第22話 海から生まれる

 

 

 何よりも恐れていた。

 人は一生で何人の人に先立たれては傷を負っていくのだろうか。

 ウロは自分ばかりが不幸だとは思ってはいないが、十歳になったばかりの頃に両親に先立たれた悲しみは忘れない。

 しかしその悲しみは、乗り越えられない悲しみじゃないのも経験上知っている。

 失うものもあるが、新たな出会いにより得たものもあった。

 悲しみが全てじゃないと知っている。その悲しみが当時と同じ鮮度を持ち続けないことも知っていた。

 それなのに、神様はウロの癒しを許さないと言うように、大事な人をまた奪う。

 長い目で見れば、子はいつかは親を失うし、伴侶を失う。遅いか早いかの話だが、ウロの場合はまだ成熟していない状態で受けた傷はトラウマになった。

 大事な人をなくす恐怖。

 もし、他に掛け替えのない人が出来た時、その人まで消えてしまったらと考えたらウロの体は震えた。

 尊穏を失った傷は大きく、新たな恋に走るのは恐かった。なのに鉄を選んでしまい、結果鉄は事故に遭った。

 偶然かも知れない。

 だけど三度も続くと穏やかにはなれず、とうとうウロのスイッチは切れてしまった。






「声が出ない……か。うちの嬢ちゃんは飽きさせないなぁ」


 カルテを覗きながら、ぽつり、晴子が寿喜に漏らす。


「勿論、結納は延ばすんだろ?」

「成宮は、予約したホテルに迷惑だから出来たらそのまま済ませたいらしいけど……」

「――向こうも焦ってんのかな」


 寿喜の心象に苦笑して、晴子は重たく息を吐いた。


「たく、嫌な事を思い出させるなぁ。事故に遭う所まで普通似なくてもいいのにね」

「……おふくろはどうすんだよ。ウロの気持なんて知ってんだろ? 断らないのか? この後、成宮に会うんだろ?」


 責める息子の声を鬱陶しげにしながら晴子は頷く。


「私は大人だよ? 一度受けた話を簡単に解消は出来ないの。これはウロが断らないといけない話。あの子は私の顔色ばかり伺ってばかりじゃ駄目なんだから……」

「巣立ちを教える親鳥みたいなもんか?」


 尋ねる寿喜に、晴子はそんな生易しいものじゃないと笑う。


「狩りを教えるライオンがシマウマを半殺しにして渡すようなもんよ」


 何処のサバンナを生き抜く術を与える気であろう実母を見て、寿喜は自分がどんな試練を与えられるのか想像して鳥肌が立った。



 母との話が済んだあと、寿喜はウロの様子を窺いに、ウロの私室へと足を運ぶ。ノックをしても返事はなく、形だけ声を掛けたが反応もないので、寿喜は承諾のないままドアを引いた。

