03 違和感なき天啓

 コーウェンがこの世界で生きていくと腹を括ったあの日から、約半年。朝目覚めた彼は、自分の体に違和感を覚えた。だがそれは、決して悪い意味ではない。まるで身体の神経が外へと広がっていき様々な情報を感覚として運んできてくれる、そんなイメージ。要はとても冴えていたのだ。


「視覚に聴覚……それに筋力もか」


 コーウェンは自分の身体の変化を感じ取ろうと、掌を開いたり閉じたりする。彼にはその小さな手がとても頼りになるものだと思えた。様々な身体能力の上昇を感じるからだ。

 自分の身体に異変が起きた、それなのに大した危機感や焦燥感がない。彼の脳は、本能は、その事実を簡単に受け入れようとしていた。

 この感覚には覚えがあった。隼人としての人生を終えてコーウェンとして生まれ変わったあの日、それが当然だと頭を使わずに脳が理解した、あの時の感覚だ。

 だとすれば、今回のことも生まれ変わりによるバグか何かだろう。

 記憶や人格を引き継いで生まれ変わったという事実が、それと同じように身体能力までもが引き継がれたんだという結論へと導く。

 考えるのを、抗うのをやめた途端、理解した。

 足を見る。昨日までと変わらない幼さゆえの細足だ。

 腕を見る。こちらも同様。

 コーウェンはすっかり覚めてしまった目を擦り合わせながら、その小さな身体をベッドから引きずり出した。することは一つだ。

 右ひざを囲う大きな筋肉を収縮させ、片足でしゃがみこんだコーウェンは、そのまま全力で筋肉を解放する。


「はぁっ!」


 短い掛け声と共に、コーウェンの身体は空中で後方に円を描き、綺麗に着地。後方宙返りを片足で成功させた。

 前世では身体を鍛えていたコーウェンだ。引き継いだ筋力に対し、二歳児の体重を保っている彼にはこんなのわけない。

 見た目では一切変化のない筋肉量だが、それに見合わない力を発揮しても怪我などの心配がないということは理解していた。無謀だと思うかもしれないが、コーウェンにとってはそうでもなかった。そう断言し、実際に行動に移せるほど本質的な意味での『理解』だったからだ。

 その後、怪我がないかを再度形式的に確認すると、部屋を出た。

 するとそこには、いつもならまだ寝ているコーウェンを起こしにきたのであろうメリファが、ちょうど部屋の前へと辿り着いたところだった。


「あら、おはようございます」

「うん、おはようメリファ」

「コーウェン様は今日も可愛らしいですね。でも寝癖が付いてますよ?」


 メリファはそう言うと、はねた部分を押さえつけるように頭を撫でる。自分は子供だからと目を瞑りされるがままに身を委ねていたが、メリファの掌の感触があるタイミングを境に、爪のような何かが頭皮に引っかかるような感触に変わった。気になって目を開けると、メリファが簡易的な櫛を使っているのが見える。


「簡単に寝癖を直してしまいますね」


 メリファはそう言うと、右手の人差し指と中指を立て、何かに集中するように目を閉じた。

 おそらく水の魔法を使うのだろう。コーウェンは、メリファやアメリアが魔法を使う瞬間を幾度も目の当たりにしてきた。夜になったらランプに火を灯す、身体が汚れたら水を浴びる、他にも様々な用途がありとても便利なのを知っている。


「では、少し濡らしますよ」


 指先から極僅かな水を垂らしながら、メリファは指先を近づけてくる。

 だが、コーウェンはそれを咄嗟に嫌がった。何か得体の知れないものが見えたような気がしたからだ。


「ん、どうしましたか?」


 メリファの指は相変わらず濡れたままだが、水は止まっている。さっき薄っすらと見えていた陽炎のようにモヤモヤした、まるで空気を侵食しているかのような何かも止まっている。

 そして――理解した。


「――ねえメリファ。魔力? とかって、見えたりするものなの?」

「え、ん……、確かに稀に見える人がいるって話は聞きますね。でも、それは凄い才能の持ち主だけの話です。現在世界で数人もいないくらいですかね? もちろん私には見えませんが」


 メリファはなぜかと言わんばかりに首を傾げているが、今言うのはためらわれた。コーウェンが、ということは。








 メイドを雇うほどのお金持ち宅とは思えないほど小さなテーブルの上に置かれた、香ばしい肉入りシチューが、まるで本能を急き立てるかのようにコーウェンの鼻腔をくすぐって止まない。寝癖を直した際に濡れた後頭部はまだ乾き切っていないが、その程度の違和感ではこの食欲を抑え込むなど叶うはずがなかった。だが、そんな食欲さえも抑え込むほどの違和感、変化がコーウェンの身には存在している。

 メリファを含めた家族全員で朝食を摂りながら、コーウェンはもう一度について考える。

 身体能力の上昇は単純に筋力だけではなく、五感に数えられるものにまで影響していた。だが、味覚や痛覚のような上がりすぎても困るだけのものについては確認できない。記憶と同じように前世から引き継いだもので間違いはないだろうが、それはコーウェンにとってあまりにも都合が良すぎた。そしてなにより、一番驚いたのは魔力の視認化だ。メリファに聞いた話から推測すると、魔力のようなものを隼人が持っていて、それも記憶や身体能力と共に引き継ぎ、それによって魔力の視認が可能になるまでの魔法適正を後天的に手に入れた。そうとしか考えられない。

