名もなき描写

仙石勇人

第1話 ノーズフラワー

 向かい合うユイちゃんのシャツの襟元に、オレンジ色のシミを見つけた。皺ひとつないピンとしたトップスとスカートだから、余計にそのシミが目立つ。僕は左手を伸ばして、三角形に折られた紙の先をつまんで引っ張った。ロールに被さった金属カバーが小刻みに上下して、カランカランとバカみたいな音がする。よきところで千切ったそれを、これでもかと丁寧に、綺麗な正方形に折りたたむ。ユイちゃんは、もともと丸い目をさらに大きく丸くして、僕の手元をしばらく眺めていた。

 プオンプオンというラッパの音、ドウンドウンという太鼓の音が、二枚の壁越しに聞こえる。目にかかった邪魔臭い前髪を、頭ごと左右に振っていなす。少しクラっときて、前に向き直ると、口元を右に歪めたユイちゃんが、二人いるように見えた。でも、二三秒経つと、向かって右の輪郭の薄いユイちゃんが、ゆっくりと左にスライドして、ユイちゃん本人に重なった。

 折りたたんだ正方形を、オレンジのシミに擦り付けてみた。ユイちゃんが少しビクついた。その微細な揺れが僕の右手から伝ってきて、心拍数と頭の血が高潮し、鼻息が荒くなる。アンモニアとユイちゃんの素肌の匂いが、何度となく僕の中に入ってくる。ざらざらとした紙の表面は間延びした白のままで、オレンジのシミも、そこが定位置と宣言するかのように、動かない。

「取れへんね」

「ミートソースやからね」

「弁当、パスタやったん?」

「そう」

「みんな珍しがっとったやろ」

「お箸ですすっとったからね」

「シミ、目立つなぁ」

「取ったろうとしたら、ハンカチ汚れてもうてん」

 見てやこれ、と深刻そうな顔をして、スカートのポケットから四角形の布を一枚取り出して僕に見せた。きなり色の布地にオレンジの小花柄が、所狭しと並んでいる。朝の道にぶちまけてある吐しゃ物を連想した。シミの位置がわかりにくいので、どこなのか聞いてみると、

「ここやん」といって、指さした。指先に保護色でじわりと滲むシミを、目を細めつつ見つけた。

「ウタマロ使たら一発や」

「なんや?それ」

「家にないんかいな。どんな汚れでも落とせる洗剤や」

「なんでも、か」

「なんでも、や」

 僕はユイちゃんのハンカチを引っ掴んで自分のポケットに突っ込んだ。

「頼んだで、頼りにしてるで」

 そっと、少しの音も立てまいと、そっと、扉に刺さっている閂を外す。片目が出せるくらいに開いて、眼球を回す。鼓膜が無音を掴んだところで、滑り込ませるように身を個室から出した。


 鼠の皮を張り付けたような空の下、歩く。ロッテリアに寄って、甘いシェーキでも飲もう。家の近所のイオンのフードコートに寄って、右端にある赤い看板の店のレジに並ぶ。

 悪寒があった。半袖から剥き出しの腕が、冷房に震えている。互い違いの腕で擦っても、暖は取れず気休めにしかならない。

 鼻の片穴に羽虫が入って、もう片方から出ていったようなむず痒さがあった。鼻をひくつかせるも、それは収まらない。通学鞄を漁る。ノート、筆入れ、小物入れ、菓子の包み紙、砂か食べ屑かわからない、茶色い粒子。ティッシュがない。ポケットに手を突っ込む。折りたたんだ布の柔い感触があった。

 くしゃみをハンカチで受けた。顔から離すと、粘液が繊維に膜を張って、緑の蜘蛛の巣のようになっている。

「ご注文は」と聞かれているのに、ハンカチを握ったまま固まっていた。あっ、と顔を上げると、店員がもう一度繰り返した。

「アイスコーヒーで」

 すかした飲み物を口走っていた。生まれて初めてその苦みを舌で受けたが、その味が僕に寄り添い、気持ちを代弁してくれているようで、優しかった。

 しばらくイオンの中を彷徨っていると、オレンジの小花柄のハンカチが、雑貨屋に置かれているのを見た。暫くそれと、鼻水まみれになる前のハンカチとを、脳内で見比べた。微妙にずれた一輪一輪の花の配置間隔を、イメージで無理矢理縮めて、無理矢理に重ねた。  僕はレジで五三〇円と引き換えに、新しいそれを手に入れた。

 鼻水を受け止めたハンカチは、新聞紙や包装紙や紙コップやティッシュで満ちたゴミ箱に、供物のように丁寧に納めた。

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