第一章

1.マオウとの出会い


 風車が回る。


 谷間から吹く風は全ての雪が溶けきった時期に一番強く、清々しくなる。時折、家の屋根まで吹き飛ばすような突風がなきにしもあらずだが、村の周りを囲むように林になった針葉樹たちが通り過ぎる風を細かく分散し、それが村にまで届くことは滅多にない。


 あくまでも心地よくそよぎ、肌を撫でる風を纏いながら、石造りの道を元気に駆け回る足音があった。


 やや履き潰されたブーツで石を蹴って突き走る少年、ジャン・ウィレッジが、村の面々に笑いかけられながら、家々の間を颯爽とすり抜けてゆく。年相応に無邪気そうな顔付きをして、頭には古ぼけたキャスケット帽を被り跳ねの強い髪を押さえている。肩から提げた身の丈に合わない大人用の鞄には、これから向かう先で昼に食べる予定のリンゴやサンドイッチなどが詰まっていた。

 あの鞄を一目見れば、大概の村人はその中身が何かを知っている。そしてその格好で元気に走るジャンを見た誰しもが、あぁまたあの人の元にいくのか、と見当をつけながら笑顔で見送った。


 このまま広い通りを抜け、鶏小屋の角を曲がれば、辿り着く目的地。レンガと木で出来た古めかしい家の前に立ち、ジャンは呼吸を整えるべく大きく息を吸い込む。


「よし!」


 鼻息荒く意気込んで、走っていた時の勢いのまま、若干背伸びになってそのドアを叩いた。

 直後に中から歓迎の返事が聞こえて、ジャンはドアノブを捻る。


「こんにちは!」


「おぉ、ジャン、よく来たな」


 見るからに子供には難しそうな古書を片手に、ゆったり陽の光を浴びながら窓際の椅子に腰掛けている老人が微笑む。その朗らかな声を聞きつつ、ジャンは手を掲げながら扉を潜った。


 扉が閉まると同時に、部屋の壁にまで染み付いた薬草の独特の匂いが鼻をくすぐる。最初は苦手だったがいつしかそんな匂いにも慣れたもので、ここはジャンがいつも遊びに来ている老人の家だ。そして、村で唯一の魔法使いが住んでいる家。老人は昔大都市で勤めていたという魔法使いであり、ジャンの知らない事をなんでも教えてくれる。

 中でも、ジャンが最も興味を抱いている知恵は、勇者について。生憎この村に勇者はいない、けれども老人は勇者を知っている。ジャンの知らない世界中を旅して回り、困っている人を助け、そして人々を苛んでいる魔王をその力で打ち破る、憧れの職業、勇者。


 それに一番知識を持ち、親切に教えてくれる存在がこの村の中では老人であった。ジャンはその話を聞く為だけに毎日のようにここに通っている。聞いているだけで胸が高鳴るような臨場感溢れる冒険譚は楽しいし、いずれ自分も目指すのだから、今から勉強しておいて損はない。

 勇者、勇者……。今だかつてその姿を実際に見たことはないが、勇猛果敢な立ち振舞いを想像するだけで震えが止まらない。いつかは必ず自分も勇者になる。魔王だって倒してみせると、ジャンは誰にともなく誓いを掲げていた。


「走って疲れたろう? 今、茶を入れてやるからな」


「うん、ありがとう」


 老人は本を畳んで重い腰を上げると、ジャンにテーブルに着くよう促して、台所へと入って行った。

 ジャンは若干背伸びになって、自身の身の丈ほどもあるテーブルの上に鞄の中身である昼食を老人の分まで展開した後、椅子に腰かけて、浮いた足をぶらぶらと揺らしながら老人が戻ってくるのを待つ。


 ここは魔法使いの家。暇になった時はいつものように、自分の家とはまるで違うこの空間を楽しむように部屋のあちらこちらを見渡してみる。そうすれば、いつになっても見慣れることのない独特の雰囲気があって、得も言えぬ好奇心に胸が躍った。

 この家には、普通の子供の普段の日常では決して見る事のない面白い物が沢山あった。瓶詰めにした不思議な形の草や干からびた動物の皮、宝石の詰まった箱や魔法に使う杖など。それらは老人の魔法使いとしての顔、ひいては老人がこの村に辿り着くまでの冒険の軌跡を静かに物語っている。


 その中で、一際ジャンが気に入っているのは、奥の部屋の壁に掛けられるように飾られた一本の剣だ。それほど良い品ではないとは老人の弁であるが、その刃の煌めきは本物だと、ジャンはそれを見つけた当初からかじりつくように目を奪われていた。

 いつでも傍にあり、共に魔物と戦う剣は最も分かりやすい勇者の証と言える。ここに来てあの剣を眺める度、剣を握る勇者の立ち振舞いを将来の自分と重ねては、表情をだらしなく緩めて見とれてしまう。危ないからと触らせてはくれないものの、眺めるだけならいくらでも眺めていい、いつでも遊びに来ればいいと老人は言ってくれた。その言葉が飛び上がる程嬉しくて、気が付けばジャンは毎日のようにこの家に通い詰めていた。


「ジャンは、あの剣が好きじゃのう」


 声で振り返ると、老人が台所から戻ってきた。皿に盛られたクッキーを手に持っている。

 ジャンの前の席に腰を下ろした老人に勧められて、待っていたと言わんばかりにジャンはクッキーに手を伸ばした。


「うん、カッコイイもん!」


 老人の家でお茶と言えば、ポットに火をかけている間にこのクッキーが出てくるのはいつもの事。頬張れば香辛料の風味とほんのり甘い味が舌の上に広がる。手が止まらず一枚、また一枚と口に放り込みながら、ジャンは快活に答えた。


「アーヴィングが持っていたような、高いものではないんじゃが……」


 蓄えた髭をいじりつつ、不思議そうな顔をして老人は呟いた。


 その名前を聞けば、ジャンの脳裏に天を仰ぐ男が勇ましく剣を掲げている挿絵が浮かぶ。アーヴィング・ロア・マノールド。ジャンが日々愛読している冒険譚の主人公にして、数百年も前に実在したという伝説の勇者である。その足で世界の未踏を縦横無尽に渡り歩き、魔王の住み着いた土地にて虐げられていた人々を救っては、勇敢な心で何体もの凶悪な魔王と戦いそれを討ち破った、英雄の中の英雄、勇者の中の勇者。


 言わずもがな、ジャンも崇拝しているそんな偉人の使っていた剣なら、やはり高価で立派なものなのだろうか? 金に換算した価値など知るべくもないジャンは、首を傾げつつ曖昧に答えた。


