第18話 別れの花火

 

 

 祭の音が遠い。

 ウロは残った林檎飴の棒だけ咥え、虚ろに夜の鹿魚を見下ろしていた。

 見下ろす家々の灯はまるで蛍のように小さく輝いている。

 温かい光景。

 それはウロの夢の形。

 大きくなくてもいい。小さな家で、幸せな家庭を築く事。

 その相手は尊穏がいいと思った。でも、これからは成宮とそれを築くのだ。その他に人はいてはいけない。彼と築くのだ。


「……大丈夫だ。きっと幸せになれるから……」


 成宮は優しい。だからいつかは彼と理想の家庭が作れると信じている。信じなければいけない。

 胸にちらつく別の人の影を忘れようと、振り払う。


「――忘れ……られるだろうか……」


 会いたいと思ったから此処まで戻って来たのに。


「――鉄」


 我ながら勝手な話だとウロは嘲笑う。はじめは尊穏の身代りのつもりだった。尊穏に似た人を使って、尊穏とは作れなかった夢の続きを見たいだけだった。

 何処かで歪んだ。

 天国にいる大好きな人が、もっと遠くに行ってしまった気がした。……鉄といるのが怖くなった。だから、帰ろうと思ったのだ。逃げようと思った。尊穏が消えないうちに、成宮の待つ元の生活に戻ろうと思った。

 それで、元通りになる筈だった。それなのにまた会いたくなって、そんな時にみすゞ舘からの誘いがあったから乗ってしまった。

 やはり焦がれる想いが燻りはじめ、ウロは響の態度を悟って鉄を差し出した。

 ウロの我が儘に付き合わされ、身代りにされた可哀相な鉄は、今頃は響の告白を受けているのだろう。お節介とは思うが、こうしてわざと時間を作った。これできっと元に戻るのだと信じて。

