《彼》はそっぽを向く。


「どっか行くんじゃねぇのか?」


「あ、うん……」


 中途半端な立ち位置でそわそわとしているうち、肩から下げた鞄に目を向けられ、ジャンはぎこちなく頷いた。《彼》はそれ以上興味を示さず、ベッドに寝転がって壁を向いてしまう。


「猶予は三日だからな」


 それだけ言うと、押し黙ってしまった。これ以上話しかけるなと背中で訴えられている気がして、後ろ髪を引かれる思いながら静かに部屋を後にするしかなかった。





 扉を開けた瞬間から、不穏な予感がしていたのだ。


 いくら戸を叩いても返事がなくて、いつもなら笑顔で出迎えてくれるのにそれもない。家の中には、昨日の談笑が嘘であったかのような物悲しさばかりが張り付いている。


  明らかに、おかしい。家の中に立ち入り、奥に耳を傾けると、向こうから苦しげな咳が聞こえてくる。頬が青ざめる予感がさらに強まって、ジャンは滴る冷や汗に構わず中へと押し進んだ。


「じいちゃん!」


 ベッドの上、力なく寝込んでいる老人を見つけて、愕然とした。


「おお、ジャン……」


 弱々しい声には微かな喜びが宿っていた。しかし直後、痛ましい咳が幾度となく漏れ出して言葉の続きを遮ってしまう。


  たまらなくなってすぐさま駆け寄った。まだ至らぬ不幸を連想してしまうほどその衰弱振りは明らかで、たったの一夜でこれほどまで青々と変わり果てた顔色に戸惑いながら、それでも起き上がろうとする老人を必死に静止する。


「じいちゃん……どうして?」


  当然の疑問だった。おじいちゃんが長生きなのは知っている、けれども昨日はあんなに元気だったのに。


  老人は毛布の中から枯れた幹のような腕を出して、自身の胸の辺りを押さえた。


「ここが悪いのじゃ、お医者にかかった事はないが、間違いあるまい」


 言うと、曖昧な笑みでゆっくりと首を振った。


「それに、もう手遅れじゃろうて」


「どうして!?」


「ワシもまた、この村を出てはいけない」


 それだけで、言わんとしている事が分かった。


 いつだって老人は恩着せがましい言い振りを好まないからそんな言い方をするのだが、少なくてもここに人が住んでいる以上、それが決して矮小な行いでないのはジャンにも分かっている。


 この村に医者はいない。いるとすれば隣の村だ。確かに、一時的でも老人がこの村からいなくなれば、魔法の守りが解けて、この村は魔物に襲われるかもしれない。細やかな魔法の仕組みなどは理解できないが、老人によってこの村が守られている事実は知っているからそれは理解できる。


  だが、だからといってこのままでは……。老人の口調には最早自分の運命を受け入れているような落胆が垣間見えて、それがジャンには悔しく、歯がゆかった。


「決めておったのじゃよ。この村の為に尽くすと。そして、いよいよ尽きる時が来たという訳じゃろうな」


「そんな、だからって……」


「そうじゃ、ジャン」


 老人が指を差す。目を向けると、テーブルの上に布の包みが置いてある。


 促されるままそれを取った。白い布で幾重にもくるまれており、持ってみた感触だけでは中身を予想させない。


「……これは?」


「ジャンの欲しがっていた剣じゃよ」


「えっ!」


 驚きが喜びに変わる隙もなく、言葉は続く。


「それだけでない。この家の物、全てジャンにやろう」


 その瞬間、お礼はおろか言葉を失った。


 そこまで言われてようやく気が付いたのだ。剣が欲しいとは言った、だが、これは明らかに望んでいた結末とは違っていて、呑気に浮かれている場合ではないのだと悟った。

受け取れるはずがない。


 これではまるで、今輪の際の形見のようではないか。


「ダメだよっ!!」


 ジャンは叫んだ。目尻からじわりと溢れ出てくる滴が頬に垂れてきて、それを隠すように下を向きながら。


「もう少し、オレが大人になったらって言ってたじゃんか! それにオレっ、剣握ったこと無いしっ!」


 分かっている。こんなことを言っても仕方がないのが分かっているから、声の活力は次第に衰えてゆく。


「じいちゃんが教えてくれるって……、じゃないと俺、危なくて……」


「ジャン……」


 その姿が痛ましく見えたのか、震える小さな手を、細く乾いた手が握る。その手はまだ温かくて体温が伝わってきた。


「旅立つのじゃろう?」


  そして、もう片方の手で涙をすくってやる。ジャンはただ鼻をすすり、頬を真っ赤にして、肩を震わせている。


「剣士や召喚士らと同じ、勇者になり得る魔法使いを生業にしながら、ワシは勇者を目指さなかった。年老いてから旅をしてはみたが、結局この世界のごく一部しか知らぬまま息耐えようとしておる。勿体ないことをしてしまったと悔しくて仕方がない。

 最後までジャンに、大切なことを教えてやれなんだ」


  大切なこと? ジャンは小さく呟いたが、聞こえなかったのかあえて答えなかったのか、老人は優しく微笑むだけだった。


「村の者はワシの死を知れば自ずとここを離れてゆくじゃろう。ジャンも出て行くのじゃ。外には危険がある、魔物もおる、それでも行かねばならん。

 本気で勇者を目指すなら、街に行くといい。実際に魔物とまみえた者もおるじゃろう。その人物から旅の知識、戦い方を学ぶのじゃ。一度くらい断られてもしぶとく頼み込むのじゃぞ? 決して準備を怠ったまま旅立ってはならん。愚か者に命はない、戦う術を知らぬまま戦えるほど、魔王や魔物は甘くはない……!」


 直後、握っていた老人の手がするりと離れた。

 その手は口を押さえる。背を丸めてまでの激しい咳に見舞われて、ジャンは悲鳴を上げ、すぐにその丸くなった背をさすった。


 見ている側が胸を締め付けられるような悶々としたむせかえりが暫く続き、一呼吸の後、目に映ったものにジャンの顔面は蒼白した。


「じい……ちゃん……」


「約束じゃよ、ジャン。危険な真似は決してならんぞ」


 笑みを絶やさず、何事もなかったかのように話を続ける。しかし硬直したジャンは、老人の口から唐突に吐き出てきたそれを目の当たりにして動けない。


 口元を押さえていた手を汚しているのは、粘着質の赤、血だ。一体どれほど病に侵されればそれを吐くまでに至るのだろう。いくら刮目しても、老人がさりげなく手の平を隠したとしても衝撃は消えない。


 唇と、咳を押さえていた手の甲までも赤い飛沫が汚しているのだから。


「こんな老いぼれに、楽しい時をありがとう」


 もはや避けられないのか、その血には締め付けるように心を打たれた。それでも老人の言葉は変わらず、胸の芯に至るまで優しく響いてくる。


「じいちゃん……」


 ベッドの毛布の裾を掴む。それで溢れ出る涙を何とかこらえようとしたが、この現実と向き合うにあたり溜まった胸の中身は堪えられるものではなく、少しずつ、一筋ずつ溢れ出しては頬を生暖かかく濡らしてゆく。


「お前なら、立派な勇者になれる」


 不意に、頭を撫でられた。何か手伝いをした後にいつもしてくれるように。その時は迫っているのだと知っているのに、何故これほど他人に優しく出来るのだろうか、恐ろしくはないのだろうか。