「剣の価値なんてオレには分かんないけど……やっぱり、いつみてもカッコいいなぁ」


「そうか? ならあの剣はジャンにやろうかの」


「本当っ!?」


 いきなりの申し出に椅子を倒してまで飛び上がり、 その衝撃でジャンは殆ど噛み砕けていないままのクッキーを喉に詰まらせてしまった。クッキーのくずが喉に張り付き滞る呼吸、まだ流し込めるような飲み物も無く、胸を叩き、むせこみながらもそれを唾液と共に喉の奥へとやってしまう。


 老人は心配そうに眉を傾けていたが、程無くしてジャンが顔を上げ、真っ直ぐに老人を見つめると、指を立てて言葉を継ぎ足した。


「ジャンがもう少し大きくなったらな」


「え―……」


 喜びも束の間、そういうことかと意気消沈する。


「じゃあ、どれ位大きくなったら?」


「そうじゃのう……」


 クッキーの手を止めて尋ねると、老人は蓄えた髭を撫でながら上を向き、わざとらしく悩む素振りを見せた。


「ジャンが勇者を目指して旅立つ日にでも、プレゼントしようかの?」


「本当に?」


「あぁ、本当だとも」


 老人の頷きとほぼ同時に、火にかけておいたポットが蒸気を吐いて音を鳴らした。急かされるように、老人は続く言葉を一先ず飲み込んで台所へと戻る。


 自然に手伝いをしようとジャンも老人について行き台所へとあがった。火を止めて鍋掴み越しにポットを掴む老人に用意されていたカップを渡すと、老人は微笑んでそれを受け取った。


「ワシは勇者になれなんだ、机の上で魔術を学び、 魔法使いとして長いこと大きな国に仕えたが、結局、一度として魔王と相まみえる事叶わんかった」


 湯気の立つ沸かしたてのお茶をカップに注ぎながら呟く。どこを見ているでもない老人の遠い目を見つめ、それを不思議に思いながらもジャンは隣で黙って聞いていた。

 勇者になれる可能性を持つ者は、なにも剣術に長けた剣士だけに留まらない。魔法使いも召喚士も格闘家も、魔物と戦える力を持っていれば全て平等に勇者を目指すことが出来る。


 だからこそ、何故誰もが憧れる職である勇者を目指さなかったのか? 聞いてみたかったがそれを口にする前に、老人は自分で話を締めくくってしまう。


「勇者になるのは、年老いてから気付いたワシの夢じゃ。ジャンが勇者を目指すなら喜んでワシは応援するぞ」


「うんっ!」


 しかし、力強く背を押される激励の言葉を受ければ、些細な疑問などどうでもよくなって、ジャンは元気に頷いた。

 期待に応えたい、その一心で小さな拳を握って宣言する。


「オレ、絶対勇者になるよ!」


 自分でも、本当にそう思えた。今すぐには無理でも、いつかは魔王を倒して立派な勇者になって見せる。それが決して安易ではなく途方もない夢なのは重々に分かっている。けれど、確信ともとれる程に強い自信をジャンは抱けた。自信は成功の秘訣、やれば出来ると思うことが何より大事なのだと、いつか老人は教えてくれたからだ。


「ほっほ。ジャンが魔王の城を踏みつけて剣をかざす姿、見届けたいのう」


 笑いながらも老人は茶を汲み終えて、湯気の立つカップを持ちつつテーブルに戻る。

 ジャンも上機嫌でその背中に続いた。


「その為には、お姉さんを説得せんとな?」


 老人は悪戯な顔でちらりと振り返る。それが何よりも難問だと、ジャンは一転して顔をしかめた。






 昼食を食べつつ会話を楽しんでいれば時間が過ぎるのはあっという間で、いつの間にやら窓の景色は朱色の夕暮れ時になっており、窓から射す夕日に気付かされてやっと、ジャンは老人の家を後にした。陽が沈みきってから帰宅すれば姉に心配をかけてしまう。それを思えば、自然と足取りも早くなった。


 家へと向かう道中、村の大人たちもどこかくたびれた様子で、各々の仕事を済ませて帰路についている。黄昏時がそうさせているのか、昼間のように快活な雰囲気はなく、お互いの長い影を重ね合いながら、少しばかり首を垂れるばかりの静かな挨拶と共に次々とすれ違ってゆく。


 ジャンもそんな雰囲気に逆らうことはせず、静かにして道の端をとぼとぼと歩いていた。


「……?」


 そんな道中で、ジャンはふと、足を止めた。


 じっとこちらに向けられている視線を感じたのだ。気のせいかと思ったが、背後を振り返っても人違いの雰囲気はない。


 ジャンの行く先、夕日色の壁に背を預けて立っているその人物は、ここいらでは見慣れない格好をしていた。服にあしらわれた鎖をぎらりと光らせて、その金属の光沢すらも沈んでしまうような黒い服を着た、冷たい目の青年だった。


 家の壁にもたれかかってその場に立つ彼の姿を視認した瞬間、ジャンはその視線が気になりつつも、なんとなしに思った。


(カッコいい人だなぁ……)


 一目見たジャンの感想は、そうだった。田舎暮らしの自分だからか、そう思ってしまうほど整った顔立ちをして、反骨的な格好と冷静沈着な雰囲気が目の前の青年には備わっていた。遠くから来た旅人だろうか、普段から高級そうな毛付きのコートなど着ている者はこの村にはいない。


「こ、こんばんは……」


 旅人……もしかしたらだが、通りすがりの勇者であるかもしれない青年に興味が無いわけではないが、その長い前髪の隙間からこちらに刺さってくる眼差しがなんとなく気まずい。挨拶もそこそこにさっさと通り過ぎてしまおうと俯き気味になって、ひたすら歩を進めた。


(……え?)


 しかし、夕日の照り返しが眩しかった目の前の路面が突然影で覆われて、ジャンはまた足を止める。


 家の壁にもたれかかっていた筈の青年が、何を思ったのかジャンの目の前に立っていたのだ。


 行こうとしたその歩を止めるかのように。理由もわからずに道を塞がれたジャンは唾を呑み込んでその場に立ち止まるしかなかった。



「……お前、勇者になりたいのか?」


 低い声色で言う青年の、ジャンを冷たく見下ろすその目は、まるで価値を値踏みされているかのようで怖気を覚えた。


(うわぁ……、コワッ……)


「こ、こんばんは……」


「あ?」


 何かを聞かれたが、どうしていいのか分からずに、ぎこちない挨拶をまた繰り返す。内心で生まれた率直な感想は胸の内にそっと潜めておく。その冷ややかな目で見据えられてジャンの気分は一気に冷めてしまい、ごくりと唾を呑み込んだ。一度その落ち着き払った雰囲気をカッコいいとは思ったものの、いざ前にしてみればそれ故に言葉をかけ辛くて、ひたすら姿勢を正し、適当な笑みで挨拶を返すのが精一杯だった。


 それが気に入らなかったのだろうか、青年は一際目を細めてじろりと睨んでくる。見ず知らずの他人なのに何故これほど睨まれて、そんな質問を投げかけられるのか分からない。もう温かな季節なのに尋常でない寒気がして、ただただ背筋に冷や汗がつたった。


