20 終戦
ジョットの魔法は、性質変化にて標的となる者以外には決して作用しないように改良されている。それは仲間内では常識であり、これだけ近くにいるラナーシャが無事だということが何よりの証拠でもある。
そのことを知っているラナーシャは、ある決断を下すと、勇気を出して魔法の中へと腕を突っ込んだ。そして手探りで矢を探し当てると、火魔法を用いてそれを焼き尽くす。
効果付与によって付与された魔法は、宿主となるもの――今回の場合は矢――を破壊することによりその効力を失うものだ。
ラナーシャの推測通り、先ほどまで轟音を伴い吹き荒れていた雷の奔流は、まるで何事もなかったかのようにラナーシャの手の中で消滅した。だが、それは決して幻だったわけではない。ラナーシャがジョットの仲間であるからこそ効かなかっただけであり、その悪意に晒された者が実際に目の前に存在するのだ。
魔人シグルーナの両手足はボロボロに朽ち果て、最初に矢を掴んでいた左腕は完全に崩壊している。衣服や体毛は当然ながら残っておらず、炭化しているのか、その全身は真っ黒に焼け焦げていた。ふと、両目も消滅していることに気が付いた。全身と同じ真っ黒な眼孔が彼女の絶望を体現しているようにも見え、ラナーシャは思わず吐き気に襲われる。
吐瀉物や排泄物の蒸発する匂いに、肉の焦げた匂い。地獄と呼ぶに相応しい凄惨な現状を前に、ラナーシャは不安を隠し切ることができないでいた。
「お、おい……生きてるか? なあ?」
這い寄るようにシグルーナへと覆いかぶさり、震える声で問いかける。
だが返事はない。何かしらの反応もない。五感を司る器官が機能していないのか、体を動かすだけの体力が残っていないのか、はたまたその両方か――。
もうすでに絶命しているという可能性は努めて考えないようにして、ラナーシャは尚も声をかけ続ける。そんな彼女へと、歩み寄ってきたジョットから声がかけられた。
「おい、ラナーシャ。説明してもらうぞ」
有無を言わさぬその声の主に、ラナーシャは神妙に頷いた。
◆◇
上位魔人ベリアルは、中位魔人のシグルーナとギャドラ、そして三十一体の下位魔人を支配下に置く四人の上位魔人が一柱だ。その力は人間などには計り知れないものであり、ドラゴン種に分類される魔物を素手で打ち倒した過去すら持っているほどのもの。
だからこそ、
――『アルシェ・シスロードはお前よりも強いだろう』
ベリアルはその時のことを思い出し、思わず鼻で笑ってしまう。何がどうなれば、上位魔人よりも強い人間が生まれると言うのか。
中位魔人であるシグルーナを遥かに凌ぐ身体能力と超速再生、そして上位魔人だけが可能とする魔法の行使。それだけでも人間の殲滅など容易いが、それらに加え上位魔人には二つの特殊能力が備わっているのだ。
その二つの特殊能力こそが、自らの支配する二人の中位魔人へと受け継がれていたものだ。
――ギャドラよりも遥かに強力な『魔法耐性』と、同じくシグルーナよりも遥かに強力な『六感強化』。
当然ながら、
――そして現在、ベリアルの眼前にはアルシェ・シスロードと思わしき一人の少年が立ちはだかっている。話に聞いていた白髪ではないが、上位魔人を相手に一切気負った様子を見せないその出で立ちから確信を得る。
思わず漏れ出そうになる笑い声を堪えながら、ベリアルはアルシェを指差した。
「貴様がアルシェ・シスロードで間違いないな?」
そんな問いかけに、アルシェは無言でコクリと頷いた。
――見つけた。
ベリアルの表情が愉悦に歪む。同時に、その身を陽炎のようなものが覆い始めた。――魔力だ。全ての魔人の中で唯一魔法を行使できるのが上位魔人であり、当然ベリアルも例外ではない。
やがて直径一メートルほどの巨大な火球へと姿を変えた魔力が、早くアルシェへと襲い掛かりたいとばかりに周囲の空気を焦がしていく。それは人間基準でレベル5の火魔法に匹敵するほどの凶悪な威力を秘めている。
やがて、とうとう漏れ出した軽い笑い声を抑えることなく、ベリアルは火球を放って見せた。