 ジャンは俯いた顔のまま、ゆっくりと目の前の毛布へ顔を埋めた。


 今更隠す事などない、おじいちゃんだけにならば曝け出しても構うものか。我慢など必要ない、そう言ってくれた気がしたのだ。

直後、ジャンの感情が爆発するのを、老人は服で喀血を拭き取りながら見守った。





 帰り道、とぼとぼと通い慣れた道の端を歩く。沈みかけの夕日を背に、自らの長くなった影を虚ろに見つめながら、ジャンは歩いていた。


 出会いは、誕生日に老人から勇者の本を貰った時だった。勇者になりたいといえばとても喜んでくれたっけか。家を訪ねればいつでも歓迎してくれたし、部屋に飾ってある剣を握ってみたいと頼んでみれば、危ないからと木で出来た模擬剣を作って、代わりに持たせてくれた。


 目を瞑れば、老人と積み重ねた様々な記憶が蘇り、そして目を開いた瞬間、目に映るのは切なげに揺らめく自分の影ばかり。思い出は儚く霧散していった。


 死んでしまうのだ。それが近いのだろうとは何となしに分かっていた。けれど、だからといって悲しみが軽減される訳ではない。



「死ぬのか、あのジイさん」


「……見たんだろ? 分かるじゃん」


 背後からの声にそっけなく答える。


 振り向くまでもなく《彼》はそこにいる。部屋を出てきたのか、いつからいたのか、などはどうでもよい。


 一人になりたい。だから振り返らず、足も止めない。


「なら、この村は終わりだな」


 そう思っていたのだが。


 あくまで他人事だと嘲笑うようなその無遠慮な言葉に感情を逆撫でされて、ジャンは立ち止まった。

 老人がいなくなり、村を守る魔法が消えれば、魔物の前では無力である自分を含めた村人はここを出て行かざるを得ない。そんな事は言われなくても分かっている。


「アンタが、何かしたのかよ……」


「……あ?」


 振り返り、怒気を滲ませて呟いた。


 幼くも暗く歪んだ表情に浮かぶのは、気持ちのやり場に困ったが故の嘘の怒りだ。本当はそうでないとは分かりきっているが、どんな感情でもいいからこの悲しみに耐えられるような支えが欲しかった。


 そういう意味では、深い素性の知れない《彼》の存在は八つ当たるのに丁度良かったのかもしれない。何の罪悪感もなく、堂々と猜疑心を抱いていられる。


「俺を連れ出す為に、おじいちゃんに毒でも盛ったんだな! そうなんだろ!」


 言い放つと同時に、空気を張る音がした。じんわりと痛みが訪れたのはその後だ。


 ジャンは目を見開き、染みるように痛む頬をさすりながら前を向いた。


「昨日も言ったよなぁ……、自分の不甲斐なさを誰かのせいにすんじゃねぇ」


 なんとも呆気なく、普通に叱られてしまった。


 人でなしのこの人にそんなことを言われ、しかしそれはどうしようもなく的確で、それがジャンには酷く屈辱的だった。


 痛みが去った頃に恐る恐る目を上げると、苛立った瞳がこちらを見下ろしていた。


「お前ら人はいつか死ぬんだよ。老いて死ぬか、魔物に食われて死ぬか。その中であのジジイは老いて死ぬ。別に特別なことでもねぇ、ガキでも分かんだろうが、おい?」


 言われて、ジャンは悔しそうに俯いた。無慈悲な程事実を突きつけた言葉はしかし正しくて、反論の余地などなく何も言うことが出来ない。


 言葉は続く。その殆どの内容を聞き取る余裕がないまま、鬱憤ばかりが積み重なっていった。その一言一言には無遠慮なトゲがあり、抉るように心に突き刺さってくる。


 そろそろ、我慢も限界だった。


「そんな当たり前を俺に言わせんな、バカ」


「うるさいっ! 分かってるよっ!! どうしようもないから悲しいんだろっ!」


 叫ぶと、《彼》を突き飛ばして駆け出した。実際には《彼》の体が若干傾く程度であったが、それを確認する余裕もないままに突き走った。


 逃げて、どこに行こう? 行く宛は決めていない。こういう時はいつも老人の家に行っていたが、それを思いついた途端余計に虚しくなった。


(何なんだよっ!)


 当たり前。あんな言葉が返ってくるならもう慰めもなにもいらない。完膚なきまでに言い負かされたのが悔しく、冷たいばかりの正論などには納得できず、ジャンはひたすら走りつづけた。





「ただいま……」


 夕日がすっかり沈んだ頃に、ジャンは弱々しくドアを開けた。


 村をあちこち走り回ったとて、結局は家に帰るしかない。家族と直接何かあったわけでもないから気まずさはそれほど無いのだが、こんな顔を家族に見られるのは嫌だった。


 見れば必ず、何かあったのかと聞かれるだろうから。


「ジャン……?」


 だから、姉が何か言う前に、剣を服の下に隠し、さっさと部屋へ上がってしまった。階段を昇り、扉を開け、閉める。あっという間に自分だけの空間を手に入れた。


 見渡す限り部屋には誰もいない、《彼》が待ちかまえていたらどうしようかと心の片隅に不安があったが、さすがにそこまで図太くはなかったようだ。


 少し安堵して、いっそ捨て去りたい程に重くなった心を預けるようにベッドに飛び込んだ。無理やり感情を解放するまでもなく、枕を抱えると自然に涙がこぼれ出てくる。ここは自分だけの空間なのだからそれを我慢する必要はない。俯せになって赤らんでくる鼻をすする。


 老人に受け止めて貰った激情とも言える悲しみではなく、自らが頭を冷やす為の静かな涙。


 少し、少し落ち着いたら下に行こう。自分はこの家で唯一の男だ、二度も枕は濡らすまいと心に決めて、感情の赴くままに嗚咽を漏らし続ける。



「ジャン、入ってもいい?」


 部屋の戸が叩かれた。姉の声だ。ジャンははっとして服の袖で涙を拭った。


 剣をベッドの下に隠し、返事を返した後、戸が開かれた。


「ジャン?」


「お姉ちゃん……」


 ベッドでうずくまっているジャンを見て、メイアもそっとベッドに上がってきた。


 ジャンの隣で足を畳み、ジャンの言葉を待つ。

 姉は自分の悲しみを察している。いつだって心の傷に敏感に反応してくれて、暖かい心配をくれる。急いで自分の部屋に駆け込んだのは、大して意味を成さなかったようだった。


 いたたまれなくなって、ジャンはそっとメイアの胸に飛び込んだ。優しく受け止めるメイアの腕の中で、ジャンは小さく口を開いた。


「おじいちゃんが、病気なんだ。多分もう長くない」


「っ」


「誰かが、代わりに村を守らないと……」


 メイアの胸に顔を埋め、呟く。


 そんな言葉が、自分の口から出るとは思わなかった。あくまで無意識にこぼした言葉で、それはもう、自分が老人を諦めてしまっているということになる。


 それに気がついて、日常の一部と化していた老人の笑みを思い浮かべて、ジャンは一滴の涙をこぼした。頬を伝って流れた温もりは、すぐにメイアの胸元へ吸い込まれていく。


「そう……」


 メイアが背をさすった。何度も何度も、ジャンの不安を払拭するように。


 そして、ジャンの肩を持ち、そっと顔を上げさせた。


「ジャン」


「?」


 メイアの目が、ジャンをまっすぐに見据えている。心を吸い込まれるような深い色をした綺麗な瞳が、頬を赤くしたジャンの顔を映している。


 ジャンははっとして、その間近に迫る顔を見つめ返した。


 窓から差し込んできた月明かりに照らされて、部屋の闇の中、メイアの艶やかな肌が青く輝いている。首を僅かに傾け、儚げな表情をした姉の例えようもない美しさに、ジャンはごくりと唾を飲み込んだ。