 結果、せっかくの祭を独りで過ごす事になるのだが、虫が飛び交うのを除けば、この場所は花火見学に絶好のポジションなので良しとした。

 あとは、鉄と響が上手く行き、祭が終わる頃に帰る足が得られればちいだけの話だ。

 それまで、ほんの少し淋しさを我慢するだけだ。


「……幸せになれる人と、一緒になる方が幸せなんだ……」


 鉄と響。

 最初からそこにウロの場所なんてない事は分かりきっていた筈なのに。

 全てを忘れる前にもう一度会いたかった。誰でもない、鉄に。

 選ばないと決めた筈なのに、覚えてしまった温もりが忘れられなかった。

 あの広くて心地のいい背中。

 あの頭を撫でる大きな手。

 あの、熱く重なった唇。


「……悲しいなぁ」


 どうして、鉄を好きになってしまったのだろう。

 尊穏が死んだ日、これ以上に好きになる人はいないと思っていたのに、こうも焦がれている。

 逃げるのが遅れて囚われてしまった。

 愛しい人。

 悲しいぐらい好きな人。

 忘れられない気持に涙が溢れそうだった。辛うじて堪えるが、町の灯が眩しくて目に痛い。

 きっと、こんな弱気な時に鉄が一人で現れたら……溢れてしまう。そんな気がした。


「悪い、待たせた」


 それは何かの予定調和。

 息を切らして走ってくる鉄がいる。以前、何かで読んだヒーローの条件に「タイミングがいい」と書かれていたのを思い出す。

 これはなんとも間が良く、間の悪い。

 一体どうしたのだろう。

 響との話は。響は何処にいる。

 そんな疑問が通じたのか、鉄が言った。


「……響、此処には来ない。お前と、この場所使えって……って、えっ!?」


 考える暇などなかった。

 鉄がウロの届く距離にいる。それだけでウロは鉄の胸に飛び込む。


「……遅い! 飴なんかとうに食べ終えたぞっ」

「悪い……」


 鉄の心臓が早い。それは走ったからか、ウロが抱き付いたからなのか。後者だとしたら嬉しい。


「響ちゃんからの告白、受けたんじゃないのか?」


 何の為に朝もわざわざフってやったというのか。


「受けてねぇよ! だからこうしてお前の側に――」


 赤くなって否定する鉄が面白い。

 鉄を見ていると、優しくなれる。

 ウロはまじまじと鉄を見つめた。

 愛しくて仕方ない。

 鉄には本当は自分なんか選ばせたくなかったのに、こうして彼の胸に身を投じる事がこんなにも嬉しい。

 自分といたって幸せにはなれないのに。


「鉄は仕方ないなぁ」

「何がだよ」


 意味が分からず、ゴチる鉄に笑い、ウロは言う。

 どうしてこんな面倒臭い女を好きになってくれるのだろう、と。

 それに照れた鉄を見て、幸せ過ぎてウロの顔が緩んでしまう。

 涙が零れてしまう。


「……今、私が鉄を好きと言ったら、どうする?」


 涙で霞んで鉄の姿がよく見えない。

 しっかり記憶に刻んでおきたいのに、涙は止まらない。その涙をウロを抱き締める鉄が親指の腹で涙を掬った。

 いつかのように涙を舐められる。


「分からないか?」


 意地悪な尋ね方だ。ウロは笑って目を閉じた。

 ゆっくりと鉄と吐息を混じる。


「林檎飴の味がする」


 吐息が分かれた時に鉄が小さく零したからウロは優しく笑い、今度は自ら唇を重ねた。

 祭の光はゆらゆらと蛍のように通り過ぎる。二人は花火までの時間を屋台を回って楽しんだ。

 ひとつの物を二人で分けて食べた。

 射的で鉄が変な招き猫を当てたから、これは朝来へのお土産と笑った。

 金魚掬いにも挑戦した。

 ウロは何も出来ずにポイに穴を空け、鉄は大物を狙って掬ったが、その重みで穴を空けてしまった。二人とも収穫はなかったけど、気にしなかった。

 花火の時間には古いお堂に戻り、二人でワタアメを食べながら夜空に咲く大輪の花を見上げた。


「打ち上げ花火を生で見るのは、子供の時以来なんだ」


 腹の底まで響く振動を心地良さそうに、ウロは花火を見つめた。

 笛のような高い音に、太鼓を破裂させる程叩いたような爆音。

 弾けて一瞬の星となる火花。


「あの、火花が散るバラバラって音が切ないよな」


 胸を熱くしたのか、ウロはまた涙を流した。


「なんで泣いてんだよ」


 もう何度かウロの涙なんて見ている筈なのに、その度に鉄は狼狽える。

 そんな鉄の胸に顔を押し付け、ウロは何でもないと呟く。


「花火が眩しいんだ……」


 すぐに涙を拭い、微笑んだ。

 なるだけ鉄には明るい顔を見せたかったから。

 綺麗な顔を覚えて貰いたかったから。

 ウロは沢山鉄の胸で甘えた。ごろごろと猫のように胸で眠りながら花火を見つめた。

 そして、最後の一発が散った後、囁いた。


「鉄、海に行こう」



 * * * * *


 祭の夜なのに、浜辺は閑散と潮騒の音だけが繰返された。

 人のいない海。

 花火が終わっても屋台で楽しんでいるのだろうか。波の音は祭の後の淋しさを連想させる。


「夕方は花火の場所取りで人がいたのにな」

「田舎ってそんなもんだ。夜が早いんだよ」


 静かな波音に耳を澄ませ、ウロは鉄の肩に頬を寄せた。


「……タカヤスの話、ナガノブから聞いたろ?」


 胸元の指輪のネックレスを指先でいじりながら、ウロは意地悪く尋ねる。


「どう思った? 自分がタカヤスの身代りにされているかと思ったか?」

「……似てるんだろ」

「顔だけだ。そりゃあ初めは鉄をタカヤスに見立てたりはしたぞ? だけど中身が違い過ぎる。タカヤスはお前みたいに嫌味は言わなかったし」


 聞こえの悪い言葉に鉄がムッとすると、ウロはすかさずキスをした。


「でも、今、私がキスをするのはお前だけなんだぞ?」

「……ずりぃ」


 怒るに怒れなくなった鉄が口を結ぶと、子供っぽい表情になる。ウロは楽しそうに笑った。


「鉄は意外に子供だよな。実は嫉妬深い」

「なっ!?」


 恥ずかしい指摘に吃る。

 ウロはしてやったりと口の端を上げ、再び口を付けた。


「……まぁ、私が悪いんだけどな」


 そう言うと、ウロは指輪のチェーンを外した。

 金の鎖が指に絡まる。指輪に埋められた小さな石が涙のように光った。

 ウロはその指輪を愛しく見つめる。


「この指輪は、タカヤスの死後に見つかった唯一の形見なんだ」


 囁くような声になる。力を込めると泣き出しそうだった。

 鉄は知っているという相槌を出来ずに聞いてくれる。この指輪を見ていると、鉄の顔は苦渋に歪んだ。

 指輪はウロにとっての尊穏で、鉄にもそう見えるのだろう。

 尊穏はまだ生きている。

 比喩だ。

 だが尊穏は確かにウロの心の中で生きている。

 それは指輪が証明している。ウロが指輪を見ていると、鉄の拗ねる視線がこちらを見ている。


「なんて顔をしてるんだ」

「仕方ねーだろ。……かっこ悪いけど、これでも俺はまだ十六になったばっかの高校生なんだよ」


 そう言えばそうだったな。油断すると忘れてしまう鉄の実年齢にウロは苦笑した。揶揄ったつもりだが、実際に嫉妬深いのかもしれない。

 きっと今から言うことは煽り言葉だな。想像しつつ、ウロは息を吸う。


「私は、この先どう足掻いてもタカヤスを忘れる事はないだろう」


 来たか。

 触れた話題に鉄があまり耳を傾けたくない顔を見せるが、ウロは心境無視で言葉を編み続ける。


「なぁ鉄、思い出は消えないものなんだよ。言ったろ? タカヤスは確かに生きていたし、私は、あの時タカヤスが世界で一番大事で、タカヤスだけを愛し、タカヤスの背中を追い掛け、タカヤスだけで心を満たした。多分、タカヤスの事ははずっと好きだと思う」


