42 教訓の代償

 王都の町並みは少しずつ夜の様相へと姿を変えていく。

 オレンジ色の温かい光に照らされた石畳を歩きつつ隣へと視線を向けると、目が合ったジェイドが気恥ずかしそうに目を逸らした。そんな彼の反応が可笑しくて、シグルーナは思わず笑ってしまう。

 先ほどまで、彼と夕食を共にしていた。いつもの宿屋で提供される料理の方が美味しいのは否めないが、彼の態度が少しずつ柔らかくなるなど、それとはまた別の幸せがそこにはあった。

 自分がジェイドを好きになることはない。だが、こうやって愛されるのも悪くはない。少し身勝手だとは思うが、人を愛せないことに一番傷付いているのは他ならぬ自分なのだから、少しくらいはわがままになってもいいだろう。


(グレイ君、知ったら怒るんだろうなぁ……)


 あれから、何も言わずにジェイドとのやり取りを見守ってくれていたラナーシャは、少しの優柔さを見せながらもシグルーナのわがままを聞き入れてくれた。その時に提示された条件が、ラナーシャたちと帰路を共にするということだった。

 ラナーシャとグレイは放課後にも仕事が残っており、いつも学生たちよりも帰りが一時間ほど遅くなる。その一時間の間にデートを済ませ、学院へと戻って来いと言われたわけだ。そうすればグレイには黙っててやる、とも。

 シグルーナはそんなラナーシャへと心の中で礼を告げると、交差点の真ん中で足を止め、ジェイドを振り返った。


「じゃあ、ジェイド君。見送りはここまでで大丈夫よ」


 シグルーナがそう言うと、ジェイドは少し寂しそうに微笑んだ。


「わかりました。では、僕も家へ帰ります。……今日は本当にありがとうございました」


 そして頭を下げた彼に対し、シグルーナも笑顔で応える。


「いいえ。私も楽しかったわ。こちらこそありがとう」


 そんなやり取りの後、二人は少しの名残惜しさを残したまま別れた。

 ジェイドの背中が夕闇に溶けていく様を見届けると、シグルーナもまた踵を返す。

 今日は本当に良い一日だった。自分のことを一人の女性として想ってくれる、彼からのそんな好意がとても嬉しかった。途中で生活費のために冒険者組合にてアマチュア冒険者宛ての求人を探しに来たというミラと出会い、少々対応に困ったりもしたが……。