「あなたは、自分の心をきちんと見つめ直している? 誰かの言葉に惑わされてはいない?」


「えっ?」


 唇が開かれ、不思議なことを聞かれた。


 だが、続いた姉の言葉に、ジャンは肩をびくつかせる。


「あなたに接触してきた人がいる。それは、誰? よそから来た旅人?」


「っ!」


 ジャンの頭に、《彼》の影が浮かんだ。


 もちろん姉には、どころかジュリにも村の誰にも、《彼》の存在は話していない。


 《彼》だって折角口止めをしたのだから、自分から言いふらしたりはしないはずだ。


 どうして……、どこまで知っているのか。ジャンはただただ目を見開いて、《彼》のことがバレた理由を探したが、皆目見当がつかなかった。


 危ない目にあったのではないか? 次のメイアの質問に、ジャンは静かに首を振る。

 包み込むような姉の心を前に、《彼》の事を話してしまいそうになる。だがジャンは、弱々しく震える肩で首を振った。


 すればメイアは、それ以上の質問をすることはなかった。


 再び、ジャンを優しく抱き寄せる。


「例えこの村をでる羽目になったとしても、私が、あなたとジュリを守る。だから、魔物と戦うなんて考えてはいけない」


 わずかに目を細めて言うメイアに、ジャンは肩の力を抜いて身を預けた。その言葉を最後に話は打ち切られる。メイアは《彼》についてそれ以上の追求はしなかった。《彼》が何者なのか。姉にとっては、顔も素性もわからないかもしれないのに、それに類する質問はない。


 決して言うことができないジャンにはそれがありがたかった。


「今日は、一緒に寝ましょう」


 メイアが窓を見つめながら、耳元でそっと囁くのに、ジャンは密やかに頷いた。




 窓の外。


 屋根の上に寝転がり、屈託なく瞬く星空を見上げながら、《彼》はそれを聞いていた。





 朝起きると、不思議なくらい気分が清々しい事にジャンは気がついた。昨日の出来事を忘れたわけでは決してない。だが一晩眠った事で、いくつか気持ちの整理は着いたようだった。


 隣には、メイアはいない。いつものように自分が寝付いたあとに自分のベッドに戻っていったのだろう。


 一つ驚いたのは、そんな姉の代わりに、平然と《彼》がまた隣で寝ていたことであった。

 無防備な表情をして、自分の横髪を咥え、気持ちよさげに寝息をたてている。だがそれを責めるような気分ではない。


 その寝顔を起こさぬよう静かにベッドを出て、階段を降りた。リビングに入ったその時、姉が着ている黒い服が目に飛び込んできて、あぁそういうことかと思った。


 いつも通りの落ち着いた顔で、だがほんの少し慌ただしく準備に勤しんでいたメイアは、ジャンを見つけるとすぐに声をかけてきた。


「ジャン、おじいちゃんが……」


「うん」


 ジャンの即答に、メイアは押し黙った。が、間もなく見当を着けたように静かに目を伏せる。


 昨日の事を思い出しているのだろう、なら分かっているはずだと、ジャンはあえて微笑んで見せた。


「……これから、最後のお別れに行ってくるけど、ジャンも来る?」


「もうしたから大丈夫」


 やはりそうかとジャンの表情は一瞬虚ろになったが、偽りでもすぐに笑顔を取り戻した。


 受け入れる準備は整っている。昨日に散々と感情を吐き出した甲斐あってか、それを宣告されても意外とショックは少なくて済んだ。


 その返事に目を見開いたメイアは、ジャンと背丈を合わせるよう床に膝を下ろし、直後にジャンを抱き締めた。温かく良い匂いがしてまた涙が溢れそうになったが、小さな拳を握りしめて何とか我慢した。


「ジュリの面倒をお願い」


 耳元で言われ、ジャンを離すとメイアは忙しくリビングを出て行った。



 空を仰ぎ、小さく「ごめんなさい」とだけ呟くと、ジャンは少し立ち尽くしてから、深呼吸をして部屋へと戻った。





「ん……」


 目をくすりつつ、《彼》が目を覚ます。


 周りでごちゃごちゃと騒音がして、ゆっくり眠ってなどいられなかったようだ。


「何してんだよ……」


 のそりと毛布から這い出てきて、しゃがれた声で尋ねてくる。床一面が足の踏み場も無いほどに散らかっていて、その中心にジャンはいた。


 小さな身の丈に不釣り合いな程大きなショルダーバックに、ランプや包帯などを次々と放り込んでいる。


「旅の準備に決まってるじゃん」


 荷造りの手は止めず、平然と言い放った。聞いた《彼》は表情に驚きを隠しきれておらず、それが少し面白かった。


「……別にいいが、どういう風の吹き回しだ?」


「おじいちゃんと約束したんだ、だから俺、決めた」


 そう、決めたのだ。誰に反対されようが、その約束を破ることはできない。


 立派な勇者になって、その姿をおじいちゃんに見せてやりたいのだ。


「お姉ちゃんが帰ってきたら話してみる。それで喧嘩になっても、最後までちゃんと向き合うよ」


「…………」


 覚悟が固まれば気分は楽なもので、変な緊張を抱く事もなく思いを伝える事が出来そうだ。だからこうして荷造りを始めている、どれだけ引き留められても振り返る事などしないように。





「ねぇ、聞いてもいい?」


「あ?」


 明かりを消した部屋。ベッドの上で毛布を掴みつつジャンは、同じく隣で寝転んで、天井を見るともなく見つめている《彼》に話しかけた。


 昼過ぎまでは待っていたのだが、どうやら姉は帰って来ないらしい。葬儀の手伝いと今後の話し合いの為に泊まり込むのだそうだ。ジュリと作った夕食を二人で食べていれば、村の人が家まで来てそれを教えてくれた。


 今後の話し合いとは、間違いなく村を出て行く為のものだろう。


「お兄さん、魔王なんだよね」


「今更なんだよ」


 今一度確認がとれたところで、ジャンは本題を持ち出した。


「どうして、俺が勇者になる手伝いなんかするの?」


 尋ねると、しばしの静寂が部屋を包む。黙りこくってしまった《彼》の様子に少し後悔した。それ程にまずい話題だったろうか? 何だか眠れなくて話しかけてみた、そんな程度の話題に過ぎなかったのだが。


「……言ったろ、ある魔物をお前に倒して欲してもらう」


「うん、聞いた」


「あぁ?」


「じゃあ、その人、何でお兄さんの名前をとったの?」


 暗闇の中、《彼》の表情など分からないままで、話を紡いでゆく。


「……知るか、力が欲しかったんじゃねぇのか?」


「俺、お兄さんの事何て呼んだらいいの?」


「好きにしろ」


「マオウさんでいい? それとも何か名前つけよっか?」


「……あぁ? お前が?」


「うん、俺が」


 少し黙った後、《彼》は素っ気なく呟いた。


「……バカにすんな、取り返せばいいだけだ」


 その言葉を最後に、これ以上の会話を拒否する意味か《彼》はのそりと壁を向いてしまった。


「俺、不安だな……」


 寝付こうにも落ち着けない夜。唯一の話し相手を失い、 仕方がないから独り言を呟いた。姉との対面が、ではなく、その後に長らく続くだろう旅についてである。


 勇者を目指す子供が世界を知るために旅に出るのは自然な行いだと思うのだが、それもその時が迫っているとなれば不安は絶えない。何をすればいいかは本と老人が教えてくれた知識で知っている。それでも、楽しみで胸が湧くような、以前から想像していたような気分では決してなかった。


「不安だ……」


 呟いて、ジャンもまた、静かに目を閉じた。





 地響きが轟く。


 凄まじい重量が落ち着きなく地面を駆け回っている。勢いのままに激突した巨躯は木を根元からへし折って、いとも容易く岩を砕いた。地震と見紛うほどの地響きの元凶は、単純な突進を凶器たらしめている鋭利な牙を二対で生やした、されど猪より大きな獣、それが何匹も。