「テメェなめてんのか? 勇者になりたいのか、と聞いた」


「え、あ……、えっと……」


 輪をかけて厳めしくなった声色が更に威圧する。再び繰り返された質問は返事が無くて苛立っていると言わんばかりだったが、気まずい雰囲気の中で声を出すのは気が引けて、ジャンは萎縮しながらも、小さく頷いて見せた。


 何故そんな事を聞くのだろう? ジャンは様子を伺うべく青年を見上げてみる。相変わらずその顔はつまらなそうにこちらを睨んでいたものの、若干口を開き、驚いている様子が見て取れた。


「お兄さん、誰……?」


「……ついて来い」


「えっ?」


 呆気にとられた。質問の最中にて青年はくるりと背を向けてしまう。


「勇者について知りたいんだろ? 教えてやる」


 ついて来いと言いこちらの返事を待つまでもなく、並々ならぬ速度で歩いて行ってしまうその背中を、ジャンは見知らぬ人について行くという姉の言い付けに反する葛藤から一先ずは茫然と見つめているしかなかった。


 一方で、青年の残していった台詞は気にかかる。勇者について教えてくれると青年は言った。それについて質問しようにも大人と子供ではそもそもの歩幅が違うので、今から追い付くには走らねばならないだろう。


 少し迷って、嫌な予感は失せなかったが好奇心には抗えず、その背中がどこかへ行ってしまう前にジャンは勢い良く走り出した。





「お兄さん、誰? ていうか、なんでオレが勇者になりたいって知ってるの?」

返事はなかった。それでも質問を続けようとしたが、青年はずかずかと歩いていってしまうので、見失わないようそれについて行くのに精一杯になってしまった。


(この人……まさか……)


 早足でついて歩きながら、ジャンは考える。この辺りでは見慣れない風貌で、すれ違う住民の注目を集めながら村を練り歩く目の前の青年、その正体を。


 見ず知らずの人間にどれだけ見られても、そのすました横顔に変化は見られない。勇者はいつでも冷静沈着であらねばならない、と本にも書いてあった。そしてこの格好、身を守る鎧の役割を果たしそうには見えないが、間違いなくここより都会に属していた人で、きっと谷を跨ぎ、どこか遠くの土地から赴いてきたに違いない。


(ひょっとして、この人……勇者?)


 見慣れない服、クールな雰囲気、口から出た勇者の二文字。これだけの材料が揃ってその答えに至るのは、ジャンにしてみれば至極当然であった。それにしては口調や立ち振舞いが勇者らしくないかなと感じたが、全ての勇者が皆同じ性格をしている筈もなく、勇者にも色んな人間がいるのだと思えば些末な問題だった。


 この人は勇者、かもしれない。冴え渡った直感で足取りがまた一段と軽くなる。これからどこに連れていってくれるのか、ジャンは青年の影でにんまりと期待を寄せた。


「そこでいい、入れ」


 急に立ち止まり、手で示されたのは村の入口近くに建つ古い倉庫だった。ジャンが生まれる前から建っていたというその掘っ立て小屋は屋根や壁の皮が剥けていて、鍵は無く扉は軋みきっている。誰も使っていないが故に大した物も入っていないのだが、危ないとは知りつつもジャンは常日頃から遊び場にしていた。


 ここには何もない、それが分かっていたから何か珍しい物が見られるかと期待していたジャンは表情に落胆を隠せなかった。肩を落とし、入口の前で立ち尽くしているとまたも青年に睨まれたので、取り敢えずは言われた通りに倉庫の扉を潜る。

何故こんな所に呼ばれるのか不思議だったが、間もなくして入ってきた青年が踏み荒らすような勢いで乗り込んで来た為、押されるように奥の方へと進むしかなかった。


 一体ここで何を教えてくれるというのか。尋ねようとしてジャンは青年へと振り返る。


 ふと、青年が後ろ手で扉を閉じきった。窓が無い為に倉庫の中は一気に暗くなったが、隙間だらけの屋根から光が何本か射し込み、辛うじて青年の姿は視認出来た。


「名は?」


「へ、オレ?」


「アホか。他に誰がいんだよ」


 薄い暗闇の中、腕組みをしつつ閉じた扉に背をもたれながら、青年は無遠慮な口調で尋ねてきた。


「オレは……ジャン。ジャン・ウィレッジ……」


 狭く薄暗い空間に会ったばかりの、しかもなんだか厳しそうな性格の人物と二人きり。 緊張ばかりが張りつめた気まずい空気にたじろぎながら答えると、青年は少し押し黙ってから、また口を開いた。


「さっき、あのじいさんと話してたろ。勇者になりたいとかほざいてたな?」


「あ、そうだ!」


 ……口が悪いながらその一言を聞いた瞬間、先程の予感を思い出した。 途端に気まずさなどすっかり忘れて、取り戻した子供の無邪気さのまま、ジャンは勢いよく質問を投げ掛ける。


「お兄さん! ……もしかして勇者?」


 だとしたなら、聞きたい話は山積みだ。冒険に出たのはいつ頃だとか、魔物を倒すコツだとか、そして、魔王とどのように戦いを繰り広げて、その首を討ちとったのかと。


 期待を膨らませていたからこそ、芳しくない青年の答えは一瞬理解に苦しんだ。


「……、俺は勇者じゃねぇぞ」


「え……」


「勇者の事はよく知ってるがな」


 ショックも束の間。付け加えられたその言葉に、落胆するのはまだ早いとジャンは頭を上げる。


「勇者と知り合いなの?」


「さぁな」


 ぶっきらぼうに答える青年を見上げ、そうなのだと判断したジャンは再びその瞳に輝きを取り戻した。

 しかし何かを尋ねる前に、青年が先に口を開く。


「そんな事はどうでもいい、お前、勇者になりたいんだな?」


「うんっ!」


「どこまで出来る?」


「え?」


 小さな拳を握って力強く答えたものの、その情熱は青年の疑うように冷めきった口調から全く通用しなかったのが明確で、寧ろ間も空けずに帰ってきた言葉には思いもよらず戸惑ってしまった。

 自分が勇者を目指している事は今まで数え切れない程村の大人達に話してきたが、そんな事を聞かれた事など一度もない。母親替わりの姉一人を除いたほぼ全ての大人達は、その夢を貶す事なく応援してくれた。


 いや、貶されたのではない、もしかしたら……自分は試されているのだろうか? こちらを見ている青年の望む答えが何か、はたまたその意思を示せば一体何が得られるのか。ジャンは戸惑いながらもひたすら考えた。


