08 治癒



 「……ァ、アメリ………ア」


 アシエルの瞳が大きく開かれる。

 いつもの、手慣れている肉を切り裂く感触。

 私の右手に鋭い痛みが駆け抜ける。アシエルの頬に飛び散った血液が生々しく付着していた。

 ナイフは私の右手の甲に深々と突き刺さっている。

 「屈んで、殺られたふりをして」

 私はアシエルの肩を掴むと、地面に蹴り倒した。

 「お願いだから、私の言うとおりにして」

 アシエルを精一杯睨みつける。

 アシエルは状況が理解出来ていないまま、黙って私の指示に従った。

 私は、痛みに耐え切れず、右手を押さえて地に膝を付く。

 玉の汗が首筋を伝っていた。

 出血は止まる気配がない。

 無限と思われるような時間を、私は息を潜めて必死に耐えた。



 「……もう、大丈夫。起き上がってもいいわ。私、つけられてたの。上司の部下から」

 

 なんとなく、勘付いてはいた。カロイスは私をどうしても首輪"に繋いでおきたいのだ。ここ最近、増々私に対する監視が厳しくなってきている。

 「手………血が……」

 アシエルが白いハンカチを取り出し、出血部分に巻き付ける。じわりと血が滲み、白いハンカチは朱に染まった。

 「気休め程度だが」

 アシエルは淡々とそう言った。先程殺されかけたというのに、彼からは恐れも戸惑いも感じなかった。

 ただ、伏せられた真紅の瞳が微かに憂いを含んでいる。

 彼の中にあるのは、罪悪感だろうか____。

 それとも、こんな境遇に生まれた私への同情?

 「…………早く逃げて。監視役がいた位置からだと、私が貴方を殺したように見えたはず。………それでも、少しの時間稼ぎにしかならないわ。___私の組織は貴方を始末するつもりよ」

 私は無知で、どうしようもなく愚かだ。人を殺めることでしか自分の存在意義を見つけられなかった。

 でも、私は生きている。

 自分で考えることが出来る。

 これ以上、"私は私を"嫌いになりたくなかった。

 これが、私なりに考え出した、正しい道だと信じて_______。


 「私は貴方を死なせない」


 アシエルが口元に柔らかい笑みを浮かべる。


 「俺は死なないよ。_____白鯨モビー・ディックを見つけ出すまでは」


 白鯨モビー・ディックはこの世界を創造されたとする神のような存在だときいたことがある。

 でも、あくまでその伝説はお伽話だったはず。

 そんなものを、本気で探しているというの?


 「アシエル、貴方は何者なの?」


 「俺は君の友人だよ。_____そうだろう?アメリア」


 茶化したように悪戯っぽく笑ってこんなにも温かい言葉を紡いでくれる。

友人だと言って、私の名前を呼んでくれる。

 今まで、生きてきてこんなことはなかった。

 はぐらかされているようにも思えたけれど、これ以上彼を追求する気にはならなかった。



 「そう、ね」


 その言葉だけで充分だ。

 私の心は、満たされる。

 私の頬を濡らすのは、哀しみではない。この涙は、私が初めて愛情を与えられた証ではないだろうか。

 私はそう信じたい______。


 「俺の手をとって」


 異論はなかった。

 アシエルの手を強く握る。

 彼は深く深呼吸すると、こんな言葉を呟いた。


 「____海は深く、温かく、我を癒すだろう」


 アシエルがそっと私の右手の傷口に手を当てた。

 私の右手が、水の膜のようなものに包まれる。その水の膜はきらきらと輝いていて、まるで月光を含んでいるようだった。


 「これ、は」


 水の膜が一気に蒸発する。

 私は思わず目を見開いた。


 「これで、痛くないだろう?」


 ____私の右手に、傷がない。完全に治癒している。

 こんなこと、あり得ない。私が知っている限りの世界では。

 これじゃ、まるで_____


 「魔法みたいだわ」

 「みたい、じゃない。正真正銘、魔法だよ」


 "魔法"


 簡単にその存在を認めることは出来ない。ただ、実際この目で見てしまったのなら話は違う。


 「魔法って、素敵ね」


 アシエルが澄んだ声で呪文を呟き、流れるように綺麗な魔法を使う。

 美しい眺めだった。


 「___そうか」

 「ええ」


 また、アシエルが私の手を強く握った。





 「お喋りはまた後で。まずは、"首輪"を外しに行こうか」


 

 

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