最終話 昔町の人魚姫

 

 

 本日は晴天なり。

 とは何処の謳い文句だっただろうか。

 そんな事を考えながら、ウロはぬくぬくと男二人に担がれるソファに腰掛けて空中散歩を楽しむ。


「テレビをあそこに置くから、ソファは此処に置いてくれ」


 上から指示を出し、目的地にソファは着陸する。


「ご苦労様」

「つぅか、段ボールの中身くらい出してくれませんかね? ウロさんよぉ」


 悠々自適に寛ぐウロを恨めしそうに、鉄は一番軽い段ボールをウロの元へと寄せる。


「服ぐらい箪笥にしまって欲しいんですけどー」

「やだ。私は此処で新しい空間のビフォーアフターを見届けるんだ!」


 お気に入りのヒツジのぬいぐるみ・テツを抱き締め、ウロは不服そうに鉄を睨んだ。


「やだ、じゃねぇよ。殆どの服はお前のじゃねぇか! 自分の分は自分で片付けるのは基本だろうがっ」

「いーよ。私の荷解きは寿喜がやってくれるから。なー、ナガノブ?」

「なー。その為の助っ人だもんなぁ」


 にぱっと笑うウロに、つられて笑う寿喜。もはや顎で使われるのに慣れすぎて、抵抗する気配が全く見受けられない。


「お前、阿呆だろ」


 何年同じ事を繰り返しても変わらない寿喜の従属意識に、鉄は呆れて溜息も出ない。


「ナガノブはお姉ちゃん想いの良い子だからなぁ~」


 などと呑気なウロの言葉も既に聞き飽きた。二年の歳月は、この二人の哀れな関係を慣れさせるのに十分な時間なのだ。

 見事な桜咲く春。

 今日は鉄とウロの新たな門出を迎える引越しの日だった。


「花見日和だな~。こんな日は引越し蕎麦より桜餅だ。響ちゃんに頼めば持って来てくれるかなぁ?」


 何処まで我が儘なのか、ウロは引越しの片付けを手伝う気など毛ほどもない様子でメールを打っている。

 恐らく、発言通りに響に桜餅でも持たせるつもりなのだろう。テレビを運びながら鉄は思った。


「やー! それにしてもこのアパートは眺めいいなぁ。あの大学って、鉄が来月から通うとこだろ?」

「おーい助っ人、何手を休めてんだよ」


 ベランダから何を呑気に景色を堪能しているのか、ウロと二人寛ぐ寿喜に鉄は牙を向ける。

 けれど、寿喜には大学受験で色々世話になった分だけ、普段より強気に出る事が出来なかった。

 そう。

 十八歳になった鉄は、この春見事とある大学へと進学が決まっていたのだ。

 その時世話になったのが、実は秀才で国内最高峰学徒の寿喜だったのだ。

 しかも、この現役帝大生には引越しの手伝いまで世話になり、本当に頭の上がらない存在になっている。

 いいえて妙な関係だ。

 ウロと出会った十六の夏から二年。周りは色々と変わって来た。

 まずはウロとその伯母、晴子の和解。

 元々単なるすれ違いが原因で、気持的には両想いだった二人の親密になる速度は早い。特に晴子なんかはウロが何か言えば、全てウロ優先との溺愛ぶりで、あまりの溺愛すぎに鉄との衝突も絶えないくらいだ。今ではリアルに姑役を務めている。