 ウロの部屋は薄暗く、僅かな月明りだけが室内を照らしている。


「ウロ?」


 影だけ浮かび上がるウロの姿を捉え、寿喜が声をかける。

 暗い部屋は、昼間、陽光を取り入れる為に開かれたカーテンをそのままに放置したように見えた。

 寿喜が明りをつけると、ウロは眩しそうに目を細め寿喜を見る。


「――…?」


 泣いた顔ではない。焦燥したウロがどうしたのといった顔で首を傾げる。無理強いして微笑む姿が痛々しい。


「まだ声は出ないのか?」


 寿喜の問いに頷いて、ウロは用意されたスケッチブックに文字を書く。


『てつ は?』


 少し震える文字。安心させるようにウロの頭を撫でて優しく微笑む。


「元気だよ。怪我も大した事ない。ちょっと頭を打って寝てるだけだって、良かったな」


 やっと安堵の表情を見せるウロに、寿喜も胸を撫で下ろす。けれど何よりも気になる事が寿喜にはあった。


「ウロ、明日はどうする?」


 寿喜の質問にウロは困ったように肩を竦め、かぶりを振るだけ。答えはなかった。


「明日、予定通りに結納済ませたらもう後戻りは難しいぞ」


 そんな事は分かっていると言いたげにウロは寿喜を睨み、それはお門違いと気付いたのかすぐに目を伏せる。


「ウロ?」


 それから何度寿喜が声をかけてもウロはだんまりだった。

 何も言わず答えず聞かず。思い詰めたように塞ぐので、結局折れた寿喜は暫くウロの様子を見、無理矢理スープを胃袋に押し込ませて他愛のない話をした。

 ウロは寿喜の話に小さく反応はするが、以前までの快活さは影を潜めている。

 寿喜にはウロから、静かに静かに壊れていく音が聞こえて来るように感じた。



 * * * * *


 大和屋家の応接間。

 晴子と成宮が神妙な面持ちでテーブルを挟み、向かい合う。


「——もう一度、よく考え直してみてはくれませんか?」


 手を組み、眼鏡の奥の瞳を光らせ成宮は晴子を見つめた。


「よくよく考えた上でのお願いです。申し訳ないですが、ウロとの婚約はなかった事にして頂けませんか」


 頭を下げる晴子。

 成宮らを取り巻く界隈で、大和屋晴子という人物は、若い頃から親の地位を引き継いで経営手腕を発揮し、今の不況に負けずに勢力を維持している女傑だ。

 同業者の中には晴子に頭の上がらない男はかなり多い。おまけに美人だ。男以上の活躍をする晴子を生意気だと思っている人間は少なからずいる。その誰かが、彼女を屈服させたいだとか歪んだ反骨心を抱いている噂を耳にしたことのある成宮は、この状況が相当貴重である事を知っている。

 だからといって「はいそーですか」引き下がる成宮でもない。


「それはいくら親御さんである貴方でも簡単に断れるものでしょうか? 昔の親同士が取り決める因習が廃れている現代で、婚約は本人同士の意思が優先でしょう?」

「だからこそ、余計にお受け出来ないんです。それは貴方だって十分理解しているでしょう? ウロが誰を好いてるかくらい」


 苦笑して、成宮は掛けている眼鏡を外してレンズを磨く。見る目が曇っているつもりはない。


「遺憾ですがねぇ」


 そんな事はとうに自覚していた彼でも、改めて向き合って言われると効くものがあった。

 それでも堂々と成宮は晴子を見据えて尋ねる。


「――でも、明日の結納はやめませんよ? ウロさんは受け身の人ですからね、彼女が僕から逃げない限り諦めるつもりはありません」

「持って回った言い方ですね。つまり?」


 促され、成宮は深く息を吐く。眼鏡のブリッジを押し上げ、苦々しくぼやいた。


「もし、彼が怪我を負った体をおしてでも、彼女を浚う度胸があれば考えますよ」

「どうして」


 晴子が問えば、成宮はソファに深く腰掛け息をつく。半ば呆れて脱力していた。


「だって、相手があまりに目の余る馬鹿だと僕にはもう手に負えないじゃないですか」


 ふっと零す成宮の顔をまじまじ見つめ、晴子は眉を潜めた。


「お前さ、よく気障とか言われない?」

「言われませんよ?」


 成宮が心外だと言わんばかりに目を丸くすれば、晴子は楽しげに目を細めて「あんたの魅力を知れて良かった」と笑う。

 成宮からすれば、からかい甲斐のあるおもちゃを見つけたと同義に聞こえたのは多分気の所為ではないだろう。晴子とその息子の力関係を知る成宮は、そこに加わりたくないと苦虫を潰していると携帯を取り出した晴子女王は不意に腰を上げた。


