1.名無しのマオウ
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赤黒い地のカーテンが閉ざされて、薄暗い部屋の中央に、青年が一人。玉座に座って足を組み、頬杖をついている。
部屋は、青年の腰かけている玉座の豪華さに相応しく広いのだが、青年の他に人の気は全くなかった。ただもの寂しく豪華な家具が並ぶのみ。自分はただそこにいるだけで周囲の者を圧してしまう、禁じてもいないのにとにかく押し黙り、自分の存在を前にして気が気でない部下の姿など見ていても不愉快なだけで、必要な時以外は部屋の外へ追い払っているのだ。
だから、部屋は恐ろしく静かだった。そして青年は退屈だった。
眼下に広大な敷地の広がる窓の景色にも飽き飽きで、今更目をやるまでもなくそれらは既に青年のもの。少し腹は減った。だがそこにある果物の杯に手を伸ばすこともせず、ただじっと座り、時間を噛み潰すように口をつぐんでいた。
閉じられた目蓋にかかる長めの髪は漆黒で、纏う服には装飾の鎖が揺れている。先が鋭利に尖って凶器になりかねない爪や、犬の頭蓋を模したらしき銀のピアスなど、全体的に黒みを帯びたやや不健全そうな出で立ちをして、背は高く、しなやかな筋肉が覆う筋張った体格をしていた。
それまでならば、少しばかり素行の悪そうな不良青年にでも見えただろうか。
しかし、違う。恐らく彼を目の当たりにした者の目に一番に飛び込むのは、不機嫌な目つきでも無骨な風貌でもなく、吸い込まれるような深い闇の色をした、二折の翼。
青年の背には、本来人間には備わる筈がない翼が生えていた。それは、人にとっては、青年が魔に属するものであるという何よりの証。
青年は人間ではない、魔王だ。自らの城を構え、気分次第で全てを屈伏させられる圧倒的な力を持ち、城下の一帯をその力で支配している戦慄すべき魔王。幾多もの勇者を退け、その若々しい見目からは連想させない程の時を青年は君臨してきた。
魔王として力を奮い、富や地位を好き放題手にした青年は、それらに浸かりながらもいつしか退屈を強いられていた。辺りに住まう人間は思いのほか従順で、魔王としてやる事はやりきってしまったからすることがない。気分が乗らなければ何をする気にもなれなくて、日が登り、適当に部下に指示を出して、日が沈むのを見届けるだけなのかと考えれば目覚める事すら億劫になった。
が、ふとした瞬間に、青年の嘆息は呆気なく覆される。
その日、城内を吹く風が運んできた、いつもと違う匂いを感じ取ったのだ。それは、今までに全く覚えの無い不可解な感触だった。誰とも知れぬ者がずかずかと自らの城に入ってくるのに、青年はとにかく身震いした。久し振りに自分を討つべく勇者が襲来したのだと思った。人間の匂いというには自分達と似通ったものを感じた気がしたが、そういう人間もいるのだろうと得心して気にも留めなかった。もしここに辿り着いてきたなら、どんな連中だろうと迎え撃たねばならない。
一時間もすればやって来るだろうか? 頭の片隅にそれとなく覚悟を添えておいて、青年は目覚めの欠伸をした。
それが今朝の事だった。
ふと、カーテンを開けて窓を見る。今頃は部下が相手をしている頃合いか、などと考えていた時からいつの間にやら半日が経ってしまっている。窓に映る黄昏時を見れば分かるように、もう辺りには夜が訪れようとしていた、なのにそれらしい来客が全くない。ずっと意識しながら時間を過ごしたものだから、待たされている気分に歯痒さを感じてならなかった。
余りに遅い。この城は部下である種々様々な魔物が住む為に若干いりくんだ構造になってはいるものの、部屋の数や面積は人間達のそれと大差ない筈だ。途中で部下に敗れて力尽きてしまったのか? それならそれで部下から報告がある筈だが。
