第21話 ヒグラシが鳴いた

 

 

 無気力。

 とでも言うのだろうと、鉄は天井の染みを眺めながらただ無為に過ごす。

 何も言わず出て行ったウロを追い掛け、とどめの別れの言葉を貰った情けない醜態は藤子を通じみすゞ舘に広まった。

 今では女にヤリ逃げされた男として哀れみを受ける身だ。

 情けなくて立ち上がる気力もない。


「――阿呆かよ、俺……」


 呟き、寝返り、視界に入る押入れ。

 主のなくなった閑散とした彼女の部屋。

 馬鹿みたいだと鉄は己を蔑んだ。

 何を見てもウロを思い出す空間が鉄の記憶に擦り込まれる。

 部活に行っても練習にならない。

 耳に届く合唱部の声は物足りなくて心が落ち着かない。

 相も変わらず朝早くには起きてしまう。

 ただの一人も忘れる事も出来ない。

 酷い別れなのに。

 酷い別れだからこそ、記憶に根深く刻まれる。


「……こんなんじゃなかったのにな、俺……」


 弱くなってしまった事を悔いる。

 夏が始まる前ならきっと何ともなかった。心がざわつく事もなかった。ウロにさえ出会わなければこんなに痛みを伴わなかった。

 但し、今感じている胸の痛みはその類ではない。ウロを想う痛み以上に、弱い自分に牙を立てている痛みだ。

 気付いてた筈だった。

 自惚れだと言われても構わない。

 ウロが鉄を嫌って遠ざかった訳じゃない事くらい、知っていた。

 知っていたのに、気付いていたのに成宮の婚約者だと言い張るウロを拐う事も出来なかった。

 何かを想って意地を張るウロの牙城を突き崩せない。壊す度量のない自分の弱さが悔しかった。

 思っていた以上に子供だった自分に幻滅する。だから情けない。


「――は……」


 溜息すら覇気がない。

 暑さにうだる体を横に寝かせていると、不意に枕元で定期的な振動が伝わる。すぐに携帯の着信だと気付き、鉄はだらだらと画面を確認する。

 メールが届いていた。中を確認すれば、予想もしなかった響から。

 本文は簡潔に一言だ。


『部屋の窓から外を見ろ』


 慌てて鉄は窓を開けて下を見た。

 塀を越えて閑散とした道路の真ん中からこちらを見上げる響。ニカッと奏に似た、少年っぽい笑みを見せて手を振っている。


「ちょっと来なさい、鉄」


 拒否を許さない彼女本来の姉御っぷりをかざし、響は手招きする。祭の夜とは違う、頼もしさすら覚える堂々っぷりだ。

 少し鉄は安心した。響を受け入れられなかった事が気に病んでもいたから、以前のように笑ってくれているのが嬉しい。


「……すぐ行く」


 窓を閉め、鉄は外へと出た。

 太陽が真上で爆発する正午。焦げたアスファルトの感触を久々に感じる。


「じゃ、行こうか」


 何の説明もなしに、響は突然踵を返して何処かへと歩き始めた。


「行くって何処にだよ」

「私ん家」


 簡潔に言うと、陽射が辛いのだろうか、響はうっすらと腕に汗を滲ませ早足で先を歩く。

 何故響の家に行かなければならないのか分からない。けれども引き返せば何を言われるか分からない。それよりも今の鉄には深く考えるという能力が抜けていた。

 終始無言のまま二人は響の家である玉浦菓子店に着く。店の入口は商店街の参道に面しているが、玄関はその裏手にある玉浦家。硝子張りの引き戸に、石畳の三和土の古い造りの玄関。この夏はあまり足を運んでいなかった鉄は、玄関は懐かしかった。


「ただいまー。奏ぇー、鉄連れて来たよー」


 和式の古い玄関口で響が奥へと声を大きく上げる。特に奏の返事はなかったが、響はそのまま裸足で応接間へと向かった。鉄も続いて靴を脱ごうと下を見て、ふと気付く。

 見た感じ、値が張りそうなハイヒール。鉄は女物に明るくはないが、女性に囲まれて暮らしているだけあり、ブランド物はよく耳にする機会がある。多分、真っ赤なソールが目立つヒールは海外の有名ブランドだろうことは分かった。