「口だけなら何とでも言えるだろうが。どこまで出来るかって聞いてる」


 続く言葉がじわりとジャンを責め立てる。まるで脅すような口振りは平和な村では中々聞き慣れなくて、ジャンはますます表情を強張らせた。


 正直、何でも出来る、訳は無い。そんなのは当たり前の話だ。しかしここで口ごもったり迷いを見せたりすれば、せっかく掴んだ勇者への手がかりが離れてしまうと思った。


 せめて何か話を聞くまで、取り敢えずは青年の気持ちを繋ぎ止めなければならない。


「な、何でもっ!」


 その答えはあながち嘘ではない、だがそれほどの覚悟までは持ち得ないまま、ジャンは大きな声で宣言した。


「はっ、……確かに聞いたぞ」


 その瞬間、自らの立てた軽々しい誓いに後悔を覚える程、意地悪そうな笑みを青年は浮かべた。何でもないのに何やら弱味を握られたような、そんな気分に陥ってしまった。

 謝って、今すぐ訂正した方が良いかも知れない、そんな考えすら頭をよぎる。

しかし、出来なかった。有無を言わせぬ威圧感を漂わせつつ、青年がこちらに歩み寄ってきたのだ。


「よく言ったよ、お前は……」


 直ぐ傍まで寄って来ると、ジャンの背丈に合わせるよう膝を曲げ、馴れ馴れしくその肩に手を回してきた。その手は血が通っていないかのように冷たく、随分と切られていないのかその爪は異様に長かった。突然の行動にジャンは体をびくつかせ、それが分かっていたかのように、青年は気まずそうにたじろぐジャンを含み笑いで悠々と見据えている。


「えっ……、えっと、あの……」


「分かってる」


 その瞬間、謝ってしまおうと決心した。さっさとここから立ち去ってしまおうと。しかし青年はそれをさせない。小さくなって震えるジャンの肩をしっかり掴んで離さない。


「お前が大した覚悟も無く、ただ俺の気を引きたくてそう答えたのは分かってる、だがお前はその口で、「何でもする」ってほざいちまった、言い逃れは出来ねぇなぁ? クソガキ」


「!!?」


 低い声で吐き捨てて、横目で鋭くジャンを睨み付ける。


 やはり、弱みを握られたあの感覚は気のせいでもなんでもなかったのだと知るや、表情は一気に青ざめてしまった。後悔しようともう遅い。 期待は失せ、とって代わるように恐怖が芽生える、狭く薄暗い空間はそれを更に助長した。

 姉の言い付けを破り、知らない人についてきたからバチが当たったのだろうか。この状況で逃げることなど叶わない、それを読まれてこの行動なのだろう。思えばあの時わざわざドアを閉め切ったのも、きっとこの状況を想定しての事だったのだ。


 一体これから何をされる? いつぞや老人の話に聞いた、子供をさらったりする悪党の存在を思い浮かべる。一度捕まってしまえば都会に連れ去られ、縄と一緒に売られてしまうとの話であったが、まさかこの人物がその悪党だったというのか?


「は、はは……」


 溢れんばかりの想像力が、この時ばかりは仇になる。勇者という自分にとっては極上に甘い言葉にまんまと引っかかってしまった。不安になってそれを悟ればもうごまかすような笑みを浮かべているしかない。目は他にやり場がなく取り敢えず前方の入口へと向けて置いた。隙を見てこの手を払いあの扉を蹴り破れば……勇気を振り絞りそんな事ばかりを考えていると、青年は再び口を開いた。


「はっ、そんなに身構えんな、別にとって喰ったりしねぇよ」


「……?」


「なんてことはねぇ、ちょっとした取引だ。……俺の言うことを聞くなら、お前を勇者にしてやってもいい」


「……えっ?」


 自分を捕まえるのではないのか? いっそ気楽な口調で紡がれた青年の話を聞いて緊張は僅かに弛緩し、その言葉に耳を傾ける事が出来た。


 本当に勇者になれるのならば……なるほど、安いものだとは思う。しかしこんな状況に陥って尚も美味い話につられるままではいられない。考えるまでも無く、当然ながら疑念が浮かんでくるというもの。


「でも、お兄さん、勇者じゃないって……」


「あぁ?」


 思わず飛び付きたくなるような話である一方、勇者になりたいと本気で考えているジャンにしてみれば途方もない申し出でもあった。勇者でない人間が、どうやって自分を勇者に育ててくれると言うのか。


「関係ねぇだろ、とにかく俺なら、お前を一丁前の勇者にしてやれる」


「……お兄さん、一体……」


 そう断言する青年をまじまじと見つめ、疑うように尋ねた。その正体が知りたい。勇者でないならこの人は何者なのか。その言葉に嘘の色は感じられず、故に何故こうも自信を持っていられるのか、それが不思議でならなかった。


 その問いに暫く黙った後、青年はジャンの肩から手を離して立ち上がる。すると今度は、唯一の出口である扉の前に移動した。ジャンを威圧するようなやり方の今までとは違い、今度はより具体的に、自分を逃がさぬよう扉を塞いでいる様子が伺えた。


「ガキはいいよな、遠慮なくものが聞けて」


 軽く溜め息を吐きながら、青年は腕を組んで扉の前に立ち尽くす。


「まぁ、ずっと隠し通すのも面倒だ、教えてやる」


「?」


 言い終わった途端、青年に目を向けていたジャンは、しかし自らの目に映るものを疑って何度も刮目した。


 巻き起こった変化は明瞭、青年の背後に映える影が一段と濃くなったのだ。


 それだけでなく、影は青年の背から生えるようにうねり、何やら形を成してゆく。薄暗いから分かりにくいが、目を細めてよく見れば、それが決して影でない事に気が付いた。他に染まりようの無い黒であることに変わりは無いが、手を伸ばせば掴めるだろう立体感がそれにはある。


(え……?)


 青年が、一歩前に出る。


 すると、穴空きの屋根から射す朱色の日光が照らしてくれた。幾ら暗くともこの距離で見紛いはしない。


 朱く照らされたそれは、翼だった。


 あたかも闇に溶け込む為にカラスが生やしているような、夜の色をした翼であった。


(え……えっ……!?)