「朽ち果てろッ――!」
それだけで人を呪い殺せそうなほどの殺気を纏い、ベリアルは低く吠えた。
アルシェ・シスロード。ベリアルを以ってして格上だと言われるほどの存在だ。それがただの勘違いだったのならそれはそれでいい。むしろその方が現実的でもあり納得できる。このまま火球の餌食となり灰燼と化すがいい。
だが、本当に上位魔人に匹敵するか、それ以上の存在なのだとしたら――。
実のところ、少しだけ楽しみでもあった。人間という脆弱な存在が、如何にしてベリアルの攻撃を凌ぐのだろうか、と。
――何かで防ぐのだろうか。それとも回避するのだろうか。
そんな小さな期待を抱かれているなどとは露ほども知らず、アルシェは左腰に差された剣へと手を翳しているのみである。だが、次の瞬間――
「……ん?」
――まるで時間が飛んだかのように、アルシェの体勢が変わっていた。
ベリアルは一瞬たりともアルシェから視線を逸らさなかった。文字通り瞬きすらしなかった。にもかかわらず、アルシェは音すらも伴わず、次の瞬間には
そして一番の問題――それは、ベリアルの放った火球が跡形もなく消滅していたことだ。
何が起きたのか理解できないまま、ベリアルは慌てて六感強化を発動する。
だが、それを以てしても納得のいく解答は得られない。
(何が起きた? 奴はいったい何をした?)
言い知れない気味の悪さが背筋を這いずり回る。
そして、人間に対しそのような感情を抱いたという屈辱が冷静さを奪い、逆上したベリアルは先ほどのものよりも一回り小さな火球を続けざまに連射する。
その数は六つ。今度こそは見逃すまいと息巻くベリアルだったが、結果は変わらない。
――またしても、アルシェの体勢が突如変わったかと思うと、六つの火球は全てが同時に消滅していた。
「貴様ッ! いったい――」
「――言わなくてもいい」
堪らなくなり声を張り上げるが、それをアルシェが遮った。
「言わなくてもわかるから、言わなくてもいい。――どうせ、何も見えてないんだろう?」
ゾクゾク、と背筋が震えた。そして同時に理解する。
――強いなんてものじゃない。
アルシェの放った何も見えていないという言葉。すなわち、それは彼が目にも止まらぬ速度で何かを行ったということを意味する。不気味なトリックでも、正体不明の魔法でもない。剣を抜いていることからも間違いないだろう。――アルシェ・シスロードはベリアルの動体視力を以てしても捉えきれない速度で、剣を振るっているのだ。
剣で魔法を斬ることも、それほどの速度で剣を振るっているにもかかわらず衝撃波や斬撃音が発生しないことも、共に非常識極まりない。その事実は驚愕に値する。
だが対策の仕様がないわけではない。タネがわかった今、勝機はこちらにあるだろう。
「はぁッ!」
短い気合と共に、ベリアルは目にも止まらぬ速度でアルシェへと迫る。
そうだ。剣術が理解の外にある力ならば、そもそも剣など振るわせなければいいのだ。
――決して剣を抜かせるな。
上位魔人による全速力での肉薄。それは人間などでは決して視認することなど叶わない圧倒的な速度を誇っている。
――獲った。
剣を持っていない左手側から接近したベリアルは、全くもって反応し切れていないアルシェの横顔を視界に収め、勝利を確信した。
――だが、攻撃のために伸ばした左腕が、いつの間にかなくなっていた。
「ぬぅッ……!?」
またしても理解の及ばない現象に、ベリアルは本能的にアルシェから距離を取った。
地面を蹴るその圧倒的な脚力は、アルシェに対しての警戒の大きさを表すものに他ならない。
前進する時とほとんど変わらぬ速度で二十メートルほど後退し、体勢を整えようとしたその時、地面へと突こうと伸ばした右腕に違和感を覚えた。
いつまでも地面へと手が届かないことを不審に思い、ふと視線を向ける。そして気が付いた。
――右腕も斬り飛ばされている。
何が、いつ、どのように起こったのか。何もかもが理解できない。この身を襲う感情は、強者と対峙した際の恐れなどではない。次元の違う存在を目の前にした際の畏れなのだ。