「鉄ー、母さんが明日引越し祝いに来るから完璧に整頓しとけって、メールが来たぞー」

「寿喜、玄関に塩撒いとけ」


 別名、鉄の目の上のたんこぶ。

 ウロが晴子と仲良くなる事は、同時に鉄を苦しめる事が多くなった。

 その一つが生活スタイルである。

 さすがにあの夏のように、ウロとずっと一緒に暮らすと言う事は出来なかった。

 ウロにも学校があったし、何より娘依存症の母親が厳しく、ウロのみすゞ舘へのお泊まりは週末だけと限定されてしまったのだ。

 おかげで二人で過ごす時間は極端に減ってしまった。

 元より、ウロが週末にいたところでみすゞ舘の面々が邪魔をするのであるが。


「そういや、鉄ん所はよく同棲許したな」


 新聞にくるまれた茶碗を食器棚にしまう最中(サナカ)、ふと寿喜が尋ねた。


「そこはほら、あれ、あの人達だから……」


 みすゞ舘の面々は相変わらず宴会を生き甲斐に、楽しく図太く唯我独尊に暮らしている。


「そいや、合格祝いと引越し祝い貰ったって言ってなかったか?」

「あぁ……全部R指定だった」

「――……生々しいなぁ」


 変化のないみすゞ舘の遊びっぷりには寿喜も苦笑を噛み殺す。


「まあ、お前ん家よりあれだな、よくうちのおふくろからウロとの同棲許可を貰えたよな」

「それはな――……」


 意外にも今回の同棲について、姑から許可を貰うのに苦戦が強いられなかった事を鉄は話す。

 ウロの鶴の一声と言うか、何と言うか。

 さすがにウロも二年の半遠距離恋愛が堪えたのであろう。

 甘える仕草で「鉄といたい」と言ったら、手頃な場所に手頃な値段の綺麗なアパートまで見付けてくれた。これには鉄も耐えた甲斐があったというものだ。


「鉄ー、寿喜ーお腹が空いたぞ。ご飯食べよう」


 無邪気に呼び掛けるウロの笑顔に、ついつい男二人の顔も緩む。

 ずっと望んでいた、守りたい笑顔だった。






 真夜中の桜の香りを纏った風を浴びながら、鉄とウロはまどろんでいた。

 背中からウロを抱き締めていると、彼女の長い髪が鉄の足をくすぐる。


「……はぁ。今日は疲れたな」


 一仕事終えたココアは五臓六腑に染み渡るとしみじみに、ウロは甘い息を大きく吐いた。


「お前は何もしてないけどな」


 助っ人寿喜が参加しても一日では片付なかった段ボール箱を見渡して、鉄は溜息混じりに返す。

 そんなのはおかまいなしとクスクス笑うウロは、鉄の胸板に頭をもたれさせてこう言った。


「いいじゃないか。これからは花嫁修行をした私の料理が毎日食べられるんだぞ?」

「カレー、シチュー、肉じゃが、ハンバーグのレパートリーしかないって聞いたけど……」


 二年間の修行の成果は片手で数えられた。


「これから増やすさ」


 負け惜しみのように頬を膨らませ、ウロはこの先は長いのだからと鉄を見上げて睨んだ。

 月明りが二人を照らし、夜風が新居を巡る。


「気の長い計画だな」


 一枚の毛布を二人でくるみ、温もりを分け合いながら呆れた声で鉄は息を吐いた。

 だが、それもいいのかも知れないと鉄は思う。

 二人が出会って二年。

 それなりに環境も境遇も変化した。

 高校生だった鉄は大学生に、大学生だったウロは成宮の薦めで声楽家としてプロダクションに所属する身に。

 複雑な話、成宮は未だウロに対してご執心といった感じで、その彼のスポンサーとしての力か、ウロの実力か、今ではちょっとした有名人になっている。

 あまり予測しなかった未来だ。

 反面、変わらなかったものもある。

 まず、この二年でふたりの気持は変わらなかった。恋した根っこの気持はずっと同じだ。ただ、その先にある将来を、より近くに見据える程度には成長はしただろう。

 その一歩がこの二人だけの共同生活なのだ。それを思えば、確かに先は長いのだろう。


「人生って面白いな」

「は? 何が?」


 ポロッと零した鉄の言葉を聞き逃したと、間抜け面をするウロを見て、くしゃりとその頭を撫でる。


「こうやって新しい街並みを眺めていると、改めて鹿魚って田舎町だって思うよ。海と山しかないもんなぁ。交通の弁も悪いし、市街に出る為だけに繋がっているような日に数本の電車。バスも少なめ、タクシーなんて電話で呼ばなきゃ来やしねー。移動の足は徒歩か自転車か自動車がメインだろ。ーーあ? お前は違うって? 知ってるよ」


 ウロの足は鉄だ。そう言うように服の裾を掴んでくるウロに鉄は吹き出す。


「でも確かに交通の便は悪いな。でもなんでそんな話?」


 もっともな質問に鉄はウロの頭を押さえる。


「ともかく、お前は知らないだろうが海辺の町は空気に強い潮気を含むから自転車や自動車は錆びやすいし手入れが面倒臭いんだ。特に夏場の体に纏わりつく潮気の鬱陶しさにこの町が嫌になったっけ」

