02 混濁の嬰児

 ――どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 悠久の時を経たようにも感じるし、はたまた一秒にも満たない刹那の経過にも感じる。それは、意識を失っていただとか眠っていただとか、そのような理由で覚えていないのとは違った。

 さっきまでの自分が何をしていたのかを覚えているし、はっきりと認識している。だが、その『さっき』がいつのことなのかがわからないのだ。

 さっきまでの自分は、いったいいつの自分なのだろうか?

 一つだけ彼にわかることは、それがという漠然とした確信だけだ。

 呼吸が苦しく、手足がだるい。まるで全身を巡る血液の何らかの成分が欠如しているような、そんな違和感、痛みとは言い表せない痛み。そんな全身の感覚から、自分の身体が小さくなっていることを理解する。

 そんな隼人の身体を、一人の女性が持ち上げる。それも軽々と、まるで隼人の体重を感じないかのように。

 彼の脳裏に渦巻くのはあの時の『赤』と、自分が別の存在になったという漠然とした、それでいて確かな実感だけだ。


「――――――!」


 女性が何かを話しかけてくるのが理解できたが、それを眺めるだけ眺め、静かに目を閉じた。




 ◆◇




 ――記憶を引き継いでの生まれ変わり


 それが隼人の身に起きたまぎれもない事実であり、二年前の話である。

 だが隼人がそれを受け入れるのに時間はかからなかった。なぜ記憶を引き継いでいるのかという疑問はあったが、それ以上に事実を事実として認識することに対する抵抗がなかったからだ。

 だから隼人は、まるで太陽を直視した時に視線を逸らすかの如く、自然にそれを受け入れることができたのだ。


 だが、戸惑いや驚きを感じなかったわけではない。

 電化製品といった類の物が一切ないが、そうにもかかわらず生活が貧しいだとか、途上国のような雰囲気は感じられなかったのだ。いや、むしろ現代なら途上国でも電気の普及はそれなりにある。

 それになんと言っても極めつけは『魔法』の存在である。

 隼人が記憶を引き継ぎ生まれ変わったこの家――ディスタート家に住み込みで働くメイドの“メリファ・フィラント”が、指先から炎を発生させ、それを使ってランプに明かりを灯していたのだ。

 その他にも存在した様々な情報から導き出された結論は、ここはというものだ。そしてそれは、奇しくもそれ以上ない程の正解だった。








 魔法によって灯されたランプの優しい明かりが心地いい。

 窓から外を見渡してみれば、もう少しで沈みそうな夕日がこの世界をオレンジ色に染め上げていた。

 もう夕方かと、隼人の生まれ変わり――“コーウェン・ディスタート”は、その小さな体をベッドから引きずり下ろした。


「あら、コーウェン様。おはようございます」


 地球でも通用するような本格的なメイド服を着込んだメリファが、その綺麗な金髪を左手でかき上げながらニコニコと微笑んでいる。

 昼寝から目覚めたばかりのコーウェンは、その温かい笑顔に心を和ませる。


「うん、おはようメリファ」


 コーウェンから発せられる可愛らしい声に、メリファのニコニコ顔は一際輝きを増す。

 それを見たコーウェンは大きく伸びをすると、この家について考える。


 コーウェンは五日前に二歳になった。

 コーウェンの父親は“コール・ディスタート”といい、くすんだ金髪をした美男だ。

 そして母親は“アメリア・ディスタート”といい、青味がかったグレーの髪色がとても似合う、これまた美女だ。

 そしてコーウェン、髪色は母親譲りの青っぽいグレーで、五日前に二歳になったばかり。

 このディスタート家はメイドを雇っているが貴族でもなんでもなく、コールが元々優秀な冒険者――冒険者ギルドが依頼人との仲介をこなす何でも屋――だったために、それなりにお金持ちということだ。


「ねえメリファ、早速で悪いんだけど本を読んでほしい」

「はい、喜んで」


 コーウェンが目を擦りながらそう言うと、メリファが自分の太ももの辺りをポンポンと軽く叩く。『ここに座って』の合図だ。

 コーウェンは勧められるがままにメリファの膝に座り込むと、その僅かな体重をメリファの体へと預けた。

 コーウェンはこの世界で二年過ごし、簡単な日常会話は問題なくできるようになったのだが、文字の読み書きはまだまだ拙い。だから本を読み聞かせてもらい、識字力を高めようと言うのだ。


「さて、今日は何をお読みしましょうか?」

「うーん、じゃあこれがいいな。勇者のお話」


 目の前の小さな机に置いてあった一冊の本を指差し、メリファの顔を覗き込む。

 少しだけ子供の演技が入っているのはご愛嬌だ。


「ふふ、コーウェン様はこのお話が大好きですね」


 メリファはよほど子供が好きなんだろう、さっきからずっとニコニコしている。だが、残念ながらコーウェンは勇者のお話とやらが好きなわけではない。この本は勇者が仲間の魔法使いと共に魔王を打ち倒すという創作物なのだが、児童書という側面が読み書きの勉強として都合がいいだけだ。


