06 魔装の女
――本当にいるとは思ってなかった。
トロールを前にそんな言葉を飲み込むと、グレイは素早くアルシェへと指示を出す。
「アル! とりあえず離れろ! お前は支援だ!」
その判断は迅速なものだったが、アルシェの行動もまた迅速だった。
言われるよりも早く後方へ陣取ったアルシェは、すでに弓へと矢を番えようとしているところだった。よし、と小さく呟いたグレイは、同時に全身の魔力を練る。念のため腰の剣を抜いて片手で構える。
――さて、どうするべきか。
オーガが相手なら問答無用で魔法をぶっ放せばそれでよかったが、今回の相手はトロールだ。大きな魔法を撃つと二撃目までに時間がかかる。それで死んでくれるのならいいが、もし効き目が薄かったらその隙は命取りとなるだろう。その隙を埋めるためにアルシェがいるのだが、魔法が効かない相手に弓が通用するのかは甚だ疑問だ。
この場にはラナーシャもいるし、当然彼女は手助けをしてくれるだろう。だが二人には大きな目標があるのだ。最初から他人の力を頼りにしているようではいけない。
そこまでを一瞬の内に思考したグレイは、トロールの魔装の硬さを確かめるべく小さな魔法を放つことにした。
魔装とは、自らの持つ魔力を全身に巡らせて、筋力や打たれ強さを飛躍的に向上させる技術だ。これは冒険者になるには必須の技術だと言われており、冒険者試験の最初のテストで魔装の練度を見て、次のテストでは筋力が上昇した状態でどれだけ自分の身体を操れるかを試すくらいだ。
魔力は誰の身体にも備わっているため、努力次第で誰でも発現は可能だ。当然体内の魔力量が多いほど魔装の耐久時間が長いため魔法使いの方が有利だと言われているが、それ自体は別の技術なため、得手不得手は魔法とは関係ない。実際に雷魔法レベル5を持つジョットは魔装を苦手としており、遠距離攻撃に特化したスキル構成をしている。
そんな魔装なのだが、一番の特徴は魔法に対する防御力が急激に上昇するという点にある。
魔装は魔力でできた鎧のようなものだ。魔力には他人の魔力を打ち消したり進行を妨害する性質があるため、魔法に対する最も有効な抗い方として認知されている。もし生身の状態で魔法を喰らえば、例え拳程度のサイズの火球だとしても、腕に当たれば腕が飛び、頭や胴体に当たれば命を失うことになる。
その鎧をトロールは身に付けているのだ。
冒険者にとっては脅威としか言えないその存在に自らの魔法はどれだけ通用するのか、グレイは少しの不安と大きな好奇心を胸に魔法を放出する――
――よりも早く、隣にいたラナーシャがトロール目がけ走り出していた。
その速度は今までに出会ったどの冒険者よりも上で、グレイは慌てて攻撃を中止するので精一杯だった。
そんな彼に見えたのは走り出しの一瞬だけだ。
「はっ!」
そして気付けば、ラナーシャは短い気合の下にトロールの首を切断していた。
トロールの身体でも駆け上がったか、はたまた手前で大きく跳んだのかはわからないが、剣を振るったラナーシャは三メートル強の高さから地面へと舞い降りる。その姿は走り出しと比べると非情に緩慢なものに見え、不覚にも優雅だとさえ思えた。
そんな彼女の全身は実体のない暴風のような魔力に包まれている。
「ふー、本当にトロールがいるとは思わなったな」
飄々とそんなことを口走りながら、ラナーシャは全身を駈け巡る魔力を引っ込めた。
首を失ったトロールが無惨にも地に沈む姿を見ると、思わず警戒していたことが馬鹿らしくさえ思えてくる。“剣の女神に愛されし者”という二つ名のように、彼女がトロールの首を斬り飛ばせるだけの剣術スキルを持っているのはわかっていたし、それほど驚くことではない。それよりも問題は、彼女の全身を覆っていた吹き荒れるかのような魔力だった。あれは紛れもない――魔装だ。
あの時のグレイは少しでも魔法に集中するためリスクを承知で魔装を解いていたのだが、そんな魔装なしの動体視力ではとても追えないだけの速度で彼女は動いていたのだ。
ラナーシャ・セルシス――剣術の達人として知られていると同時に、彼女が天才と呼ばれるもう一つの理由――。
冒険者ランキング1位“
身近に魔装を極めた人物がいなかったグレイは、今までそのスキルの強大さを誤認していた。
――今の俺では全く太刀打ちできない。
そう悟ったグレイは、悔しさから歯を噛み締めながらラナーシャをその視界に据える。
そんな視線を受けたラナーシャは何を勘違いしたのか、ムッと眉根を寄せた。
「なんだ、私が勝手に倒してしまったから怒ってるのか? だが今回は私の番だったじゃないか」
「いや怒ってねーよ。素直に感心してただけだ」
歯痒い思いを噛み締めながら、グレイは素直にそう告げた。
その言葉を聞き、ラナーシャの表情は明るいものへと変わっていく。
「ふふ、そうか。凄かっただろう。魔装には誇りを持っているからな」
そう語る表情からは言葉通りの誇りが見て取れた。
――だったら剣についてはどうなんだ?
