第19話 捻じ曲がったの、世界
外の景色がライン状に流れる様子をぼんやり見送り、ウロは額を窓に擦り付けた。
「……寂しいですか?」
隣に座る成宮がウロの手を握り締め、尋ねる。ウロは外の景色から車内の成宮を向き、緩く目を細めた。
「いいえ、少し眠いだけです」
「やはり迎えの時間が早かったんですね。今、やっと七時を迎えた頃ですよ」
腕時計の文字盤を覗きながら成宮は言うが、顔はウロの早い帰宅が嬉しいと言っている。
「……世話になった方には最初から話してますし。それに、早く家に帰りたくて……」
あまり長居をしすぎると、鉄から離れられなくなるから……。
本音を押し隠し、ウロは膝に乗せたぬいぐるみを抱き締めた。帰り際、見送りに立った三鈴から貰った彼女手作りの新作である。
白い雲のような曲線が愛らしい羊のぬいぐるみ。相も変わらず凶悪な顔つきがウロのツボを押す。
「ぬいぐるみがお好きなんですね」
「……はい。子供っぽい趣味ですが、動くより眠る事が多いので、自然と柔らかくて抱き心地がいいものを集めてるんですよね」
愛しそうにぬいぐるみを抱き締めるウロ。そのウロの肩を包むように成宮は自分の胸に引き寄せた。
「帰り道は長いから、ゆっくり休まれると良いですよ」
髪の毛の一本一本を梳いて撫でる。ウロは力なくその腕に添い、ぬいぐるみに顔を埋めて眠りに落ちた。気落ちもしていたが、昨夜は殆ど眠れなかったので、車の震動が心地良くてすぐに寝付けた。
無防備に垂れる頭を成宮は愛しく見つめる。
髪が流れ、ウロの白い首筋が浮き出た。まるで猫の背でも撫でるように成宮は指の背で首筋に触れる。その時、気付いた。いつもウロが肌身離さず身に着けている筈の指輪の鎖が見当たらない事に。
無くした?
ウロの尊穏への想いを考えれば腑に落ちない。
何かあったのだろうかと思った矢先、答えとも言える証を見付けた。
首の横。
普段なら長い髪で隠れ、鏡で見ても本人がなかなか気付かない位置。言い訳の出来ないような赤い、情痕だ。
成宮はその痕を感情のない目で一瞥し、何か考えるように口を結んだ。
* * * * *
「ふざけんなっ」
怒声がみすゞ舘の談話室に響いた。
向かい合う鉄と朝来。
朝来は鉄の声を耳障りそうに聞き流し、紫煙を吐く。
「ふざけてないわよ」
しれっと答えるが、鉄に一瞥もくれない不機嫌な朝来。
親子の張り詰めた空気に、みすゞ舘の住民ははらはらと見守る事しか出来ない。
この、一触即発の親子の険悪なムードの始まりは、昼前に目覚めた鉄がウロを探して朝来に尋ねた所から始まった。
当たり前のようにいると思ったウロの姿が見当たらない。ウロを探す鉄に朝来が告げた真実。
――ウロなら今朝早くに婚約者と帰った……。
全く考えもしない言葉だった。
昨夜、確かにウロと通じ合えたと思ったのに、一夜明けたら「はい、サヨナラ」なんて納得がいく筈がない。
「なんでなんも言わないで帰るんだよ! どうせその婚約者が無理矢理連れてったとかそんなんだろ!?」
憤る鉄に、朝来は無情にも首を振ってそれを否定した。
「無理矢理じゃない。祭が終れば朝一に帰るって初めから決まってた。そういう話だったの」
「……俺は、そんな話、聞いてないぞ……」
呆然と立ち尽くす鉄に、朝来は吸い込んだ煙を鉄の顔に吹き掛け、言う。
「口止めされたもの」
「――っ」
そして「ふざけるな」の怒号に続く。
「何で俺には話すなって言うんだよ! 何で俺に内緒で帰んだよっ!」
私は関係ないとそっぽむく朝来に余計怒りを募らせ、ぶつける事の出来ない感情に鉄はわなわなと拳を握り締めた。
「……ウロは、何しに戻って来たんだよ……」
