24 女の友情

 王都を魔人が襲撃した事件から二か月、そしてラズール・ロアが現れた日から一か月が経ったこの日の夜、シグルーナは宿屋の一室にて一冊の本を読み終えた。


「ふぅ、ようやく読み終わったわ。はいこれ。ありがとね」


 そして借りていたその本をラナーシャへと返すと、彼女は優しい笑顔で受け取ってくれた。


「これで一通りは終わりなのよね?」

「ああ、おめでとう。あとは実践で身に着けていけばいいだろう」

「ふふ、ありがとう」


 シグルーナが読んでいた本は冒険者が身に着けておくべき基本的な法律を網羅したもので、これで冒険者に必須の知識を一通り身に着けたことになる。もちろん全てを完璧にマスターしたわけではないが、それでも及第点だろう。ラナーシャのお墨付きである。


「それにしても、冒険者って凄いのね。強いだけじゃないんだ」


 シグルーナの呟くような言葉に、ラナーシャは小さく笑った。


「もちろんだ。腕力だけでは本当の強さとは言えない。冒険者が最も大切とするのは生き残るための知恵だからな」

「そうなのね。尊敬するわ」

「ただ、皆が皆一様に、ありとあらゆる知識を備えているわけではないぞ。人によって得手不得手な分野が存在し、パーティメンバーが互いにそれらを補い合うのが普通だ」


 そう言うと、ラナーシャはより詳しく語ってくれた。

 まず、ラナーシャは王国周辺の地理に詳しく、土地勘には自信があるとのこと。これには彼女の辛い過去が関係しているようで、その知識がなければどこかで野垂れ死んでいたかもしれないらしい。まさしく、生きるために身に着けた知識と言えるだろう。

 そしてアルシェは、ラナーシャたちでさえ思わず驚いてしまうような特技を多数身に着けているのだと言う。そこには鍵開けなどといった犯罪染みたものから、音楽、釣り、料理といった実用的なものまで含まれているらしい。彼の実家が冒険者御用達の酒場であったために様々な冒険者に可愛がられて育ち、色々と教わりながら生きてきた結果なのだそうだ。

 最後にグレイだが、彼は戦闘力だけではなく知識の方面でも異常なのだそうだ。

 法律の知識や解剖学、心理学、数学、化学、神学、語学などに秀でており、冒険者としての必要な知識はほぼ彼一人で網羅していると言っても過言ではないらしい。

 彼がその性格に反し、とてもストイックで努力家なのはこの二か月間でシグルーナにも理解できていたが、こうやって教えられると改めてその凄さを実感させられる。

 考え得る限りで最大の努力を継続してきた天才というのは、ここまでの存在にまで昇華し得るものなのか。そう考えるだけで、思わず四肢に力が漲るようである。


「それにしても、本当に凄いのね。やっぱり私も人間に生まれたかったわ」


 意図せず、思わず口をついたそんな言葉。

 だがその何気ない一言に、ラナーシャは表情を落ち込ませてしまう。


「……私は、人間だと思って接してるぞ」


 そして告げられたそんな一言に、シグルーナの心が小さく弾む。


「え……」

「私にとっては、お前が魔人であろうと人間であろうと関係ないと言っているんだ。……それに、あれだ。友達だとも……思っている」


 それは、片思いの異性へと想いを告げるが如く絞り出された一言のように感じられた。

 途端に、シグルーナの全身を今まで味わったことのないような歓喜が粟のように浸食を始める。

 そして四肢から立ち昇るそれらが心臓へと達した時、思わず我慢ができなくなり、シグルーナはラナーシャへと勢いよく飛びついた。


「わっ、なんだ!?」


 突然押し倒され、ラナーシャはなす術なくベッドへと全身を横たえた。その体をシグルーナが抱き締める。


「ありがとう、ラナーシャ。凄く嬉しいわ。本当に嬉しいのよ……」


 どこか感傷を孕んだようなその声色に、ラナーシャの全身から緊張が抜けていく。

 そして今度は、ラナーシャの方からシグルーナの背中へと腕を回した。


「……気にするな。二か月間も過ごしていれば、大体の人となりくらいは理解できる。お前は信用に足る人間だし、共にいれば心が安らぐ。何より、ずっと一人だったのは私の方なのだ。最近こそあの二人と行動を共にしているが、同性の友達というのは存在しなかったんだ」

「そう、だったのね」

「ああ。だから最近は毎日が楽しくて仕方ない。お前はどうだ?」

「私もよ。私も毎日が凄く充実してるわ」


 シグルーナが彼らと合流しておよそ二か月。

 その間、人間の側についた魔人というのは、とても不安定な立場なのだと実感させられた。

 まず、魔人にはスキルというものが存在しないため、身分を隠してプロの冒険者となるのは不可能なのだ。冒険者試験を受けるにはレベル2以上の武器・魔法スキルの所持を証明しなければならないのだから。そのためシグルーナほどの戦闘力を以てしても、生涯アマチュア冒険者として活動することになるだろう。

