43 助っ人
夜の灯りは自費で買い貯めておいた蝋燭だけで、浴場はもちろん、食堂やトイレですらここにはない。幸いなのは最低限の清潔さが保たれていることと、湯浴み用の桶が備え付けられてあることくらいだ。
しかし、ラナーシャたちの部屋とは比べものにならないほど質素なこの宿屋の一室も、ミラ自身が望んで借り受けているものに他ならない。
学院には専用の寮が併設されており、施設もずっと充実している。それでいて費用もここより安いのだから、学生はほぼ全員がその寮を利用していると聞く。
だが、ミラは一年生の前期を終了した直後にここへと住居を移した。目的は単純だ。褒賞金を貰い続けなければ生活ができなくなるという環境に自らを置くためである。実際、そうやって自らを追い込むことにより成績は更に良くなった。
だが、停学により褒賞金の授受が絶望的となった今、この環境に身を置くメリットなど皆無だ。幸いにも前期分の褒賞金がまだたくさん残っているが、それもいずれは底をつく。今学期――三年生の後期――分の褒賞金を貰えないということは来年の前学期末まで収入がないことを意味しているのだから、今の貯金では大幅に足りないのは目に見えている。
寮生活に戻ることも当然考えたが、こんな中途半端な時期に空き室などないだろうという考えから諦めた。だったらすることは一つ。働くのみである。これまた幸いにも、ミラが実家の支援を受けられないということを考慮され、停学中に働くことは容認されているのだ。
アマチュア冒険者は組合に寄せられた依頼を受注することはできないが、組合内にはプロの冒険者がアマチュア冒険者を募るための掲示板も設置されており、それを受けることにより金銭を得ることができる。ミラも昨日は早速それらを確認しに行った。
だが――
(女は遠慮しているから、か……。確かに体力では男性に劣るけど……)
ミラは昨日の冒険者たちが浮かべていた申し訳そうな顔を思い出し、やるせなさから溜め息を吐いた。
ミラはレベル3の風魔法を習得しており、低レベルながら魔装だって扱える。弱冠十七歳にしてアマチュア冒険者の平均を大きく上回るだけの戦闘力を持つ。王都魔法学院主席の名は伊達ではないのだ。
だが、多くのプロ冒険者がアマチュア冒険者に求めているのは戦闘力ではなく、労働力なのだと知った。そうなるとミラの価値は大きく下がってしまう。稀に女性限定で募集しているものもあるのだが、それは身辺警護の仕事においてクライアントの女性が同性の警護員を求めている場合などで、経験を求められる仕事ばかりだ。そうなると今度は経験不足で門前払いを受ける。だったら仕事を選ばなければいいと思うが、そうすると今度は報酬が少なすぎて生活費を賄えないという問題に直面するのだ。
ラナーシャかグレイに仕事を紹介してもらうしかないか、などと考えていると、部屋の扉を叩く音がした。
大家でも来たのだろうか。
ミラが扉を開けると、安宿の廊下に立っていたのはシグルーナだった。
「シグルーナさん? こんな時間にどうかしましたか?」
一目見て、今日の彼女はいつもと様子が違うことに気付いた。
まず、顔の造りに違和感がある。化粧にでも挑戦してみたのだろうか。言っては悪いがいつもの彼女の方が綺麗だ。彼女に似た女性が彼女を精一杯真似しているような感じである。
ミラの質問に応答しない彼女へと、改めて話しかける。
「今日はいつものローブではないんですね。それにしても、今度はもう少し何か羽織ったりした方がいいと思いますよ。女性らしいお体をお持ちなので」
おどけたように言うが、またしても返答はない。
不審に思い表情を確認してみると、彼女は口の端を吊り上げて微笑んでいた。いつもの彼女らしい温かい笑みではなく、邪悪なそれだ。
――ビンゴだ。
無言でそう紡がれたように見えた。
次の瞬間――
「ひっ……!」
シグルーナの顔がぐにゃりと歪み、魔力の渦に飲み込まれたかと思うと、彼女の面影は瞬く間に消え去った。
現れたのは男の顔である。
白銀の髪は紫がかった黒へ。健康的な褐色の肌は病的なまでの白へ。そして女性らしい妖艶な肉体は筋肉質な巨漢へと変貌した。
言葉を失ったミラを見下ろし、
「どうだ? 結構似てただろ? こう見えても芸術のセンスは悪くないみたいでなぁ」
そして心底楽しそうにケラケラと笑う。
ミラは震える唇を必死に動かし、その存在を両目で見据えた。
「だ、誰ですか、あなたは……。何、者ですか……」
「あぁ?」
するとそいつは途端に面白くなさそうに笑うと、「そうじゃないだろうが」と呟く。
そして口を大きく開き、声を張り上げた。
「――お前は誰だぁぁぁッ!!」
耳をつんざくような轟音だった。
大気が震え、目に見えない威圧感がミラへと襲い掛かる。あまりの迫力に尻餅を突き、呼吸が上手くできなくなっていた。
「わかったか? 怪しい人物への誰何はこうやるんだよ。ビビらせたもん勝ちだからな」
そいつはそんなことを言ってみせるが、ミラの耳には届かない。
たった今目撃したあり得ない光景と、続けざまに放たれた咆哮が、ミラから冷静さを完全に奪い去っていた。現実を上手く受け入れられず、意識がどこかへ飛び去ったかのような感覚がする。
膝が大きく笑い、喘ぐように酸素を取り込む。