 獣達は、互いを呼び合うように咆哮を繰り返す。その群れはその日突然、今まではしなかった筈の、無数の人間の気配をその鼻先で感じ取った。





『この影は、飢えた獣。


 だが、空洞の影の体では腹が満ちるはずもない。喰らえるものはなんでも喰らい、なければ探して回る。朝も夜も間抜けな繰り返しをして、己が消え去るその日まで大地を揺らす。


 泥にまみれ、吠え猛る。この影は自身の見目など厭わない。自身の無知を恥じはしない。飼うには粗暴で、従うには無様がすぎる。己の主も部下も、これの目には唯の食事に映るのだから。己を影だとさえ悟らずに、おまけに食器も使えない。


 人の目には大して変わらぬが、これより知を持つ影たちは、これと同じ影の扱いをされるのを嫌って嫌って仕方がない』





「うあっ!」


 突如体が浮くような感覚に見舞われて、ジャンは飛び起きた。


 唐突すぎる目覚めだった。窓からはもう朝日が差し込んでいるが、それが平穏なものでないのは今も続く揺れで明らかだ。


 立っていられない程ではないが、既に部屋のチェストは倒れ、本棚からは本が零れている。


「じ、地震?」


「おい」


 焦燥に呑まれそうになる中、声をかけられて目をやると、いつの間にやら既に起きていた《彼》が、いつにも増して険しい表情で傍らに立っていた。


「な、何?」


「魔物だ、魔物がこの村を襲ってる」


「!!」


 それがこの揺れの元凶? 魔物など見たことはないが、一体どれほどの重量が暴れれば、このような激しい揺れに見舞われるのだろう。


 聞いた瞬間、ジャンは反射的に駆け出そうとしたが、《彼》に肩を掴まれ止められてしまった。


「はっ、放せよっ! お姉ちゃんが!!」


「やかましい、いいから待て」


 《彼》は掴んだ手を引き、ジャンを強引に留めると、昨日よりも大分痩せこけたバックへと寄った。紐を引いて中に手を突っ込むや、その中身を乱暴に掘り返し始める。


 ジャンの興奮は冷めない。何かは分からないがとにかく急かすような視線ばかりを当てていると、《彼》はバックから何か取り出してきて、それを包んでいた布を剥がし始めた。


 それが何かは一目で分かる。幾重にも巻かれていた布を床に捨てれば、一昨日、老人から貰ったばかりの剣が現れる。


「安物だが、まぁ無いよりマシか」


 陽の光にかざして光沢を確かめたり、その切っ先に指を当ててみたりした後、《彼》は刃を掴み、その柄をジャンへと向ける。


「ほら」


「う……」


 顎を振って握れと言われたそれを目の前にして、その刃の煌めきに息を呑み込んだが、迷っている暇はないとジャンは両手で柄を握り締めた。老人の言い聞かせもあり本物の剣を握るのには一瞬躊躇いを覚えたが、それでもしっかりと握り、持ち上げてみたりして初めての感触を味わう。


 重い。金属なのだから当たり前だが、木で出来た玩具とは全く別の重量感が手の平から伝わってくる。


 これで魔物と戦うのかと考えれば感情に火がつく一方、どうしても裂ける肉や血の飛沫を連想しては表情が歪んでしまう。


「見つけたら躊躇うなよ、やられんぞ」


「!!」


 おまけに平然とそんなことを言われるものだから、剣の振り方だとか、もっとよいアドバイスは無いのかと、小馬鹿にしたように鼻をふかしている《彼》を睨んだ。


「エサを探しに来たんだろうな。俺を睨む暇があるなら、急いだらどうだ?」


「分かってるよ!」


 言われるまでもない。強弱のある揺れが続く中、ジャンは部屋を飛び出した。





「お姉ちゃんっ!」


「ジャン!」


 姉の居場所は分かりきっている。老人の家へと向かう角にまでやってくれば、メイアと、黒い服の村人が何人か集まっていた。


 ジャンが姿を見せると、メイアは安堵した様子で胸を撫で下ろしていた。その顔は本当に嬉しそうにほころんでいて、少し大袈裟に感じたメイアの反応に少し恥じらいを覚え、ジャンはそっと目を伏せた。


 ちらと目をやれば、すぐそこに、白い花に埋もれるようにして新しい墓が出来ている。泥のついたスコップを持っている村人もいて、つい先程、老人の埋葬が終わったばかりなのだろう。


「あぁ、良かった。ジュリは無事?」


「うん、大丈夫」


「よかったな。全く、ひどい地震だ……」


 とある村人の言葉に、ジャンはさり気なく、背後についてきていた《彼》に目を向けた。


 《彼》は溜め息混じりに、しかしはっきりとジャンの迷いにけりをつける。


「地震じゃねぇ」


「君は?」


 見慣れない風貌に村人の誰かが尋ねたが、それに答えはせず言葉は続く。


「この村に魔物が来てる」


 その発言に、その場の全員が表情を変えた。


 見慣れない者の不確かな発言だとしても、それの恐ろしさが分かるから、落ち着き払った者など一人もいなかった。


「一体どこに!?」


 辺りを見渡し、それらしい姿を見つけられなかった村人は尋ねた。


 《彼》は面倒そうにして、コートのポケットから出した右手でそっと指を突き差す。一同が各々の視線でそれを辿り、見ればその先には、とある村人の家。


 破壊は、直後の事。



「!!?」


 その場の村人全員が、目を見開く。


 耳をつんざく獣の咆哮と、立っていられない者が現れる程の尋常でない揺れが辺りに襲いかかった。最早ただの地震でないことは明瞭であり、ジャンはメイアに抱き寄せられ、その腕の中で更に目を見張った。


 破壊の音、辺りを包む粉塵。その家の壁が突如として爆散したのだった。


「あれが……」


 元より嘘を言っているようないい口には感じられなかったが、やはり《彼》の言った事は正しかったようだ。


 その姿をいち早く確認し、逃げ惑う村人が現れ始めた頃、遠目に覗けた影。いまだ十年分程度の人生しか映していない幼い瞳で目の当たりにしたその存在に、ジャンは茫然と呟いていた。


 影は、強靭そうな四肢を持つ巨体だった。その巨体を包む、泥の跳ねたごわついた毛皮。それから今握っている剣の二回りはあろう二対の鋭い牙。猪にも見えるがその大きさは雲泥の差だ。初めて見るジャンにも、あれは魔物なのだとすぐに理解できた。


 そして、それは一匹だけではない。破壊した家の中から更に一匹、もう一匹。視認しただけで三匹の魔物が目の前にいる。


「ジャン!」


 他の村人に同じく逃げようとするメイアからの呼び声に、しかしジャンは呆然と立ち竦み、魔物から目を離さずに返事をしようともしない。


 幸い魔物は他の狙いに集中していて、逃げる村人には目もくれていなかった。今逃げたなら、どれだけ竦み足で走ったとしても、背後から牙で貫かれるようなことはないだろう。


 しかし、その他の狙いが何なのか……。すぐ横の姉が焦っているのは伝わってきたが、ジャンはその場からどうしても動けなかった。嫌な予感を拭えずそれを見極める為に、こうして危険を侵してまであの魔物たちの動きを観察している。


「ジャン!」


 そんな危険を見過ごすなどできず、メイアはジャンの肩を掴み、揺さぶった。


「その剣、どうしたの? まさかあれと戦う気?」


「でもっ、おじいちゃんがっ!!」


 メイアが問いただす。魔物と初めて向き合い、恐怖を払うような大声と共に、ジャンは指を差して叫んだ。


 そうだ。やはりそうなのだ。匂いで分かるのか、丁寧に埋葬されたばかりの老人を、その墓を魔物たちは取り囲んで、あろうことかその鼻先を擦り付けている。そんな様子を悠長に観察してなどいられない。


