50 遭遇

 スラム街の方角を目指し走り続けていた二人の前に突如としてそれは現れた。

 かすれた赤黒い塗料を無造作に叩き付けたような二つの跡が石畳を汚している。足跡だ。注視しなければ気付かないほどに薄いものだが、おそらくは魔人のものだろう。出血はほとんど収まったのだろうが、足の裏にまで垂れて固まっていた血液が痕跡を残してしまったのだと思われる。

 そしてその二つの足跡は、誰も近付かないであろう狭い路地裏へと延びていた。


「ここで降り立ったようだな」

「ああ。結局アルシェさんとは出会えなかったが……」

「現場を見なけりゃ何もわからん。行くぞ」

「……そうだな」


 この近くで魔人が体を休めていると思われる。

 だが、ここまで来てもアルシェに追い付くことができなかった。

 その意味を悟り、ジンの表情が悲壮に満ちていく。

 そんなジンを一瞥したジュードは、関係ないとばかりに魔装を上半身へと集める。聴覚の強化が目的だ。

 態勢を低く保ち、静かに路地へと入り込む。


「……聞こえる」


 やがて三分ほど進むと、ジュードがそんな言葉と共に右手をジンの前へと翳した。


「そこの角を曲がった先だ。誰かが話している」

「話声? 魔人のものか?」

「わからない。俺たちほどじゃないが、声を潜めているようだ。内容までは……。ただ、これは……女か? 男と女がいる。声は二種類。おそらくは二人」


 しばらくそのまま聞き耳を立てていたジュードだったが、くぐもった悲鳴が路地へと響いたことをきっかけに、その表情が困惑に歪められる。

 堪らなくなり、ジンはジュードへと尋ねた。


「今の声は私にも聞こえたぞ。いったい何が起きてる?」

「わからない。やはりもう少し近付かないと。ただ、俺の勘違いでなきゃ、女が男を脅している……のか? くそ、ダメだ。俺はもう少し近付くぞ。あんたはここで待ってろ」


 そう言った直後、ジュードは表情を一変させると、慌ててジンを後方へと下がらせた。

 そして声量はそのままに、引き攣った声を上げる。


「来た。来たぞ! 下がれ!」


 意味もわからず、ジンは促されるままに一歩ずつゆっくりと後退していく。

 やがてジュードを慌てさせる原因となったものの正体が路地の角から姿を現した。

 それは巨大な男だった。いや、正確には魔人か。そいつは角を左折した先――ジンたちから見て左方向を見つめたまま、ふらふらと力なく後退する。

 こちらの存在には気付いていないようだ。見たところ、外傷の類は見受けられない。だがまるで死人のように、その瞳に生命の灯は感じられなかった。

 魔人はそのまま壁へとぶつかり、もたれかかるように背中を預けた。そしてその場へと尻餅を突く。

 今、ジンとジュードの眼前に魔人がいる。

 二人の顔が青ざめる。まるで時が止まったかのようだ。

 だが、魔人――それはピクリとも動こうとはしない。前へと投げ出された自らの足先を見つめるだけで、表情すら変わる兆しはなかった。

 やがて焦燥が疑惑へと変わり始めた頃、それは起こった。


「お、おい、見ろ」

「なんてこった。こいつは……」

「ああ。死んでいるぞ……」


 まるで崩れかけのショートケーキからイチゴが零れ落ちるかのように、魔人の首が地面へと転がった。

 もう死んでいる。それは一目瞭然だった。


「本当にこいつが魔人なのか?」

「間違いない。角だってあるだろ」

「だが、見たところ首が取れているとこ以外に傷なんてないぞ? 完治した魔人を殺したとでも言うのか? まさか、アルシェってのはそこまで……」

「違う。アルシェさんじゃない」


 ジンは視線を虚空に彷徨えたまま、ゆっくりと魔人の亡骸へと歩み寄った。

 そしてその場に片膝を突くと、切断面の淵を指でなぞる。そして確信したように頷くと、ジュードを振り返った。


「仮面の剣士だ」

「仮面? それって、龍王の事件の時、ラナーシャたちがこぼしたっつう……」

「ああ、そうだ。お前だって私と一緒に見ただろ。龍王を一刀両断する太刀傷を」

「見たさ。だが、実在するのか? 見たからこそ、それを引き起こした存在を信じられねぇ」


 狼狽えるように言葉を紡ぐジュードの気持ちは痛いほどにわかる。

 ジンは仕方ないとばかりに息を吐いた。


「実は、あの後にも仮面の剣士が王都を救ったことがある。彼――いや彼女は、三か月ほど前にも上位魔人を斬り刻んでいる」

「三か月前ってことは、前回の魔人襲撃事件の時か。上位魔人までもが紛れ込んでいたのか……。それに、彼女って何だ? あんたらは、仮面の剣士の正体を知っているのか?」

「いや、推測でしかないが、おそらくは剣の女神だ」

「は、はあ? いったい何を……」

「いい。後で全部説明してやる。それよりも今はもう少しだけ力を貸してくれ」


 この辺りにアルシェはいなかった。

