第20話 泡となる

 

 

 それは鉄がウロの部屋を訪れる少し前。ウロは誰かに起こされた気がして目を開けると、傍らに成宮がいた。

 鉄が側にいる訳ないと分かっているのに、ウロは帰って来てしまった事に急に後悔を覚える。


「私、どれくら寝てました?」

「七時間くらいですかね」


 時計を見ながら答える成宮。

 ウロは大分寝たなと首に張り付く髪を上げながら、ふと自分の装いが変わっているのに気付く。


「着替え、成み……一誠さんが?」

「いいえ、メイドの方ですよ。安心して下さい」


 吹き出す成宮を見て、ウロはホッと胸を撫で下ろす。

 昨夜の鉄との事は成宮に知られてはいけないから、なるだけ暫くは肌を晒したくなかったのだ。

 ウロの見える範囲には鉄の痕がないから、おそらく案ずる事はないと思いながらも万が一に備える。

 しかし、成宮はそれを見透かすようにウロを見つめて言った。


「何か、僕が婚約者の貴方の肌を見ては不都合がある感じですね」

「そんな事――……っ」


 ない、という嘘すらまともにつけない自分が疎ましい。

 成宮は笑い声を押し殺してウロの顎を引いた。


「昨晩は昔の恋人のソックリさんと仲良くしてらした……って所ですか?」


 意地悪くウロの瞳を覗く成宮。

 ウロは嫌な悪寒から目を逸らそうと顔を背けるが、顎を取られては逃げるは不可避だった。


「貴方は僕の婚約者、ですよね?」


 わざとらしく確認をする声に、ウロは小さく頷く。


「でも、僕が婚約を解消すると言えばあの人は何と言いますかね?」

「――え……?」


 まるで突き放されたかのように戸惑うウロの顔に、成宮は満足そうに破顔した。


「嘘です。ちょっと試しました。貴方が僕を選ばない筈はないですからね」


 自信ありげの成宮をウロは不安に見つめた。

 何かを企んでいるといった言葉が当てはまる。初めてこの男が単なる優しい人じゃないと気付く。

 蝕まれるような恐さが滲み出ているのがウロの肌に伝わる。


「――成宮さん、今日は何かおかしいですよ?」

「おかしい?」


 くすくすと成宮が低く喉を鳴らす。


「僕は貴方の態度の方こそ不審に思いますけどねぇ。……例えば、貴方は本当に僕を好いてくれているのか……とか……?」


 そこで即座に「好き」だと言えれば何か変わったかも知れないのに、やはりウロは咄嗟に嘘がつけない。

 だが成宮はウロの本音を承知で言っているように見え、ウロは好意に透ける悪意みたいな空気が恐かった。


「ウロさん、貴方が本当に僕との婚約を望むのなら、どんな事も拒みはしないですよね?」


 嫌な予感がした。

 何を考えているのだろう。

 眼鏡の奥の無機質に光る瞳の輝きを眺めてウロは思う。


「どんな事って、なんですか――?」


 問い掛けて来るウロを面白そうに覗き、成宮は舐めるようにキスをした。

 息さえ奪う口付けに、ウロは引き剥がそうと腕を突っ張ろうとする。けれど、すぐに思い直して力を抜く。

 成宮の言葉が胸を突いたのだ。

 拒む事を拒まねばならない。

 成宮を選ぶという事はそういう事なのだ。

 心の奥底で疼く嫌悪と葛藤しながら、それでもウロは濃厚に絡まる舌を一心に受けた。

 そして気付く。

 どうしてそこにいるのか分からないが、鉄の姿に。

 呆然と突っ立ち、傷ついた鉄がそこにいた。

 ウロはこれまでの経緯が成宮の企みだと感づいたが、言い訳ははばかれた。本当の声を、成宮の前で打ち明ける事など出来なかったのだ。

 ウロは別れのシナリオを演じるしかなかった。



 * * * * *


「……頭痛い」


 頭を抱えてウロは体を起こす。

 原因は明白。泣きすぎによるものだ。ついでに言うと喉も痛いし、瞼も腫れて熱い。

 最悪な気分である。それが自分で蒔いた種であるから救いようがない。

 発端は相手希望による縁談を晴子が持ち寄ったのがきっかけだった。形式ばかりの見合いではあったが、成宮との婚約は確かにウロ自身で承諾した。成宮に恋したからではないが、相手の好意が伝わり、心穏やかでいられるかもと前向きに考慮して頷いた。