少し落ち着いた声が朝来にすがるように聞いた。
朝来は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消し、睫毛の長い、吊り上がったブラウンの瞳を迷子のような息子に向ける。
「祭よ。私らが誘ったんだもの」
「……だよな」
自分に会いに来たという答えでも期待したのか、心底力のない渇いた声で笑いながら鉄は肩を落とした。
所詮その程度。
ウロにとって鉄との事はそれだけの話だったのだ。
きっと、それだけの事だったのだ。
彼女にとっては一夏の夢だったのだ。
「……怒鳴ってゴメン」
素直に頭を下げ、そのまま朝来に背を向けて部屋に戻ろうとする鉄。
が、みしっという鈍い音と共に前に倒れた。転んだ。というより、朝来に腰を蹴られて倒されたという表現が正しい。
「なっ! 何すんだよっ」
「何はこっちだ馬鹿息子! 短絡的に考えて答えが一つだと決め付けやがって。泣きそうな顔すんじゃないよっ」
怒りが頂点に達したのはどうやら鉄ではなく彼女の方だったようで、部屋どころか外にまで筒抜けだと思われる声で喝が入れられる。
見事な腹式呼吸。
様子を伺っていた三鈴らが両手で耳を塞いだ。鉄は呆気に取られた顔で、見下ろす夜叉のような朝来を見つめた。
「色恋に疎い疎いと思ってはいたけど……そこまで女心に気付かないとは、正直お母様は思いませんでした!」
「疎いってなんだよ。まるでウロの事知った口ぶりじゃねぇか」
フンと息巻く朝来に、鉄も言い返す。
蹴られた事が尾を引いているのか、声に少し張り合いが出て来ている。
そんな息子を、朝来は腹が立つくらい鼻で笑い飛ばした。
「知るわけないでしょ、詳しい事情なんて聞いてないもの。……でも、あんたよりあの子のふわっとした行動は理解出来るかもね」
にたっといやらしく笑うが、朝来はそれ以上何も言わない。
その後は鉄に見向こうともせずに藤子の肩を意味ありげに軽く小突き、階段を上がっていくだけ。だが、何かふと思い出したように階段の半ばで立ち止まり、手摺から身を乗り出して鉄を見下ろした。
「そうだ、鉄。女はね、わりかし平気で嘘をつける生き物なのよ。好きを嫌いとも言うし、好きだけど誰かに合わせて嫌いって言えんの。言葉を鵜呑みにしないで、たまには股にぶら下ってるもん使わないと、簡単な事にも気付けなくなるわよ?」
「股って……」
さり気ない捨て台詞の品の無さに鉄は絶句した。
「何なんだよ……」
「ま、本能に従いなさいって事でしょ」
小さくぼやく鉄に、藤子がしれっと答えてやった。そして、バイクのヘルメットを投げ渡す。
赤いラインに青い炎がデザインされたフルヘルメット。見れば藤子も別のデザインのされたヘルメットを左脇に抱え、右手の人差し指にはナマハゲのキーホルダーに繋がった鍵がくるくると回転している。
「従って見れば? 本能」
にかっと、まるで頼もしい兄みたいに藤子が笑った。
「そうね」
その側で三鈴が相槌打ちながら微笑む。
鉄は事情が上手く飲み込めないまま、それでもゆっくりと頷いた。
* * * * *
つくづく女というのは馬鹿な生き物だと、寝付くウロを見つめ成宮は思った。
特にウロはまるで聞き分けのない子供のような娘だと。
あどけない娘は知らないのだろう。
実は尊穏が死ぬ以前から成宮がウロに想いを寄せていた事を。
始まりは、ほんのささいなきっかけだ。
成宮が尊穏と同じ大学で、尊穏が気紛れでウロを連れて来たのを引金に一目で恋に落ちた。
そんな事実、彼女は何も知らないのだろう。ウロの心には尊穏しかいなかったのだから。
叶わなかった恋も、尊穏が死んだのは成宮にとってのチャンスだった。