報告……そうだ、そもそもにしておかしいのだ、勇者の襲来があれば一目散に部下が飛び込んで来る筈。なのに今回はそれがない、一体どういうつもりなのか。
「おいっ……休めっつった覚えはねぇぞ」
この部屋からでも分かるというのに、何故報告が無い? かろうじて苛立ちを呑み込み目を瞑りながら、しかし威嚇するような低い声色で部屋の扉に向かって声をかけた。
扉の向こうには、常に見張りを兼ねた世話係を置いている。自分が僅かでも怒りをちらつかせれば慌てふためいて飛び込んでくると信じて疑わなかった。
しかし、青年の声は広い部屋に響いては消えてゆく。予想していた返事は無いままに、再び静寂が蘇る。
「……チッ……」
誰もいないのか。世話係が無断でいなくなるなど滅多にない事なのだが、この歯痒さをそのままにしておくのは耐えられない。仕方がないから青年は部屋を出るべく立ち上がった。
取り敢えずは、城の厨房か。そこに行けば部下の何人かはいるだろう。もし見つけたなら泣いて逃げ去るまで怒鳴り付けてやろうと鼻を鳴らして、扉へと続く赤い絨毯の上を歩く。
……いや、その中央辺りでふと足を止めた。どういうわけか、扉が勝手に開いたのだ。
余りに微妙な力加減だったようで、扉は中途半端に開きっぱなされるだけだった。しかしその隙間から、あろう事か、世話係が普段に着用している黒いスカートとエプロンがはみ出ているではないか。
それを目の当たりにすれば、青年の額にぴくりと青筋が立った。
「……はっ、いたのか、じゃあ無視してたってか?」
つまりはそういう事なのだろう。扉越しだとはいえこの距離で聞こえなかった筈がない。普段の声でも今まで機敏に反応していたのだからそんな言い訳は通じない。何故今になってこのような無礼を働いたのかは知ったところではないが、他に納得のいく言い訳があるなら聞かせてもらいたいものだ。
青年は頬をひきつらせながらも笑みを浮かべる。ともすれば暴れ出しそうな穏やかさの欠片もない、苛立ちに満ちた嗜虐的な笑みだった。
「あ? 何とかいえよ」
首を掴まれ魔王の怒りを目前にすれば、口を聞くだろうか? 青年は一歩踏みだした。
「どうか怒らないでやってくれ、彼女は今、とても話せる状態じゃない」
「っ!」
突如、聞きなれない男の声がして、青年は笑みを消す。
しかし、絶句してまで驚いたのは、その光景だった。扉の隙間から見えてくる世話係の様子だった。ゆっくりゆっくり、焦らすように姿を見せる世話係。
何かがおかしいと一瞬で分かった。嫌な予感を抱きつつ全身が出てくるまで見守れば、それは次第に明らかになり、細い目でしかと睨み付けた瞬間、誰とも知らぬ男の言った内容が頭をよぎる。
話せない状況、その意味をしかと理解した瞬間だった。
視界に入ってきたのは、恐怖や混乱で目蓋を限界までひん剥き、表情をあられもなく歪めている世話係の姿。
原因は、白い何か。カビのような白い綿状の物質が世話係の全身に纏わりつき、その動きを封じて宙に吊り上げていた。
「……!……!」
「ん、何だ?」
何か訴えようと塞がれた口をもごつかせている世話係に向けた言葉か、わざとらしくとぼけるような声は世話係の背後から。青年はその異常な光景を睨めつけながらも、さりげなくそちらへと意識を傾けてみる。
謎の白い物質が生えているその根本、そして世話係の焦燥の瞳が向く先。
それらを追うように視線を這わせれば、声の主であろう何者かの影がそこにあった。
「誰だ、てめぇ」
青年が慎重に視線を這わせつつ声を荒げると、その影が、世話係の背後から部屋の中へ一歩踏み出してきた。影から抜け出てきたその姿をしっかり視認するや、青年は疑いの声色で威嚇する。
現れた人影は、身の丈程もある