「それじゃ、馬鹿の顔でも拝みに行きますか」

「はい?」


 うきうきと歩き出す晴子の後を思わず追いかける。長い廊下の進む先は成宮にも分かった。

 ウロの部屋だ。彼女は今静養中の筈である。それに、成宮な知る限り晴子はウロには関心が薄かった。


「――いつから娘想いになられたんですか?」

「私はずっと娘思いよ? ただ、接し方が分からないだけ」


 優しく微笑む晴子はやはり成宮が知る以前の彼女とは確かに違う。まるで肩の荷でも下りたように晴れ晴れとしている。


「好きな人には正面切って向かい合わないと、好かれないって教訓だね。あんた捻くれてるからな。ウロに好かれたかったらこの性悪な根性を直さないといかんって事だ」

「随分な物言いですね」


 多少頭に来て反論する成宮を一瞥して、晴子は目的地の扉を開く。


「仕方ないでしょ。女の子はいつの時代も“運命の出会い”ってのが好きなんだから」


 そして部屋の明りをつけて晴子は言葉を続けた。


「若いっていいよねぇ」


 しみじみと呟く。

 ウロの部屋には誰もいなかった。

 開け放された窓。入り込む風にカーテンが持て遊ばれている。


「ウロさんは?」


 質問してくる成宮を小馬鹿に鼻で笑い、晴子は当然と答えた。


「塔のてっぺんのお姫様は王子様とってのが相場でしょ?」


「一度言ってみたかったのよ」満足そうに晴子は笑う。

 夏の夜風を浴びながら、シルクのカーテンが音を立ててはためいてきた。

 窓の外には星だけが見守るように瞬いている。



 * * * * *


 夢を見ていた。

 ずっと泣いている女の子がいる。

 独り、泣いている子がいる。

 姿は見えない。

 鉄は砂浜に立っていて、足下を波が寄せ、白い泡を立てている。

 目の届く範囲には誰もいないが確かにか細い泣き声は聞こえていて、それは耳を澄ませばまるで鉄の名前を呼んでいるように聞こえた。

 最初は気の所為だと思った。

 けれど、その声は徐々に鮮明になり、強くなる。

 確かに誰かが呼んでいる。

 鉄を求めている。

 鉄は自分の足下を見た。

 冷たい海水が足の熱を奪う。

 辺りは真っ暗なのに、何故か足下だけは照らされて澄んだ波がよく見える。泣き声もこの明りの灯った足下から聞こえた気がした。

 泣いている女の子の声。足下で波とは違う何かが光る。目を凝らして見れば鱗を光らせ泳ぐ小さな魚だ。この魚が泣いていた。

 まるで親に置いていかれた子供のように魚が泣く。

 悲しい悲しい声。

 その声があまりに気の毒で愛しくて鉄はその魚を掌で掬った。

 ぱしゃんと、魚がひれを唸らせ水を叩く。

 瞬時に魚は泡となり形を変えた。

 尾ひれを虹色に輝かせ、魚はひとりの人魚になる。

 涙をポロポロ流し、黒い長い髪を背中に流し泣いていた人魚はウロ。

 鉄は即座に手を伸ばした。けれど人魚のウロはすぐに泡となり消えてしまった。

 今は泣き声しか聞こえない。

 ウロの姿は見付からない。

 この海にはいないのだ。

 此処を探していても仕方ないのだ。

 目を覚まさなければ、起きなければ、体を起こさなければウロは見付からない。そう思った。

 今、起きなければ。



 ——そして鉄は目覚める。

 まず初めに、独特な鼻を刺す匂いがした。ツンとする、鉄にすれば気分をあまり得意でもない場所を連想させるアルコール臭。

 仕事後の朝来の衣服の匂いでもある、消毒液の匂い。

 次に体を起こす。

 左腕にチクッと刺す痛みがあった、その痛みが何かはすぐに分かる。点滴だ。しかし何故点滴を打たれているのか。見た所、病室のベッドにいるらしい。


「起きた? 鉄」

「おふくろ……?」


 一瞬悪夢かと見紛う朝来の白衣に鉄は血の気が引いた。働く母の姿に対して酷いと思うが、まるで安い風俗のようだと感想を抱いてしまう。


「大丈夫か? 頭回ってる?」


 不意打ちの光景に鉄は目を開けたまま気を失っていたらしい。地睫毛がばさばさに長い朝来の顔が間近に来るまで気付かなかった。


「そうだよ、おふくろ此処何処だっ――痛ってぇっ」


 慌て鉄がベッドから抜け出そうとする全身に激痛が走る。鉄は前のめりに倒れた。


「馬鹿ねぇ、大事なかったとはいえあんた事故に遭ったのよ? 急に動いたらそりゃ痛いわよ」

「事故……?」

「そうよ。車にぶつかりそうなちみっ子助けて代わりに轢かれたのよ。ベタねー」

「ベタって……」


 それが事故に遭った息子に投げる母親の言葉だろうかと鉄は少し悲しくなる。けれど、いつもは完璧武装メイクの朝来の肌が荒れているのを見逃さない。それなりに心配してくれたのを鉄は嬉しく思った。


「俺の具合ってどうなの?」

「どうもくそもないわよ。出血の割に怪我は軽かったから、受け身でも取ったんでしょうね。怪我は肋骨にヒビと打撲。ただ、あんたが丸一日眠るから響ちゃんが泣くわ泣くわで宥めるのが大変で――……」