 彼の追跡能力が低く見当違いの方角へと向かっているという可能性を除けば、魔人か仮面の剣士と何かがあったと考えるのが普通だ。

 アルシェの行方を掴むため、そして相変わらず進展しない一連の事件の調査のために、今すべきことは明確だった。

 ジンは心を落ち着かせるように大きく深呼吸をすると、震える声で言い放った。


「さあ、行くぞ。仮面の剣士を見つけ出し、尾行する」




 ◆◇




 今から九年ほど前、母国の持つ唯一の都市である生まれ故郷が魔物の大侵攻に見舞われた際、ジュードは即席の冒険者連合を率いて最前線で戦った。

 故郷を守るために血の涙を流し戦ったジュードは千体の魔物を斬り伏せた後、やがて重傷を負い前線から退いた。

 だが、弱国故に突然の大侵攻に上層部は混乱し、軍系統はまともに機能しなかった。そのような状況で魔物を退けるに至るほど、集まった冒険者の数は多くない。

 やがて意識を失っていたジュードが駐屯地にて目を覚ました時、既に都市――母国は陥落していた。

 だが、その駐屯地は今は亡き母国の中に設けられていたのだ。ではなぜ、意識を失っていたジュードが戦火から免れたのか。

 答えは簡単だ。――遅れて戦場へと駆け付けた一人の下位冒険者が、ジュードの眠る天幕を守ってくれていたから。

 当時の光景は忘れもしない。

 累々と積み重なる魔物の死体は五千は下らない。それをたった一人で築き上げた彼女・・は、右手に一本の剣を握り締め、涼し気な表情でこちらを振り返った。

 何もかもが異質だった。本来なら戦場に似つかわしくないその美貌が、大量の返り血により更に際立ち、妖しく光る。

 当時まだ十六歳だった彼女の名は、“剣の女神に愛されし者”ラナーシャ・セルシス。僅か七歳にしてレベル5の剣術を発現させ、ジョット・ナルクラウンをも上回る天才と謳われた少女だ。

 やがて戦争は、更に遅れて駆け付けた王の砦と黎明国家の上位冒険者たちがたった一晩で魔物を殲滅し、それ以上の被害を出すことなく終結。

 当時まだ下位冒険者だったラナーシャは、この時の功績を称えられ、A10級というランクを賜った。そして100位圏外だった冒険者ランキングは30位にまで引き上げられ、その二つ名が紛い物ではないことを世界各国へと知らしめた。




 それは、仮面の剣士が押し入った民家の中で起きていた。

 尾行していた仮面の剣士の様子を扉の外から伺っていたジュードとジンは、中で戦闘が始まったことを察知すると、悩んだ挙句に扉を開けることにした。

 そもそもここが何のためのものなのか、中から聞こえる複数の声はいったい誰のものなのか、彼らは何者なのか、全く状況を掴めていなかったため、流石に放っておくという選択肢はなかった。それに何かの手がかりを得るために命を懸けてここまで来たのだ。ここで気後れしていては意味がない。


 そしてそこに広がる光景が、あの時のものと重なって見えた。

 足元に転がるのは魔物ではなく、人間だ。それも死体などではない。足を斬られた男たちが、その場で痛みにのたうち回っている。

 そしてそこに立つ人物もラナーシャではない。そこに美しい少女の顔は見当たらず、あるのはただのっぺらとした無表情の仮面だけだ。

 だが、似ても似つかないはずのその雰囲気だが、一つだけ共通するものを感じずにはいられなかった。

 ただそこに立つだけで、あらゆる者を屈服させる――絶対的強者の気配を。


 仮面の剣士と目が合ったことで、止まっていた時間が動き出す。

 だが、声を発しようとする者はいなかった。何を言えばいいのか、何を言ってもいいのか、わからないからだ。

 だがその僅かな沈黙は、ジンにより破られることとなった。


「アルシェ……さん? ――いや、違う。彼はいったいどこに?」


 その問いかけの意味をジュードも瞬時に理解した。

 仮面の剣士が身に着けている黒いローブには、腹部に穴が見受けられた。あれはシグルーナが魔人との戦闘の際に腹部を刺された時に開いたもので、アルシェが彼女から借り受けたものだろうという推測が立つ。


 そんなジュードたちから少し遅れるように理解したのであろう仮面の剣士は、ゆっくりと息を吐くと、声を発した。


「彼ならその辺に捨てて来た」


 女性の声だった。それもとても凛々しく、麗しいもの。ふとラナーシャの顔が脳裏を過り、咄嗟に浮かんだ考えを振り払う。

 それにしても、彼女が本当に剣の女神なのだろうか。なぜ仮面の剣士と剣の女神を結び付けたのかはわからないが、それは後にジンからゆっくりと説明してもらおう。


「その辺、とはいったいどこでしょうか!? それに捨てて来たとは!? 彼は無事ですか!?」


 思わず問い詰めるジンに対し、仮面の剣士は黙ったままだ。

 その反応を見てジンはハッと息を飲むと、慌てて居住まいを正し始めた。異様な雰囲気を醸し出しているとは言え、目の前に立つ人物は一見仮面を着けているだけの人間だ。焦りと興奮から彼女の正体を失念していたのだろう。

