第3話 黒の行き先

 ふいに、眼球が、私の意思とは離れたところで勝手に動いている感覚があった。会社という個体に付いた、無数の眼の内の一つとして、パソコンの画面を追いかけ、資料を睨んでいる。雑念が少し入り、タイプミスをした。私が悪いのではなく、指の動きの調子が、今日はイマイチ良くない。

どさり、耳元で音が鳴る。顔を左に向けると、デスクに新たに積まれた資料の山がある。ぎぃ、と椅子をきしませて課長が席に着いた。

「原田ぁ、その資料、夕方までに頼むな」

「ぅい」

はい、と答えたかった。口がほんの少ししか開かない。咎めるでもなく、課長はデスクで書類に没入している。私は震わせながら腰を浮かせて、よたよたと、事務室を出る。

「原田さん、歩き方、ヘン」と誰かが笑った。うまく歩けないのは、運動不足のこの足のせいだ。


「田代クン、忙しいか」

「忙しいですよ、てか原田さん目赤すぎちゃいます?」

「なぁ、俺らって、サルのときからどんどん進化して自らの手でいろんなもん作って、このビルかて、ようはヒトの手だけで作ったもんや、すごないか。この街に並んでる建物ぜんぶ、誰の手も借りんと俺ら人間の手だけで作ってんねん。そらブルドーザーとか使てるけどな、それも人間が作ったもんや、すごいやろ。いや、絶対にすごい」

「すごいやろ、ってそんな、自分が成し遂げたことのように言うてはりますけど」

「でもな、進化するんやったら、仕事で目ぇ酷使しても、充血せん、疲れも感じへんようになれや。毎日残業でも、仕事を楽しいと錯覚して、心臓に負担かからん仕様になれや」

「まぁ、無理せんといてください」

「十七時からプレゼンやぞ。準備間に合わんかったらどつくからな」

「ションベンしてるときくらい、プレッシャーかけんの控えてください」


 戻ったデスクの上に、「通りもん」の小袋が一個置いてあった。同課の者たちは、博多に関する所感やエピソードを、包装紙をたたむ女性社員を中心に語っている。私は「通りもん」を一番上の引き出しにしまった。表情筋を固めてキーボードを叩く私の隣で、女性社員が博多の福岡県における位置関係を手を大きく使ったジェスチャーで示している。と、卓上の何かにその手がぶつかった。

 がらっ、どっ、ががっ。私は視線で刺すように、床に散らばるファイルを見た。女性社員が、しきりに頭を下げながら、崩れたファイルを元の位置に正している。無意識に、舌打ちを鳴らしていた。数分前までのふわふわとした空気が、粒子ごとに、凍結して堕ちた。

「おい原田、ちょっとあれ、ウツしてくれ」

 私は鬱ではない。いや違う。課長は私に対して指示の声を発した。私は書類一式を持ってコピー機に向かう。ガーガーとコピー機に紙を吸い込ませる私の肩を、誰かが叩いた。

「ちゃうちゃう。今日のプレゼンのパワーポイントを写してみろって言うたんや」

あう、と声が漏れて、慌ててコピー機に吸い込まれる紙の1枚を引っ張った。ガガッ、と不快な音がして、操作画面に「紙詰まり、 トレー1を開けて下さい」と出る。

「お前、他の会社やったらとっくにクビやからな」課長は笑を浮かべて言った。

私は悪くない。疲れきったこの頭が悪い。そう考えると正気を保てた。そのかわり、頭が私のもとを離れていくような感覚があった。

ホワイトボードに「外出」の札を貼った。同僚からの非難の視線を横目で受けて、私は猫背でオフィスを出る。

 鋭い日射が私を刺した。交代交代に足を出す。添わす手に意識がめぐる。あれ、歩くとき、腕や手はどうすればいいのだっけ。頭のなかで模範の歩き方をコーチングしてくれる女性をイメージして、まんま、それに従った。そのコーチの顔が、何故か先ほどのファイルを床にぶちまけた女性社員と重なって、気に入らない。このビルの西側には、公園、その奥には鬱蒼とした雑木林がある。足は、導かれるようにそちらに引かれて歩を進める。

 私は細い木々の群れまで、駆けた。腕も自然に振れている。散らばった私が、私に帰ってくる。汗まみれになった腕に巻き付いている時計を、雑木林の奥、できるだけ遠くまで投げた。座り込むと、足の痙攣に紛れたスマートフォンの振動に気付いた。「課長」と表示されている。荒い呼吸をしながら液晶を見つめていると、やがて振動は止み、十数秒間を置いたのち、次は「田代」と表示されて、振動が再開した。私は、スマートフォンを地面に置き、革靴のかかとで液晶を割った。いま何時だろう、という思いを振り払うべく、雑木林に駆け込んだ。背広は放って。  


               了

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