 そんなことを考えながら歩いていると、突然背後から「おい」と声をかけられた。ハッとしたシグルーナは反射的に背後を振り返る。

 そこにいたのは――。


「……あなた、ガトー?」

「おぉ! やっぱシグルーナじゃねーか!」


 見覚えのある赤味がかった褐色の肌に、細く鋭い目付き。百八十センチほどの長身に筋骨隆々な肉体が合わさり、その雰囲気はとても威圧的なものだ。

 彼の特徴とも言える額の一本角は見受けられないが、シグルーナが彼を見間違うことはない。

 その正体は――中位魔人ガトー。

 特別深い仲でも何でもないが、かつては何度も戦闘訓練として手合わせをした間柄でもある。

 ガトーは途方に暮れるシグルーナを見て、ケタケタと笑う。


「おいおい、なんて顔しやがる。まるで幽霊でも見たかのようじゃねーか」

「だ、だって、あなた……」

「どうして生きてるの? ってか? はははッ!」


 ガトーは大きな口を開けて笑うが、シグルーナにはそんな余裕などなかった。


「そうよ。死んだはずでしょ? 八年目のあの日に」


 中位魔人ガトーは、八年目に魔の神塔内部にて剣を持った子供――当時のアルシェによって命を絶たれたはずだ。

 だがそんなシグルーナの言葉をガトーは笑い飛ばした。


「ははっ! そうは言ってもよ! 実際こうして生きてるじゃねーか!」

「そ、それはそうだけど……」


 尚も要領を得ないシグルーナの様子に、やがてガトーは笑うのを止めると、「はぁー」と息を吐いた。

 そして諭すように話し始める。


「あのな、俺様の特殊能力知ってんだろ? 超イケてる特殊能力をよ!」


 そこまで言われてから、シグルーナは彼の言わんとしていることが理解できた。


「まさか……」

「おう! そのまさかだ! あの時もちょうど能力使っててよ、奴は確実に首を落としたつもりだったんだろうけど、実際にはギリギリ再生可能な怪我で済んだってわけだ」


 中位魔人ガトーの特殊能力は『身体変化』。

 これは自らの体の形態を自由に変える能力であり、彼はこれにより全身を大きくしたり、時には小さくして戦う。そして巨大化する時の特徴として、周囲の魔力を利用するというものがある。周囲に漂う魔力を押し固めて足りない体積を補うイメージだ。

 そしておそらくは、当時の姿も巨大化したものだったのだろう。だからこそ、飛ばされたと思われた首はガトーの実際の首ではなく、その多くが周囲の魔力により形作られたものだったのだ。


「そして上位魔人は死に、縛りから逃れたあなたは人間界へと逃れて来たというわけね」

「おう、話が早いじゃねーか。で、お前はどうなんだ? ベリアルの野郎に命令されてここに来たんだろ? 目的は何だ?」

「違う。命令なんてされてない」

「はぁ? 命令なしでこんなとこに来れる訳ねぇーだろ。いや、待てよ……まさか……」

「ええ。ベリアルは死んだわ」


 下位魔人は中位魔人に支配され、中位魔人は上位魔人に支配されている。ただの力関係ではなく、本当に行動を支配されているのだ。

 魔人たちはこれを“縛り”と呼び、かつてのシグルーナもまたこの縛りに抗えず、王都へとアルシェの命を奪いに来た。辛うじて縛りの穴を突き、無関係の人物には可能な限り危害を加えないように努めた。だがもし遭遇したのがラナーシャではなくアルシェ本人だったなら、シグルーナは縛りに従い本気で彼の命を奪おうとしていたことだろう。

 そしてこの縛りから逃れる方法は一つ。自らを支配する上位魔人が命を落とすということ。

 ガトーは信じられない様子で何やらぶつぶつと呟いていたが、やがてシグルーナへと向き直った。


「……奴は誰にやられた?」

「教えない。教える義理なんてないわ。それよりもう行っていいかしら。私、あなたのこと嫌いなのよね」

「……ちっ、まあいい。そんなことより俺と一緒に来いよ。自由の身なんだろ? 人間界を謳歌しようぜ」


 ガトーは心底楽しそうに天を仰いだ。

 そんな彼に対し、シグルーナの表情は嫌悪感に歪む。


「話聞いてたの? 私はあなたのことが嫌いなの。それに私には他に仲間がいるから」

「へぇ、仲間がいるから俺とは来れないと?」

「概ねそういうことよ。じゃあね」


 そう言い残し、シグルーナは足早にその場を立ち去った。

 ガトーが生きていたのは衝撃だったが、決して嬉しかったわけではない。むしろその逆だ。

 神塔内部で大人しくしているならまだしも、彼みたいな魔人は人間界へ出て来るべきじゃない。もし何か悪事を企もうものならシグルーナの手で引導を渡すことだって厭わないつもりだ。そんな奴と仲間になるなど死んでもお断りだ。

 そんなことを考えながら先を急ぐシグルーナに対し、ガトーは不吉な声で呟いた。


「仲間がいるから、ねぇ……」




 ◆◇




 シグルーナが学院へと帰ったのは、放課後が始まってから約五十分後のことだった。

 丁度良い時間に辿り着いたシグルーナはラナーシャへと礼を述べつつ、今日一日のことを振り返っていた。

 最後に嫌いな奴と出会ってしまったが、それを差し引いても良い一日だったと言える。何よりも魔人である自分が――先方はそのことを知らないとは言え――一人の人間として見てもらえたということに、底知れぬ喜びを感じた。

