第2話 ノーカラー

二つのレジはどちらも埋まっていた。私の前には白地にアメリカの大学名がプリントされたTシャツに紺の半ズボンを履いて、茶髪を逆立てた男がレジが空くのを待っている。私が彼の後ろに位置を取ると、ごく短い列がそこに生まれた。   

腕を組んで順番を待っていると、緑のエプロンをかけた坊主の店員が、スイングドアを腰で開き、カウンターから出てきた。店員は、目を爪半月のようにして笑いながら、飲料と軽食を一覧できるメニューを私の前の半袖半ズボンの男に手渡した。店員は、もう一枚、ラミネート加工されたメニューを持っていたが、私を飛ばして、いつの間にか並んでいた三人目の客に「よかったら、ご覧ください」と言って、メニューを手渡しているようだ。彼には私がカプチーノのトールサイズを頼むことが分かっているのだろうか。腕組みしたまま、軽く二の腕の贅肉を抓んでみる。か細い痛みが、確かに凹んだ爪痕の奥にあった。


 椅子に腰を下ろすと、ぽつりぽつりと灯りを浮かべる窓外の景色が、ブラインドの隙間から現れた。東に延びる線路が、そこからは途切れ途切れに見える。キャンバス素材のトートバックからリングノートとペンケースを取り出し、木目調の机に置いた。ページ上部にタイトルを記し、目を閉じて思索が動き出すのを待った。

 右手人差し指と中指の隙間で寝かせていたボールペンを起こすと、筆先が罫と罫の直線道路を睨む。前頭前野が空想を文章で捉え、連動した黒のインクが、句読点目掛けて上から下へ走り出す。段落の終着地点に突き当たると、ボールペンを机に置き、組んだ両手を項にもたれさせる。二か月前まで襟付きのシャツを毎日着用していたため、皮膚の弱い私は、年中首元がかぶれていた。今のカットソーにカーディガンの重ね着では、首筋に何のストレスも感じない。


 電車が線路を鳴らす音がする。ゴトンゴトン、ガタガタ、ゴトンゴトン。貨物列車だろうか。天井からぶら下がる赤いランプが、暗い店内で揺れている。イヤホンを着けると、鼓膜を震わせる軽音楽器のインストゥルメンタルが、後方席で母に抱かれ泣く幼児の声を上書きしていく。

 リングノートと小一時間ほど向かい合っている。紙面を埋めるペン字の羅列。右端の八行は一昨日書いた分だ。その一帯を目でなぞり、頷く。中央にはありきたりな文章が今日のインクで綴られていて、それを斬るように赤の校正が上から引かれている。まるで、自害した駄文が、鮮血を流しているように見えた。――一昨日のうちに書き切っておけばよかった。しかし、書き続ける他にすべきことはない。

 腰に鈍い痛みが蓄積してきた。マグカップの底には、茶色く濁った泡がへばりついていている。縁に口をつけ、首を大きく後ろへ反らして流し込もうとしても、一向に泡は沈殿したままで、どうにも喉を潤すことはできなかった。リングノートを閉じ、ペンケースに筆記用具を収める。イヤホンを外すと、店内の静寂が聴覚を癒した。店員は皿洗いに忙しそうで、返却台にマグカップを置く私を感謝の辞で送り出してはくれなかった。まあいい、またのご来店をお待ちされなくても、明日もまた来ることに変わりないのだから。


 駅の構内は人の往来の激しさを増していた。私はなるべく意識して胸を張って歩く。改札口から、スーツの男たちが固まりのように、群れを成すように、溢れ出てくる。快活そうな短髪の者、ハンカチで額をぬぐいながら歩く腹の突き出た男、あの猫背で眼鏡の男にさえ、気後れを感じてしまう。彼らの首元にはシャツの襟、そしてジャケットの襟。それを着ることを自ら辞めたのに、羨望の眼で彼らを見てしまう。自分の足元がぐらつきそうになるから、慌てて斜め下の地面を見る。早く地上に降りる階段へ。何もない床に躓くと、わき腹が何かにぶつかった。私の横を通り過ぎる背広の男がちらりとこちらを振り返り、その目に私を写すや否や、前に向き直り、革靴を鳴らして歩いていく。

 私の脳内では、執筆に勤しむ白い自由と、我を殺して社会の歯車となる黒い義務感が、混ざり合って、溶け合わないまま、歪な斑模様を形成している。階段を手すりにつかまりながら降りて、そのまま駅から出た。電信柱に寄りかかって、空を見ると、明度のない藍色と青色の絞り染めが頭上を覆っている。中背のビルの屋上で羽休めをする黒い鳥がしゃがれた鳴き声を町内に飛ばし、貨物列車が音を立てて東へ走り抜けていった。

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