 最後まで見届けていては手遅れになる。あの魔物達は掘り返そうとしているのだ。


 《彼》の言葉通りエサを探しにきたのならば、そして奴らが老人をエサと思いこんでいるならば、そんな光景を目の当たりにするなど決して耐えられない。


 それが分かって、老人を置いてこの場から逃げ出すなどできない。


 振ったことなどない筈の剣を握り、頑なに動こうとしないジャンを、せめてメイアは自らの影で覆い隠すようにして抱きしめた。そこにいることを魔物に悟られぬよう、例え悟られてもジャンだけは逃がせるよう、祈りを込めた決死の行動。


「どうして……?」


 メイアの腕の中に包まれて、やっとジャンの瞳が魔物から姉を向いた。メイアはその耳元で声を震わせる。


 ジャンを見つめるその目には、いつもの落ち着きがまるで見えない。


 これ以上なく、姉は切迫していた。


「いい加減にして……あなたの選ぼうとしている道が、どれだけ危険なのか分かって。あなたを私に託したあなたのお父さんの気持ちを無駄にしないで。お願いだから、いい加減に分かってよ……」


「お姉ちゃん……」


 震える手が、何度もジャンの頭を撫でる。


 そして、ジャンの握る剣を見て、引きつるような嗚咽を漏らすメイアが、悲痛な表情のままで膝を立てて崩折れた。首を俯け、かろうじてジャンの肩を支えにして上体を起こしている。ここまで追い詰められた姉の顔をジャンは生まれて初めて目の当たりにした。


 姉をこんな気持ちにさせている。自分がここを離れないから、姉も諸共ここで弱々しく崩れているしかないのだ。すぐ目の前に魔物がいる危険な場所に。


 ジャンは言葉を失った。


「ねぇ、ジャン……。私がどうして、あなたの旅立ちを反対するのか、聞いてくれる?」


 呆然と立ち尽くすジャンへと、メイアは叱責するではなく、逆に震える喉で言葉を続けた。


「私、あなたのお父さんが死ぬところを、見届けられなかったの。でも知ってる。言い表せないくらい、とっても悲しい最後だった。私はあなたのお父さんが大好きだったから、たくさん泣いたわ。その気持ちは今だって変わらない。

 そして今は、あなたもジュリも、私にとっては替えのきかない大切な家族」


 まるで、大事な何かを突き出すように、メイアは悔しげに歯を食いしばっていた。ジャンは自然と、手を差し伸べねばならないと悟った。メイアが姉であることを忘れ、目の前の弱りきった家族の手を握り、髪に触れる。まるで妹にしてやるように。


 すれば、メイアは声にならない嗚咽を途切れ途切れに漏らし、ジャンの手を握り返した。自分よりも幼いはずのジャンに頭をゆっくりと撫でられれば、今までの保護者の立場などどうでもよくなって、更にすがるように身をもたげた。


「ごめんなさい」


 自分の行いが原因で打ちのめされた姉に、ただの謝罪を返すのは逆に薄情かと思ったが、ジャンは呟いた。


 まるで息を詰まらせたかのように、メイアの表情がさらに苦しげに引きつった。


「違うの。違う。あなたの勇者への気持ちは最初から知ってた。でも、怖かったの。例え、あなたの気持ちを踏みにじり続けることになっても、あなたを失いたくなかった。自分の知らぬ場所に送り出すなんて、もうできなかった。私の知らないところで、また、ひっそりと死んでしまうんじゃないかって。


 だって、私には、もう家族はあなたたちしかいない。あなたにとって、私はただの代わりで、親ではないけれど……。

 でも私は、本当にあなたたちを……」


 涙をこぼし、嘆願するような言葉に、ジャンは揺らめく。


 震える手を握り続けて、ジャンはそっとメイアから顔を上げた。老人のお墓の周りを周回している魔物達を遠巻きに眺める。


「勇者はね、本当はとても残酷な仕事なの。誰にとっても」


「…………」


 姉は勇者について深く知っている。ジャンはそれを知っていた。なにせ姉は冒険者だったのだから。勇者と冒険者の違いについては区別が曖昧だが、人のために率先して魔物と戦うのが勇者、そうでないのが冒険者だと、いつか老人に聞いたことがあった。


 つまり、姉は勇者同様に魔物の危険を知り尽くしている。だからこそ、自分を止めるのか。何の経験も持たない子供が叶う相手ではないと。当然のことだ。誰だって、凶暴な怪物の前に家族を差し出すなどできないに決まっている。


 確かに、お墓は何度だって作れるし、自分が魔物に食べられてしまえばそれまでだ。おじいちゃんだって天国では行くなと言っているのかもしれない。ここで死んでしまっては、折角決心した勇者の夢を追うことだって叶わなくなる。


 このまま、姉と一緒に逃げるのが、誰が見たって間違いない正解だ。


「お姉ちゃん。このままじゃ、おじいちゃんが食べられる……」


「……ジャン?」


 迷いの中、ジャンはそれでも、剣を固く握りなおした。


 のんびりと考えている暇はなかった。姉の顔を映すジャンの視界の隅で、いよいよ貪欲な魔物の牙により、老人の墓石が砕かれたから。


 やはり、見過ごせない。だがその決断は姉を裏切る結果になる。後ろめたさから俯いて、せめて何か言おうとして口を開いたが、今の姉を納得させるような言葉など思いつかずにやめておいた。


「やめろっ!!」


「ジャン……っ、待ってっ!」


 姉の手を払い、おぼつかなくても剣を構えて駆け出した。こちらに手を伸ばし、地に付す姉の叫びが聞こえる。だが、もう振り返ることはできなかった。


 剣の重みに全体の重心を取られつつも、なんとか転げることなく魔物を狙って突き走る。


 魔物たちは、墓を暴くのに夢中で気付いていないのか、そもそも自分たちの障害にはなりえないと気にも留めていないのか、躍り掛かるジャンに見向きもしていない。


 まさにチャンスだと思った。その巨大な背に向かって、力の限りに剣を振り下ろす。


 本に書いてあった通り、精一杯に乗せた体重で魔物を切り裂く。繰り広げられる光景はそうでなくてはならなかった。

 刃は命中した、間違いなく。その瞬間にジャンの表情はやや弛緩したが、その安心はすぐに拭い去る羽目になる。


「……え?」


 図らずも、間抜けた声が漏れてしまった。最初からさほどうまく行くとは思っていなかったが、それでもこの結果には絶句してしまった。


 斬れていない。不意をついた一撃にも関わらず、全体重を乗せた渾身の一撃であったにも関わらず、その刃は通じることなく分厚い毛皮の前に易々と受け止められてしまっている。


 間もなくして、斬りかかられた魔物が土を掘り返すのを止めて振り返ってきた。感情など備えていないだろう魔物の瞳がじとりとジャンを映す。


(何……で?)