三年。
婚約に取り次ぐまでに三年かかった。
それだけウロを想った。
子供のような見た目に、透き通るような歌声を聴いた日からずっと想い続けていた。
どうしてそんなに彼女に惹かれるのかと初めは思った。しかし成宮が惹かれた魅力にすぐ気付く。
純真無垢で、汚れを知らない。永遠の少女。強がりを見せても本当はか弱く、涙脆い。打算が下手で、今まで自分の周り女とは違う、か弱いばかりの
庇護欲が掻き立てられたか、ウロの危なげのある無垢さは眩しくて、同時に汚したくなる欲望が鎌をもたげる。
ウロという存在を己の手で汚したかった。
その想いは年を重ねる毎に歪んでいく。しかし似た歪んだ想いはウロにもあった。
成宮に歪んだ欲望はあったが、それでもウロの気持ちが手に入るまでは抑えるつもりだった。婚約を結んだ時は、やっと宝箱に手をかけたのに、それでも尚、ウロは決して成宮を見つめようとしてくれない。
婚約が決まったその夜に家を出て、彼女は死んだ恋人に似た男を見付けてきた。
こんな報われない話はない。
どんなにこちらが愛情を注いでも、ウロが振り向いてくれなくては意味がない。それどころか彼女は後から出て来た男に心を奪われる。
そもそも、鹿魚の祭に行かせた事が大きな過ちだった。
その時、彼女はそこに心も体も残して来たのだ。首筋の情痕が何よりの証拠。
「……これは立派な裏切り行為ですよね?」
ウロの流れる漆黒の髪を指で梳きながら呟く。
滑らかで、傷みのない、遊ばれていない絹のような手触りのない髪を成宮は美しいと思う。だからこそ余計に近い未来、伴侶になる相手の不浄は際立った。
成宮自身、自分がこんなに貪欲だとは思ってもみなかった。
ウロに触れるのは一人で十分だ。
誰にも渡したくない。
彼女にはそれを分かって貰わないといけない。
ならばいっそ――……。
「籠に閉じ込めてしまえば……」
想いが歪む。
泣かせてしまいたい。壊してしまいたい。手に入らないならいっそ閉じ込めてしまいたい。
小鳥のように囲い、閉じ込めてしまえばきっと心は得られないだろう。分かっていても、どうせ手に入らないのなら誰にも渡したくないと思える。
「――もうこんな時間か」
腕時計の時間を確認して成宮は呟く。時計の針は正午を二時間も過ぎていた。
いくら夕べあまり寝ていないからとて起こしてもいい時間だろう。成宮はまだ深く眠るウロを起こそうと手を伸ばす――が、その途中で室内子機の呼び出し音に止められた。
「……はい、成宮です」
「成宮様でいらっしゃいましたか」
電話の主は歳を食ったような男の声だった。おそらくこの屋敷の執事だろう。
因みに、此処は大和屋のウロの部屋。成宮はこの屋敷にとって客人なので、執事の声は戸惑いの色を電話口に見せる。
「あの、ウロ様はそちらにいらっしゃいますか?」
「はい。ですが、ウロさんはまだお休みになられていますので、用件なら僕からウロさんに伝えますが?」
成宮の申し出に、執事は少々迷いを窺わせる。だが成宮は客人だがウロの婚約者というのもあり、少しの沈黙の後にすぐに用件を伝えた。
「ウロ様がお世話になった塚本様と森様がいらっしゃっているのですが、如何なさいましょう」
「塚本?」
その名前に一瞬、成宮は誰かと眉根を寄せたがすぐに思い出す。
「ああ、彼か。わざわざ遠い所からご足労頂いたんです。僕の知り合いでもありますし、部屋まで通してくれて構いませんよ。ウロさんも喜びます」
執事の了承を聞いた後、受話器を置き成宮は面白そうに思案を巡らせる。
「……拗らせるか」
怪しく笑うと右手を伸ばし、ウロの肩を揺さぶる。
「ウロさん、起きて下さい。ウロさん」
