07 絶望の叫び
時計を見て驚いた。
もう夜中の3時だ。
私の手には愛用のナイフがある。これを研ぎ始めてから何時間たったのだろう。
刃を撫でていると小さく痛みがして、つぷりと指から血が出た。指先から流れ出る血を見て安心する。
まだ一睡もしていないのに、目が覚えている。
夢に溺れてしまいたいのに、何故眠れないのだろう。
私に現実を見ろと、誰かが告げているような気がした。
今夜は窓から柔らかい光を放つ満月が美しかった。明日、大切な人を殺すというのに月はこんなにも美しい。それが矛盾なことに思えて仕方ないのだ。
明日の今頃には彼は既に"無くなっている"。呼吸もなく、声もなく、あの笑顔も消える。
せめて、どれか一つだけでも私にくれないだろうか。
彼が生きていた欠片を私の手のひらにのせて、包んでいたい。そうすれば永遠に彼を忘れないだろう。人は忘却に救いを求める。苦しいこと、悲しいこと____それを心に置いたままだと、人は生きていけない。前には進めないのだ。だから人は"忘れる"。
私の中でいつか彼の存在はきっと薄まっていく。
私にとってそれは救済なのかもしれない。けれど、彼を忘れるぐらいなら彼との思い出を抱いたまま死んだ方が幾分か素敵だと思う。
夜の冷たい風が私の頬を撫でた。
今、アシエルは生きている。それだけでとても幸せだ。
静かで穏やかな夜はゆっくりと時間を刻んでいき、最悪の夜へと紡いでいく。
✽✽✽✽✽
飛び切り上等な服を新調した。真っ白なワンピースだ。胸元には白い花が咲いている。
そのワンピースを身に纏い、腰まである長い髪を丁寧に結った。ワンピースと同じ、白い花の髪飾りをつける。
いつかカロイスと食事したことを思い出す。
手鏡を見ながら、丁寧に唇に紅を引いた。
それから、愛用のナイフを懐に忍ばせる。______これで、準備は整った。
私は彼を殺しに、夜の闇に紛れて街を歩いた。奇妙な程に私は落ち着いていた。もう、諦めていたのかもしれない。この理不尽な世界や、自分自身の生い立ちに対して_____。
私はカロイスに手渡されたメモを見て、目の前の建物を確認する。ここに、アシエルがいる。
私は足音を忍ばせながら建物に侵入しアシエルを探した。しかし、建物の中は無人。
私は途方に暮れた。アシエルがいないのに暗殺など出来るはずがない。
「アシエルが、行きそうな場所………」
私が彼と実際に関わったのはたったの一日だけ。あの日の会話を思い出してみる。
"海が好きなんだ"
海_____
もしかしたら、海の傍にいるかもしらない。
これは殆ど勘だった。
彼を殺したくない。でも、彼に会いたかった。
走って、海がよく見える丘にたどり着いた。海に近いからか、潮の匂いがする。
広い丘を見回して、アシエルを探した。暗闇に目を凝らすと、丘の一番高いところに腰を下ろしている人影が見える。
「アシエル………」
小さくて、か細い声だった。けれど、彼はちゃんと気付いて振り向いてくれた。
そのとき、雲に隠れていた月が姿を現す。
月光に彼の姿をぼんやりと浮かび上がった。風に流れる艷やかな銀髪と、燃えるような色をした瞳。
それは、この世で一番尊く、美しいもののように思えた。
「久しぶり、アメリア」
アシエルは私の手をひいて、微笑んだ。初めて会った日のように温かいこの手の温度は変わらない。だが、私は彼を殺しにきた。この温度は手放すべきだ。私はアシエルの手を優しくはらった。
「ごめんなさい」
ナイフを取り出して、アシエルの首に当てる。ナイフの刃が月明かりにギラギラと光っていた。
「…………どういうことかな?」
アシエルの瞳が大きく開かれる。だが、彼は驚くことに全く動じていなかった。それが増々私の心を揺さぶる。
「動かないで。そうしていれば、楽に殺してあげる」
昨日の夜、丁寧に刃を研いだ。かなり切れ味が鋭いはずだ。これで、アシエルの頸動脈は簡単に切り裂ける。
「………アメリア、組織から抜けろ」
彼は怒っているみたいだった。普段の柔らかい表情は微塵もなく、眼光は鋭かった。
「貴方、全部知ってるのね」
「___嗚呼」
組織を抜ける。
何度も考えたことだ。でも、私は決して組織を裏切らなかった。裏切り者には必ず死が待っていたからだ。
何故、アシエルのような
組織の存在はこの国の一部の高官しか知らない。アシエルは、きっと只者ではないのだろうと思った。
貴方は何者なの?
"伝説"って、何?
聞きたいこと、知りたいことが沢山あった。
だが、その想いは無理矢理砕いて、胸の内に呑み込んだ。
今から、彼を殺す。
このままでは、情に流されて私はアシエルを殺せないだろう。
情は時に、甘美に人を誘う。
この世界は情を持っていては生きていけない_____。
だから、私は彼を殺すことを選ぶのだ。自分が生きる為に。
「殺さないの?」
彼の首に突き立てたナイフが震える。呼吸が、苦しい。心臓をぎゅっと掴まれているみたい。
「早く、殺せよ」
彼の紅い瞳が私を捉えて離さない。
「お望み通りに、殺してあげる」
咽からかろうじて出た私の声は細く、頼りないものだった。無意識に、拳を強く握る。
「そのわりには、震えてるじゃないか」
そうだ。貴方の言うとおり。
震えが止まらないのよ。
私は考えてるの。
何故、よりによって殺さなければならない"ターゲット"が貴方なのだろう?
「何故_____何故、貴方を殺さないといけないの!?」
私は、彼の喉元に目掛けてナイフを振り落とした。
"絶望"を吐き出しながら。
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