 ……が、それについて考えようとも、果たしてそれが真意なのかどうか判断する術は持ち合わせていない。

 コーウェンは早急に思考を中断し、シチューに手を伸ばす。

 子供用に味付けされた薄味のシチューを、だがそれなりに美味しく平らげたコーウェンは、自室への帰り際にメリファへの耳打ちを忘れない。








 朝食後に食器類を洗っているメリファの顔は、いつにも増してとても笑顔だ。

 魔力を消費するということは、単純に体力を消費することと同義だ。だからいつもなら井戸から汲んできた水を使用する食器洗いだが、今日は水魔法を使って手早く済ませる。珍しく、コーウェンから仕事が終わったら部屋に来てほしいと耳打ちされたからだ。

 その時の、必死に背伸びをしていたコーウェンの姿を思い出し、メリファは思わず破顔する。


(とても可愛かった……)


 コーウェンについて思いを馳せていると、食器洗いなど全く苦にならない。いつの間にか終わっていたりするからだ。それは今日も例外ではなく、メリファの手元には残すところ数本の匙だけだ。

 それを手早く片づけたメリファは、最後に洗い残しはないか、他にも何か仕事が残っていないかを確認すると、退屈しているであろう自らの主人の元へと直行する。


 部屋の前へと一瞬で辿り着いたメリファは、軽く居住まいを正し、扉をノックする。


「メリファ? 入っていいよー」


 コーウェンの間延びした声が部屋の中から聞こえてくると、メリファの心中は穏やかではいられない。もちろん悪い意味ではなく、それはバラ色に染まると言っても過言ではないほどに嬉々としたものだ。

 メリファにとってコーウェンは可愛らしくて仕方がない。自分の子供ではないが、それでも自分をまるで本当の親のように慕ってくれるから拍車がかかる。


「はい、失礼します」


 ディスタート家は貴族ではなく、雇い主のコール、アメリアとは以前からの知り合いだ。だから雇われ者の域を超えてこの家族とは仲良くしているし、本来ならありえないような会話を交わしたりもするのだが、それでも最低限の礼節は忘れない。

 メリファが室内へと入ると、コーウェンは扉のすぐ前に立っていた。それを見て、少し待たせすぎたかな、という思いに駆られる。


「お待たせしました、コーウェン様。それで、一体どうしましたか?」

「うん、あのね、僕に魔法を教えてほしいんだ」


 それを聞き、メリファは内心驚く。正直いつものように本の読み聞かせをお願いされると思っていたのだ。


「魔法、ですか? 構いませんが直ぐに使えるようなものではありませんよ?」


 当然だ。二歳の幼子が魔法を使用したなんて話は聞いたことがない。


「うん、わかってるよ!」

「それに、練習すれば使えるというようなものでもありません。才能がなければ、何年間も練習してようやく長い詠唱の後に小さな炎を一瞬だけ灯す、なんてレベルにしか達せない人もいます」

「詠唱? まあ、上手くいかないかもしれないのもわかってるよ!」


 魔法はいずれ教えるつもりだと、コールとアメリアが言っていたのをメリファは知っているし、その役はメリファに一任されている。早くから練習するに越したことはないが、それでもコーウェンは幼すぎる。上手くいかなかった時、自分の才能のなさを認めることがこの子にできるのか、そんな不安は拭えない。

 そんな風に黙り込むメリファを見てどう思ったのか、コーウェンが不安そうな顔を向けてくる。


「ダメ? メリファ」

「いえ、教えることは構わないのですが……」

「ですが?」

「……コーウェン様、魔法とは本来、使える人の方が少ないということを覚えておいてください」

「うん、大丈夫だよメリファ。もしも僕に才能がなかったとしたら、それを受け入れる時のことを思ってくれているんだよね? ありがとう。でも大丈夫だよ」


 コーウェンはとても可愛らしい笑顔を浮かべながらそう言う。そんなコーウェンの、可愛らしくも大人な返しにメリファはドキドキを隠せない。


(ああ、なんて可愛らしい子なんでしょう……)


 最早、コーウェンがまだ二歳児にもかかわらずそれを感じさせない物言いについてはスルーだ。とっくにこの家族の常識は麻痺している。


「んんもう、わかりました! 早速取り掛かりましょう!」

「本当!? ありがとう!」


 コーウェンの笑顔にすっかりと魅入られた――以前からそうだが――メリファと、ある意味計画通りなコーウェンは、魔法の練習に取り掛かるために部屋の中央へと陣取った。


「いいですかコーウェン様、そもそも魔法とは体内の魔力を外に放出し、その際に詠唱や特定の動作を挟むことによって発動するものです」


 まずは大まかに説明を開始するメリファ。コーウェンはそれに真剣に聞き入っている。


「自分の中で発動したい魔法をイメージし、具現化します。そしてそれを放出した魔力に投影するのです。その過程を詠唱によって簡略化したり、簡単なものなら全てを詠唱に任せることも珍しくはありません」