「丸一日ってマジかよっ」


 個室とはいえ、鉄の大声に朝来がしかめ面で耳を塞ぐ。


「それがどうしたのよ。あんた、此処が病院だって事分かってる?」

「知ってるよ! それより俺の着替えっ」

「ベッドの下に鞄が……って、何してんの鉄っ」


 朝来が止めるのも聞かず、無理に立ち上がり点滴の針を抜くと目眩がした。

 事故の後遺症なのか、寝過ぎか頭がふらつく。


「馬鹿! 軽い怪我でも暫くは入院しなきゃなんないのよ、あんたはっ」

「それじゃ間に合わねーんだよっ!」


 叫ぶ鉄に朝来がびくりと肩を震わせた。初めて息子の気迫に圧されたのだ。


「明日になったら間に合わないんだよ! ウロが……ウロが泣いてるんだ……」


 病院至急の寝間着を脱ぎながら鉄は喋る。後から思ったら随分嘘臭い事を言ったと思うが、それでも鉄は必死に捲し立てていた。


「ウロが泣いてるんだ! 何かそんな気がするんだ……ウロが呼んでる気がするんだよっ。行かなきゃ……行きたいんだ、ウロの所にっ」


 だから――……。

 何かを言いかけながらも鉄は急いで簡単に着替えた。もたつく足で朝来を振り払い、病室を出ようとする。その時、後頭部に何かが飛んで来た。

 落ちた物に目をやるとモノグラムの財布。朝来の物だ。


「お坊ちゃん、こんな夜にどうやって行く気? タクシー代くらい持ってったらどうなの?」

「あっ……」


 夢中で気付きもしなかった問題点に鉄は思わず声を漏らした。それには朝来は呆れた。


「それから、正面から堂々と出ないで行ってくれる? 一応ね、私は此処の白衣の天使だから患者の外出を許可できないの。あくまであんたの我が儘で逃げて貰わないと」

「おふくろ……?」


 普通の親なら反対しかねないのに、背中を後押しする朝来の行為に鉄は丸くする。不思議そうな顔をする鉄に朝来はにこりとして、病室のドアを開ける。

 ああ、そういや、普通の母親じゃなかった。


「それじゃ、私は巡回にでも行ってくるわ。次は多分三十分後かしらね」


 背中を押す朝来に鉄は頷く。


「親孝行に立派な墓を作ってやるよ」


 器用に窓の外にそびえる木に飛び移り、鉄は見事病室からの脱出を図った。何処か生き生きとしていた鉄を思い出し、朝来は穏やかに微笑む。


「墓はねぇだろ馬鹿息子――……」



 * * * * *


 独りは嫌いだ。と、ウロは泣いた。

 大事な人はいなくなった。

 それなら大事な人を作らなければいいと思った。

 でも、それではあまりにも寂しすぎるから皆同じくらい大切にして特別さえ作らなければ大丈夫だろうと、少しだけ独りになった。

 独りは嫌いだ。

 嫌われたくないから「はい」と言い、特別な人を選ぶのが怖いから本当に好きな人は選ばず、曖昧な態度だけ取っていたら、この手の中には何も残らなくなった。

 晴子に好かれたかったから鉄を選ばなかった。鉄が尊穏のように消えてしまうのが嫌だから選ばなかった。少しだけ想いを繋げたら、綺麗な思い出として終わらせられると思った。