 そして服装にも制限がある。夏場の暑い季節でも、シグルーナは大きなローブを人前で脱ぐわけにはいかないのだ。シグルーナは比較的人間に近い見た目をしているのだが、背中と腰からは小さな黒翼が生えているため、それらを隠す必要がある。翼は自由に折り畳めるのだが、それでも薄着などで外を歩けないのは言うまでもないだろう。

 だが、最もシグルーナにとって辛かったのは、グレイからもたらされる隠す気のない警戒心だった。

 無理もない。ラナーシャから聞いたところ、彼は八歳の頃に、自らを可愛がってくれた多くの大人たちを魔人に殺害されている。そして、その中には彼の実の母親も含まれていたらしい。

 もちろん、魔人であるシグルーナにはその事件について心当たりがあった。

 数ある神塔の中でも、最も踏破難易度が高いと言われている魔の神塔。そんな魔の神塔攻略へと身を乗り出した男たちがいた。それが八年前のジョット率いる『殲滅の旅団』だった。

 以前ラナーシャから聞いた話では、実際に神塔へと入ったのはジョットと妻のカーラ。そして彼らの部下である二十名の上位冒険者。その計二十二名だったそうだ。

 かつてないほどの精鋭部隊。現在の殲滅の旅団より遥かに強力だとも言われている当時の旅団は、しかし魔人たちの手によって壊滅の憂き目に遭ってしまう。

 シグルーナはその場に居合わせなかったためあくまで伝聞でしかないが、殲滅の旅団を迎え撃ったのは二体の上位魔人と、それが率いる三体の中位魔人、そして百を超える下位魔人の群れだったと言う。

 結果、生き残ったのはジョット・ナルクラウンただ一人だった。

 ジョットと、当時怪我のためギルドの留守を務めていたロシュフォール、そして当時まだ下位冒険者だったため塔へは入れてもらえなかったというルーデンベルクなる男。その三人だけを残し、殲滅の旅団の構成員は全滅してしまったのだ。

 ただ、そこからどうやってジョットが生還を果たしたのかを知る者は誰もいない。

 ただ一つ、魔人たちが知る事実がある。それは、現世代の魔の神塔を侵しつつも生き延びた人間は歴史上三人だけだということ。

 一人はジョット・ナルクラウン。そして残る二人が、グレイ・ナルクラウンとアルシェ・シスロードだ。

 それだけの体験をしたのだから、グレイがなかなかシグルーナへと心を開かないのも無理はないだろう。

 だが、彼なりの矜持なのか、決してシグルーナを邪険に扱おうとはしない。

 時折口は悪くなるが、それは彼の元々の性格だ。決してシグルーナが嫌いだからこそのものではない。

 もしかすると、彼なりに心を許そうと頑張ってくれているのかもしれない。そう考えれば、何も悪いことばかりではないのだ。最近ではそんなグレイが可愛らしいとさえ思えるのだから、おそらくシグルーナは彼の人間性に惹かれているのだろう。

