第4話 達磨の眼
職員室は、期待したほど冷房が効いていなかった。私は再来週に発表を控えた劇の台本を手に、所属する演劇部の顧問に、主役を代えてもらうため詰め寄った。
顧問は眉をハの字にして、「前のミーティングでも言ったけど、彼は今度転校するんだから、記念なんだよ」という。私は屹然とした口調で返す。
「芝居が下手すぎるでしょう、客に見せられる実力はありません。一つ前まで木の役と岩の役しかしたことなかったじゃないですか」今回主役を演じる高部は、裏方経験しかない演劇部員であった。
「確かに、芝居の経験は浅いけどさ、そこは監督である小野寺君の演技指導がモノを言う訳じゃないか」上擦った声であった。
「簡単そうに言わないでくださいよ」上半身に力が入り、ふと手元を見ると、握り締めた台本の真ん中がひしゃげて「X」のような形になっている。
「もういいです」私は職員室を後にした
廊下に出ると、程なくして、また体に火照りが戻る。壁には我々演劇部のポスターがある。「演劇部文化祭特別公演……主演・高部太一……監督・小野寺誠」自分の名前と、差し迫った日付を見ると、胃腸に痛みを感じた。
稽古場に使っている教室に入ろうと扉の前に立つと、中から部員二人の声がする。
「そこはもうちょっと顔をしかめた方がいいんじゃない?」
「え、どうして」
「だからね、あなたが演じる役は、この人が憎くてしょうがないのよ。愛する人を殺した相手なのよ?」
戸を開くと、稽古中の高部と森下がいた。
森下は私に気付くと、稽古から一旦離れ、長髪を揺らして私のもとに駆け寄ってきた。 「あいつの演技は少しはましになったか」廊下に出て、高部に聞こえないように、森下に状況をうかがう。
「相変わらず、棒ね。あれに主役を張らせないといけないなんて、監督のあなたが一番大変でしょうね」それを聞いて、また額に手をついて項垂れたのち、
「あいつは誰かを心底から憎んだ経験なんかあるのかな」
「あんな普段から、のほほんとしてるやつよ。憎んでる相手なんかいる風に見える?」
それもそうだ。わかりきっている。少し開いた扉の隙間から部屋の様子を眺めると、こちらに横っ面を見せるように、床に体育座りして休憩している高部がいる。太い眉毛、厚い一重瞼、締まりのない口元をして、しげしげと自分の指先を眺めながらあくびを一つついた。
そんな彼の様子を見ていると、なにやら体温が上がってきて、頭に血が昇った。 「……もういい、稽古に戻るぞ」そう言って早足で教室に戻った。
「三ページ目の場面から。早く位置につけ」
高部が緩慢な動きで、ため息をつきながら腰を浮かしたから、
「早くしねえか!てめえ。殴られてえのか!」と声を荒げると、よろけながらも急いで位置についた。呆気に取られている森下を、「お前もさっさとしろ!」と、床を右足で思い切り踏み鳴らしながら急かした。じん、と足に痺れが走った。
文化祭の当日、出番を終えた私はねぎらいの言葉をかけるべく、体育館の倉庫に高部を連れて行った。倉庫内は誰もおらず、かすかに外の賑わいが聞こえる。
「お疲れ様。演技、上手くなったな」舞台が成功して、安堵感と達成感が全身に漲っている。
「なんかもう、本当に小野寺さんが憎くてしょうがなかったです。その気持ちを役に込められました」高部の眼は以前と比べて、達磨の眼に筆を入れたように、何らかの意思が芽生えたように見える。
「高部君が僕を嫌いになるくらいに、殺したくなるくらいにきつく稽古したからね」役者が育つのは監督冥利に尽きる。仇役に自らをキャスティングし直して、感情を思いきり私にぶつけさせた。
「君にとって最後のミーティングがあるよ。行こう」彼に背を向けて、校舎へ戻ろうとした。
「ただ一つ、困ったことがあるんです」
「なんだい」彼のほうを向かずに返答した。後方で、硬い物同士が擦れる音がする。
「まだ殺意が抜けないんです」振り返ると、金属バットを両手に持って振りかぶる高部がいた。鈍い衝撃音は、倉庫の内側だけに響いた。外では文化祭で賑わう音が依然鳴り続けていた。
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