 不穏さも、不可解さも、不思議さも、不気味さも、 何もかもを頭で理解して、ジャンは立ち竦んだ。言葉は出ない。喉と全身が震えてそれどころではなかった。折れそうになる腰を必死に奮い立たせて持ちこたえる。めまぐるしい葛藤の中である結論に達したとき、更に冷や汗が吹き出し震えが止まらなくなった。


 それが決して、人間に備わるものでないのは子供だろうと何だろうと分かりきっている。


 つまるところ、青年は……《彼》は人間ではなかったという事。


「見ろよ。俺が人間じゃねぇことくらい、ガキでも分かるだろ?」


 受け入れがたい光景を目の当たりにしたジャンに、《彼》は寧ろ面白がってその現実を己の口から叩きつける。


 風が吹いた。古くとも壁に囲まれた小屋の中だと言うのに風が吹く。強くも弱くもない風が脅すようにジャンの頬を撫でる。動揺で小刻みに揺れるその瞳には《彼》の口元だけの嘲笑は映らない、ひたすら、突如としてその背に生えた翼ばかりが映っていた。


 やがて、《彼》を中心に渦巻く風がその翼を散らした。身の毛のよだつ感覚がして唾をごくりと飲み込む。黒い羽が風に乗って舞い上がり、ふわりと頭の上から降り注いできた。尋常でない恐怖から一歩たじろぐも、生まれて初めて味わう圧倒的な興味に目を離せないでいる。


 比較的平和な村に住むジャンには初めての、人でも動物でもない、『何か』との遭遇であったから。


「俺は、魔王だ」


「……っ!!?」


 《彼》がニヤリと笑う、犬歯のはみ出たその口が、自らを魔王だと名乗る。


 魔王……魔王……!?。その響きが引き金となり、ジャンの中でついに恐怖が爆発した。


 それからの事は、落ち着きを欠かせての行動だった為か、詳しく覚えてはいなかった。






 魔法使いのおじいちゃんが元気でいる限り、この村に魔物は入って来れない。


 ジャンはその事実を知っている。谷や森など人の手の触れない自然に挟まれたこの村の周りには凶暴な魔物がわんさかといるらしいのだが、それらの一匹たりともこの村に侵入する事は叶わない。この村とその付近は、老人がかけ続けている魔法で守られているからだ。


 だから、ジャンは生まれてこのかた魔物というものを見たことがないし、この村は絶対に安全である筈、その筈だ。


「なら、あれはなんだったんだよ……」


 未知の恐怖を思い返し、ジャンは乾ききった喉で細く呟く。


 訳も分からずひたすら走って走り続けて、辿り着いた先は自分の家であった。扉を閉めれば一目散に鍵をかけ、さっさとリビングへと飛び込んだ。


「どうしたの、お兄ちゃん?」


 すると、出迎える艶のある瞳が二つ。突然けたたましく飛び込んできた兄に目を見開いて、小さな指でスカートの裾を握りしめているのは、妹のジュリ・ウィレッジ。そして向こうで夕食の仕度をしている紺色の髪の女性は、二人の姉、メイア・ウィレッジ。


 ジュリに聞かれてたまらずありのままを話してしまいそうになってしまったが、何でもないと妹の頭を撫でて、ジャンは安堵の息を吐いた。家に帰れば普段通りの家族が待っていて、先程までの出来事がいっそ夢ではなかったかと思わせた。


 見たことなど……何もなかったのだと自分に言い聞かせ、ジャンはこちらをじっと見つめてくるジュリの顔を見下ろした。


「そ、そうだ、本読んでやろっか?」


「うん!」


 夕食を待つ間、ジュリの相手をするのはジャンの習慣だ。気晴らしにもなるだろうと、ジャンは本を取りに行った妹の背中を見守った。


「ねぇ、お兄ちゃんもいつか魔王をやっつけるんでしょ? このお話みたいに」


 棚を漁り、間もなく戻ってきたジュリの方に向くと、その手には見覚えのある本が握られている。

 表紙を一目見ればわかった。何度かジュリに読み聞かせてやった本だ。確か魔王のかけた呪いによって姿を変えられた王子を救う為、お姫様が奮闘して魔王を倒す、といった内容だった。しかし実際に幾度となく音読してきたジャンは、何となくその設定に違和感を感じてならなかった。よくある類似した物語に比べて男女が逆転していると思ったのだが、だからと言ってジュリの好きそうな内容であることに変わりは無い。その話に直接勇者という役は登場しなかったが、主役の行いはまさしく勇者のそれであった。


 魔王を倒す具体的なイメージはしにくいけれど、その点はいくらお姫様と言えども勇者に該当しているか。ジャンは少し迷いながらも、うんと答えておく。


「オレが魔王を倒したら、毎日たらふくごちそうが喰えるぞ」


「ホント? やったぁ!」



「ジャン」


 ジャンが言い放った、その直後のこと。


 包丁の音が止んだ。それから突如響いた姉の声に、ジャンとジュリは揃って台所へ振り向いた。

 二人の視線を知ってか知らずか、尚も作業を止めない二人の姉、メイアはジャン達を向いてはおらず、その背中はまな板を持ち上げて、その上で刻んだ野菜をこそぐようにして鍋へと放り込んでいた。


「まだそんなことをいっているの? 何度も言った筈よ。勇者を目指すなんて、考えては駄目」


「……な、なんで?」


「…………」


 ジャンが尋ねると、今度は手を止めてメイアは振り返った。その顔はいつものように知的で冷静だったが、どこか追い詰められたような焦りと、冷静を装いそれを必死に隠しているらしい表情が少し混じってあった。


 メイアがじっとジャンを見る。ジャンは張り詰めてゆく空気に息を呑み込んだ。


「外に出たって、魔物がうようよいて危ないだけ。いいことなんて一つもない」


「でもっ、父さんだって、立派な冒険家だったって……」


「ええ。だからこそ、あなたたちの父は死んでしまった」


 薄い唇から、ぼそりと言葉が漏れる。うつろな目をしたメイアの囁き声に、ジャンとジュリは口をつぐんでしまった。

 両親が死に、身寄りを失ったジャンたちの次の保護者として現れたのが、その為に冒険者を引退したメイアだった。


 だから、メイアは本当の意味でジャンやジュリの姉ではない。ジャンの父親の親戚であり、ジャンたちにはおそらく叔母か甥かに当たるのだが、前者で呼ぶにはメイアは若く美人で、ジャンとジュリは自然と、メイアの事を姉と呼んでいた。


「魔物を殺すのは、それに人生をかけることができる人だけがすべきなの。魔物を殺し続けて、その末にどんな姿に成り果てても構わないと胸を張って言えるような人が、勇者と呼ばれる。あなたは、まだそれを分かっていない」


「で、でも」


 未だ言い張ろうとして、唇を尖らせる。が、ジャンは何も言えなくなった。メイアの顔が近づいてくる。


 抱きしめられた。メイアの胸や肩の感触は温かく、うっすらと花の匂いがした。


「あなたを、絶対に魔物の前には出さない」


 耳元での呟き声の後、メイアは再び台所と向かい合った。





 いつものようにジュリを寝かしつけた後、同じく二階にある自室に戻るなり、ジャンは一番にベッドへと飛び込んだ。


 古いとはいえ大人用のベッドはジャンの体重が急に飛び込んで来てもびくともせず、柔軟なスプリングがシーツ越しにジャンの全身を優しく受け止めた。


(どうして……認めてくれないのかな……)


 本当にそれが分からない。姉の意図が読めない。どうにもならない歯痒さが苛立ちに替わる。せめてその理由がはっきりすれば説得の術もあったのだが、きっとそれは、父親が死んだ理由と綿密に関係しているのだろう。

 名すら知らない、顔すら曖昧な父親や母親との思い出を記憶の中から探し、しかし、そんなものは何一つ見つからない事に気付く。ただ知っているのは、父親は冒険家であった事、そして、魔物との戦いが原因で死んでしまった事。昔にお姉さんから聞いた話だ。お姉さんはそれ以上父親については話したがらないので、ジャンもまた、それほど興味もない父親の話を口にする事はなかった。


 なにせ、自分たちにはお姉さんがいる。料理も上手く声も綺麗で賢く美人で知的なお姉さん。そんな完璧な女性が自分たちの親を務めてくれている。両親を失った理由を納得するには十分だ。


(さっき、父さんの事言ったの、やっぱ困らせたかな?)