 やがてグレイとも合流を果たすと、久しぶりに皆でアルシェの顔を一目見てから、いつもの宿屋へと帰った。

 そして次の日――


 “ジェイド・ウェイパーという青年が何者かに惨殺された”。


 ――学院にてシグルーナはそんな訃報を受けることとなった。




 ◆◇




 早朝、学院はいつもとは違う喧噪に包まれていた。

 職員室では教師や学院スタッフが慌ただしく動き回り、時には怒号が飛び交う。そして皆がその顔を神妙に引き攣らせていた。

 そんな状況を訝しんでいると、こちらの存在に気付いたハリトンが走り寄って来た。その顔は心なしかやつれているように見える。


「おはようございます、皆さん」

「挨拶なんていい。それより何があった」


 グレイがそうやって先を促すと、ハリトンは一層深刻な顔をしつつ、先を話した。


「昨晩、うちの学生の惨殺遺体が見つかりまして。ジェイド・ウェイパーという青年のものなんですが……」

「殺された? それはただの殺人事件か、それとも重大な何かか?」

「その何かです。なにせ遺体には魔物のものらしき傷跡が――」

「――ちょっと待って」


 次々と話を進める二人へとシグルーナが待ったをかけた。

 ――今、聞き覚えのある名前があった。

 シグルーナは震える声で問いかける。


「誰が……亡くなったって言ったの?」


 そんな質問に答えたのはハリトンだった。


「――ジェイド・ウェイパーです」


 その瞬間、足下が崩壊するかのような錯覚に陥った。

 床がグラグラと揺れ、膝が震える。そんな感覚にまともに立っていられなくなり、思わずその場へと膝を突いた。

 そんなシグルーナの肩を隣にいたラナーシャが抱く。そして思い出すように呟いた。


「そうか。ジェイドって、昨日の……」


 だがそんな彼女の言葉は最早届かない。

 震える唇が何度も彼の名をなぞる。

 ――ジェイド。

 ――ジェイド・ウェイパー。

 ようやく頭が状況を理解してくるにつれ、シグルーナの脳裏に昨日の光景が次々とフラッシュバックする。

 緊張を隠しつつ、話しかけてきたこと。

 勇気を振り絞り食事に誘ってくれたこと。

 食事代を奢ると言って退かなかったこと。

 ミラにからかわれ、顔を真っ赤にして取り乱していたこと。

 そして名残惜しそうにシグルーナへと背を向けたこと。

 ――そんな彼が殺された?

 そう思うと、なぜだか突然彼の顔が思い出せなくなった。喪失感が実際の記憶にまで影響を及ぼしているのだろうか? 彼はどんな目をしていただろう。どんな鼻をしていただろう。どんな口を、どんな耳を――。

 まるで昨日の出来事は全てが幻だったとでも言うかのように、それは光の粒となって虚空へと溶け込んでいく。

 そうやって項垂れるシグルーナを見て、グレイは何かを悟ったようだ。ハリトンを退がらせると、シグルーナへと詰め寄った。


「何か心当たりがあるようだな。話せ。昨日何があったんだ」


 そんな彼へとラナーシャが事情を説明してくれた。

 ジェイドからデートの誘いがあったこと。そしてそれをシグルーナが了承し、ラナーシャが送り出したことなど。

 そして最後にシグルーナ自ら、その後に顔見知りの魔人と遭遇したことを付け加えた。

 話を聞き終えたグレイが神妙に眉根を寄せる。

 そんな彼へと、シグルーナは呆然と話し続ける。


「ガトーに付いて来いと言われた時、仲間がいるなんて言ったから……あいつは私の仲間さえ殺せば、私が付いて来るって……きっとそう考えたんだ。直前まで一緒にいたから、ジェイド君を私の仲間だと……」


 後悔の念が止まらない。

 まるで呪詛のように言葉が紡がれる。


「……私が、誘われた時に断っていれば、こんなことには……。グレイ君に一言相談すれば、きっとあなたは止めてくれた……私が……」


 グレイの言う通り単独行動を避けてさえいれば、彼と食事に出かけることなどなかった。ガトーという危険人物を前にした時も、あまり深く物事を考えずに発言してしまっていた。六感強化ですら発動していなかった。