そんな疑問が新たに湧くが、結局口に出すのは止めておいた。
◆◇
夜はすっかりと更け込み、アルシェの火魔法で灯された小さな炎が、円を描くように焚き火を囲むそれぞれの顔を優しく照らし出している。
王都アレスから持参した食料を食べ終わった彼らは、巨人の森から少し離れた場所に拠点を構え、今後のことについて話し合っていた。
議題は、この日に経験した魔物遭遇率の高さについてだ。
実は、ラナーシャがトロールを瞬殺してから森を出るまでの短時間に、もう一体のオーガと新たに遭遇するという経緯があった。「オーガの返り血って臭いんだよ」などと呟きながら魔装を纏ったラナーシャが人頭サイズの石を投げつけることによって事なきを得たが、改めて何か予期しないことが起こっているのだという確信を強くした。
この日だけで三体のオーガと一体のトロールだ。もしアルシェたち三人よりも先にこの森に入った旅人や商人がいたならば、おそらく大惨事は免れなかっただろう。あのトロールはかなり弱い個体だった、とはラナーシャの弁だが、それでも平均レベルの冒険者パーティなら倒すまでに死人の一人くらいは出てもおかしくない。
そんな中、代表して口を開いたのはアルシェだった。
「やっぱり、組合に報告するよりも先に、僕たちで調査をするべきだと思います」
その言葉にグレイが頷いた。
「ああ、俺も同じ考えだ。報告するにしても情報が少なすぎる。このまま組合に駆け込んでも、まるで逃げ帰って来たようにしか思われねー。A級が二人も揃って何をやってたんだ、ってな」
「……確かにそうだ。だがかなり危険だぞ? 私はともかく、お前たちは平気なのか?」
「逆だよ。俺たちがお前の身の安全を保障してやる。……お前さえ怖くないのなら行くべきだ」
「おぉ……」
グレイの自信満々な言葉にアルシェは思わず感心する。
トロールを倒したラナーシャの強さは、二人からすれば規格外のものだった。驚いたのはグレイも同じだったようだが、それでも圧倒されることなく彼我の差を正確に測っているのだろう。おそらくは二人でならラナーシャ一人よりも強いと判断したのだ。
それが友の判断ならばと、アルシェも胸を張る。
「そうですよラナーシャさん。僕たちはかの殲滅卿の弟子です。スキルで判断できる以上の強さはあります」
そうやってアルシェとグレイの考えを知り、ラナーシャは小さく微笑んだ。
「ふふっ、勘違いするなよ。どっちにしろ私は行こうと思っていたさ」
「はぁー? 本当かよ。見栄張って適当なこと言ってんじゃねーぞ?」
「うっ、本当だ!」
「グレイ……。あまり彼女を怒らせるなよ」
グレイの態度を思わずアルシェはたしなめた。
それを聞き、グレイは不遜な笑みを浮かべる。
「確かにあまり怒らせない方がいいな。なんたってオーガ並みの怪力女だから。まさしくオーガの中のオーガ。いや、オーガ以上にオーガらしい女だ」
「なっ……」
止まるところを知らないグレイの暴言にアルシェは絶句する。
確かにグレイの言っていることは間違ってはいない。アルシェも、魔装を纏った状態の彼女の筋力はオーガを凌駕しているのではないかと、最後のオーガの頭蓋を投石で砕く様を見てそう思ったのだ。
だがラナーシャの反応は酷かった。年下の異性にそんなことを言われて余程ショックだったのだろう。塞がらなくなった口を隠すかのように手で覆うと、弱々しく視線を焚き火へと下げた。
「そ、そんな言い方しなくても……いい、ではないか」
とうとうラナーシャは顔を完全に覆ってしまった。
その様子を見て、『何だかんだでいい奴』なグレイは少しだけ取り乱す。
「お、おい。冗談だから。泣いてんのか? おーい」
グレイの呼びかけに反応はない。
アルシェはそのまま動かなくなったラナーシャを少しばかり観察する。
後頭部で縛られた赤く長い髪が、焚き火の明かりに照らされ綺麗な艶を放っている。小さなつむじでさえも可愛らしいその小さな頭は、あれほどの強さが嘘に思えるほどに弱々しく見えた。
冒険者としても剣士としても異質なその長髪と、オーガ女と罵られ想像以上に落ち込む姿を見てアルシェは思った。彼女はきっと、僕たちが考える以上に乙女な存在なのだろう、と。若くしてA級冒険者になり多重到達者でもある彼女は、それでも冒険者である前に女性なのだ。
そう思い至り、昨日までは雲の上の存在にさえ感じていた彼女が、途端に身近な女性に感じられた。
そうやって思わず頬が緩むアルシェに、グレイの視線が突き刺さる。
「おいアル。こんなオーガ女、可愛いなとか思ってんじゃねーぞ」
……どうやらグレイは、黙り込んでしまったラナーシャにしびれを切らし、いい奴モードを止めてしまったようだ。改めてオーガ女と言うところ、むしろ悪い方に振り切っているのではないか。
オーガと言われた瞬間のラナーシャが、おそらく無意識にだろうが、一瞬だけ右腕に魔装を纏っていたのをアルシェは見た。きっと条件反射なのだろう。それだけの悪意をグレイから感じたのだと思われる。
――よし、グレイには黙っておこう。
一度くらいは痛い目にあった方がいい、と半ば本気で思うアルシェだった。
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