 失敗の理由を考えている間などなく、無意味だったにせよ自分を斬りつけてきた存在に気付いた魔物は、土でべとついた牙を突きつけてきた。抑えの利かない貪欲の標的を新鮮な肉に切り替えてきたのは明らかであり、予想できなかった現実を前に立ち尽くすばかりのジャンの頬に冷や汗が伝う。


 逃げなければ、しかし視界の隅にちらつく老人の墓の残骸が、その決断を一瞬迷わせる。


「ジャンっ!! 早く逃げてっ!!」


「うわあっ!!」


 離れたメイアが必死に声を張り上げる。


 続いて、魔物が高らかに威嚇の唸りをあげた。


 すぐ目と鼻の先にまで迫っている恐怖。痺れるように全身を駆け巡る衝撃を受けとめきれず、その感覚を遠ざけるようジャンは反射的に目を瞑った。


 あの牙に貫かれて、喰われる? 図らずもその瞬間を目蓋の裏側に浮かべてしまう。やはり無理だったのかと咄嗟の後悔に苛まれる。魔物が地面を蹴り、続けざまに見舞われた地響きに腰を抜かした後、それを受け入れる覚悟などないままで、ジャンは数秒後の自らの死を想像した。


 今もこちらまで迫っている筈の魔物、それから逃れるようにジャンは目を瞑り続ける。だが、こんな状況且つ闇の中での数秒は耐え忍ぶには余りに長かった。未だに全身の感覚は生き生きとしていて、痛みも何も感じない。


 そんなことすら分からないままで死んでしまったのかとも思ったが、耳をすませば、魔物の荒い鼻息は確かに聞いて取れるのだ。


 焦らすようにいつまでもやってこないその結末に、恐怖で肩を震わせながらも、ジャンはそっと目を開けてみる。


「……?」


 薄く開かれた視界に映ったのは、迫る獣の牙ではなく、一面の黒だった。


「んな振り方やめとけ、安物なんざすぐ折れちまうぞ」


 低く凛々しい声。


 目を見開いたジャンの頬を、一ひらの柔い黒が撫でる。


「……あ……」


 やはり、この人は魔王なのだ。


 頬の泥汚れを呆然と拭いながら、ジャンは再度確信した。そうだと思わせるのは目の前に間一髪で現れた、一面に広がる黒い壁。目の前を全て闇で染めるほどに漆黒の羽が隙間なく集まって、どれほどの強度がその柔そうな羽に宿っているのか、貫こうと迫る獣の牙から自分を庇ってくれていた。


 そして、その闇の中央に《彼》はいる。阻まれようが何度も体当たりを続ける魔物を背後にして、悠々と腕組みを解かない。その表情は冷たくも屈託のない余裕を見せていた。

魔物の巨体が容赦なくぶつかってくる度、《彼》と背後の羽の壁は僅かながら揺さぶられ、その度に舞い散ってゆく羽は確かな痛みを思わせたが、その表情は全く意に介した様子がない。


 その瞳はひたすら、力なく地面に座り込むジャンを映し、背後の魔物には無視を貫いたままで口を開く。


「立てんだろな?」


「…………」


 傾げた首で冷ややかに睨まれ、厳めしい言い口をされればとてもではないが逆らえなくて、頷きつつ一人で立ち上がる。


 ズボンを叩いてから《彼》を見上げると、ようやく《彼》は手を伸ばしてきた。


「もっと根元、片手はその半分下だ」


「えっ! ね、ね、根元?」


「チッ……」


 慌てふためいているうちに、ジャンの握る剣の柄に、《彼》が手を添えてきた。冷たい指が無遠慮に触れてきて、いきなりの事で戸惑いつつもそれに従って剣の柄を持ち直す。


 初心者への気遣いなど欠片もない乱暴な教え方だったが、何度か握る位置の指摘を繰り返してある程度納得したらしい《彼》が手を離した瞬間、図らずも驚きの声が漏れだした。


 持ち上げるのが全く苦にならない。たったそれだけの事なのに、驚くほど剣が軽くなった。


「すげぇ……」


「あと、斬るんじゃねぇ。ガリのガキが体重を乗せても無駄だ。頭を狙って突くか貫くかにしろ。ガリガキ」


 その言葉に戸惑いながらも頷くと、ジャンの目の前から闇が解け始めた。それらは一枚一枚の羽となって《彼》の背に翼の形で収まってゆく。


 直後、《彼》は未だ背後で鼻息を荒している魔物に向けて、手の甲で拳を打ち込んだ。瞬きの刹那に済んでしまうような、ほんの一瞬の出来事だった。突然の反撃を鼻先に喰らった魔物は短く悲鳴の呻きをあげ、あえなく地面に跪く。


 ジャンが目を見開いてそれを見ていると、《彼》は苛立たしそうに舌打ちした。


「さっさと止めをさせ。それぐらいやれ」


 悶絶する魔物を首で示されて、はっきりした言いようにたじろぎつつも、ジャンは静かに剣を構えた。


 本当に軽い、相手は動けない。これなら、今度こそは行けるかも知れない。


「う、うんっ!」


 大きく頷き、悶絶する魔物の手前にまでそっと歩み寄る。今度は厚い毛皮に守られた胴ではなく、言われた通り、やわそうな毛の集まる広い眉間を刃の先で狙った。近づけば更に分かる牙の巨大さにたじろいだが、なげやりに見えた先程の《彼》の一撃がどれだけ強力だったのか、魔物は小刻みに震えるばかりですぐに動ける様子ではない。


 剣を握り、ちらと振り向いて《彼》を見てみた。相変わらず不機嫌そうな顔で、じっと事が済むのを待っている。


(頭を狙って……)


 言われた通りに、慎重に狙いをすましてから、その先へ。


 ジャンは目をぎゅっと絞り、思い切って刃を突き出した。剣から伝わってくる独特の感触がして思わず剣を離してしまったが、刃の刺さった隙間からは黒いもやのようなものが微かにこぼれ出てくるだけ。


 それに違和感を覚えている間はなく、魔物の巨体が震え、ささやかに絞り出た呻き声の後、その体は跡形も残らず黒い煙となって霧散してしまった。


「やった……」


 しばし魔物の消滅を見守っているつもりだったが、それは瞬間で、気が抜けてしまうほどあっけなく終わってしまった。


 貫いた魔物がたち消え、地面に突き刺さっている剣を引き抜いて、見舞われる脱力感に息を吐く。


 あっという間だとしても。生まれて初めて、この手で魔物を倒したのだ。


「血なんざ通ってねぇよ。血飛沫が見れなくて残念だったな」


「わっ……!」


 ふと、ジャンの体が浮いた。


 見上げれば、すぐ頭上に《彼》の顔。気付かぬうちに脇腹を抱きかかえ、颯爽と前方へ飛び出していた。


 ドドッ!


「えっ!」


 《彼》が着地し、やや距離を置いた場所に身体を下ろされた頃に、背後の地面が爆発。

音に振り向いてみれば、ジャンを狙った第二の魔物の突進が空振りし、その牙が地面をえぐるように突き刺さっている。


 魔物は一匹では無い。魔物を倒した余韻から覚めた後に身を持って気付かされ、助けられなかったらと想像して寒気が襲った。同時にそれを辛辣に指摘されるかと《彼》の顔を恐る恐る見上げてみるが、《彼》はつまらなそうに言い放つだけだった。


「後は、お前一人でやれ」


「えっ!」


 助けてくれたのに? 暗に目で訴えると、《彼》は言葉を足してきた。


「俺の言った事、覚えてんだろ?」


 剣の柄は上を持て、頭を狙って突くか貫くかにしろ。


 受けたアドバイスはこの二つだ。それを頭の中で確認した上でジャンは頷く。だが、あれらはまだ元気に動き回っており、先ほどとは状況が……。


 「で」「だったら、黙ってその通りにしやがれ」


 ギロリと睨まれ、黙らされた。質問はまだまだあったのだが、それをぶつけている時間も無かった。


 残る二匹の魔物が凶暴な牙を突き付け、今にも迫ってこようとしている。


「勇者目指すんだろ? 魔王に出来ることくらい、やってみせろ」


「あぁもうっ!!」


 異議を唱える前に突き出されるように背中を押され、後ろを睨みながらもジャンは駆け出した。


 迎撃する獣の咆哮に足を挫かれそうになりながら、しかとその姿を見つめ、貫くべき場所を見定めつつ、先程の感覚を思い返す。


 魔物の額に剣を突き入れたあの感覚。いつの間にやら魔物はそこにいて、狙うべき眉間もそこにあった。


(ここに……っ!)