 ジンは咳払いをすると、改めて口を開いた。


「失礼しました。私はジン・ロムローと申します。ここ、アレスで冒険者組合の支部長をしております」


 ジンが自己紹介を終えても彼女は黙ったままだ。

 ジンは続ける。


「……そこで、お聞きしたいことがいくつかあります」


 だが、そうやって本題に入ろうとしたところで、仮面の剣士はこちらへと背を向けた。

 そして黙ったまま奥の部屋へと歩き出す。


「お、お待ちください! 私はあなたの正体を知っている者です!」


 それは、どうしても彼女を引き留めたかったジンが咄嗟に言い放った言葉だった。

 「おい」とジュードがジンを窘める。だが幸か不幸か、仮面の剣士はこちらへと背を向けたまま歩みを止めた。

 圧倒的な存在の機嫌を損ねたかもしれない。そんな恐怖が二人を黙らせるが、意外にも仮面の剣士は先ほどの質問に応じてくれた。


「あの子の仲間を傷付けたりはしない。彼は無事だ。そして、ここは先ほど暴れた魔人を頭に据えた冒険士ギルド――犯罪組織だ」


 そして、床に倒れている一人の男を剣先で示した。


「後はお前たちが何とかしろ。私と話している暇などないぞ」


 そう言われ、ジュードはハッとする。

 彼女が指した男に見覚えがあったからだ。


「お、お前! ゾイルか!?」

「ゾイル? “悪鬼”ゾイル・ドレッファンか!?」


 “悪鬼あっき”ゾイル・ドレッファン。

 元B3級の上位冒険者だった男だ。

 歳はジュードよりもいくつか上で、現役時代は乱暴な性格から同業者からも恐れられていたのを覚えている。だが犯罪などには手を染めず、一途に強さを追い求め続ける一流の武人だったはずだ。

 そんな彼が何故こんなところに? いや、確かに彼女の言う通り、今はそれどころではないのかもしれない。

 ゾイルは魔法の腕も一流だからだ。足は斬られて立てないようだが、魔法を放たれでもすれば厄介だ。


 仮面の剣士が言わんとすることに気付いた時、彼女はそのまま歩みを再開させた。

 彼女を行かせる訳にはいかない。だが、犯罪組織の構成員を残してこの場を離れるのもまた間違っている。少なくとも、彼女にばかり気を取られていてはゾイルの咄嗟の反撃からジンを守ってやれないだろう。

 そんな一瞬の迷いが致命的な隙となった。


「心配するな。衛兵には知らせておいてやる」


 仮面の剣士がそんな言葉を発すると同時に、ビシッという鋭い音が室内へと響いた。

 そして次の瞬間、彼女が立つ側の天井に大きな亀裂が複数入った。

 ハッとした時にはもう手遅れだった。彼女が奥の部屋へと踏み入った瞬間、ガラガラと大きな音を立てて天井が崩れ落ちると、瓦礫が部屋と部屋を完全に遮断するように扉を覆ってしまった。


 その理不尽な力は知っていた。

 だが改めて目の前で発揮されると、こうも呆気に取られるものなのか。

 しばらく呆然と立ち尽くしていた二人だったが、隣に立つジンがその場へと膝を突き、拳を床へと叩き付けた。


「――くそっ!」


 そんな悲痛な叫びが男たちの呻き声を掻き消し、部屋へと響き渡った。




 ◆◇




 冒険士ギルドの裏口から外へと出たアルシェは、飛び出んばかりに存在を主張する心臓を右手で押さえながら、スラムの路地を全力で駆け抜けていた。

 先ほどは本当に驚いた。同時に、これまでの人生でもトップクラスに動揺した。


(なんであんな所に支部長が? 尾行されてた? くそっ、全く気付かなかった。ってか、仮面を着けるところとか見られていないだろうな? いや、わかってる。見られてたらあんな会話にはならなかったはずだ。わかってる。わかってるんだけど……)


 とにかく、不安だ。

 アルシェの焦燥はこれでもかと煽られ、次々とネガティブな可能性ばかりを連想させる。


(声真似は大丈夫だったか? いつも通りにできてた自信は……正直ない。それに変なことを口走ってたらどうしよう。できるだけ口数は少なく抑えたけど……。ああ、もう! 考えても仕方ない。あんな状況で冷静に対処するなんてそもそも不可能だ!)


 やがて完全に開き直ることにしたアルシェは、人目に付かない場所――先ほどの反省を踏まえ念には念を入れて確認した――で仮面を取り外し、懐へとしまった。シグルーナから借り受けたローブもその場へと脱ぎ捨てる。

 仮面の剣士という大役の衣装を脱ぎ捨て精神的に身軽になったアルシェは、より一層速度を上げて仲間たちの元へと急いだ。



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