あの男は人間ではない。世話係にまとわりついている白い物質がそのまま男の指先へ繋がっているのもそうだと断定するに十分だが、何よりあの全身から放たれる挑発するような魔力と、濃く漂う同族の匂い。この距離ならば相対するだけで分かる、自分と同じ魔王かどうかはともかくとして、人間である筈がない。
「あぁ、もう喋っていいぞ」
「……グッ、ゴホッ!!」
怪しく笑う男がその白い物質を指で払えば、みるみるうちにそれは霧散してしまい、吊り上げていたもののなくなった世話係の体は乱暴に宙から落下する。
同時に塞がれていた口が露になり空気が気管に入り込む。世話係は壁伝いによろよろと起き上がりながら、胸に手をあてて激しくむせこんだ。
「城の仲間がどうなったか、主人に教えてやるといい」
そのまま壁を支えにして、弱々しい千鳥足で男から逃げてゆく世話係を一瞥して男は吐き捨てた。世話係の顔から恐怖の色は消えないが、距離を取れた事で少し落ち着きを取り戻せたらしく、青年……世話係にとっての主人へと向き、口を開き始めた。
「ま、魔王様、城の皆が……城の……」
だが……、それも束の間。何やら言いよどむ世話係に錯乱の様子が蘇る。
首を振り、顔を両の手で覆って、全く要領を得ない説明を繰り返す。それではいつまでも埒があかず、青年は訝しげに世話係を見つめているしかなかった。
扉の前の男は、嗚咽を漏らすばかりの世話係を悠々と見下している。
「……何だよ?」
ただ、何かが起こったのだとだけ勘付いて、それを思えば堪えられなくなって、青年は問い出した。
すると世話係は、涙で乱れた顔を押さえながら答える。
「皆は……城の魔物は……皆この男に消されてしまいました……、私の……、母も……弟も……」
「……っ!?」
それはいきなりの、胸を銃で撃たれたかのような告白で、疑問符はそのまま大声になって口から飛び出した。
消えた? 消された? この城の魔物が全て? 突然告げられて実感など湧く筈もない、そんな衝撃を想像など出来ないから頭で受け入れる事もままならなかったが、その言葉とゆっくり向き合う時間すら与えず、目の前の光景は移りゆく。
憔悴しきっていた筈の世話係がエプロンの裾で涙を拭い去り、震える脚で立ち上がったのだ。
不安や悲哀や悔恨と、ほんの少し覚悟の表情を浮かべて。
「どうか、お逃げ伸び下さいっ!」
下唇を噛みながら目を瞑り、叫びを上げると、世話係は何を思ったか男へと突進した。
いくら世話係が迫ってきても、男の余裕は変わらない。それでも止まらず、あと一歩で男に手が届くといった距離にて、袖の内から食事用のナイフを取り出し、頑なに両手で握り締める。
咄嗟に青年の放つ静止の声は届かない、あるいは届いていて耳を貸さないのか。
怒りも悲しみも混ざりきった、今まで見せたことのないような鬼気迫る表情で、世話係はナイフを突きつけ、男へと迫った。
「……俺を刺す気か? 物騒なメイドだ」
瞬間、世話係は目を見開いた。
いる筈の目の前に男はいなくて、あるのは大きな鉄の塊。
直後、金属音が部屋に響き渡る。男の体に突き刺さる事はなく、弾かれたナイフは世話係の手を離れて宙を舞う。
「そんなチンケなナイフで」
男は舌を出して世話係を嘲笑する。盾にした巨大な鉈を片手で引き戻し、もう片手を伸ばす。痛めたのか手首を庇っていた世話係のか細い首を鷲掴みにした。
「ぐ……あ……」
「ほうら、また捕まえた」
そのまま持ち上げて、締め付ける。男が面白半分に掴む腕を揺らせば、されるがままに世話係の身体は揺さぶられ、 その薄い唇の隙間から微かに悲鳴が漏れ出した。
最初は反抗して男の腕を握り締めていたものの、揺らされるにつれ喉に食い込んでくる力が余力を奪い、世話係は間もなくだらりと手を垂らした。
「あ……ぁ……」
「てめぇ!!」
一体何だと言うのか。青年は怒気を孕ませ、その翼をばさりと開いた。
が、いざ躍りかからんとした矢先、突如襲われた視界の異常さに今一度踏み留まった。
(なっ!?)