 言って、鉄の眉間の皺を目にウロはすがるように鉄のシャツを握った。少しだけ鉄の眉間が緩む。

 その事に幾許か安心したウロは、ゆっくりと息を継いだ。鉄の裾を握る手に力が入る。


「——でも……でもな、鉄…。私は、何があっても鉄がいい。今の私には鉄しか見えない。それは、信じて貰いたい。タカヤスを忘れられない私だが、鉄が好きだと言う事は知っていて欲しい。……勝手か?」

「勝手だな」


 他の男が好きで忘れられないくせに、それでも尚、鉄を好きだと言う身勝手さ。

 震えるウロの肩を鉄が怖々と抱いた。


「……いいか?」


 そしてウロの唇に鉄の指が触れる。

 遠慮がちな問い掛けに、ウロは頷くのと同時に無言で目を閉じた。僅かに吐息だけを混ぜ、唇を離すとウロは鉄の瞳を覗き込んで囁く。


「……さっきな、あのお堂でタカヤスに報告して来たんだ」

「何を?」


 ウロは唇を噛み締め、握り締めた指輪を力の限り海へと投げ捨てた。


「あっ」


 鉄が声を上げるが、夜の海。小さな指輪を探し出すのは至難の技だ。

 鉄は仰天とウロを見るが、ウロは思いのほか力が抜けて、自然と笑ってしまった。


「貴方の事、忘れないからこの指輪を手放します……って。鉄を想ってしまった、私のけじめ……」


 どうやったってタカヤスへの想いは消えない。同時に鉄への気持ちも誤魔化せないなら、せめて目に見える形ある物はタカヤスの眠る海に埋葬したのだ。

 小波の歌を聴きながら、ウロは静かに泣いた。


「――鉄、それでもお前が……大好きなんだ……」


 嗚咽混じりになりながらウロは鉄を抱き締めた。みっともなくすがりついた。

 ウロ自身、身勝手過ぎる我が儘だと思う。愛想を尽かされても仕方ないのに、ウロは華奢な腕を必死に鉄の背中に回して捕まえる。

 そんなウロを包み込むように、鉄が優しく抱き締め返す。力を込めてはウロの身体が壊れると思っているのか、力強く抱き締める一方で、柔らかく抱き締める。二人の愛する形に見えた。

 窒息するくらい長い時間抱き締め合った後、ウロはそっと鉄の胸に手を当てた。

 瞳を重ねるだけで想いが通じている気がする。ウロの身体は微かに震えていて、鉄は温もりを分けるように額に、鼻の頭に、頬に、首筋に口を付ける。


「冷えて来たから、帰ろう」


 どちらが先に言ったのか、その時の記憶は朧気だ。



「私達、花火みたいだ……」


 窓から星が覗く鉄の部屋、ひっそりと息を潜めながら肌を重ねていると、ウロが零した。

 鉄にはどんな意味かは分からないだろう。

 ただ、ウロがあまりに不安そうに泣くものだから、鉄は安心させようと抱き締める。

 擦れ合う肌が温かい。折れそうに腰がしなり、枝のように細い腕が鉄の背中に回される。

 無数の爪痕が残った。

 鉄は少しの苦悶の表情を見せるが、その痛みも気にならないくらい肌を重ね、吐息を重ねた。

 想いの猛りを静かに激しく繰返した。

 熱の籠った愛撫を繰返した。

 そして、夏の夜は切なくなる程に早く過ぎていく――……。






 白澄んだ差し込む日の光に起こされ、ウロは目を覚ました。はだけた肌に朝の空気が少し寒い。

 タオルケットを肩まで羽織ると鉄の匂いがした。

 愛しい人は隣りで安らかな寝息を立てている。


「……おはよう」


 覆い被さるように抱き締めると、鉄の熱い肌が心地いい。そのまま彼の腕にまどろんでいられたらどれだけ幸せだろう。


「でも、出来ないんだ。……私が愚かだから……」

「……あ、朝か? ウロ、散歩……」


 寝ぼけながら起きようとする鉄を、ウロは微笑みながら制した。


「いいよ、鉄。今日はゆっくり休め」

「――おぅ」


 聞き分けのよい子供のように寝付く鉄の額にキスをする。


「――……健やかに……暮らせ?」


 別れ際、名残惜しく鉄に口付けを交わし、ウロは身体を引き摺り部屋を後にする。

 最初から決めていた事だ。

 鉄が好き。だけど鉄は選ばない。

 罵られても、嫌われてもいい。

 夢のような一夜を思えば、何も悲しくはない。

 バラバラと一瞬の煌めきを網膜に焼付けて消える花火のような一夜だった。


 

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