 離れてしまえば、鉄のいない時の生活に戻るだけだと思っていた。

 もう手遅れだとは気付けなかった。

 出会って、好きになってしまった事を今更なかった事になど出来る筈もないというのを、ウロは知らなかった。


 逢いたい……。


 想いは日に日に募り、津波のように心を飲み込む。

 そして晴子に謝った。

 貴方の選んでくれた道を歩けなくてゴメンナサイ。

 尊穏を奪ってしまってゴメンナサイ。

 何度も何度も謝って、成宮にも頭を下げる。

 応えられなくてゴメンナサイ。

 裏切ってゴメンナサイ。

 それから鉄にも謝る。

 貴方を好きになってゴメンナサイ。

 貴方を傷付けてゴメンナサイ。


 ウロは泣きながら謝り続けた。

 鉄を傷付けたのに、それでも鉄にに会いたい己を呪った。

 それでも出会った海に行きたくて願った。

 泡になっても構わないからもう一目会いたいと。

 海は人魚が泡になったと同時に新たな命へと巡る。

 きっとこの恋への無念も昇華するだろう。


 想いに耽り、ウロの目から涙が零れた。その雫を拐うように風が撫ぜる。

 ウロは伏せていた顔を上げた。

 窓が開け放たれ、シルクのカーテンが激しく波打つ。

 まるで嵐でも巻き込んだような風の中心、月光のシルエットを纏う人影を見た。

 ウロは願っていた。


「――……っ」


 ウロは息を飲んだ。

 まるで夢のようだと。

 望んでいた人が目の前に現れる。

 何度も何度も涙で滲む目を擦り、ウロはその影を見据える。

 会いたくて、とにかく一目会いたいと願った人。


「――て……つぅ……」


 ぎこちない口調でウロはその名を呼んだ。


「てつ……てつぅ」


 何度も何度も。言霊なら消えないように何度も何度も繰り返し、確かめるように、噛み締めるようにその名を呼んだ。


「なんだよ」


 笑って鉄が返してくれた。

 夢じゃないと知る。

 鉄は窓を乗り越え、ベッド脇に立つ。


「ウロ……」


 鉄の優しい声に、ウロは抱き締めたい衝動に駆られる。

 だが、唇を噛んでウロは堪えた。


「駄目だ、鉄……」


 私はその手を取ってはいけない。甘えてはいけない。

 沢山の言い訳があった。

 成宮がいる。

 晴子が気になる。

 それから、


「私は、鉄を不幸にする……」

「そんなの、俺が決める事だろ?」


 腰を屈めて鉄はウロと視線を合わせる。


「全部ひっくるめてお前を守ってやる。だから、俺と来いよ」

「――……っ」


 抱き締められた。

 もうウロは鉄を拒まない。

 呼吸も忘れるくらい鉄の胸に顔を押し付け、ウロは二度と離さないという意気でシャツを握り締めた。


「ごめ……なさぃ……大好き……」


 なんて都合のいい我が儘だろうか。けれど鉄はそれでも抱き締めてくれる。


「鉄……大好き……」


 どちらからともなく求めた息を塞ぐキス。

 人魚姫の溶けた泡が、芽吹く気がした。

 鉄の胸の温かさが心地良かった。

 ベッドの上でうとうととウロがまどろんでいると、不意に鉄が何かをしている事に気付く。


「――何をしているんだ?」

「メール」


 左手はウロを抱いてキープしたまま、鉄は右手で携帯を操作をしていた。

 こんな時に誰にメールをしているのだろうとウロが首を傾げると、鉄は何も言わずに急にウロを抱いたまま立ち上がる。


「わっ! 鉄、何? どうしたんだ!?」


 ウロを抱えたまま窓へと真っ直ぐ向かう鉄に、嫌な予感が沸々と湧き上がる。


「何処、行くんだ?」

「外だよ。バレて騒ぎになると困るから窓からお前を誘拐する計画なんだ」

「計画? 何の? とゆうか、窓からって此処は三階……」

「木があるからそこを伝って行きゃ平気だよ」


 何を簡単に言うのだろうとウロは若干涙を浮かべて鉄を見上げた。

 ただでさえ鉄の体は病み上がり。それを人一人担いでどんな軽業を披露するというのだろう。

 昔から言うではないか。

 行きはよいよい帰りは怖い。

 そんな事をぐるぐる考えているうちに、鉄の足は窓枠にかかっていた。


「しっかり掴んどけよ」


 楽しそうに言いながら、鉄は窓の側に生えていると言うが一メートルは離れている庭木に飛び移った。


「――――~〜っ!!」


 声にならない声とはこの事。

 一体彼の何処が事故に遭った人の動きなのか。枝から枝へと身軽に飛び移る姿は猿並みと褒め讃えてあげたい。

 が、それよりも激しい上下運動と、安全が保障されない絶叫マシンにそれどころではないウロの意識はいつの間にか飛んで行ってしまう。


「馬鹿者ー! しっ、死ぬ思いだぞっ! 怪我人が無理しおって」

「いや、まぁはしゃいだって事で許せよ」