優しく耳元で囁くように呼び掛ける。ウロは欠伸をしながら両腕を宙に上げ、寝惚ける瞳を擦った。
「おはようございます」
未だ成宮が側にいる事に気付かないウロに声をかける。
「成宮さ……!? ぉ、おはようございます!」
驚きに目を丸くしたウロが顔を赤く染め上げて頭を下げた。大きく口を開けての欠伸を見られたのが恥ずかしいらしい。
「よく、眠れましたか?」
伏せるウロの顔を持ち上げ、成宮は額を擦りつけ見つめながら聞いた。恋人同士でもあまりやらないような恥ずかしい光景を、成宮はそつなくこなす。ウロは無論恥ずかしそうに困った顔をした。
「……あと、僕の事は名前で呼ぶ約束ですよね?」
ウロはまだ覚醒しきらない頭を抱えながら、成宮の微笑に戸惑いがちに笑みを返した。
* * * * *
「こちらへどうぞ」と恭しく頭を下げる初老の男性は、鉄と藤子を屋敷の奥へと案内した。ピンと伸びた背中を見つめ、後に続く二人。藤子が小声で鉄に話す。
「……アレがセレブにしか雇えない執事ってレア種族?」
「――……だろうな」
興味なさそうに鉄は答えたが、内心はこの対応に気後れしていた。確かに藤子の言う通り、執事なんて存在をお目にかかった事はない。ウロの住む大和屋の屋敷はそんな類を雇えるのも頷ける程に広かった。
建物は外から見ただけで部屋の数を伺うぐらいの窓の列。庭なんて散歩に敷地外を出る必要もない。屋敷内に至っては絵画や彫刻、甲冑などが美術館のように展示されている。廊下を歩いてメイドと擦れ違うのにも惚けてしまった。
世界が違うのだ。
あからさまに貧富の差を肌身に感じる。
金持ちが羨ましいとは鉄は思わないが、育った環境の違いはよく分かる。
この環境で育ったウロが、同じ世界にいる成宮の婚約者だというのも合点がいく。
鉄では成宮と同じ幸せを与えられないのだから。
「こちらでお掛けになってお待ち下さいませ」
執事の男は、鉄と藤子をゲストルームに通すとすぐに退出し、入れ替わりにワゴンを押したメイドがお茶を運んで来た。
「紅茶と珈琲、どちらになさいますか?」
「紅茶、レモンでお願い」
藤子とメイドのやり取りを横目に、鉄はぼんやり向かいの扉をずっと見ていた。メイドが鉄にも同じ質問をしたが、どちらも断って手を振る。
どれだけ時間が経ったか分からない。
多分、ほんの一、二分くらいなのだろうが、長い時間に感じた。
「やっぱ来たか」
寿喜が勢いよく部屋に飛び込んで来る。
そういえば寿喜の家なのだという事を鉄は忘れていた。彼はウロを引き取った伯母夫婦の息子なのだった。
「なんだ、成宮の奴が寿喜くんが案内して下さいとか胸糞悪く言うから来たけど……元気ないな」
「ハイソサエティーに圧倒されてんのよ」
「あ、そか」
口を挟む藤子に、納得と手を打つ寿喜。鉄は何も言い返せない。
「まぁ、しけてるお前に何言っても仕方ないしな。……ウロに会いに来たんだろ。案内するよ」
先を歩く寿喜、鉄は重たい腰を上げた。
「私は此処で待っとくわ」
高級茶葉の薫りを堪能しながら、藤子が鉄に発破ををかけるように行けと手の甲を向けて振る。
「……グッジョブ」
「……ああ」
力なく答え、鉄は廊下に出た。ただ黙って寿喜の後ろを歩く。何処を歩いているか分からない。
ぼんやりと歩きながらただ思った。
――ウロに会って何を話したらいいのだろうと……。
ウロは鉄に一言も残さずに去ったのだ。それは「会いたくない」という意味なのではないか。そう考えるのが普通だ。
一歩ずつウロに近付いていると思う度、鉄の足は竦む。
会うのが怖いと感じてくる。
拒まれたら……そう考えると、足が震えてくる気がした。
「此処だ」
廊下の突当たりの扉の前に来て寿喜が足を止めた。