両腕が再生を開始すると同時に、ベリアルはアルシェへと視線を移す。
視線が交差するのを合図に、アルシェが言葉を投げかけてきた。
「何を考えたのかはわかる。だけどまだまだ認識が甘いな」
「何だと……」
「理解しろ。剣を抜いた僕に小細工は通用しない。どれだけの速度を実現しようと、一瞬たりとも視界に影が映らず風切り音すらもない、なんてことはないのだから。……お前が考える以上に、この力は常識外れなんだよ」
そんな言葉に、ベリアルは何も言い返すことができなかった。
「――今の僕は最強だ」
ふと、アルシェの眼光が妖しく光ったような気がした。――そして理解する。
初めて感じる、絶対的な死の気配。今すぐ逃げ出してしまいたい衝動に駆られるが、アルシェという存在に背を向けることなど考えられない。ベリアルの特殊能力『六感強化』が、背を見せた瞬間に命を奪い取られる未来を暗示しているのだ。剣の長さや両者間の距離、ベリアルの速度など関係なく、あの剣術からは決して逃れられない。彼の言う通り、それは理解の及ぶところにないのだろう。
最早、人間に対しての屈辱など微塵もなかった。
ただただ命を拾いたい一心で、何の考えもなく、その場に小さく一歩を踏み出した。その瞬間――体がぐらりと崩れ落ちた。
「な、何が――」
ふと踏み出した右足へと視線をやる。そして気付いた。――
まるでスライスされた肉がずれるかのように、右足がズルズルと崩れ落ちたのだ。反射的に目をやると、左足も同じように崩れていた。
ガチガチガチ、と硬い音が聞こえてくる。それは自らの顎が震えることによる歯の衝突音だと知ると、ベリアルは全ての敵意を投げ出した。
「や、止めてくれ……! 頼む……! 殺さないでくれッ!」
それは、理解不可能な恐怖からひねり出された悲痛な叫びだ。
この両足は今斬られたものではない。アルシェの体勢に変化やブレといったものがなかったからだ。ではいつ斬られたのか。――わからない。
先ほど切断された両腕はすでに完治している。この足は今斬られたわけではないはずだが、もしそれ以前に斬られていたのならば、両腕と同じように既に再生していたはずだろう。そこまで考えてから、ベリアルの脳裏を一つの可能性が過った。
――まさか、気付かなかったとでも言うのか。
意識下ではもちろん、超速再生という能力ですら再生が必要なことに気付かなかったとでも。
そんなベリアルの考えが手に取るようにわかるのであろうアルシェが、冷静に息を吐いた。
「防げないだとか、見えないだとか、そんなものじゃない。――この剣には
アルシェはそれだけを述べると、右手に持った剣を鞘へと仕舞った。
そしてベリアルへと背を向けると、小さくこう呟いた。
「――
そんな言葉を皮切りに、上位魔人ベリアルの肉体は崩壊し始めた。
ボロボロ、ボロボロと。まるでパズルのピースが崩れていくかのように。
やがて無数の斬撃に晒されたその肉片は、風に流され石畳の上に転がった。
◆◇
中位魔人を遥かに凌駕するだけの超速再生を有しており、なおかつ人間の常識が通じないであろう存在なため、どれだけのダメージを与えれば上位魔人を殺し切れるのかがわからなかった。
だからこそ念には念を入れてサイコロ状になるまで斬り刻んだのだが、アルシェと目を合わせた瞬間に失禁してしまったシュナを見て、少しやり過ぎたかなと反省する。
シュナは自らの失態に目を伏せると、恥ずかしそうに路地裏へと身を隠してしまった。
そんな中、いつも通りにアルシェを出迎えてくれたのはグレイだった。
「おう、お疲れ」
「ありがとう。それとごめん。さっきは完全に油断してた」
「ああ、気にすんな」
そう返してくれるグレイと拳をぶつけ合うと、アルシェは表情を神妙なものへと変えた。
「それで、ラナーシャさんは?」
「それなら心配せずとも良い。ジョットが付いている」
そう答えてくれたのはロシュフォールだ。
アルシェは「そうでしたか……」と呟くと、安堵から大きく息を吐いた。