 そうかも知れない、そうでないのかも知れない。ぼんやり考えながらもジャンの思考はいつしか限界を迎えていた。疲れた身心で心地よいシーツの感触にはとても抗えなくて、目蓋の重みに従い、ゆっくりとジャンの意識は閉ざされてゆく。


 随分暖かくなったとは言え、まだまだ冷え込む夜分。ジャンは自身が間もなく眠りに落ちるのを予感して、クッションに顔を埋めたまま、毛布へと手を伸ばした……。



(ん……)


 まどろみの中、そこにある筈の毛布を求めた手が、そうでない謎の感触を掴む


(ん?)


 布地ではあるが、毛布には程遠い硬質な手触り。


 指先で感じる異物にジャンは違和感を覚えた。その感触が毛布である筈は無く、どちらかといえば、固い生地でしっかり縫い込まれたコートを思わせた。


 ひょっとしたら衣替えの為に仕舞い込む服でも姉が置いていたのだろうか、わざわざ顔を上げてまで確認するのも億劫だった。強烈な眠気の前に朦朧とした意識でそういうことにしておき、あっさりと毛布を諦めて目を瞑る……。


 …………。


 ゴッ!


「ギャッ!?」


 まさに、眠りに落ちる寸前だった。


 それを弾かれたのは、石と石とをぶつけ合わせたような鈍い音と、あろうことか頭に唐突且つ強烈な衝撃。瞬時に意識が覚醒してジャンは飛び起きた。


 ベッドの上で身を竦め、激痛迸る頭を押さえて……、一体自分の身に何が起こったのかと慌てて辺りを見回す。


「寝ぼけてんじゃねぇ」


「っ!!?」


 反射的に、声のした方へと振り返った。


 そして、今しがた自分の脳天に降り下ろされたのが明らかな握られた拳と、その犯人の姿をすぐ傍らで目の当たりにする。


 鎖の絡みついた黒い服装と、不機嫌そうに細くなった眼。


 完膚無きまでの目覚めの前に寝ぼけや夢の残滓など残ってはいない。正真正銘、幻ではなく《彼》はそこに、ベッドの上に存在している。


 つい数時間前に遭遇したばかりの、魔王を名乗る謎の男。


「はぎゃああああっ!!?」


 図らずも悲鳴があがった。それから距離を稼ぐべく一目散にベッドから飛び降りる。慌てすぎて転げ落ちる形になったが、膝を擦り剥いた痛みなど気に留めてはいられない。


 床を這ってまで逃げ惑う。そんなジャンの反応を《彼》は気にした様子もなく見やりながら、ジャンのものであるはずのベッドの上で偉そうに寝転がり続けている。目を見開いて今一度見てみれば、探していた毛布は無遠慮な《彼》の足によって隅へと蹴散らされていた。


 いつの間に!? どうやって!? ベッドに飛び込んだ時にはいなかったのに!? ジャンは後ずさりしているうちにぶつかった部屋の扉にもたれかかりながら、今にも爆発しそうな程脈動する胸を必死に押さえつけた。


「ジャン?」


「はっ!」


 大声に気付いたのだろう、背にしている扉の向こう、メイアが下の階から声を張り上げてきた。


 こんな非常時だ。咄嗟に扉を開けて姉を呼んでしまおうかと思ったが、実際に体が行動を起こす寸前、ジャンは恐怖や驚愕を諌めてなんとか自身に待ったをかけた。

 疑るような二度目の姉からの問いかけに、ジャンは大声を返す。


「な、なんでもっ!」


「はっ、意外に賢明だな?」


 意地の悪い顔でそんな事を言う《彼》が鼻を鳴らしてゆっくり起き上がるのを、ジャンは小さくなって見守るしか無かった。


 ゴキブリやネズミが出た時とは違うのだ。この人は自分が魔王であると言っていた。実際にその背に生えた黒い翼をこの目で見たのだから、少なからず人間でない事は間違いない。そんな危険極まりない存在と鉢合わせて、姉や妹がただで済むとはとても思えなかった。


 下の階に居る姉からはそれ以上何か言われる事も無かったので、上がってくる事もなかろうと一先ずジャンは安堵する。


 いや、しかし気付いた。


 ただで済まないかも、というのは、この瞬間面と向き合っている自分こそが誰より当てはまっている事に。


「しかし……」


 それを憂い、扉に背を張り付けたまま焦燥するジャンをよそに、《彼》 はベッドから立ち上がるや、部屋の中を好き放題に物色し始めた。本棚やその上のボトルシップなどを興味の目で見て回る姿は、今までの《彼》のイメージからすれば少し奇妙に見える。


 ともかく、その様子から自分にばかり意識が向いていないのだと分かったものの、だからといってそれほど知らない人に自室を踏み荒らされている事実に違いは無い。ジャンはゆっくりと立ち上がり、あくまで距離を保ちつつ、背後からそれを観察し続けた。


「……狭苦しくて息が詰まる、小せぇガキにあつらえたような小屋だな」


 挙げ句にそんな事を言い出すのだから、ジャンは失礼極まりないと顔をしかめた。しかし《彼》にふざけた様子は微塵も感じられなくて、寧ろただ単に素直な感想を述べただけだという口振りに、わざわざ口に出してまでそれを咎める気には慣れなかった。


 本棚を睨む《彼》の背中を見つめながら、ジャンは子供らしくもない嘆息をつく。


 と、ある疑問に気が付いた。どうやってここに入ったのだとか、いつから居たのだとか聞きたいことは他にもあったのだが、ジャンの好奇心はそれら理性的な疑問を取り敢えず差し置いてしまった。


「……な、なぁ、その……翼はどうしたの?」


 ないのだ。先程見せつけられた黒い翼が、《彼》の背中にはない。


「あぁ?」


 荒っぽい声と共に《彼》が振り向いて、ジャンは戸惑いつつ目を逸らす。


「隠してんだよ、お前逃げんだろうが」


「……あっ!」


 あてつけのようなその口調に、ジャンは先程の、《彼》との出来事の結末を思い出した。

 そう、そうだった。その翼を見た瞬間、ジャンは《彼》の制止など受け付けず逃げようとした。小屋の扉を蹴破ろうとした寸前に肩を掴まれて、それを振り払おうとして暴れて……。