いや、異常なのは自分の視界ではない。
世話係だ、男に首を絞められている世話係の全身の輪郭が、あたかも蜃気楼のように不安定になってゆく。何度刮目しようが変わらない。それ以外の風景はそのままに、世話係を構成している形や色だけが儚く薄らいでゆく。
魔王として魔法的事象への知識には通じている自信はあったのだが、この瞬間に世話係が一体何をされているのか全く分からなかった。変化は一向に止まらない、その体はやがて微弱な白い光を帯び始め、 光の粒が世話係の体から抜け出してゆく。不安定さは強まって体が更に透けて見えてくる。
消された? 世話係が泣きながら言っていた消されたとは、この事なのか?
「こいつの名前は、テルジア」
すました顔で男は言う。
同時に、光となってどこからともなく体が崩壊を始めている世話係の首からそっと手を放した。
その直後の衝撃が、とどめとなった。床に体を打ち付けた瞬間、辛うじて視認出来ていた世話係の体は、ガラスが砕けるように光の破片となって散ってしまった。
空っぽになった手を男はマントで拭う。後には光の粒だけが漂ったが、それらもすぐに気化して見えなくなってしまった。 世話係の消滅を目の当たりにした筈なのだが、青年は奇妙な感覚に襲われて、爆発寸前の憤りに火を点けられずにいた。
「もう、覚えてないだろ?」
男の言うことは、苦しくもその通りだった。
(何だ……どうなってる?)
青年は、今までには感じ得なかった不可解さにこめかみを押さえた。いつも傍らに置いていた世話係、消えたとて顔も服も性格までも鮮明に覚えている。心配性で口うるさくて少し脅かせばよく泣きわめく女だった。
それなのに、名前だけが、男の言う通り思い出せなかった。男の言うテルジアという名前が、世話係の名前だったのかどうかすらも分からない。
「何をした……?」
勿論消す。もし本当に城中の魔物全てを今みたいに消し去ったのならば、それ相応になぶってから消す。
……だがその前に、青年は不可解さに押されて質問を投げ掛けた。奴が何者か以上にそれが気になって仕方がなかった。
魔王である自分の知らない、手品のように魔物が消えるその理由。意外な程、男はあっけらかんと答えてきた。
「この女から、名前を剥がしただけだ」
「なっ……!?」
驚愕した、同時に合点がいった、何故消えたのか、 何故世話係の名前を思い出せないのか。
名前を奪われる。名前を無くす。それが自分達にとって何を意味するかは直ぐに直結した。
「『魔者』は、名前を無くすと消えるんだろう?」
今にも襲いかからんと怒気を放っている筈なのに、寧ろ挑発するように男は吐き捨ててきた。
『魔物』の中に『魔者』がいて、『魔者』の中に『魔王』がいる。
魔物はいい。だが魔王を含めた魔者の存在とその魔力は、その体でなく殆ど自身の名前に帰属する。名前は心臓だ。重要な魔術や人との取引、儀式でも取り扱う自分の名前を無くすのは、その魔力はおろか存在の全てを失うのに等しい。
名前を失った魔者の末路は、今しがた目の当たりにした通りだ。名前を失えば存在が維持できない。
だが、名前が奪われるなど、他の魔者の名を奪う方法がこの世に存在したなどとは、今までに想像もできなかった。
「やっぱりお前も、他の魔王らと同じ、脱け殻で踏み留まったか」
「!!?」
全身が震えた、即座にあのうざったい顔を潰し、消し去ってやろうと身構えた。
だが、その怒りを圧し殺し、もはや限界まで圧迫された理性に早まるなと言い聞かせる。
その言葉、その真偽を確かめるべく、青年は自身の手に目をやった。握って、開いて、また握って、開いて……そうすれば直ぐに分かって、頬が青ざめた。
豊富にみなぎらせていた筈の魔力の一切が感じられないのだ。その手や全身はかろうじて健在だが、肝心要の魔力は半分程もこの身には残っていない。悔しくも、脱け殻と言われても仕方のない始末だった。
青年の筋張った首筋に冷や汗がつたう。
信じたくない現実を直視できず、自らの記憶をひたすらに掘り返す。
「お前の名前は、何だ?」
あえて男は尋ねた。分かっているのに、嘲笑うように尋ねてきた。
俺の名前、それは……。
「!!!」
その瞬間、どうやっても自分の名前を思い出せない事に、青年は気付いてしまった。
《彼》が、名前を失った瞬間だった。
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