1章 死神の導き

01 赤い足音

 半開きの目を眠たそうに擦りながら自室のベッドで目を覚ました高校二年生の青年――秋谷あきや隼人はやとは、枕元に置いてあるデジタル時計を見て、全身の血液がササーっと音を立てて引いていくような感覚に囚われた。

 どうしてこうなった。


 ――07:58


「学校……遅刻だな」


 まるで死刑宣告をされたかのような時間表示に、何故こんな時間まで起きられなかったのかを考える。心当たりは一つ。今日の放課後に待ち受けるビッグイベントのせいで、昨夜は興奮し中々寝付けなかったのだ。

 開き直った人間の精神はタフだ。

 すでに時間通り登校することを諦めた隼人は、リビングで朝食中であろう父親を目指し部屋を出た。

 十月にもかかわらず若干の蒸し暑さを覚える今日この頃、朝くらいはもう少し涼しくてもいいだろう、と心の中で悪態をつきながらも、隼人の機嫌は決して悪くない。むしろ父親の元へと顔を出すのを楽しみにしているくらいだ。

 リビングへの扉を開けると、そこには新聞を片手にフレンチトーストを頬張る隼人の父親――秋谷あきやすすむの姿があった.

 父親の存在を確認した隼人は、自分用の朝食が並べられていることに嬉しくなる。

 熱を通した玉子の風味に甘苦いコーヒーの香りが合わさると、なんて趣のあるハーモニーを奏でることだろうか。

 湧き上がる食欲が隼人の脳を覚醒させた。


「おはよう、父さん」

「おお、おはよう。時間大丈夫なのか?」


 壁掛け時計に視線を向けたまま問う進に対し、隼人は微笑みながら首を振る。


「大丈夫じゃないよ。でも、父さんは仕事が休みな割に早起きだね」

「……ああ、それなんだけどな。ちょっと仕事が入った。さっき電話で呼び出されたよ」


 その言葉に隼人は怪訝な表情を浮かべる。


「――今日の顔合わせ、お前だけで行ってくれ。父さんは後から参加するから」


 隼人はその発言に思考を巡らせながら、進の向かいの席に腰を下ろす。

 進は隼人が生まれてすぐに離婚しており、今まで一人で子供を育ててきた。だが、彼に再婚相手が現れたことによりその生活に終止符が打たれることとなったのだ。今日はその相手、そして娘との初顔合わせの日である。それなのに仕事で遅れるとは全くもってついてない。


「そっか……わかった。」

「悪いな。できるだけ早く行けるよう努力する」

「うん、そうしてほしい。こっちだけ一人ってのはなんだか……ね?」


 言いながら、隼人は目前のフレンチトースト頬張る。唾液の少ない朝にもかかわらず、その絶妙な味の高貴さに舌が踊り、あれよあれよと平らげてしまった。

 しっかり噛んでから飲み干すと、進が淹れてくれたコーヒーを口に含む。


(今日も相変わらず、父さんの料理は美味い)


 仕事と家事を一人でこなしているにもかかわらず、毎日おいしい料理を作ってくれる進に隼人は感謝の気持ちでいっぱいだ。もちろん手伝いはするが、それを差し引いても進は頑張っていると断言できる。


「じゃあ父さん、現在進行形で遅刻してるからもう行くよ」

「ああ、急げよ」


 隼人は進の返答を笑って流すと、そのまま自室へ戻り寝巻を乱暴に脱ぎ捨てた――今更になって遅刻に対し焦りを感じてきたのだ。

 脱いだ寝巻と入れ替えるように制服を着ると、腕時計をつけ、そして髪の毛に寝癖が無いかだけを簡単にチェックし、駆け足で家を飛び出した。

 時刻は八時十分。

 隼人は最早笑いながら、両足を支えているペダルに体重をかけた。








 授業の終了を告げる鐘の音が、教室だけにとどまらず学校中に響き渡る。

 今朝、学校に遅れてきた隼人をクラスのみんなが笑いながら出迎えたのは遥か昔のこと。すでに六時間目が終わった今、クラスメイトたちは放課後の慌ただしさに浮き足立っている。

 そんな中、隼人が帰り支度をしていると、彼の親友――佐藤さとう正也まさやが話しかけてきた。それはまるで、授業中に帰り支度をしていたのではないか、と思わせるほど迅速な動きだ。


「隼人! 帰ろーぜ!」

「ああ、わかったから支度が終わるまで待て」

「んだよー、おせーぞ!」

「……お前が早いんだよ」


 正也のものに対し、隼人の口調はとても落ち着いている。正也の落ち着きのなさは一級品だが、それでも今日の隼人は確かに口数が少ない。放課後の顔合わせに緊張しているのだ。

 そうこう言いながら、隼人は帰り支度を終えた。


「――さて、帰るか」

「よーし、今日は久しぶりにゲーセンでも寄ってくか」

「いや、俺はやめておくよ。今日は大切な用事があるんだ。だから、帰りの電車も途中で別々になる」


 隼人が相変わらず落ち着いた口調でいうと、正也はニヤニヤと意地の悪い笑顔を浮かべる。


「あーあ、デートか。いいなー、隼人モテるもんなー」

「はあ、違うって。俺に彼女なんていないよ」


 高校生――もとい、正也の思考回路『大切な用事=彼女絡み』に、隼人は辟易とする。

 確かに隼人は勉強も運動もできるしそれなりにモテるのだが、生まれてこの方、女性と付き合ったことなど一度もない。


「ふーん、隼人みたいな万能君に彼女がいないってのは珍しいよな」


 正也が何気なく発した『万能』という言葉に、隼人は反応を示した。


「万能ね……。残念ながら、俺はそんな大それたものじゃないよ」


 隼人は自分を思うままに評価する。それは過大評価にも過小評価にも入り込む余地がないほどに。

 学力はクラス平均を大きく上回り、体力は体力テストで今までA評価しか取ったことがない。確かに隼人には、自分はそこそこ何でもこなせるという自覚はある。だがそれでも“そこそこ”の域を出ることはない。

