第5話 スマイル・フォーミー
吊革を握り締めていた右手が疲労のキャパシティを超えそうだったから、左手に交代する。車窓の景色が流れ流れ、職場から遠ざかり、自宅に近づいていく。
ふと視線を落とせば、若い女がスマートフォンを懸命に深爪した指でなぞるなぞる。ついつい画面を見てしまう、のではなく、目を瞑りでもしない限り、目に入ってしまうのだ、と自分に言い聞かせる。カラフルな球が画面上部から、まるでその液晶内で重力引力が働いているかのように落ちていく。それを各々同じ色の集まったところに狙って落とすように指ではじくと、それらが小爆発を起こして消える。以前も同じようなゲームに興じる学生年代の女子を見た。そんな意味もない玉と暇を潰しているくらいなら、大事な人にメールでも送ったほうがよほど有意義な時間の使い方だろう。
自宅最寄駅2つ手前の駅に停まって、目の前の席に座っていたくだんの暇つぶし女が席を立ったから、待ってましたとばかり、着席にありつく。ホームを窓越しに見ると、その女が歩行中にもかかわらず、まだゲーム中である。いつかぶつかるわよ、と胸中で警告する。
再び動き出した電車。瞼を閉じかけたとき、ふと左側に気配を感じ、見やると、赤ん坊を抱いた二十代後半女性が突っ立っている。石膏のように白い肌と、キュッと締まった腹部が羨ましい。赤ん坊をあやして体を上下させるたびに、髪を後ろで束ねたポニーテールが、つられて揺れる揺れる。赤ん坊にぐずられまいと顔に必死さが滲む。
「この席どうぞ」
考えるより先に声が出ていた。一瞬声の出どころをさぐっていた彼女がこちらを向いて、そこで初めて目が合った。
「いえ、そんな、大丈夫です」
悪いです、と申し訳なさそうにするが、
「いいのいいの」大変でしょう、と言って私は立ち上がり、謙遜する母親に、右手で着席を促す。しきりに頭を下げてありがとうございますといって、
「何歳なの?」
「八か月です」
赤ん坊が時折指をくわえながら、無垢な視線をこちらに向ける。どこかとぼけたような表情が愛らしい。
「べろべろばぁ」笑った顔が見てみたかった。
「かわいいわねぇ、べろべろばぁ」先ほどまでほぼ無表情だった赤ん坊の口元が少し緩んで、ほころびの気配があった。もう少しでにっこり笑顔だ。
「べろべろ……ばぁー!」
車両内に鳴り響いたのは勢いある赤ん坊の泣き声であった。顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣きじゃくっている。おかしいな。
「すいません、もう大丈夫なんで」
母親は恥ずかしいやら何やらでまた申し訳なさそうな顔。周囲の数人がこちらを見ている。母親は視線の矢から守るように、背中を丸めて抱きかかえる。
「あー、いきなり知らないおばさんからべろべろばーされてこわかったでちゅねー、ごめんなちゃいねー」泣かしてしまったのは私の責任かもしれないから、あやす義務も私にある。
「あの、本当にもう大丈夫なんで」
「遠慮しないで、私も昔はあやすのに手を焼いたもんだわ」
赤ちゃん言葉を連発してなんとかご機嫌直しを試みていたところ、
「あんた、もうやめなよ」
母親の隣の窓際席でずっと寝ていたと思っていた、背広姿の中年男性である。
「放っておいたほうがマシだ。いちいち絡んでやるなよ」
人が一生懸命、良かれと思ってしていることに、なんという失礼な言い草だろう。
「あんた、デリカシーがねぇんだろうな。さっきもここに座ってた人のケータイずっと覗き込んでたろ」
なんで私がこんなことを言われなければならないんだろう。苛々してきた。ドアの前まで行って、地団駄を踏む。若い母親は隣の背広男にさりげなく、しかし、しきりに頭を下げている。
電車が速度を落とし、やがて停車し、ドアを開く。すぐに飛び出して、隣の車両に駆け足で移った。
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