 だが、シグルーナが充実した生活を送れているのは、他ならぬラナーシャの存在があってこそだ。

 魔人である自らを容赦なく殺しにきたジョットの魔法から、自らの立場を悪くしてしまうかもしれないにもかかわらず、ラナーシャは救ってくれたのだ。

 ジョットに対しトラウマを抱くのと同様に、ラナーシャに対し愛が芽生えるのは至極当然のことだった。

 そんな彼女が自らを友達だと言ってくれる。これほど嬉しいことが他にあろうものか。

 思わず笑みが零れるシグルーナの頭を、ラナーシャは優しく撫でてくれる。


「……なんだか、友達兼妹みたいな感じだ」

「あら、妹はシルヴィアちゃんという子だけで十分でしょ? 私の方が年上なのだから、どちらかと言うと姉よ」

「ふふ、威厳のない姉だな」

「もう、そういうこと言わないの。……ふふ、好きよ、ラナーシャ」

「ああ、私もだ」


 とそこで、会話の流れで好きだと言い合ってしまったラナーシャは、ふと瞼をしばたかせた。


「……ん、好きというのは、友達という意味でだよな?」


 そしてそんなふうにラナーシャは問いかける。

 それに対し、シグルーナはラナーシャの肩口から顔を離した。その表情はきょとんとしたものだ。


「え、当たり前でしょう?」

「そ、そうだよな。少し驚いた」

「何を勘違いしてるのよ。大体、私たち魔人は生殖を必要としないから、そもそも恋愛という概念がないのよ。知識として知っているだけ」

「そ、そうなのか……」

「ええ。性器なんかはちゃんと備わっているけれど、おそらく使うようなこともないわ」

「……じゃあ、どうやって魔人は子孫を残すんだ? それに、必要ないものがなぜ備わっている?」


 それは、ラナーシャが抱いた素直な疑問だった。

 そもそも、魔人という存在は謎が大きすぎるのだ。魔人に対しての情報統制も理由の一つなのだろうが、普通に考えて生物としての常識から逸脱しているように思える。

 シグルーナは「私にもよくわからないけど」と前置きをし、彼女なりに説明してくれた。


「私たち魔人は、生物の亡骸から生まれるの」

「な、亡骸?」

「ええそうよ。魔の神塔を統べる魔の王――魔王によって生物の亡骸から生み出されるのが私たち魔人。人型の魔物の亡骸から創られるのが下位魔人で、人間そのものの亡骸から創られるのが中位魔人。そして強力な魔力を持った人間の亡骸からは、上位魔人が創られる」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。話に付いていけない」

「構わないわ。さっきも言ったけど、私にもよくわからないのよ。だから話半分に聞いて頂戴」

「わ、わかった。そうする」


 その後、頭の片隅を抑えつつ眉を顰めるラナーシャへと、シグルーナは説明を続けた。

 生物の亡骸から創られるため、魔人には元となった人間の性器など必要のないものまでもが引き継がれていること。

 亡骸とは言うが、正確には亡骸から創られた新しい肉体というだけであり、決してシグルーナが元人間の体を乗っ取っているような状態ではないこと。

 元となった人間と創られた魔人の魂のようなものに一切の関連はなく、全くの別人であること。

 人間の体を元にしているからなのか、生まれた直後から世の中の基本的な摂理などが頭に入っていること。

 魔人の創造は決して確実に成功するものではないということ。

 それらを説明し終えるころには、ラナーシャの眉間に刻まれた皺はより一層深くなっていた。


「ふふ、せっかく可愛らしい顔をしているのに、そんなに力を入れちゃダメよ」


 そう言って眉間をこすってやると、ラナーシャは冗談交じりに微笑んだ。


「すまない。確かに話半分に聞いておくべきだったな」

「ねえ、そうでしょう? ちなみにだけど、私は今二十六歳になるわ。魔人の寿命は大体百年ほどで、人間よりも少し長い程度。だけど不老で、生まれた時から外観は変わらないの」

「そうか。話してくれてありがとう。……もしかしたら、この秘密を知る人間は私だけだったりしてな」


 そう言っておどけたように笑うラナーシャだったが、実はそうではないのだ。

 シグルーナ自身不思議で仕方ないのだが、なぜかその秘密を知る人物が存在した。

 ――他ならぬ、ジョット・ナルクラウンだ。

 二か月前の事件にて、シグルーナの命を救うか否かの判断をする際に、彼からは色々な質問を投げかけられた。

 その時の質問に、おそらくは私情で問いかけたのであろうものが一つだけ紛れ込んでいた。

 あの時、彼は暗い声でこう言った。

 ――「八年前に魔の神塔内部で大勢の冒険者が命を落としたのを知っているな? ……その時の死体は、どれだけが魔人となった」

 それに対し、シグルーナは息もからがらに答えた。

 ――「あの方は全ての死体を魔人へと変えようとして、結果的には二体の中位魔人が誕生したわ」

 そこまで言ってから、当時のシグルーナは、ジョットの本当に聞きたいことについてを理解した。

 だからこそ、それについてもしっかりと伝えてあげた。

 —―「大丈夫。その二体はいずれも男性よ。女性はいなかった」

 そして、それを聞き届けたジョットはホッとした表情で礼を述べ、シグルーナの尋問を終えたのだった。

 その時はただの憶測でしかなかったが、ラナーシャから話を聞いた今では神塔へと足を踏み入れた唯一の女性――カーラ・ナルクラウンが彼の妻だと知っているため、ジョットの反応にも納得がいく。彼は間違いなく、愛する者の体が次なる悲劇への触媒とされなかったことに安堵したのだろう。