「うん……わからないこともないんだけど、そもそも魔力とか詠唱とか知らないんだけど」

「え、あ、失礼しました!」


 可愛らしく首を傾げたまま問いかけるコーウェンに、メリファは自分の失態を痛感した。

 メリファはそれなりに魔法を扱え、その分様々な人たちに魔法について指導したこともあった。アメリアもその内の一人だ。だが、だからこそ侮っていた。さすがのメリファでも、コーウェンのような学校へも通っていない幼子に魔法を教えるのは初めてなのだ。一からスタートならまだしも、ゼロからスタートとなると、それはもう全く別の分野でもある。


「え、ええと、ですね……、詠唱というのは、自分で納得できるものにするのですが、難しい魔法ならその分どうしても長くなったりするものでして……はい、申し訳ございません」


 やっぱりまだ魔法は早かったか、と思いながらも説明を再開したのだが、どうしても上手く説明できているとは思えなかった。少なくとも、二歳児に理解できる内容ではない。もちろん二歳児に理解できるように説明する方が難しいのだが、メリファの頭からはそんな常識などとっくに抜け落ちている。


「ううん、大丈夫、理解できるよメリファ」


 だが、コーウェンから掛けられた言葉は思っていたようなものではなかった。

 コーウェンには度々驚かされる。まるで子供とは思えない言動に、その理解力。だが、それでも間違いなく子供で、どこから見ても愛くるしいその姿とのギャップにメリファの心は惹かれて止まないのだ。


「まあ、コーウェン様は大変聡明でいらっしゃいますね。ですが、やはり私の段取りが悪くございました。そうですね……、実際に感じ取ってもらうところから始めましょう。普通は知識が先なのですが、こういう方法もありますし」


 メリファはそう言うと、コーウェンの両手を握る。


「今からコーウェン様に私の魔力を流し込みます。それを感じ取ることができましたら、コーウェン様には魔法の才能があるということです。そして同時に、コーウェン様の体内に眠る魔力を呼び起こすことにもなります」


 それを聞いて少し不安そうな顔をするコーウェンに、メリファは「大丈夫ですよ」と微笑みかけた。

 そして、両の手に意識を集中し始める。

 魔法を発動するわけではない、魔力を流し込むだけ。

 ランプに火を灯したり、少し水を発生させたりするだけの簡単な魔法なら無詠唱で発動させることができるメリファだ。当然その行為は簡単に行えるもの……の、はずだったのだが――


「いっ……いった、痛い痛い」


 ――と、コーウェンが発した言葉はこれまた思っていたのとは違った。

 慌てて手を引っ込めるコーウェンに、メリファは何が起こったのか理解できないまま慌てて頭を下げる。


「も、申し訳ございません! 平気ですか!?」

「う、うん……、もう大丈夫」

「そうですか……申し訳ございません」


 メリファはもう一度コーウェンの手をとり、軽く握ったり撫でてみたりして、何事もないことを確認する。

 だが、一体何が起こったのかまるで理解できない。


「それにしても、先ほどはどうなされました?」

「うん、なんか凄いビリビリした」


 ビリビリした――ここで、メリファはある可能性に思い至る。


「まあ、コーウェン様! 凄いです、凄いですよ!」


 その可能性について一人で納得したメリファは、己の魔法に対する知識や好奇心によって沸き起こる興奮を抑え込むことができなかった。

 その光景を不思議そうに眺めるコーウェン。


「ねえ、何が凄いの?」

「んんもう、コーウェン様ったら! その痛みが『魔力を感じる』の正体です! 凄い才能ですよ!」

「え、何、それってそんなに凄いの?」

「当然です! 普通なら何か違和感を感じるかなー、ぐらいの感覚です。それを痛がるなんて!」


 事の重大さを理解できていないコーウェンに、メリファは熱く語りだす。

 だがそれも当然の反応だ。魔力を流し込まれて「痛い」と言った人間など聞いたことがない。そもそも、魔法を使える人間と使えない人間の割合は大体“三対七”で、魔法を使える人間の方が少ないと言われている。コールだって使えない側の人間だ。

 だから魔力を感じ取れたらそこで万々歳のはずだったのだ。

 魔力を視認できるという、現在世界最高の魔法使い――通称『魔導師』でさえ、「異物感を覚えた」と語っていたほどだというのに。


「ね、ねえメリファ。少し怖いよ?」

「申し訳ございません! ですがこれは一大事です! すぐにコール様とアメリア様にお知らせしないと!」


 メリファはそう言い残すと、足早にコーウェンの部屋を出ていった。

 実のところ、コーウェンにもメリファの気持ちは理解できていた。今朝の身体の異常から魔力を視認できるようになった辺りから、自分の身にとんでもない魔法適正が生まれたことも予想していた。だが、そんなコーウェンでも、メリファに対して一歩引いてしまうのは無理がなかった。


「鼻息荒いよ、メリファ……」


 コーウェンの呟きに聞き手はおらず、それは虚空へと消えていった。

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