「許すか! 怖かったんだからなっ」


 ぽかぽかと子供のようにウロは鉄を殴る。


「いや、えっと……マジで謝るから殴らないで……深刻に、痛い……」


 普段なら何ともないダメージも、肋骨に皸が入った状態だと嘘なしで死にそうだ。


「おまけにベタな事故り方しおって」

「それはおふくろにも言われた。

仕方ねーだろ? 本当に目の前で起きたんだから」


 これ以上殴られると死活問題なので、ウロの両手を拘束するようにきつく抱き締めながら鉄の反論。


「過ぎた事はいいだろ? 今はこれからの事を考えなくちゃなんねーんだから」

「そうか……」


 鉄に会えた喜びで浮かれていたが、ウロはある意味駆け落ち同然で家を飛び出したのだった。

 否、駆け落ちなのだろうか。

 今、二人がいる場所はとても見慣れた鹿魚の海のような気がするのだが、駆け落ちとは両家から逃げるのがセオリーだと考えていたのはウロの認識違いなのだろうか。


「鉄、とりあえず聞くが。これからどうする気なんだ?」

「どうって、俺の家に帰る……か? ウロは大和屋の家に戻りたいか?」

「……ずっと帰れないのは……嫌だ」


 拐ってくれた鉄には悪いが、大和屋の家が嫌いに訳じゃないウロにとって、思い残すものがあるのは事実。

 晴子と擦れ違ったままでは淋しいのだ。


「鉄、私はさ……多分、きっと、鉄なしでは生きていけない気がするんだ」

「――あぁ」


 波の音を気持良く聞きながら鉄は静かに頷く。

 ウロは鉄を失いたくないと主張するように、その腕を掴みながら言葉を続けた。


「でも、鉄……私は欲張りだからお前も欲しいが……お、お母さんも欲しいんだ。だから、また私を家に返して貰いたい。晴子さんに、鉄が好きだから鉄を選ぶ事を許して貰いたいんだ。こんな、我が儘な馬鹿な娘がいる事を許して貰いたいんだ……」


 ウロの声は微かに震えていた。

 ウロとしては、せっかく此処まで逃げて来たのに、また帰りたいと言うのが心苦しかったのだろう。

 だが鉄としてはウロの淋しい気持は痛い程に感じていたので怒る気にもならない。

 むしろ、その言葉を望んでいた。


「実はさ、ウロ。話してなかったけどよ、俺、賭けをしてたんだ」

「賭け?」


 賭博とはいい趣味とは言えない。ウロが眉を潜め尋ねると、鉄は楽しそうに話し始めた。


「昨日さ、ウロの気持をよく知る奴が俺に会いに来てよ、こう言うんだよ。ウロを結納前に拉致ったら、婚約はなかった事にするって」

「何だそれはっ」


 驚いたようにウロが言うのは当然だった。婚約話が子供の絶交みたいに簡単に切ったり出来るものじゃないのは知っている。

 それに、誰がその話を成宮に通すのだろう。

 成宮の家は大企業だ。

 子供の我が儘で婚約が白紙になる程世の中甘くはないだろう。

 そう。例えば大和屋のトップが頭を下げでもしない限りまかり通る訳がない。


「鉄、賭けとはまさか……」


 ウロはある人を思い浮かべたのだろう。そんな酔狂な計画を持ち掛けた人物を。


「……尊穏の葬儀の日、ウロ、晴子さんの“どうして尊穏が”って言葉聞いたんだって?」


 鉄はウロを背中からギュッと抱き締める。


「あれ“どうして私じゃないの”って母親の叫びだよ」

「晴子さん……?」


 当惑するウロに、言葉より見せる方が早いと思ったのだろう。

 鉄はポケットから携帯を取り出し、受信したメールの本文をウロに見せる。

 差出人晴子からのメールは簡潔で彼女らしい文章だった。


『姫奪還おめでとう、王子。

 今後とも娘をよろしくお願いします』


 涙が溢れた。


「……鉄、晴子さんが私を娘って……」

「そうだな」

「よろしくだって」

「良かったな」

「うん、ありがとう鉄」


 携帯画面を胸に抱え喜ぶウロの頭を、鉄は優しく撫でながら苦笑する。


「何もしてねぇよ、俺は」


 ぼろぼろ涙を流すウロを笑ってあやし、鉄は喜びを噛み締めるように抱き締める。

 満天の星空の下、鉄はウロの髪を掻き上げて唇を落とした。確信した幸せを二度と失わないように、誓いを印した。

 お伽話の締め括りは愛の誓い。

 きっと人魚姫も幸せになれたらそんなエンディングだっただろう。


「ウロ――……」


 鉄は耳元で囁く。

 向き合って言うのは恥ずかしかったのだが、後から思い起こせばこの方がきっと恥ずかしい。


「ずっと俺といろよ?」


 口にした後でまるでプロポーズに聞こえた。

 ウロもそう思い、鉄の低い声に耳まで赤く染め、俯いてしまう。

 それでもその言葉は嬉しくてウロは小さく頷いた。


 



 

 

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