他の部屋の扉とは違い、そこだけスライド式の扉。どうやら車椅子のウロが出入りしやすい作りになっているらしい。
「此処がウロの部屋でぇす」
鉄に覚悟を決めさせるかのように寿喜はもう一度言う。
寿喜は扉を開ける気はないようだ。鉄に開けろと言っているのだろう。黙って扉の前から下がる。
「ノック、しなくてもいいだろ。成宮の野郎がウロは寝てるとか言ってたから」
まるで寝顔でも見ろと示唆している。鉄は緊張を抑え込むように深呼吸を一回して、ドアに手を伸ばした。からりと扉は軽く力を加えるだけで右へとスライドされる。
部屋の正面は窓。
ウロのベッドはそこからもう少し目線を右にずらすと見えた。おとぎ話でお姫様がねむるような天蓋付きのベッド。
普段はきっとカーテンでも降りているだろうに、何故この時ばかり視界が明るいのだろうと鉄は思った。
初めて見るウロの部屋に来て、鉄はまず息を飲む。
ベッドの上、影は二つ。
一人は白いYシャツを着た成宮。もう一人は白い着物の寝間着を着たウロ。
二人は絡み合うようなキスを交わしていた。
こういうのを間が悪い言うのだろう。
鉄は声すら出ない。
「――……っ」
何を言えば良かったのだろうか。
間抜けにもウロと目が合った。
唇に銀の糸が絡み、息が荒れ、呼吸困難に頬を赤く染めたウロが涙目で鉄を映す。
「……失礼。恥ずかしい所を見せてしまいましたね」
成宮が鉄の方へと向き直り、無言の鉄にそう言った。しかし、そのくせウロを胸に抱いたまま離そうとはしない。
その光景が心臓をえぐった。
ウロが自分じゃない誰かの側にいる事に耐えられないとか、我慢ならないとか考えるより先に、気が付いたら鉄は成宮を殴っていた。
深く考えての行動じゃない。気が付いたら体が勝手に動いて殴っていたのだ。
まるで映画のワンシーンのように、スローモーションで成宮が床に膝を着いたように見えた。
ウロが小さく叫び、寿喜が騒ぎを聞き付け廊下から顔を覗かせた。
「ウロに触るなっ」
成宮に向かって怒鳴る。
ウロを奪うように鉄が引き寄せると刹那、頬に弾くような痛みが走る。ウロが鉄を平手打ちしたのだ。
「なん――……」
どうしてウロに殴られるのか分からない鉄が目を見開き、瞬きを何度も繰返す。
「何でお前に殴られなきゃなんねーんだよっ」
「馬鹿かお前はっ」
怒鳴る鉄よりも大きな声でウロが吠えた。
「殴るに決まっている! なり……一誠さんは私の婚約者なんだっ。怪我でもしたらどう責任を取るつもりなんだ!?」
「どうって知るかよ! 大体、お前は本当にコイツが好きなのかよっ!? だったら昨日のアレは――……」
「関係ないっ」
遮るウロ。目頭を熱く潤ませたウロがきつく鉄を睨む。
「――帰れ……」
他に言う事はないのだろうか。
ウロはもう鉄を一切見ようとしない。細く小さな背中を向けて拒絶を表す。
「――そうかよ……」
もう鉄は何を言えばいいのか分からなかった。
怒りに任せて何か言おうともしたが、ウロに拒まれるとそんな気すら殺がれた。ただでさえこの屋敷に来て気圧されていたのだ。
強引にねじ伏せるように見せつける立場の差に、ウロの拒絶は幼い鉄の心を用意に挫かせる。
「帰るんですか?」
踵を返す鉄を見て、成宮が微笑みながら尋ねる。
鉄は無言で顔を背けた。勝ち誇ったように笑う成宮を見ると、もう一発殴りたくなるからだ。
殴ったところでウロが成宮を庇うという光景を目にするくらいなら、唇を噛んで何もしないのが懸命でもある。
「寿喜、帰るぞ。出口まで送れ」
入口でただ呆然と顛末を見ていた寿喜の腕を引っ張り、鉄は長い廊下を歩く。
「ちょ……鉄!? それでいいのか!?