「でもすぐに泳げる場所があるのはいいじゃないか」

「……確かに泳げるビーチがあるのは利点だろうけど、正直、あまり好きな町とは言えなかったんだよ」

「鉄はあの町が嫌いなのか?」


 どうしてウロが心配そうな顔をするのか。考えて鉄は、あの町がウロには大事な思い出のある場所だと思い出す。


「安心しろ。嫌いじゃねーよ? 育った町だしな。ただ、好きと言える程の強い感情がないだけで。なんつーか、楽しいことは漠然と外にあるもんだと思っていたんだ。でもそれって多分、俺だけでなく大体同年代の奴は似たように考えているだろうよ」

「そうなのか?」


 ウロの理解は得られない。鉄はそんなのおかまいなしと、ウロをより自分の元に引き寄せた。

 ベランダを開け放し、外を眺めるとまだ冷たい夜風が入り込むのだ。閉め切らないのは引っ付く為の口実である。


「知ってるだろうけど、うちの人口比率って若いのより断然年寄りが多いだろ。でもそこそこ活気を維持しているから学校は小中高と町立校が一校ずつあるし、そこそこ進学率もいいから、一応それなりに生徒数を保ってる感じだ。過疎と無縁ではないけど、少数精鋭と言わん許りに地域の繋がりはなかなかに強いしな」

「ああ、坂田の奥さんと合唱部の先生の連携は特に速かったな」


 思い出される歌姫事件も、今ではちょっとした校内の伝説だ。


「そーゆー田舎だからさ、生活を支える場は主に商店街で、娯楽に欠いているんだよ。唯一のゲーセンは、レトロゲーが軒を連ねるだけだし。あの町はいつの時代かで時が止まってしまったような、そんなノスタルジックな空気が漂ってんだよ」


 目を閉じれば鉄は故郷を鮮明に思い出せた。

 山を背に町を見下す、木々の茂った高台の神社。麓の川向こうにある教会。その間にある寺。

 住宅区域は瓦屋根の古めかしい家もあれば、現代風の鉄筋住宅もあるし、鉄の住む一昔前的な共同アパートもある。

 他にも、アニメに出てきそうな土管のある空地とか、物心ついた頃から記憶する限りずっとババアな婆ちゃんのいる駄菓子屋とか。

 寂れた無人の家は必ずお化け屋敷と称されるが、そんな場所、この町には数件あって、決まって悪ガキの肝試しスポットになる。

 名産は海産物と山の幸と義理と人情と愛嬌。


「珍しい売りなんて全然ないよな。あるとしたら一度広がれば嘘も真実となる噂話の拡散力か。そういや俺もお前もそんな噂の被害者だったっけ」


 あの夏は若い男女のひと夏の恋として盛大に噂話として取り上げられた。

 駆け落ちもどきも輪をかけて広がったのは、みすゞ舘の悪ノリも一役買った。


「あれからどこ行ってもからかわれたなぁ」

「だから娯楽に飢えてるっつたろ。子供も大人も年寄りも男も女も、嘘か真か深く考えずに楽しそうな話題なら食いついてひとしきり楽しむ下世話な趣味なんだよ」


 そんな平和と呑気が売りな、ひたすら退屈で平凡な町なんだと、鉄が鼻息荒くするとウロは心配そうに眉尻を下げた。


「だから嫌いじゃないって。ただこの平凡さが時々堪らなく退屈で、俺は物足りなさを感じていたんだよ。あの町が嫌いじゃないんだ。海も山も潮気も人柄も嫌いじゃない。本当は何処かで好いている。なのに何処かで飢えている」