殲滅卿が一緒なら心配はいらないだろう。そんな安心感から、アルシェはグレイの隣りへとすっと腰かけた。マリノス曰く怪我は完治しているらしいが、未だ軋むような違和感が下半身には残っているのだ。
「いやぁ、見るのは二回目だけど、思ってたよりもずっと反則技だなぁ」
そう言ったのはルーデンベルクだ。
そうやって驚愕と感心が入り混じったように話す彼と少し会話を交わしていると、ほどなくしてラナーシャがこの場へ合流した。見たところ大きなケガはないようで、アルシェたちは安堵のため息を吐く。
だがそれ以上に心配していたのはラナーシャの方だろう。元気に挨拶を返すアルシェの様子に目を潤ませると、「本当によかった」と漏らしながら隣へ腰を下ろして来た。
そんなラナーシャへと礼を言いつつ、アルシェは疑問を投げかける。
「それで、ジョットさんとは一緒じゃなかったんですか?」
「ああ、彼は他の人を助けにどこかへ行ってしまったよ。私にグレイたちと合流しろ、と言い残してな」
「そうだったんですね。……聞きたいこと、いっぱいあったんだけどな」
だが会おうと思えばいつでも会えるだろう。そう思考を切り替えたアルシェは、先ほどからずっと抱いていたもう一つの疑問を投げかけることにした。
「……あの、ラナーシャさん。彼女は誰でしょう」
そう問うアルシェの視線は、ラナーシャに連れられてこの場へとやって来たもう一人の女性へと向けられている。
ボディラインを隠すかのように大きなローブで全身を覆う、銀髪の美女だ。年齢は二十歳の後半くらいだろうか。何かに怯えるような表情でラナーシャの腕にしがみついている。
そんなアルシェの問いに、ラナーシャは苦々しく微笑んだ。
「いや、まあ……。シグルーナというのだが、彼女のことで話があるんだ。もちろん後で構わないが」
「ん、そうですか。わかりました」
アルシェは女性――シグルーナの怯えるような表情から、おそらくは今回の事件で怖い思いでもしたのだろうと推測する。
そうやって会話を終えると、ずっと黙っていたマリノスが静かに立ち上がった。アルシェの戦闘を見て色々と思うところがあったのだろうが、ようやく落ち着きを取り戻したようである。その表情はどこか清々しくもある。
そんな彼女は座っているアルシェたちを振り返った。
「さあ、休憩は終わりだ。この町から魔人共を一掃するぞ」
そんな言葉に突き動かされ、グレイを含む全ての人間が素直に従った。
そしてマリノスは立ち上がったアルシェへと言葉を続ける。
「……この事件が落ち着いたら再度試験を行うつもりだが、お前はもう来なくていい。合格だ。今から上位冒険者を名乗れ」
「え、でも……」
「お前に拒否権はない。これはもう決定事項だ。それと――」
何も言わせないとばかりに捲し立てたマリノスは、最後に自らの懐へと手を差し入れた。
やがて彼女は、服の中へと忍ばせていた一つの仮面を取り出す。それは先ほど盗賊団のアジトを襲撃した際に、ガブリアスと名乗った男が身に着けていた仮面だ。目の部分にのみ穴が開けられており、まるで両目を貫くように施された縦の線が印象的だ。表情はどこかのっぺらとしている。
それをアルシェへと差し出しつつ、マリノスは面白くなさそうにこう続けた。
「――いずれ人払いの余裕がない場面で剣を抜くようなことがあれば、これで顔だけでも隠しておけ。わかったな? “仮面の剣士”アルシェ・シスロードよ」
その後、マリノスはアルシェの力についての一切の沈黙を誓ってくれ、またむやみな詮索も控えてくれた。
そして王都を魔人の群れが襲った今回の事件は、一体の上位魔人と二体の中位魔人以外に強力な個体は存在しなかったらしく、間もなく終息を迎えることとなった。
ケガ人は多数。だが死者はゼロ。そんな奇妙な事件の真相を握るのは、この場においては殲滅の旅団に属する三人の冒険者のみだ。
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