「客か?」


 響の物にしては趣味が違う気がするし、響らの母の物としてもイメージがつかない。

 双子の母はおっとりとしたおっちょこちょいで、少しでも踵の高い靴を履くと転んでしまう人なのだ。

 つまり先客がいる。

 しかしそれが鉄には腑に落ちない。普通客人は応接間に通す。けれど響は鉄を応接間へと案内する。そこが気になった。


「お待たせしました。鉄を連れて来ましたよ」

「おかえり、響」


 襖を開け、響は応接間で優雅に玉浦の饅頭を口にする先客に声をかけた。奏がお茶を淹れながら顔をあげる。続いて顔を覗かせた鉄と目が合った。

 奏に勧めるられたお茶を一服し、先客の女性は湯飲みを茶托に置く。


「あんたが鉄か?」


 女性は迫力ある目付きで鉄を一瞥する。年齢は朝来と同じくらいだろうか。どこかキツい印象の見受けられる女性は、鉄を舐めるような視線だ。


「……はじめまして、と言っておこうか。噂は寿喜から聞いてるけどな」

「寿喜から?」


 一体どんな経緯で寿喜を介してこの女性に繋がるのかと、鉄は訝しげに眉を潜めた。

 女性は、まぁ座れと鉄と座卓を挟んだ向かいに座るように促す。その鉄の両隣りを響と奏が挟んで座った。


「一度、あんたとは顔を合わせて話したいと思ってたんだ。姪が世話になったしな」

「姪……?」


 もはや鉄には心当たりが一つしかない。

 女性はもう一度お茶を飲み、鉄と顔を突き合わせた。


「申し遅れたね。私は大和屋晴子やまとやはるこ。寿喜の母で、ウロの伯母だ」


 ウロの伯母――が、何故響らの家に、しかも鉄と話をしに来たのだろうか。鉄は訳が分からず、


「はぁ……」


 と、間の抜けた声を出す。

 それには晴子が口角を片方つり上げた。


「“はぁ”!? “はぁ”って何よ! 私がわざわざこんな田舎に足を運んでこんなクソガキに挨拶してやってんのに“はぁ”の一言!? こんな腑抜けの間抜けにウロは惚れたってぇの?」