 そして何よりも、ジェイドへの罪悪感がシグルーナの精神を蝕んでいく。自分なんかを好きになってしまったばかりに、彼は命を落としたのだ。

 肩を抱くラナーシャの力が少しずつ強くなる。

 だが、グレイは何も言おうとはしない。

 恐る恐る、彼へと問いかける。


「……グレイ君、私のこと、怒らないの?」


 何も言われないよりは、思いっきり叱ってほしかった。そうでなければ罪悪感に圧し潰されてしまいそうだ。

 だがグレイの返答は想像とは違ったものだった。


「そのジェイドって奴が無事だったなら、叱ってたさ。……でももう必要ないだろ」


 グレイは「十分教訓になったようだからな」と続けると、シグルーナへと背中を向けた。

 それは彼なりの精一杯の優しさなのだろう。

 シグルーナは俯き、目を閉じる。

 そしてグレイのこんな言葉により、シグルーナは自らの大きな勘違いに気が付いた。


「――とにかく、お前が無事でよかった」


 ドクン、と心臓が大きく脈を打つ。

 相変わらず、こちらへは背中を向けたままだ。だから彼がどんな表情をしているかなどわからない。

 だがその言葉はシグルーナの心へと流れ込み、コンプレックスに塗り固められた堤防をいとも簡単に破壊した。

 両目に涙が溜まり、やがて頬を伝う。

 ――彼らとの間に壁があるなんて、ただの勘違いだった。


(私が勝手に心の中に壁を作ってたんだ。私が一番自分が魔人だってことを気にしてた)


 ずっと人間のようになりたいと思っていた。だからこそ恋愛にも憧れた。恋愛感情などないにもかかわらず。そして同時に、人間のようでなければならないとさえ考えていた。

 だが彼らは違った。そんな風に考えていたのは自分だけだったのだ。

 彼らは皆、シグルーナをシグルーナとして扱った。人間としてでも魔人としてでもなく、だ。まるで人間であろうと魔人であろうと関係ないと言わんばかりに。


「ありがとう、グレイ君……」


 自らの弱さが勘違いを生み、悲劇を誘発した。

 そんなことではだめだ。アマチュアだからとかは関係ない。冒険者である以上、強くなければならない。

 ――ごめんね、ジェイド君。

 もう少し早く気が付いていれば、君は死なずに済んだのに。

 その時、グレイがふと何かを思い出したかのように改めてシグルーナを振り返った。


「抜けてるようじゃ困るから、これも言っておくぞ。――死ぬのは何も周りの人間だけじゃない。弱者だけじゃないんだ。俺やアル、ラナーシャだって死ぬ。生きている以上は死ぬんだ。冒険者なんてしてると尚更な」


 思わずハッとする。

 もちろん、そんなことは百も承知だ。だがしっかりと考えたことなどなかった。危機感を抱いたことなどなかった。

 グレイが誰よりも自分に厳しくある理由。

 ラナーシャが地獄だと知りつつも幼い妹を殲滅卿の下へと送り出した理由。

 それは彼らが知人の死を身を以て体験しているからだ。

 ――自分の軽率な行動が大切な仲間を死へと追いやるかもしれない。

 言い方は好ましくないが、ジェイドの命だけで済んで幸運だったとすら言える。自分はもうそういう世界で生きているのだ。

 その時、ふとシグルーナは大切なことを思い出した。

 ハッとして顔を上げると、グレイの背中へと言葉を飛ばす。


「私、昨日ミラちゃんとも会ったの! もしガトーがその時から私に気付いてたなら、彼女が危ない!」


 シグルーナのそんな言葉に、グレイが素早く振り返った。

 そしてラナーシャへと声を張り上げる。


「ラナーシャ! 今すぐ全力でミラの家へ向かえ! 振り切ってくれて構わない!」

「ああ、わかった!」

「――待って!」


 今にも走り出そうとしていたラナーシャを呼び止めると、シグルーナは一度だけ唾を飲み込み、震える声帯で必死に言葉を紡いだ。


「私も……行くわ。それとグレイ君! 少し遅れてくれてもいいから、アルシェ君を連れて来て! ガトーは私と同じ中位魔人だけど桁違いに強いの!」


 一息にそう言い切ると、グレイは少し驚いた表情を浮かべた後、神妙に頷いた。

 シグルーナは固く誓う。

 ――もう絶対に、誰も死なせはしない。

 大切な仲間を守るために強くなるのだ、と。



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