 もう、やられる前にやらねければ。ここまで来て迷っている暇などなく、鋭い牙が襲ってくる前に剣を突き出す。仰け反る巨体から即座に刃を引き抜けば、眉間に空いた穴からは先程と同じく黒いもやが溢れ、直後にその巨体は煙となってかき消えてしまった。


(もう一匹!!)


 何故だろうか。恐怖に震えていた先程までとは違う。自分でも驚くほどに軽い足取りで重心を手繰り、動きの流れに乗ってもう一匹へと躍り掛かる。持ち方一つ変えただけなのに剣が手の延長にでもなったかのような自由さだ。最後に残された魔物はこちらの動きに反応しきれていない。


 狙いを定め、 突き刺し、抜く。三度目ともなればそれらにかかる時間は一瞬であった。興奮の最中にある意識の中で、魔物が煙と化して風に流れていったのをしかと確認した。


「……ザコ相手でも、初めてなら合格点か」


 《彼》が何やら呟くのが聞こえる。急に押し寄せてきた疲労感にジャンは肩を落ち着かせて、ゆっくりと剣を寝かせた。


 それでも、呼吸を整える暇もなく、恍惚の余韻からふと我に返ったジャンは一目散に駆け出した。


「マオウさんっ! 俺……」


 颯爽と《彼》の前に立ち、口を開くも、伝えたい感情は上手く言葉になってくれない。夢でも見ていたかのような気分だが、夢ではないのだ。いまやその亡骸は残っていないが、その感覚ははっきりとこの手の内に残っている。


 生まれて初めて、この手で魔物を倒したのだ。剣を突き刺しつつも《彼》の呟きは聞こえていた。確かに今の魔物はそれらの中でも弱かったのかも知れないが、例えそうだとしても、勇者という夢へ一歩近付けた気がしたのだ。


「ありがとう……俺やったよ!」


「当然だ、俺がついて負けるなんざあり得ねぇ」


 そう断言するつまらなそうな表情に変化はない。それでも感動を抑えきれず、《彼》の手をコートのポケットから引きずり出してまで握手を強要する。


  有無をいわさぬ行動に《彼》の表情は一瞬引きつったが、とびきりの笑顔を見せつければやがて言葉をなくし、何を言うでもなくされるがままになった。


「……で?」


「……え?」


 暫くはジャンの歓喜に黙って付き合っていた《彼》だったが、不意にその視線が鋭く突き刺さってきた。


「あの女と話すんだろうが」


「あ……」


 なにより大事なことをすっかり忘れてしまっていた。つまらなそうに鼻を鳴らす《彼》に顎で示されて、緊張しながらも背後に振り向く。


 どうやら無理矢理に押さえられていたらしい。他の村人に腕を捕まれながら、やや離れたところに姉がいた。


  無理もないが、驚愕がその表情には満ちていた。目を見開いてこちらを見つめている。


「お姉ちゃん……」


 それを思うと、億劫になりながら呟く。

すると、メイアは颯爽とジャンの元へと駆け寄った。ふとした拍子に転げてしまいそうな、わき目もふらない必死な走りだった。


「ジャン!!」


「わっ!」


 名前を叫ばれ途端に体は強ばったが、その体を、走ってきた勢いのままメイアは強く抱き締めた。


「あぁ、良かった……本当に……」


 腕の中で、その感触を確かめるように抱き締める。細い一筋の涙を流し、口元で朗らかに微笑んでいる。


 遠慮のない抱擁には少し息苦しさを覚えたが、それでも得もいえぬ安堵があって、静かに姉の胸に頬をすり寄せた。


「お姉ちゃん、俺……」


「いいの、何も言わなくて、あなたが無事だっただけで……」


 ここまで勝手な真似をしたのだ。てっきり怒られるかと思っていたのに、姉の言葉はいっそ意外なほど優しく響いた。そのままこの優しい感触に埋もれていたい誘惑に駆られたが、背後から《彼》の視線を感じれば、ジャンは家族への甘えを捨てて決意を思い出した。


「ううん、違うんだ。いや、それもそうなんだけど……」


 口をもごつかせていると、メイアは抱き締める力を緩め、真っ直ぐにその顔を見つめてきた。その緊張からちらと《彼》に目を向けてみる。


 今度こそ、お姉ちゃんを怒らせてしまうかも。ジャンの気まずさを、しかし《彼》は斬って捨てた。


「……言えよ」


 返ってくる言葉は相変わらず素っ気ないが、無駄がない故に後腐れが全て払拭された。


 呼吸を整えた後、今一度覚悟を定める。姉の涙ぐむ目を見つめながら、はっきりとした言い口で意思をぶつける。


「俺、旅に出たいんだ、勇者になりたい」


「!!」


 ついに、伝える事が出来た。そして予想を超えずメイアの目が見開く。薄く紅の乗った唇が驚愕で小刻みに震えている。


「ジャン……それは……!」


「おじいちゃんと約束したんだ!」


 奮闘の末に老人が掘り返されることはなかったが、無残に粉砕された墓石や蹴散らされた供花を尻目に、ジャンは言い放つ。覚悟は声に現れ、メイアは言いかけた言葉の続きを呑み込むしかなかった。


「最初は怖かったけど……見てくれてたよね? 魔物だって倒せた、この人が教えてくれたから」


 ジャンは《彼》に目をやった。つられるようにメイアにまで視線をあてられて、《彼》は面倒そうに目を余所へ逸らす。


「俺なら大丈夫だって、この年なら別に珍しくもないし、一人ぼっちじゃないから」


 目に見えて明らかな姉の心配を少しでも払拭するように、視線を《彼》から姉へと戻し、精一杯に歯を剥いて笑って見せた。そして姉が一番懸念しているだろう最後の部分を力強く強調しておく。


 ただでさえ心配性な姉に懇願するような表情をさせていることには胸が痛んだが、拙くても自分の気持ちはしっかりと伝えた。勇者になるため腕を磨き、世界を見て回りたい。それが伝えた気持ちの全てである。


 思っていたよりあっという間に終わってしまった。後はどんな返事をくれるのか。沈黙の中、少しじれながらもその時を待った。


「ジャン……」


「?」


 その落ち着いた声とは裏腹に、メイアは後ろめたそうにジャンから目を逸らしている。

沈黙の中で、本当に気まずい思いをしているのは姉の側である事にジャンは気がついた。





 荷物を背負って、ジャンは振り返る。


「じゃあ、行ってくるね」


「あ、あの。ジャン……」


 一時とは言え、家族との別れとはこういう感覚なのか。貫かれるような寂しさを胸に、ジャンが力なく呟く。


 するとメイアが、複雑な面持ちでそっと手を伸ばしてきた。


 早朝ということもあり、この場での見送りはメイアだけだった。懇意にしていた村の人々からの申し出はあったが、その人たちもまた村を出る為の準備で忙しいことを知っていたので、ジャンはその気遣いを丁寧に一つ一つ断った。ジュリは昨日の晩から兄との別れに泣き疲れ、自分の部屋でぐっすり眠ってしまっている。


 この場には、ジャンとメイア、そして離れて《彼》がいる。この村を出るのはジャンだけには留まらない。メイアとジュリもまた、ジャンの旅立ちとは関係なしに西の街に引っ越すことが決まっている。