「惚っ……」


 正面切って言われた啖呵に鉄は思い切り吹き出す。向き合う晴子の顔は半分般若面だ。


「頭の悪いガキだねぇ。ヘタレ具合はうちの寿喜とタメ張るんじゃないの?」


 カチンと来る物言い。どうして初対面の相手にそう悪し様に言われなければならないのか。ただでさえ機嫌が悪いのに、晴子の挑発するような発言に苛々する。


「奏! なんで俺はわざわざお前ん家に来てまでこんな説教みたいなの受けなきゃなんねぇんだよっ」

「仕方ないでしょー。みすゞ舘で込み入った話なんて出来っこないじゃない」

「そりゃそうだけど……」


 掴み掛かった襟を離し、鉄は頼りない顔で奏を見る。グウの音も出ない正論だった。


「……我が家が謁見の場になったのは、この晴子さんと家の母さんが竹馬の友だからだよ」

「都合のいい話だな」

「言わないでよ。僕だって今日知って驚いてるんだから」


 深い溜息。疲れたような奏の姿は珍しい。余程この晴子の乱入が突然すぎて猛威を奮われたのだろう。


「——で、その伯母様が何しに来たんすか。俺に何の用ですか」


 落ち着きを払い、鉄は改めて晴子を真っ直ぐ見据える。


「なぁに、簡単だよ。アンタがどんだけウロが好きなのか見に来ただけさ」


 にっこり。

 悪意に満ちた瞳で晴子は笑った。


「ヤったんでしょ、アンタ。ウロの首に痕が……」

「うわーーーーっ! うわーーわーーっ!」


 鉄の絶叫。

 何事かと店番していた双子の母が顔を覗かせ、何でもないと息子に追い出される。その反対で硬直したのは響だ。


「お前なぁ、見える所に痕つけるのはマナー違反だぞ。避妊はしたか? これだから発情期のお子様は……」

「お前もヤツら属性かよ! もう少し歯に衣着せて喋れよなっ」

「事実を変に濁してどうする。疚しいのか? 遊びか?」

「あ、遊びじゃねーけどっ! けど言うか!? 普通! んな、人のプライバシーを……っ」

「――鉄、したってあの夜? 私をフったあの夜にアンタは幸せに浸ってたって訳?」

「えっ! いや、その……響……それは……」

「アンタはやっといて、失恋した私がいるってのに落ち込んでたの?」

「や、だから――ゴメンナサイ」

「ゴメンで済んだら私の長年の初恋に費やした時間が戻るかーっ!」

「いいぞ、小娘やったれーっ!」


 その後、暴徒と化す響。それを煽る晴子の所為で応接間は一時荒れ狂った。暫くその光景を漫喫していた奏が飽きて止めるまで……。






 まるで修学旅行の夜みたいに荒らした後、晴子は何事もなかったかのように涼しげな顔で煙草に火を着けた。


「正直、ウロはアンタの何処に惚れたの?」


 携帯していた灰皿に灰を落としながら、晴子は煙で鉄を撫でる一方の手で煙草を指で遊ばせている。


「まぁ、話に聞いた通り顔は尊穏にそっくりかな。ウロが懐くのは無理ないわ」


 あぁそうかと鉄は晴子を見た。

 ウロの伯母で、寿喜の母という事は尊穏の母でもあるのだという簡単な図式に今更気が付いたのだ。

 その母親にまで息子に似ていると言われては、鉄としては身が重い気持になる。


「俺は、アンタから見ればどうなんだよ」


 此処で貝になるのも馬鹿な話。鉄は少し緊張しながらも聞いた。

 晴子は鉄をちらりと見て、のんびりと煙草のフィルターを噛み吸いながら再び煙を吐き出す。


「全然駄目。うちの息子の方が断然大人だ。アンタはすぐ拗ねるし、女一人拐う度胸もない。こんな男に嫁がせるよりは、貪欲にウロを獲ようとする成宮のがマシ。だって、アンタの想いはそんなもんなんだもんね」

「――……っ」


 何も言い返せず、鉄は歯を食いしばる。


「私はウロの為になると思った道を作るつもりだ。例え、ウロが成宮を好いてなくても死んだ尊穏を思い出させるアンタよりはマシだというのが私の意見。親としては、女の裏切りであっさり諦めるアンタには渡せないのよ」

「勝手言うんじゃねぇ……」


 ぽつり零した鉄の声な、晴子はおや? と首を傾げた。


「何がウロの為だよっ。アンタはウロを嫌って蔑ろにしてるって言うじゃないか。それでもウロはアンタの為に見合いを受けて婚約までしてるんだろ? アンタ、ウロがどれだけアンタを慕ってるのか気付かないのか!? アンタが本当にウロの親だと言い張るなら、何でウロはあんな泣きそうな顔で俺の手を振り払わなきゃなんねーんだよっ!」


 あまりに考えなしに怒鳴ったから、最後の鉄の息は上がっていた。それでも敵意を剥き出しで晴子を睨むが、彼女は歯牙にもかけない。気楽に煙草を灰皿に押し付け、火を揉み消すだけ。


「だからどうした。最終的にはウロが決めるんだ。ウロがなびいてくれないのを人の所為にするな」


 静かな声。

 抑揚なく言っただけに聞こえる言葉が、鉄には怒りを込めた声に聞こえる。

 晴子は目を赤くして鉄を見据えた。


「言っておくけど、私は一度だってウロを嫌った事はないよ。……ただ、扱いに困るだけで……」

「何を戸惑ってたんだよ! そんな事よりウロを抱き締めてやりゃ良かったんじゃないのか!? アイツが望んでるのはそういうのじゃねーのかよ! だからアイツは家に居着いたんだろ。分かれよ、アイツ、どんな顔して俺らのやり取り見てたと思うんだよ」