 その場面を皮肉にも鮮明に思い出し、背筋を震わせた。


 そうだ、その際に……。


「あっ……!」


 ジャンは目を細め、そして大きく見開く。《彼》の頬をよくよく見てみれば、やはりというか赤い筋が一つ。腕を振るったその拍子に《彼》の顔面を引っ掻いてしまったのだ。無我夢中での行動であった為その感触は残っていなかったが、何処となくやってしまったという後悔はあったのだ。そして、あの傷が何よりの証拠である。


「やってくれたな、手傷を負わされんのは久しぶりだ」


「ごめんなさい……」


「許さねぇ」


 帰ってきた返事にジャンは思わず口をつぐんだが、報復を匂わせるその台詞とは裏腹に、こちらに危害を加えようとする様子は一切見られなかった。


 《彼》は部屋の物色に飽きたらしく、そこいらにあった椅子に乱暴に腰を降ろして足を組む。


「さっさと準備しろ」


「え?」


 いきなり放たれた言葉の意味が分からない、ジャンは目を丸めて聞き返した。


「旅の準備に決まってんだろうが」


「え?」


 付け足されても分からない、ジャンは再び聞き返す。


「チッ……」


 何故伝わらないのかとでも言いたげな顔で舌打ちをされる。しかし分からない事は分からない。心当たりが全く無いのだから、ジャンは目を伏せて《彼》の苛立ちをやり過ごすしかない。


「勇者になりたいんだろうが。だったら、こんなとこにいても仕方ねぇだろ。いいから黙って俺と来い」


「……! な、何言ってんだよ!?」


 そこまで言われて、ようやく《彼》の言わんとしていた内容を理解した。いや、理解は出来ない、そんな事は不可能だとジャンは声色を荒げて反論した。


 なるほど、勇者にしてくれるとはそういう意味だったらしい。《彼》は自分を連れ出そうとしているのだ、いや、連れていってくれようとしている。この家、この村から外の世界へと。勇者を目指すなら世界への旅立ちは必須。魔王に挑む意味でも、自分を研磨する意味でも。それは本でも読んで分かっているし、それを望んでいる自分もいる。


 しかし。


「無理に決まってんだろ!?」


 一瞬甘い誘惑に駆られたが、首を振って断言した。


 《彼》が魔王だからではない。《彼》への恐怖が全く無くなったわけではないし、《彼》が嘘を吐いている可能性もないではないが、大筋の理由はそうではない。

 姉が、勇者を目指すジャンの旅立ちを絶対に許さないからだ。普段から勇者という単語にすら目を細める姉の事だ、そんな事を口に出したらどうなるか、想像しただけで背筋が凍る。


「あぁ?」


 そんな、立ち入った事情を知るべくもない《彼》は、その拒絶の返事にあからさまに不愉快そうだった。


「何でもする、つったよなぁ……?」


「ぐっ……」


 その言葉がジャンの胸に突き刺さり、同時に覚悟も据わった。

タイミングが来たのだと思った。ここまで話がこじれる前に、さっさと謝ってしまえば良かったのだ。

 追い討つように《彼》が何か言おうとする寸前、 ジャンは持ちうる勇気を振り絞り、《彼》の前に立つ。


「俺っ、嘘つきましたっ! ごめんなさい!!」


 ついに、少し早口ながらも、後悔の念を謝罪の言葉と共に解き放った。


 それでこの人が大人しく引き下がってくれるとは思えないが、どんな結末を招こうと、何も持たない子供であるジャンには素直な謝罪しか埋め合わせるものがないのだから仕方がない。

 待ち受けていたのは、針のむしろに座らせられるような静寂、無言と言う名の制裁。耐え難い気まずさで動くことすらままならず、姿勢を頑なに正したまま、ちらちらと《彼》の様子を伺うほかなかった。


 絶句した《彼》は、少し口を開き、組んでいた足を静かにほどいている。


「はっ、そう……かよ……」


 その謝罪は、即ち絶対の拒否をも意味すると理解したのだろう。《彼》は何もかもを放り投げるように呟く。表情を俯け、垂れた前髪のせいでその目が何を映しているのか読み取れなくなった。


 直後、ジャンの内に罪悪感が込み上げる。何故この人がここまでして自分に勇者への道を辿らせようとするのかは分からないが、自分の為に失望させてしまったのはその落ち込みようからして明らかで、何より、方法は乱暴だったにせよ、ここまで自分の夢を積極的に手伝おうとしてくれたのはこの人が初めてだった。


 そんな人を失望させている。それを思うと、ジャンはかける言葉も失ってしまった。


 いたたまれなくなって、せめてその理由だけでも話してしまおうかとさえ思い悩んだ。


 しかし、その直後。《彼》の口が不敵に歯を剥いて笑うのに、ジャンは気付いた。

 敵愾心に満ちた、悪い笑みだった。雰囲気の変化に一歩後ずさり、何事かと固唾を呑む。


「別に、俺だってお前じゃなくてもいいんだがな。どうしてもお前が拒否するなら……そうだな……」


 笑いを噛み殺し、《彼》は立ち上がる。服の鎖が擦れ合って無機質な音を鳴らした。

 そんな音たちに身震いしている間もなく、《彼》は髪をかきあげながら、威圧するように靴を鳴らして近付いてくる。


 言われた通りで癪だが、余り広くない部屋だ。直ぐさまジャンは、自分を見下ろしてくるその影に完全に覆われた。


「せめて俺の晩飯くらいにはなって貰おうか、お前も、お前の親と妹もよぉ」


「!!?」


 冷ややかな目でジャンを睨み付けながら、《彼》は告げた。


 そんな凄惨な光景、とても想像など出来ないが、鋭そうに尖った歯を見せつけて言う《彼》 は、人間のように見えてもやはり人を喰らったりする魔王……怪物だという事なのか。


 頬に伝ってくる冷や汗を拭う余裕はない。突如として押し出してきた怪物の面を受け止めきれず、ジャンは目を見開くばかりだった。


「この俺に手を挙げた時点で、もうお前には断る権利なんざねぇんだよ、クソガキ」


「……っ! 俺だって!!」


 耐えるだけなのが自分でも我慢ならなくなり、表情を変えてジャンは言い放った。本格的に脅しをかけてきた《彼》にその続きを本当に話して良いのか一瞬戸惑ったが、このまま勢いに任せでもしない限り、のし掛かってくる圧力に屈してしまうと思った。