 必死になって勉強しても東大に入ることは叶わない。

 何かのスポーツでオリンピックに出ることも叶わない。

 誰かが言うだろう――『君は万能だ』と。

 だが隼人はこう言う――『俺は器用貧乏だ』と。


「……まあ、自己評価は自由だけどよ、それでも隼人は評価基準が高いと思う」


 隼人の思うところを感じ取ったのだろう、正也は少し気遣うような言いぐさをする。

 そんな正也の変化に思わず隼人は笑ってしまう。


「はは、どうでもいいよそんなこと。さあ、帰ろうか」

「あ、ああ。だな!」


 再び元気を取り戻した正也と共に、隼人は学校を出た。








 不規則に揺れる車体が、規則正しくガタンゴトンと音を立て続けること十五分。

 やがて隼人と正也が住む町に電車が到着したが、今日ここで降りるのは正也だけだ。その正也は座っていた席を立ち、車内に忘れ物がないかを確認しながら隼人と別れの言葉を交わす。


「じゃあな隼人、また明日!」

「ああ、また

「あ、明日は土曜日か……」


 隼人は、高校生らしい間違いをした正也に軽く訂正を入れると、彼を見送った。

 車内に取り残された隼人は若干の寂しさを覚えるが、それ以上に顔合わせに対する緊張の方が強い。

 ゆっくりと深呼吸をし、腕時計で時刻を確認する。


 ――十五時五十分


 顔合わせの予定時刻は十六時十五分。道に迷ったりしない限りはまだ大丈夫だ。

 電車が再び動き出し、そして目的地に到着するまで十分と少しほど。その間、隼人はいつもとは少し違う車窓からの眺めに心を落ち着かせることにした。








 やがて駅から出てきた隼人は、田んぼだらけの風景に新鮮さを覚える。秋谷家のある町はここよりも遥かに都会で、それは電車の混雑具合からも容易に理解できるほどだ。

 だがこの町は不便だとか、田舎すぎるとかいうことはない。隼人からしたら丁度いいくらいだ。田んぼに囲まれた道路には車が列を成しており、コンビニだって目をつくところにある。


「うーん、都会だな」


 隼人はそんな光景を素直にそう評価するが、自分のセリフに思わず笑ってしまう。

 緊張のせいで変なことを言ってしまった、と自分で結論付け、目的地へと歩を進める。ちなみに顔合わせの場所はとあるホテルで、その道順は理解しているから心配いらない。


「にしても、まさか子供だけの顔合わせになるとはな」


 そうなのだ。

 学校に着いてしばらくした時、進から電話があった。内容は『相手も仕事が入ったから最初の内は子供だけで食事を楽しんでくれ』というもの。今後はいつ顔合わせの機会を設けられるかわからないから、キャンセルもしなかったらしい。これには心底あきれたものだ。


「相手は高校一年生の女の子、か……」


 隼人は、高校生二人がホテルの高級ディナーを挟んでの顔合わせ、という光景を想像し、思わず顔を顰めてしまう。なんて奇妙な画だろうか。

 だが一方で父親である進への同情も忘れない。なんというか、段取りが悪すぎる。

 そんなことを考えていると、いつの間にか緊張が消えていることに気付いた。そのことに少し罪悪感を感じた隼人は、再び緊張感を得ようと相手方へと思考を切り替える。一応彼の名誉の為に言っておくが、隼人がマゾヒストだとかいうわけではない。いずれ家族になるという特別な存在に会うのだ。緊張感を持たないと少し失礼だと感じたのだ。


 ――時刻は十六時五分

 ――場所は閑静な十字路


 隼人はこれから会う、未来の義妹いもうとへと思いを馳せる。

 聞いた話ではとても賢くて他人思いだが、その一方で人見知りで大人しいところがあるらしい。これだけの情報でも大体のイメージは湧く。

 要は『とてもいい子』だ。

 隼人の心臓がよみがえってきた緊張により鼓動を激しくするのと同時に、そんな性格をした子が一対一で自分と会うことになるという事実に同情する。


(名前は確か……)


 最後に名前を思い出そうとしていた、そのときだ。

 それは唐突にやってきた。

 事前に通知があったわけでもなく、報せが届いたわけでもない。

 まるで、隼人の意思なんて、感情なんて、生命の灯なんて、この世には存在しないかのように。

 それは、

 隼人の背中に大振りの刃物が突き刺さっていた。


「がっぁ……ぁ……!」


 背中に走る強い衝撃が、文字通り全身を貫いたかのように全身を蝕む。それがのどに詰まり、声が上手く出せない。

 さっきまでとは違う意味で心臓の鼓動が激しくなる。


「え……血……?」


 隼人がそれを理解した時、身体は意思を持たない肉塊のように力なくその場に倒れ込む。

 ――痛い、痛い、痛い?

 違う。そうじゃない。

 隼人は死を感じた。それは比喩ではなく、死神の手による物理的なものだ。

 そんな状況でどうでもいいことを考える。

 さっきまでの思考の延長だろうか。

 それもどうでもいい。ただの事実なのだから。


(確か……宮部みやべあおいちゃん、だっけ……)


 隼人の瞼が静かに閉じられていく。

 完全に閉じられた暗闇の中、隼人は瞼の裏に真っ赤な背景を感じた。

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