「うん、だから早く読んで!」

「はいはい、では読みますね」


 メリファが本を開き、コーウェンはその内容に耳を傾ける。








「そうして、勇者様はお姫様と結婚して幸せに暮らしました」


 メリファが「めでたしめでたし」と締め、本を閉じる。時間にしておおよそ二十分くらいだ。


「どうでしたか? コーウェン様」

「とても面白かったよ! ありがとう、メリファ」


 コーウェンが子供の可愛らしさを最大限に利用したとびきりの笑顔を向けると、メリファは全身を貫くような衝撃を受けた。コーウェンが可愛らしすぎたのだ。

 耐え切れなくなったメリファは、まるで世界の終わりに我が子を抱き締める母親のように、コーウェンの小さな体を包み込んだ。

 よっぽど子供が好きなんだろう、と息苦しさを我慢しながらコーウェンは結論付ける。

 その時、部屋の扉をノックする音が聞こえたかと思うと、コーウェンの母親――アメリアが入ってきた。

 アメリアの視線はコーウェンを捉えていたが、それをメリファ、メリファが手に持っている本へと移していき、最後は口を尖らせた。


「もー、メリファばっかりずるいわ。私もウェンに本を読んであげたいなー」


 アメリアは子供のように頬を膨らませると、「冗談よ」と言い、コーウェンの頭を撫でた。

 ちなみに『ウェン』とはコーウェンの愛称だ。


「いつもありがとうね、メリファ」

「いえ、私も好きでやってるんです。コーウェン様ったら、本を読んでいる最中に片手でリズムをとるのが癖みたいなんです。それがもう、可愛らしくって……」


 メリファはわざとらしく両手で頬を挟み込む。

 メリファが言う『片手でリズムをとる癖』とは、なにも本を読んでいる最中に限ったことではない。コーウェンのこの癖は隼人として生きていた時から続いているもので、主に集中する時に多用する。

 梅干など、酸っぱいものを食べた時には唾液が出てくる。だが、わざわざ食べなくとも味を想像したり、匂いを嗅いだりするだけで唾液は出てくるものだ。

 これは脳が、梅干を食べたら唾液が出てくるということを覚えているからだ。そしてこれを利用すると、唾液が出てきた時に梅干の味を思い出す、ということも可能になる。

 これをアレンジしたものがコーウェンの癖だ。

 集中している時にリズムをとるという癖をつけておくと、逆に、リズムをとると脳が集中状態になる、ということを狙ってのもの。

 もちろん目に見えるほどの大きな変化はないが、これが彼の癖でありジンクスのようなものであることに間違いはない。


「えー、やっぱりメリファったらずるいわ」

「じゃあ、今度は三人で本を読みましょう」


 アメリアとメリファは仲が良い。

 コーウェンが聞いた話では、二人は同じ学校出身の先輩、後輩の仲なのだそうだ。

 アメリアが現在二十四歳、メリファが現在二十一歳。二人ともとても若い。


「うん、絶対よ?」

「わかってますよ。ふふっ」



 アメリアが、座っているメリファに覆いかぶさるかのような形で頭を撫で、それに対して笑いながら頭を動かし抵抗するメリファ。二人はまるで恋人のようにじゃれ合っている。本当に仲が良い。

 コーウェンがそんな二人を生温かい目で見守っていると、部屋の前の廊下に足音が響き、その音の主が扉を開けた。

 ……入ってきたのはコーウェンの父親――コールだ。


「なんだ、ここにいたのか。ウェン、剣をするぞ!」


 そんな無茶を言っているコールは、筋肉でたくましいその体に大量の汗をかいていた。手に持っている剣は模擬刀だ。


「もう、男の子だからって剣を握らせる必要はないでしょ?」

「……た、確かに」

「それに、ウェンはまだ二歳よ。どっちにしても早すぎるわ」

「むぅ……」

「ウェンは天才なの。まだ二歳なのにしっかり歩けるし、言葉だって上手。だからあなたは感覚が麻痺しているだけ」


 コールは、アメリアに諭され完全に論破されたような顔をして沈んでいる。確かにアメリアの言う通りなのだが、自分の子供を天才だと言い張りたいのはこっちの世界でも同じなんだと、コーウェンは苦々しく笑った。

 そんなコーウェンがこの光景を見て、前世での家族、父親のことを思い出さないはずがない。

 それは、これ以上ないくらいに儚いものだ。

 住んでいる場所が遠いから中々会えないだとか、そんなレベルの話ではないからだ。死んでしまったとかよりもずっと遠くに感じる。この世界には、隼人や、隼人の父親に関するものは一切存在しないのだから。


「父さん、元気かな……」


 ――と、口に出してから、コーウェンはハッとする。


「ん? 何か言ったか?」

「あ、いや……。ううん、なんでもないよ!」

「ふふ、コーウェン様ったら独り言……可愛い」


 思わず飛び出た日本語、そのおかげで理解できなかったのだ。うっかり声に出してしまったと、コーウェンは反省する。

 だが、彼にとって隼人として生きてきた前世で唯一の家族だったのだ。いくら心配しても罰は当たらない。

 いや、彼の家族はこれから増えるはずだった。

 ――義母、義妹。

 あれから再婚はどうなったのだろうか。

 顔合わせに来ていたはずの義妹はどうしたのだろうか。

 ……だが、考えても埒があかない。

 今はこの世界のことだけを考えていこうと、コーウェンは心に決める。


「ウェンは私たちの子供なんだから、可愛いのは当たり前よ」

「おう、だから剣を持たせたら強いのも当たり前であってだな」

「うぅ、二人の子供。そうですよね」

「もうメリファ、血は繋がってないけど、ウェンはあなたの子供でもあるのよ」

「! ほ、本当ですか!?」


 この世界のことだけを――

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