「俺だって……本当は……、でもお姉ちゃんが反対するんだ。外は危ない、勇者になんかなれないって……、それに父ちゃんの事とか、なんか色々ごちゃごちゃしてんだよ!」


 拳を握り、押し殺しきれなくなった感情が止めどなく口から溢れ出る。家族を人質に取られて、けれど言う通りには決して出来やしない。選ぶに選べない選択ばかりを突きつけられ、ジャンは半場逆上して語気を強めた。


 本当は、行ってみたい。まさしく勇者に近づくための貴重な一歩だ。こんな願ってもない話は二度とないかもしれない。けれど姉に頑なに反対されてはそれも密やかな夢として胸の内に止めて置くしかないのだ。


 父も母もいなくて、自分まで消えては姉と妹の二人だけになってしまう。残された唯一の男児として自分は二人を守らねばならないのに、そんな家族の反対を押し切ってまで旅立つなど出来るわけがない。


「お前の姉の意見なんざ、どうでもいい、俺はお前がどうするのかを聞いてんだよ」


 吐露した本音を聞いて尚も、それすら切って捨てるように《彼》は言い放つ。


「だから……、無理だって……」


「何で」


「だからお姉ちゃんが……」


「捨てればいいだろ?」


 耳を疑った。《彼》はそんな事を表情一つ変えずに言ってのける。


「それとも、魔王より姉の方が怖いのか? 違うなら、夜中にでもそこの窓から抜け出せばいい話だ。今すぐにだってそれは出来る。そうしないでお前がクヨクヨしてるのが全部姉のせいだって言うなら、それで全部解決だろうが。ここでくすぶってもどうせ俺に殺される、それよりはよっぽどマシな選択だと思うがな」


 その甘言のままに思い切れたらどれだけ楽だろうか。二つを天秤にかけること自体が間違いだというのに、誘いに乗ってしまえとはやし立てる自分と、現実的に今の状況を把握している自分とが頭の中で必死に戦っている。


「まさか、あれか? 勇者になりたいっていったのも口から出任せだったのか?」


「んな訳ないだろっ!! それは大人になってからって……俺はまだ子供だし……」


「だったら何だよ。言っとくが、お前の年で勇者やってたヤツを俺は何人も知ってる、クソ生意気な連中ばかりだったが、自分だけはしっかり持っていた」


「それは……きっと家族に反対されなかったんだろ! けど、うちはお姉ちゃんが……」


「チッ、だから、他人を言い訳に使うのはやめろ、ムカつくんだよ」


「っ! 何だよ!!」


 何の事情も知らないくせに! 激情してジャンは《彼》に飛び掛かり胸ぐらを掴んだ。実際には身の丈の差から襟にまでは手が届かなかったが、それでも両手で喰いつくようにコートを掴んで離さない。


 一方で、《彼》は微塵も動せず、ただ口だけを淡々と動かす。その余裕がジャンには苛立たしく、それと同時に、これから何を言われるのだろうとささやかな恐怖で身を震わせた。


「言ってやるよ、本当は怖いんだろ? この村から出るのが、俺みてぇな魔物がうようよいる外の世界が」


「違うっ!」


「違わねぇ」


「違うって!」


「違わねぇ」


 否定と否定の応酬。不毛なやりとりを暫く続けるが、ついに体力の無駄だと悟って、憤りで息を荒らしながらもジャンは歯を食い縛って押し黙った。せめてもの抵抗に《彼》の服を握る両手に力を込めてみても、その冷徹な顔は眉一つ動かす気配は無い。


 旅立ちたくない訳がないのに。寧ろその瞬間が楽しみで仕方がない。問題はタイミング、何もかもが唐突過ぎて急に決められないだけだという事が、どうしてこの人には分からないのだろうが?


(そんなことない……ないっ!)


 「怖いんだろ?」突き付けられた台詞に、そんな事はない、間違ってるのは向こうだと暗示のように自分に言い聞かせている一方で、ジャンはふと思い返していた。


 勇者にはなりたい。けれども、ひょっとしたら自分は単にそう考えているだけで満足しているだけだった?  確かに、姉にダメだと言われれば大した反論もせず直ぐに折れていたのかもしれない。それ以外でも、老人に話を聞いたりしただけで準備をしている気になっていたのかもしれない。


 それは、常日頃から思い悩んでいた事だった。だから今日老人に「剣をやろう」と言われた時は何かしらの結果が貰えたみたいで飛び上がる程に嬉しかったし、そんな自分を見ず知らずの《彼》に指摘されてこんなにも動揺している。

 それに気付けば、恥ずかしい過去を暴かれたかのような気分になり、顔を見られるのを避けるようにして俯いた。かろうじて《彼》の服だけは掴み続ける、だが先程までの食い掛かるような気力はない。軽く払われてしまえば、抵抗もなくだらりと垂れ下がってしまうだろう。


「……三日だけやる」


「……?」


 ふとジャンは顔を上げた。そのまま茫然と、冷たい声色で紡がれる言葉を聞く。


「三日でそのごちゃごちゃとやらを全部片付けて、準備も済ませろ。いいな?」


「……で、出来るわけないだろ」


 あたかも情けをかけるかのような物言いに、しかしジャンは力無く首を振った。

旅の準備は直ぐにでも出来る。具体的に何が必要かは大体想像がつくし、いざとなったら魔法使いのおじいちゃんに聞けばいい。だが、一番重要な姉の説得は今までに幾度となく失敗してきた、三日以内にやれなどと無茶を言うにも程がある。


 それを俯き気味の表情に表せば、情けをかけたと思ったのも束の間、肝心な所で《彼》は無慈悲を貫き通す。


「出来なけりゃ、皆まとめて俺の腹の中、お前は特別にレアのまま喰ってやるよ」


「ぐっ……」


 さも悪戯を宣告するかのように舌を出して、容赦なく脅しをかけてくる。まさか本当にそうするつもりかどうかはその仕草から判別つかないが、よく読む冒険譚に登場した魔王や怪物は、確かに平気で人を喰らったりしていたっけか。


 最初から選択肢などなかったという事を改めて強調してくる。結末が先延ばしになったのは幸いだが、果たしてどうか、僅か三日で母親を説得出来なければ迎える運命は結局変わらない。そして、その不可能さをジャンは十分に思い知っている。


「……ア、アンタはどうするんだよ?」


「あ? この部屋に居るに決まってんだろ」


(決まってるんだ……)


 それまで村で自分を見張っているつもりかと戦慄したが、返ってきた返事は予想をはるかに上回るものだった。床に向け指を突き差し当然の如く宣言する《彼》は、ついにジャンの手を振り払って、ベッドへと向かった。


「分かっていると思うが……クソガキ」


 ふて寝でもするようにベッドに寝転がり、壁を向いて呟いてくる。そんな姿だけは、ただのワガママな人間に見えてしまうから恐ろしい。


「この三日間、俺の事は誰にも言うなよ」


 言えるものか! 心の中で絶叫し、ジャンは姉の説得を不承不承に決心した。


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