 尊穏以上の人はいなくとも、彼だけに操を立てられる身分でもないと自身を評価するウロにとって、嫁ぎ先を世話して貰えるだけ幸せなことだとおもっていた。

 薄情な物言いをすれば、相手が誰でも同じだった。その同じ部類でも、晴子も「大事にしてくれる人だと思うよ」と薦めてくれたなら文句のつけ所などなかった。

 その頃はウロの世界に「鉄」なんていなかったから、簡単に頷けたのだ。

 鉄に会っていたら婚約などしなかったなんて言葉は、今となっては何にもならない。

 昔の一国一城の縁組でもないのだから、断ってもそう大きな問題でもないのは頭では分かっている。それが選べたらきっと成宮に対する無礼も、浅くて済んだかも知れない。

 けれど、この婚約を断るという道はウロには恐ろしかった。

 この婚約に伯母の晴子も絡んでいる。もし断ればどんな顔をするだろう。家出に関しては何も言われなかったが呆れているかもしれない。

 ……大和屋晴子。

 尊穏、寿喜の母でウロの母の姉。現在はウロの後見人として世話をみてくれている家族である。

 大人しかったウロの母とは違い、活発で気の強い女性。多少押しが強く、寿喜がその母の厳しい躾に泣かされている姿をよく見た。

 だが、その伯母でもウロには遠慮するようによそよそしく、まともに言葉を交わした記憶は少ない。顔を合わせる度にウロの不自由な足を眉間に皺寄せて見るものだから、ウロの気後れと晴子に対する後ろめたさを募らせていった。

 嫌いではない。

 むしろ女手で大きな企業の役員として取り仕切る逞しい女性だと、尊敬している。

 しかし片思いというのは何らかの人間関係にはよくある話で、ウロはこの伯母に好かれていない事を肌で感じていた。

 勘当同然で結婚した音信不通の妹の、顔も名前も知らなかった娘を急に引き取らされたのだ。それも足の自由が利かず、人より助けが多く必要とするのだから、予告もなく押し付けられたのは負担だったに違いないと、その時ばかりウロは自分の足を恨んだ。