 言い切って、鉄はウロを背後から羽交い締めにするように深く抱きしめる。


「——そんな隙間にお前が入って来たんだ」

「鉄……?」


 少し息苦しそうにもがいて身をよじり、鉄と向かい合ったウロが首を傾げた。


「違うか。お前を非日常と思って俺が手を伸ばしたのかな。どっちでもいいか。とにかく退屈な毎日に非日常と言う刺激を与えたんだよ」


 頬を撫でながらウロの髪を掬うと、ウロの大きな瞳がより輝きを増して見える。あの頃もその視線に食われたのだと鉄は懐かしく感じた。


「初めて出会った時からお前は煩くて、我儘で、強情で、意地っ張りの考えなしで。あの短い期間で何回喧嘩したかも分かんねぇな」

「お前が怒ってばかりだったのだ。短気め」


 そこが煩い。

 生意気な口を聞くウロの鼻を摘むと、おかしくなった。


「確かに怒ってたな。なのに、俺はお前を背負って明方の鹿魚を歩くのが日課になっていった。なんでだろ。押入れ開けりゃ、お前がいる光景も普通に感じた」


 いや……言いたいのはこんな話じゃないんだよ。

 心の中で鉄が言う。

 とにかくこんな話がしたいんじゃないと、鉄はたどたどしく胸をざわつかせるものを吐き出そうと藻掻く。


「俺と、お前と、平凡な非日常。違うか。非日常だったけど、平凡な日常……。うん、そうだな。俺が陸にいて、お前が海で。出会いはそこで、始まりもそこで。俺はお前を背負って、明方の鹿魚を歩くのが日課になって、お前は好きな時に好きなだけ歌ってたまに泳いで。——口にすると地味で冴えない思い出だよな。味気も色気も何もねぇ」

「だってはじめは私たちはなんでもなかったじゃないか」


 ウロの反論に鉄は頷く。


「そうだよな。ただ散歩しただけだもんな、俺達」


 確かに散歩をしただけだった。

 我が儘に付き合わされ、何故か言いなりになって町を案内して、改めて鉄は自分の町を新鮮な気持ちで見ていた景色を思い出す。


「実はさ、眠い目擦りながらの散歩、実は結構好きだった。そんな告白……今更だな」

「今更だ」


 ウロはココア味のキスをした。

 鉄はその味を堪能しながら感謝した。

 ウロと出会えた故郷の町と、あの町を選んだあの人に。

 初めはまさかこんな子供みたいな、死人のようだったウロと、このような形を築くとは想像もしなかった。

 手放すのが恐ろしいなんて感情を知る日が来るとは考えもしなかった。

 この腕の中にいる感情を手放したくないと、包み込み、伝わる温もりにほんの少し微睡んでいると、辺りがいつの間にか東雲色に染まり出す頃になっていた。


「――鉄、この町から海は見えるかな?」


 朝焼けを見ながら、何かを思ったのであろウロが、ふと鉄に尋ねて来た。


「さぁ? 高台に上れば鹿魚くらいは見えるかもな」

「そうか」


 思ったままそのまま答えると、ウロは暫し口を噤んだ。鉄も黙る。

 長い時を二人で過ごすなら、楽しい時間を過ごしたい。

 そして、おそらくこの二人が望む時間は決まっているのだ。


「……久々に歩くか」

「目的地は海の見える場所!」


 鉄とウロはおかしそうに顔を見合わせた。実は、こんな朝の散歩も二年前の夏以来なのに同じ事を考えていたから。

 それが嬉しくて堪らない。

 互いに求めていた事が嬉しくて堪らない。


「よし、ウロ。朝方はまだ冷えるから羽織る物は持っとけよ」

「水筒に紅茶も用意したぞ」

「んじゃ、出るか」


 ウロを背中に鉄は外へ。

 カチャリと鍵の締まる音。

 そして、二人の部屋はもぬけの空とあいなった。






 * * * * *


 古い町並み集う鹿魚の海で、少年は淋しそうな少女を見つけました。

 少女は歩けない人魚姫。

 けれど、姫は幸せでした。

 少年が姫を背中に背負っては、何処にでも彼女を連れて行ってくれるから。

 少年は幸せでした。

 姫と外を走る間は見慣れた景色も輝いて見えるからです。

 二人は幸せでした。

 同じ高さから同じ世界を見ることが出来たからです。

 温もりを分け合う事が出来たからです。

 同じ時を二人で一緒に過ごせたからです。

 二人の影が一つに重なるのが嬉しかったからです。

 アスファルトに響く、足音の一定としたリズムが心地良かったからです。


 だから……二人はいつも一緒。



 何処から話しましょう。

 何から話しましょうか。

 めでたしめでたしで締めくくる人魚姫のお話。






 昔町の人魚姫 *終*

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昔町の人魚姫 藤和 葵 @fujioaoi

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