「やっぱり、もう少し先にしたほうが、えっと、いいんじゃない? 魔物に襲われたばかりだし、それに、もう少しジュリが落ち着いてからでも……」


 メイアが指を遊ばせ、落ち着き無く目を逸らしながら言うのに、ジャンは静かに首を振った。


「今から戻ったって、ジュリに変な期待させちゃうって」


「そ、そう。そうね……。でも」


 それでも言葉を続けようとした様子だが、メイアは首を振ってその先を自制した。心を切り替えるように息を吸い、そして吐いた。


 ずいとジャンの顔を間近に見て、口を開く。


「手紙だけは、欠かさないで? 遠くにいてもあなたの無事を確認したいから。旅人郵便の使い方は分かる? 街に行けば、ポストのマークの建物があるから……」


「うん、大丈夫」


 遠まわしにそんなに心配しなくても大丈夫と伝えたつもりが、どうやらメイアには通じなかったようだ。


 いくら快活な笑顔を見せても、その曇った表情は晴れず、メイアはさらに口を開く。


「あ、あの。それから、食事はきちんととってね? 知らない場所で、雷の夜でも一人で眠れる? お風呂もひとりで入れる? あぁ、やっぱり私も一緒に……」


「だぁぁっ! だ、大丈夫だからっ!」


 胸を抑えて、ついにはそんなことを言い出す姉に、ジャンは大振りに手を振ってそれを拒否した。こんなやりとりも一昨日や昨日で何度したことか。家族と分かれる侘しさは自分も同じだし分かるのだが、いつもは知的でおとなしい性格である姉が、実はこれほどに心配性だったとはさすがに想像もしなかった。


 おまけに、姉に悪意はないだろうが、続いた台詞にジャンはひどく赤面した。周りに人は殆どいないが、《彼》はいるのだ。これから行動を共にする《彼》にそんな恥ずかしい話を聞かれたくはなかった。


「ホントに大丈夫だって! だって、お姉ちゃんもオレとおんなじ年くらいに、一人で旅に出てたんだろ?」


「…………」


 ジャンが気持ちを打ち明けたその夜に、メイア本人からジャンが聞いた話だ。何もメイアだけに限らず、子供が剣を持って旅立つというジャンの行動は、勇者を志す子供ならばとりわけ異常な行動と言えるものではない。


「心配しないでよ。絶対に、お姉ちゃんを悲しませるような事にはならないから」


「ジャン……」


 姉の手を握って、ジャンはにこりとはにかむ。


 少しの間、口をつぐんでしまったものの、メイアは細い指で目の端を拭い、ほんの少しだけ微笑んでみせた。


「……いつかは……こんな日が来るんじゃないかって、怖がってた。でも仕方ないものね。あなたはあの人の子供だから」


「え?」


 ジャンから手を離し、メイアがふらりと立ち直した。


 ジャンに向けて放った言葉か、そうでないのか。ぼそりと呟かれた言葉がよくききとれなくて、ジャンは何度も刮目しながら聞き返した。


「旅の道中は、いくつもの理不尽が待っていると思う。だから、辛くなったらすぐに帰ってきて。見知らぬ土地で、無理をして潰れてしまっては絶対に駄目、約束出来る?」


「う、うん。約束」


 それを聞いて、どこか釈然としないままでいれば、メイアが小指を差し出してきた。ジャンもまた小指を差し出し、絡ませ、そして解く。


 子供同士で言い合うような、何の拘束力もない一瞬の誓いであったが、それだけだとしてもメイアはほんのりと表情を緩めた。幾分かの安らぎを与えることができたと手応えを感じ、ジャンは照れくさくなって髪をかいた。


「じゃあ、行ってくる」


 メイアは気まずい顔で何も答えなかった。口を開けば、また引き止めてしまう。それを必死に自制している様子がジャンの目にも見て取れる。


 だからこそ、あまり時間をかけるべきではないと悟った。見送ってくれる家族に背を向けると、ジャンはやや離れた場所で見ていた《彼》の元へと走る。


 姉の為にも後腐れを残したくないし、そんなつもりはなかった。だからこれは無意識か。ジャンは走りながら、図らずも横目で見やる程度にメイアへと振り返ってしまった。


 すると、口を半分開き、こちらに手を伸ばしている姉の輪郭が、視界の隅に小さく見えた気がした。




「ふぅ……」


 姉の影がだいぶ遠くなってしまった頃に、ジャンは息をひとつ吐いた。寂しさや恋しさ、ほんの僅かの後悔などなど。様々な思いが入り混じった複雑な嘆息だった。


 伸し掛かる肩の重さはこれからの旅への不安で、胸にぽっかり空いたような感触は寂しさによるものだろう。


 嘆息をもう一度。ちらと見やれば、すぐそばに不機嫌そうに腕を組んでいる《彼》がいる。ジャンの顔をちらと見て、その腕組みを解いた。


 その手が、あろうことかそのままこちらに向かってきたのには目を見開く。


「いてっ!」


「んな事でいちいち疲れてんな、クソガキ」


 帽子の上から叩かれた。足して《彼》は、口悪くそんなことを言う。


「なんだよっ! もっと気ぃ使ってくれたって良いじゃんかっ!」


 誰も話を聞いてくれないから、自ら淋しい気持ちをなだめているというのに、《彼》の言葉にはそれに対して思いやりもなにもなかった。待たされて苛立ったから殴った。ただそれだけ。こちらの事情にはまるで目もくれていない。


 相手は子供だというのに、この人はなんて大人気のなさだろう。不服さで飛び跳ねていたジャンだったが、ふとした拍子に、何か思い出した様子で目を丸く開いた。


 そういえば、と、急に表情を変え、《彼》に背を屈めるよう手招きする。


 《彼》は鬱陶しげに目を細めたが、早く早くと繰り返していればしつこさに負けて、手をポケットに突っ込んだままで腰を曲げ、耳を寄せた。


「……言うこと聞いたぞ、これでお姉ちゃんとジュリを食べない約束だからな……」


「……は?」


 だいぶ離れてはいるものの、姉に聞かれぬよう小声で呟く。


 一緒に旅に出ないなら、家族を喰らうとこの魔王は言い放った。それは確かにジャンの中で懸念となり、そしてたった今その約束は果たされた。自分なりに家族を守るべくここまで命をかけてきたのだ。


 が、こちらは極めて本気だというのに、一体どういうわけなのか。


 《彼》は正気か? とでも言わんばかりに目を丸くしてしまっている。明らかに小馬鹿にされたような反応だったが、それでもジャンは冷や汗でじっとりとした視線を送り続けた。


 ジャンは口をつぐんで押し黙り、異様な空気が二人の間に流れる。


 すると、《彼》はついに堪えられなくなってしまったようで、吹き出した口元を手で隠した。


「くくっ……」


「あぁっ! やっぱ嘘だったのかよ!!」


 まさか、とは当初から思っていた。元より感じていた懸念が確信に変わった瞬間であった。


 そうなれば、騙されていた事への恥や怒りがじわじわと苛んでくるというもの。途端にジャンは頬を赤らめながらも目をつり上げたが、それに怯むことはなく、《彼》は口元を押さえながら乱雑に頭を叩いてきた。


「いや、いいよお前、部下の魔者どもよりよっぽどいい」


「な、なんだよっ、何だか知らねぇけど馬鹿にすんなっ!」


 人でなし、なんて吐き捨てたところで《彼》はすぐに頷いてしまうだろう。


 自分の目的の為に脅しの嘘をついたのだ。とんでもなく自己中心的で意地の悪い大人だと思ったが、《彼》を相手に、それを口にするには無謀がすぎる。悔しいが、下手に怒らせればすぐに手が飛んでくるのは容易く想像できた。


 ジャンがいくら睨んできても、《彼》はどこ吹く風と謝りはしない。魔王は悪い笑みで口元を緩めるばかりだった。

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