 それでも引き取ってくれて、ウロは文句一つもない。何の苦労もいとわされず、大学まで通わせてくれる人を嫌いになどなれる筈もなかった。

 それどころかその好意は強いものだ。

 一瞬にして天涯孤独の身となったウロに、初めに手を差し出してくれた人を忘れる事なんてなかった。

 どんな形であれ、晴子はウロの母のような存在で、最大の拠り所だ。

 だから晴子には嫌われたくない。

 だから母の言葉にいい顔をする。

 それこそ、将来の為に素晴らしい縁談と進められたらいい顔で頷いて。

 好かれるのは諦めた。

 ただ嫌われたくない。

 例えそれが厄介払いだったとしても、ウロは政略結婚の道具としても厭わない。

 両親を一気に亡くし、その死を悲しみ、死に苦しみながらもがいて泣いたウロの元に一番に駆け付けてくれたのは晴子だったから。

 途方に暮れたウロに最初の導きの手を差し出したのは晴子だったから。

 そんな恩人の晴子から、大事な息子と過ごす時間を奪ったのは自分だから。

 あの日の言葉を反芻する度にウロの胸を締め付けた。


『どうして尊穏なの――!?』


 どうしてウロじゃないのかと囁かれている悪夢。

 ウロの愛した人は両親、尊穏と皆死んでしまっているから、本当に自分が不幸の種だと思ってしまう。

 だから晴子には好かれないでも良いと思うようにした。

 だから鉄は選ばなかった。

 もう大事な人を失って傷つきたくなかった。

 その選択は間違っているという声を無視し、ウロは決めた。

 最初は、ただ晴子を「お母さん」と呼びたかっただけだった。母の懐を渇望するあまり、歪みは大きくなってしまった。

 今更晴子に逆らう勇気もない。

 ウロは声を上げて泣く子供だ。迷子が母を探す子供のように、十年間晴子の背中を追いかける。

 正面から向き合うと冷や汗が吹き出るくらい。恐かった。見捨てられたらと思うと恐かった。

 今だってそうだ。

 突然晴子がウロの部屋に押しかけ、きつい瞳をウロに向けているだけで卒倒しそうになる。

 こんな珍しい日はない。

 大した用がない限り、顔を合わせるのも言葉を交わす事もない晴子が、今、ウロの前にいるのだ。


「少し、話をしようか……ウロ」


 静かに、冷えた瞳の晴子はそう言った。


 ――話をしよう。


 そう言って、晴子はウロのベッドに腰を下ろす。彼女の分だけ沈むベッドに重圧がかかった気がした。

 栗色の波打った短い髪を掻き上げる仕草は何処か寿喜と似ている晴子。

 実年齢よりも若く見え、どちらかといえば男勝りに喋る彼女は、おっとりとした実の母とは違うタイプの人だそこがウロにとって恐い所で、また頼もしく愛しい。


「――あ~、話ってアレだ。長話もなんだからアンタは一方的に聞いたらいいよ」


 晴子は眉間に皺を刻み、ウロに喋るなと釘を刺す。彼女はいつもこのようにウロに接する。その態度がウロから遠ざかっている事くらい幼心に伝わっていた。

 その所為か、今の奇妙な関係が築かれた。


「今日、家出中に世話になった所の奴が来たって五十嵐から聞いた」


 五十嵐とは長年大和屋に仕える老年の執事だ。


「寿喜と同じ年頃の男がいたってね。それも、尊穏とそっくりの」


 尊穏。

 その名前一つでウロの顔色が変わる。晴子はうんざりと大きく溜息をついた。


「アンタさ、どうしたいの? 成宮のぼんとの婚約は合意の筈でしょ? なのに家出。そしたら尊穏に似た男を見付けて……何がしたい?」

「わ、私は――……」

「婚約が嫌? 話を持ち掛けた私が悪者か? 断ろうとしないアンタは悪くないの? なぁっ」


 ウロの言葉は聞かないとはじめ言った。次第に荒くなる晴子の声にウロは言葉まで失って小さくなる。

 言われると厳しい言葉。ウロもあの家出は悔やんでいる。


「……私は、親にも姉にも内緒で結婚した有雨子が許せなかった。和解もないままあっさり死んでいったのはもっと許せない。でも、自分の想いを貫いた分、アンタよりマシだと思ってる」


 ウロの長い髪を指で掬い、晴子は責める目で浮き出る白い首筋を見つめた。


「……それから、浮気すんなら目立つ所に痕なんて付けさすな。成宮の坊ちゃんに怒られるでしょう?」

「――……っ」


 言われて初めて気付いたウロが、慌てて首を手で覆い隠す。顔を恥じらいで赤く染め、怯えながら晴子を見た。


「多分、成宮も気付いてるよ。責められなかった?」


 心配するでもなく、抑揚なく問掛けるだけして、晴子は腰を上げる。


「アンタはどっちを選びたいの」


 どっちと問われて、正直に答えていいのか。ウロは逡巡し、返事に答えあぐねていると晴子は即座に「答えは聞いてないから」と蓋をする。


「私はどっちでもいいんだけどね、関係ないし……」


 ぼそりと零した晴子は、ウロの顔色を窺うとバツが悪そうに「話はそれだけ」と言い残し、そそくさと出て行ってしまった。本当にただ一方的に言葉だけを置いて。

 胸がずしりと重い。晴子の言葉が突き刺さる。


「私、どうしたいんだろう……」


 嫌われたくないから、見捨てられたくないからという我が儘で、結局何一つも得られない。

 そんな愚かでどうしようもない自分に、涙すら流れなかった。



 * * * * *


 何がいけなかったのだろうか。

 ウロは考える。

 冬の家族旅行――ウロに足の自由があれば、両親はそんなに頻繁に旅行の計画など立てなかったかもしれない。

 尊穏も、ウロが存在しなければ日本に戻る事もなかったかもしれない。そうしたら晴子はウロを恨む事もなかっただろうと、思う。

 いつだったか尊穏が言った。


「ウロは俺よりも、おふくろに好かれたいんだな」


 その時、ウロはそんな事ないと言ったが、図星だった。

 尊穏は大事な人には変わりない。けれど、晴子は尊穏より先に出会ったウロにとっての「母」で、尊穏とは別枠だ。

 遠慮するウロに尊穏が笑ったのを思い出す。


「大丈夫。ウロと母さんは上手くいくよ」


 そう言って優しく頭を撫でた。尊穏が生きていたならきっとそうなっていたのかもしれない。でも尊穏は逝ってしまった。

 ウロはその償いをしなければと、考えていた。

 歌うしか取り柄がない自分でも望まれる場所があるのなら、喜んでこの身を晴子の為に捧げようと決めていた。

 悔いはない。

 心は鉄に残した。それが、いっぱい悩んでウロが辿り着いた結論だ。


 これでいいんだ――。


 悲しくはないのだと自分に言い聞かせ、ウロは瞳を開く。


「明後日の結納の儀……。謹んでお受け致します」


 結納を前にして、ウロは成宮を前に三つ指を揃えて頭を下げた。

 練習した綺麗な笑顔を成宮に向ける。ただ成宮だけを見つめる。

 ただただ成宮だけを見る事に専念した一週間。鉄との事を知っていて何も言わない成宮は、ウロを優しく抱き留める。


「貴方の幸せが僕の元にあると、知って貰いたい……」


 勝ち誇った笑みはウロには見えない。

 明日を過ぎれば全ては自分の物になるのだから嬉しいのだろう。尊穏が得られなかったモノを彼は得るのだ。

 それを確かなモノにする為に、成宮はゆっくりと顔を寄せる。

 その時、そこに無粋な侵入者。


「ウロッ!」


 寿喜が息を切らせてウロの部屋に飛び込んで来た。


「なんですか」


 怪訝に何事か問う成宮。寿喜はそんな成宮を歯牙にもかけず、ウロを見つめた。


「……鉄の阿呆が、車にぶつかった――って……電話が……」


 震える寿喜の声を何処か遠くで聞こえ、ウロの視界が歪んだ。世界が嗤った気がした。



 ほら……私の愛した人は全てするりと手の中を擦り抜けていく——。


 

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