「そんなん、私だってくれてやりたいよ! だけど……だけどさ、所詮可愛がったってウロはいつかいなくなるだろうがっ」


「――――……は?」


 不意に見せた晴子の「母親」の顔。悲鳴をあげて泣き出しそうな顔だった。

 鉄は予想外の晴子の反応にきょとんと呆ける。


「いなくなるって、何だ……?」

「えぇと、ほら……ウロは女じゃないか。だから、いくら可愛がった所で娘は余所に行くだろう? ウロは本当の娘じゃないから、ただの伯母よりは選んだ男の方がいいに決まってる……だって、どう足掻いたって私は本物の母親にはなれないし……どうせ手放して苦しむなら浅い方が……」


 鉄の詰問に、晴子は動揺したのか顔を赤く染める。

 同じく鉄も焦ってしまった。

 晴子の動揺の仕方、馬鹿な思い込みが誰かを連想させて。


「……アンタら十分親子だよ」


 とても馬鹿らしくて呟いてしまった。

 元を正せばこんなにも呆気ない。

 複雑に絡んだように見えた糸は、実は一本の糸を取り除くだけでするりと解けてしまうパズルのような単純なものだった。元々がそんなに絡まってもいなかったのだ。


「あのさ、俺が言うのもなんだけも、寂しいなら寂しいって、素直に言ってもいいだろう。大人なんだからとか異母なんだからって、多分、絶対気にしてないぜ、アイツ」

「……どうして今更私の口からは言えるんだよ」


 今度は晴子が拗ねたような顔になる。本音を暴かれるとグダグダに脆い所もウロにそっくりだと思った。


「……俺が伝えたらいいのか?」


 目に光を宿した鉄の顔を見て、晴子は子供のように頷く。


「ぶっちゃけな、成宮との婚約もホントは今更断るのは厳しいんだ。そもそも成宮個人の懸想からの見合いでも、こんな景気だし、背負ってんのが企業だから役員とか株主とか変に色めいてんだよ。身内も味方ばかりじゃないからね、私が勝手にウロの意図を汲んで動いても、餌を与えかねなくてさぁ」


 それに、私が動いたとしてもウロも穿って捕らえてより頑なになりそうだしと、肩を落とす晴子に鉄はなんとなく、自分の世界では知りえない事情もあるのだと察する。

 ふと、晴子は一枚の名刺を取り出し、座卓の上にそっと置いた。


「あ、これ私の名刺。その裏には結納の日取りとホテルの名前が書いてある。期日は明後日。これやっちゃあ、余計に婚約破棄は色々と厄介になるよね、普通は。一応、最悪ケツは持ってあげるけどさ、どうせならケチはつけたくないじゃん?」


 白い小さな厚紙が木目の座卓にくっきりと映える。

 晴子は自らその紙を鉄に渡す事はしなかった。

 委ねたのだ。

 鉄が乗るか反るか。

 最後に決意を試していた。


「——なめるなよ」


 鉄の答えは、決まっていた。



 * * * * *


 夕方。

 残りの夏を謳歌するヒグラシの声とを聞きながら響は鉄と並んで歩いていた。


「何か……女に送られるってどうよ、俺」

「まぁ私が話したかっただけで勝手についてきてんだけどね」


 どことなく新鮮な気持ちで肩を並べるが、正直、会話はあまり盛り上がらない。

 鉄は重い雰囲気に耐えられなさそうな苦行の相を見せる。響はその様を少しだけザマアミロと思いながら、先程の晴子との会談に触れた。


「ねぇ」

「ん?」

「結納ぶっ壊してウロさんを拐う計画さ、アレ本気?」

「本気だよ」


 その決意に応じるように、鉄はジーンズのポケットに収まる名刺を上から押さえつける。

 結納は晴子の話だと明後日らしい。

 晴子は、どうせなら結納の席で派手にかっ拐えとかいい加減な事を言っていた。

 いっそ荒事にして、向こうがこんな縁はいらないと言ってくれる方が都合がいいらしい。と言うのも、晴子なりの考察では多少の浮気でも構わないくらいウロは好かれているみたいだ。