 そんなことを考えつつ、シグルーナは改めてラナーシャの体を抱き寄せた。


「お、おい、まだくっつくのか? 恋愛の概念がないとは言え、さすがに勘違いするぞ?」

「ふふ、勘違いするならすればいいわ。私はくっついていたいの」

「なんだ……本当に妹みたいなやつだな」


 そんなふうに二人でふざけ合っていると、シグルーナはずっと前から抱いていた疑問を思い出した。


「そうだ。恋愛と言えば、あなたは誰か好きな男性とかいないの?」

「ん? んー、意中の男性という意味では、まだいないな。そういう経験も一切ないよ。昔はそれどころじゃなかったから」

「ふーん」


 そう言うシグルーナの脳裏には、アルシェの姿が浮かんでいた。

 アルシェは間違いなく、ラナーシャのことが好きなのだろう。器用な彼らしく上手く隠しているようだが、シグルーナの六感強化の前ではあまり意味を成していなかった。


「じゃあ、どんな人がタイプなの?」


 そう問いかけると、意外にもラナーシャは嬉しそうに即答した。


「それはもちろん、私だけを一途に愛してくれる優しい男だ。そして私よりも強く、どんな危険からも守ってくれる頼りがいのある男!」


 嬉々として宣言する彼女の様子を見て、シグルーナは「あら」と苦笑した。

 ラナーシャはその凛々しい外見や言葉遣い、冒険者としての強さとは裏腹に、かなりの恋愛脳なのではないだろうか。

 経験がないだけに妄想が肥大化しているだけなのかもしれないが、「私の王子様……」などと言って頬に朱を差す彼女を見ていると、そう思わざるを得ない。これには六感強化など必要ないだろう。


「でも、そんな人いるかしら?」

「な、どうしてだ?」

「だって、あなたよりも強い男性でしょう? その時点でかなり絞られてしまうじゃない」

「うぅっ……。だが、世界は広いから……」


 思わず項垂れるラナーシャを見て、シグルーナは助け舟を出してやることにする。

 それはラナーシャに対してのものでもあり、アルシェに対してのものでもある。

 一か月前に出会ったラズールという青年がラナーシャを口説く様を見て、シグルーナは少し気分が悪かったのだ。

 別に、人の恋路を邪魔するつもりはない。だが、どうせならラナーシャにはアルシェとくっついてもらいたかったのだ。身近な者の恋愛を優先して応援するのは普通だろう。

 あれからもちょくちょくラズールはラナーシャに会いに来ている。それに対し、口説かれるという経験に乏しいためかタイプでないくせに思わず舞い上がってしまっているラナーシャがいたのだ。

 彼女の目を覚まさせてあげよう。


「あ、よく考えたら身近にいるじゃない。ラナーシャを含め誰よりも強く、そして優しくて、顔だって悪くない男性」

「ん、本当か!?」

「ええ、もちろんよ」


 案の定食いついてくる彼女へと、シグルーナはできるだけ「彼以外はあり得ないでしょ」とでも言いた気な雰囲気を纏いつつ、告げる。


「ほら、アルシェ君なんて条件にピッタリじゃない!」


 そんなシグルーナの言葉に、ラナーシャは虚を突かれたような間抜けな表情を浮かべた。

 やがてその表情を引き締めつつ、彼女は考え込むかのように視線を床へと下げた。


「私よりも強く……確かに……。じゃあ、あいつは優しい……いや、言うまでもなく優しいに決まってる……あれ……? アルシェ……確かに……」


 何やらぶつぶつと呟いて思考の渦へと身を沈めていくラナーシャ。

 やがて考えがまとまって来たのか、少しずつ彼女の頬が赤く染まり始めた。

 まるで花の色付く様を見ているかのように、それは少しずつ熱を伴っているらしかった。

 ふと、彼女は視線をシグルーナへと戻した。


「だ、だが、アルシェと私では歳が離れすぎているではないか。私はよくても、向こうが嫌だろう。私の方が先に老けていくのだから……」


 ごにょごにょと力なく呟くラナーシャを見て、シグルーナの頬がこれでもかと緩んでいく。

 ――可愛すぎるでしょ、あなた。


「ほぅほう、私はよくてもって言ったわね? それはどういう意味かな……?」

「な、茶化すな! 言葉の綾だ!」

「ふふ、ごめんね。そうね、歳の差か……。じゃあ考えてみて? もしあなたに大好きな男性がいて、その方が七つ年上だったとする。……あなたは、歳の差があるからってその方への愛が冷めちゃったりする?」

「……いや、それくらいで冷めるわけがない。何が言いたいんだ?」

「ふふ、別にー。ただ、それなら向こうも同じだと思うわ」

「だぁから! 何が言いたいんだー!」


 あまりにも鈍い彼女だが、弄るのはこれくらいにしておいてあげよう。

 そう判断し、シグルーナは「なんでもないわ」と話を締め括った。

 それにしても、ラナーシャのあの反応にはいったいどういう意味が隠されているのか……。

 色々と面白そうだと判断したシグルーナは、六感強化は使わないことにした。おそらく、使ってしまえば彼女の本意くらい理解できるだろう。だがそれでは面白くないし、なにより、ここから先は全て当人たちに任せてしまうのが一番なのだから。

 シグルーナはもう一度だけラナーシャの体を抱き寄せると、最後くらいは姉らしく振舞おうと、ラナーシャの髪を優しく梳いてあげた。




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