そんなミラの様子を見て、そいつは訝し気に眉根を寄せた。
「んだぁ? お前、あいつの仲間ってことは冒険者とかじゃねーのか? 何であいつはこんな情けない奴と一緒にいるんだよ。まあ、泣き叫ばないだけ昨日の奴よりはマシか。あいつは仲間でも何でもなかったみたいだけど」
尚も言葉を返せないミラに対し、そいつはその場へと片膝を突いた。
そしていつの間にか鎌のような形へと変形していた指でミラの頬をなぞった。
「ほぅーら、何とか言えよぉ。こっちは話し合いがしたいんだ。話す気がないなら殺しちゃうよー?」
そして鎌の刃が頬を切り裂き、流血が首筋を伝う。
不意にもたらされた刺激により、ミラの意識が現実へと引き戻された。
そのままの体勢でゆっくりと後退りながら、尚も震える唇を必死に動かす。
「何者かと、た、尋ねているのです」
「生意気だなぁ。……ふっ、まあいい。俺の名前はガトー。知っての通り化け物だ」
自らを化け物だと名乗ってみせたガトーとやらを強く見据える。
そして相手を刺激しないようゆっくりと左手を上げると、左頬へと回復魔法を施す。怪我を治すためというよりは、いつも練習している魔法を発動することにより、少しでも冷静さを取り戻そうという魂胆である。
だが、少しずつ傷が塞がる様子を見ていたガトーは驚いたように笑った。
「おぉ! 回復魔法じゃねぇーか!」
へぇー、と興味深げに言うガトーへと、ミラは先ほどよりも冷静に続ける。
「話し合いたいこととは、いったい……」
「ああ、シグルーナに他にどんな仲間がいるのか聞きたかったんだけどよ、やっぱ後でいいわ」
「シグルーナ、さん……」
「そんなのは後だ後。それよりももっと回復魔法を見せてくれよ。見るの初めてなんだからよ。ほら――」
そう言うと、ガトーはおもむろに腕を振るった。
「――こんなのも治せるのか?」
それは一切の気負いもない、何気ない行動だった。だからこそミラは何が起こったのか理解できなかった。
だが、駆け上る熱がミラの脳を焼き、喉を激しく収縮させた。
「ぎゃあああぁぁぁッ――!」
絶叫し、転げ回る。ふと熱の発生源へと視線を向けると、そこにはあり得ない方向へと曲げられたミラの左足があった。
――足を折られた。
痛みを自覚し、克服しかけていた恐怖が再びミラを支配する。
涙と鼻水で顔を汚すミラを見て、ガトーは少し焦った様子を見せた。
「おいおい、おい! 勘弁しろよ。こんな怪我で悶絶かよー」
やれやれ、とでも言いた気なガトーを尻目に、ミラは必死で回復魔法を施そうと奮闘する。
だが痛みと恐怖で集中力が散漫し、上手く発動できずにいた。
それにしても、なぜ誰も助けに来てくれないのだろうか。先ほどのガトーの咆哮も、ミラの絶叫も、共に周囲の注意を引くには十分過ぎるくらいのはずだ。
だが、そんな疑問には最悪の答えが用意されていた。
隣の部屋の扉から赤い液体が廊下へと漏れ出している。よく見ると、それは隣の部屋に限らず、大家が居を構えている部屋も同様であった。
ミラの視線を追っていたガトーが思い出したかのように言う。
「ああ、他の部屋の連中か? 留守の奴以外は全員殺したぜ」
その言葉に、今まで感じたことがないほどの絶望がミラを襲う。
――自分も殺される。
これほど突然に、意味もわからぬまま。せっかくラナーシャたちと出会えたのに、こんなところで夢は潰える。
「わ、私の夢は冒険者になること……だったのに、もう、叶わないの……?」
痛みなどもうどうでもいい。ミラは嗚咽に身を任せ、その場へと仰向けに倒れ込んだ。
「仮にも冒険者を目指してるなら、簡単に命を諦めるな」
そんな完全に命を投げ出した行動に、どこからか𠮟責の声が飛んで来た。だがそれはガトーのものではない。
ミラは反射的に声がする方向へと視線を向けた。
そこにいたのは、グレイやアルシェよりもずっと長身で筋肉質な男性だった。濃紺の短髪が爽やかな彼の右手には、抜き身の剣が握られている。
彼は続けて口を開く。
「立て」
有無を言わさぬ声色である。
だがミラを支配する絶望はそれ以上のもので、つい反抗的になってしまう。
「なぜ、ですか……」
そんなミラへと、男性は容赦なく言い放った。
「――這いつくばる姿が醜いからだ」
「――っ」
思いもしなかったそんな答えに、ミラは思わずドキリとしてしまう。
だが男性はセリフに似合わぬ柔和さを垣間見せると、今度は冗談っぽく微笑んだ。
「はははっ、悪いな。それは昔、俺自身がある人――人? まあいいか――とある人に言われた言葉なんだ。言ってみただけ。だから別に立たなくてもいい」
やがて男性は雰囲気を一変させると、黙って事態を見届けていたガトーを見据えた。
「貴様、人ではないな」
そして突然紡がれたそんな言葉に、ガトーは楽し気に答えた。
「ああ、その通りだ」
「ふん、わかるんだよ。貴様のようなクズ魔人からは漂って来る汚らわしさが人間のそれとは違うからな」
「はっ、よく言うぜ。んで? 魔人のことを知るお前はいったい何者だ?」
そんなガトーの誰何に対し、男性の口から出た名前はあまりにも有名なものだった。
「――
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