 成宮の親族は何処かウロの身体を敬遠している節はある。それでも成宮本人が構わないと言っていて、なおかつ強くウロを所望する。ウロに執着する成宮本人を諦めさせる為には、いっそ愚かに踊れと晴子は鉄を唆した。

 それがどう功を奏すのか響には分からない。本当はただ煽るだけで、単に二人の背中を押す口実なのかも知れない。大人は子供の尻拭いをするのが仕事だから好きにしろと、さいごに晴子は言ったから、無理を通す方が濃厚だ。

 たくさん迷惑をかけるだろう。だけど、鉄の目には火が灯ったようだった。


「……俺さ、自分で思うより随分子供だったんだ。ウロの事は拐いたいと思ったけど、後で責められると怖いとかさ。だから、晴子さんがあんな風に背中を押してくれたから楽になったんだよ。情けないよな?」


 苦笑する鉄に響はふるふる何度も首を横に振った。


「……情けなく、ないよ」


 キュッと下唇を噛み、響はもう一度繰り返す。


「鉄は情けなくない。そりゃあ、やっぱりまだ子供な私達は晴子さんとかに頼らないといけないよ? でも、晴子さんはウロさんを幸せに出来るのは鉄しかいないって思ってるんだよ。頼られてるよ。情けなくないよ。――って、鉄にフラれた私が言うのもおかしいけど」


 盛大に微笑んで、響は泣きそうな顔を隠す。付き合いの長い鉄にはそんな強がりはお見通しだろうけど、でも響の為に気付かないふりをしてくれる。


「ありがとな」


 お礼を言いたいのはこっちの方なのに。そんな心境の響の頭をぽんぽんと二回。鉄はあやすように叩く。慰めてくれているのだろうが、響はつい口元を歪めた。


「……鉄さ、そんな風にしたら他の女の子が勘違いするからやめた方がいいよ?」

「はっ? 何が?」


 響に言われても気付かないくらい無意識な行為だったのか、鉄は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。

 その間抜けな顔に、響は吹き出した。


「鉄、アンタ……ウロさんと上手くいっても、きっとまた私みたいに誰かに告られるよ。でさ、ウロさんに怒られるの」

「な!? こ、怖い事言うなよな、お前はっ」


 本気で焦る鉄を笑いながら、響は胸のつっかえが取れたような開放感を味わう。

 今みたいなこの懐かしい空気が、自分達には水に合う気がした。

 とても懐かしくて温かい。

 少し切ないけど、こんな形でずっと仲良くいられるなら友達のままでも悪くない気がした。

 そう思ったら、新しい恋も始められる気がした。

 今度こそ、響を好きになってくれる人との恋だ。

 鉄とは一生の友愛を。

 そんな想いをずっと抱いて行くのだろう。

 そう思った。

 その時の、ほんの一瞬だった。

 ほんの一瞬。

 公園の前に差し掛かった時、小さな子供が勢いよく道から飛び出した。

 響の目の端に、子供に焦って呼び掛ける、バギーを押した若い母親の姿が入る。

 そして、耳につんざくようなブレーキ音が容赦なく突き刺さり、鈍い音がした。

 気がついたら鉄が道に倒れていて、どうして鉄が倒れているのか分からない。

 これから新たに友情を深めるつもりだった。また大事な幼馴染みに、親友に戻るつもりで、喧嘩したわけではないけど仲直りしようと、そう言うつもりだった。だからこうやって帰り道についてきたのに、何も言えないまま鉄はまだ熱を持つアスファルトに蹲る。背中には赤。

 ヒグラシの声が不気味に聞こえて、子供の、鳴き声が耳に痛い。

 だんだんと響の呼吸が荒くなる。

 足元から来る熱気は暑いのに、肌に纒わり付く空気はじめっとして熱を帯びているのに、響の背中は冷や汗でやたらと寒かった。


 

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