お前、ウロと喧嘩しに来たのかよっ」
「喧嘩しに来たんだよっ」
苛立ち紛れに声もでかくなる。
早足に長い廊下をただ真っ直ぐ歩いていると余計な事を考えてしまう。
苛々は募るばかりだ。
「関係ない」
だったらどうしてあんな辛そうな目をしてウロは鉄を見るのだろう。
どうして震えて泣きそうな声で「帰れ」と言い放つのだろう。
ウロの気持が分からなくて歯痒い。
偽りの言葉だと思うのに、本当の言葉を言って貰えない程頼られていない自分が情けない。その上、どう動けば良いのかも分からない。
このまま引き下がりたくはない。連れ去ってしまいたい。なのに体は撤退を選ぶ。
「――――くっ」
怒りに任せて鉄は壁を殴った。寿喜がその音に振り替える。
「お前っ、人様の家に何す……」
寿喜は言葉を止めた。
「……情けねぇー」
力なく零し、鉄は手で顔を覆った。自己嫌悪を煽るように流れる涙を隠したのだ。
だが、寿喜はそれを見てしまった女の涙を止めるのは至難の技。同様に、男の涙を見ないふりをするのも至難の技だ。
「……壁殴ったら、そりゃ痛いわ」
空々しく鉄に言って、寿喜は涙の理由に気付かないふりをする。
「……馬鹿だなぁ」
しみじみと吐き出される寿喜の言葉に、鉄は否定する気になれなかった。
ゲストルームに戻った際、しょぼくれている鉄を見て藤子は首を傾げたが、大した追及はしなかった。
その事が鉄を少し楽にさせる。それから後は、大きな大和屋の玄関まで寿喜は見送った。
「俺に会いに来るってのもありだぜ?」
「誰が。わざわざお前に会いに来るんだよ」
帰り際、寿喜の言葉に軽く笑って返して、鉄は藤子のバイクの後ろに腰を沈める。
「じゃあな」
寿喜の言葉がバイクの爆音に掻き消される。
正門までの長い道程を黒い排気ガスが広がり薄くなるのを見届け、寿喜は屋敷に戻った。
同じ頃、窓から鉄達が帰る様子を伺っていた成宮が静かにカーテンを閉じる。
「よく出来ました」
子供をあやすようにウロの頭を撫で、成宮は薄く唇を開く。
「実は僕としては不安だったんですよ。貴方が絆されてあの子供を選ぶんじゃないかってね…」
「まさか……しませんよ。そんな事」
力なく微笑ん浮かべるウロを探るように見つめ、成宮は「まあ、いいか」と小さく吐き捨てた。
「多分、もう来ないでしょうね……彼」
「来る訳ないですよ」
即座にそう答えるウロ。成宮は実に満足そうに頷き、腰掛けていたベッドから立ち上がる。
「それじゃあ、僕も仕事があるので帰りますね」
にっこりと、後腐れもない笑顔を作り、成宮はウロの額にキスを落とす。
「明日もまた伺いに参ります。結納について話す事もありますしね」
手を振り、成宮はウロの部屋の扉を静かに閉じる。
部屋は静謐の箱。
ウロは遠ざかる成宮の足音に耳を澄ませる。足音が廊下の奥に消えた時、ウロはギュッと掌に爪が食い込むくらい強く拳を握った。
涙が流れるのを必死に堪え、天井を睨んだ。
頭の中の糸が絡まり、ほつれないくらいダマを作っている感じがした。
決して正しい選択だと思えないのに、鉄の手を取れない己の弱さが嫌いだった。
追いかけて来た鉄が愛しくて仕方なかったのに、酷い仕打ちしか出来なかった己が憎い。
そのうえ、鉄を拒んだウロを責めずに、あっさりと身を引いた鉄までもが憎かった。
「――帰れと言われて、本当に帰るな。馬鹿者……」
鉄を打った右手を自分の胸に押し当てる。
声を殺して泣いた。
もう会わない。会わせる顔もないと思って出て行った。それなのに此処まで来てくれたのは飛び上がるほど嬉しかったのに、感情のまま動けない己を呪った。
想いに報いることも出来ず、鉄を振り回すばかりで傷だけしか残せない。
いっそ、この身が泡になって消えてしまえばいいのに……。
切に願う。
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