第16話 愚か者は鎖を引き摺る


 

 

 それはさながら蝶のよう。

 色鮮やかな赤地に金糸銀糸の花の刺繍。濃やかな模様の振袖と、|黄金《こがねいろ》の帯に大輪の牡丹の帯留めの飾りがよく映える。

 人形のように仕立て上げられた艶姿に、ウロは戸惑いを覚えた。


「僕の見立てた通り以上にお似合いですよ」

「そんな。これ、高いでしょう? 勿体ないですよ」


 着付けられた姿を鏡で眺め、ウロは困ったように言う。しかし成宮は満足そうにウロの手を取ると笑みを零した。


「よろしければ結納の日は是非これを着て下さいね」

「……あ……」


 思わずウロは口ごもる。


「はい……」


 成宮との正式な婚約の儀の準備は着々と進んでおり、一週間後には結納を控えるまで至っていた。

 それなのに此処に来てウロは迷っている。情けないが心残りが出来てしまったのが原因だ。

 はじめは思い出にしてしまうつもりだった。抱えたままの恋心を鹿魚の海で消してしまうつもりだった。

 それなのに鉄に出会ってどうしたいか分からなくなった。分からなくなって、怖くなって、逃げ出してしまった。今ではまるで自分の心が器から抜け出てしまったようだ。

 このような心持ちで婚約者と結納の話をする自身を軽蔑する。


「あの、成宮さん。実は、お願いがあるのですが。その、鹿魚でお世話になった方から、祭りがあるので遊びに来ないかと誘われて、それで……」


 言葉に出来ない願いが成宮には通じたらしく、彼は腰を低く屈めてウロと目線を合わせて微笑んだ。


「貴方が僕の名前を呼んでくれたら何でも……」


 それはまるで契約に聞こえた。


「……一誠さん」


 成宮は嬉しそうに目を細めると、ウロにキスを贈る。


「いってらっしゃい」


 触れるくらいの軽いキスなのに、ウロは泣きたくなるのを堪えるのに必死だった。唇に触れながら、成宮以外の別の人影が頭を過ぎったのだ。

 楽しかった記憶。

 見知らぬ女相手に底抜けにお人好しな人。沢山の我が儘に付き合ってくれた。喧嘩をしたけど、優しくしてくれた。ケーキを食べてくれた。朝、散歩に連れて行ってくれた。

 尊穏とは作れなかった思い出の残りを築いてくれた。

 それが、嬉しかった。

 側に置いてくれるだけで良かった。

 なのに、悲しい。

 これから会えるのに、これが最後だと思うと悲しかった。

 胸が痛い。

 でも、会いたい。

 鉄に、会いたい……切に願う。



 * * * * *


「あー……痛い」


 鉄が後頭部を擦りながら、母・朝来を睨む。ぎりぎり瘤が出来るまでには至らなかったが、殴られた瞬間、目に火花が散るくらい痛かった。

 実母は通称“鈍器”と分類されそうなフライパンで殴ったのだ。


「何すんだよ!」

「何じゃないわよ、馬鹿息子」


 殴った事を悪びれもせず、朝来はふんと鼻息荒く憤り、凶器になったフライパンを使って夕飯を作り始めた。熱を帯びたフライパンじゃなくて良かったと、鉄は僅かに安堵の溜息。


「はぁ……」

「百七回目」


 口にする朝来の数字に鉄は訝しげに首を傾げた。朝来は情けない顔になる息子を呆れるように肩を落とす。


「ウロちゃんがいなくなってからの溜息の数。へこむくらいなら取り返せってのよっ」

「煩いな。そんなんじゃねぇって何回言や分かるんだよっ」

「だったらキレるんじゃないの馬鹿息子っ」


 顔を合わせればこんな言い合い。

 鉄は口を真一文字に結び、朝来に見向きもしないまま部屋に籠る。部屋に入るなり、ベッドに俯せに倒れた。スプリングの軋む音が耳に触れる。後は沈黙しか残らない。

 ほんの少し、視線をずらせば押入れに目が入る。ウロが使っていた部屋。

 もう押入れ下段にウロの所有物の衣類やぬいぐるみの山はない。名残として布団とタオルケットが敷かれている。残っているのは、渡せず終いの合唱部部長から預かったCDだけだ。


「渡す物があれば、取りに戻って来るかな……」


 いや、寿喜が代理で受け取りに来るか。

 呟いてすぐにその可能性を打ち消す。

 空しかった。

 最近、こんな事ばかり考える。

 どうすればウロが帰ってくるのか、いや、そんな訳ある筈ないと。

 ウロが帰って一週間あまり。

 初めは日も経てば忘れていくだろうと思っていたのに、ウロの記憶は日毎に鮮明に増して行った。

 朝は相も変わらず早起きだ。嫌になるくらい目が冴えてしまう。自己嫌悪に陥る程ウロを思い出す。たかが一ヶ月の習慣が未だに抜けない。今でも早く起きた朝は一人で散歩に出るくらいだ。


「あつ……」


 真夏に閉め切った部屋に籠るとろくなものじゃない。

 鉄は体を起こし、窓を開ける。潮を含んだ風が部屋に吹き込む。

 海はウロと出会った場所だ。

 忘れられる訳がない。

 自分の部屋の窓からその海が見えるのだ。

 忘れられる訳がない。


「……忘れさせろよ」


 忘れられたらどんなに楽か。

 あの気持が一過性の熱ならどんなに良いか。一過性ってどんだけ過ぎればいいのか。

 考えて鉄は苛々する。それなのにウロの顔を思い浮かべると胸が苦しくて、寂しさと悲しさが刺す。


「何なんだよ……」


 こんなの、いつもの自分らしくないと、もがく。


「はぁ」


 特大の溜息に百八回目とカウントする朝来の声が聞こえた気がした。絶対適当な数字を上げてると思うのだが、煩悩の数というキリのいい数はやけに印象に残る。

 鉄は頭を冷やす気持ちで窓から頭を出す。

 思考は上手くまとまらない。寿喜が話した、ウロの恋人、尊穏。そいつに似ている自分。

 ウロが尊穏との日課だった朝の散歩。ウロが作ったケーキ。

 あれは全てウロの思い出の欠片と知り、鉄の心を蝕む。

 ウロがどんなに尊穏を想っていたかなんて、寿喜から聞いても頭に入らなかった。むしろ聞きたくなかった。

 どんな話を聞いても、それは自分が尊穏の身代わりと告げられているようで苦しかった。それなのにウロを忘れられない自分が、嫌だった。

 嫌なのは例え身代わりだとしても……、


「会いたい……」


 口を衝くぐらい願ってしまう事だ。

 ウロに会いたい。

 夏の熱風が頬を撫ぜる。鉄はぼんやりと外を眺めた。

 逃げ水でも現れそうな熱したアスファルト。電信柱の濃い影。熱した外の世界に人気のない静かな通り。意味もなく夏の風景を見ていた。

 静かな世界に、突如黒光する高級車が介入する。田舎町にはいささか不似合いな外国車。

 その車はみすゞ舘の門扉の前に停車すると、運転席からスーツ姿の運転手が出てきた。運転手がトランクを開けて取り出したのは車椅子。鉄は思わず身を乗り出した。用意された車椅子に導かれて車内から顔を出す人を見て、鉄は声が抑えられなくなる。


「――ウロッ!」


 黒く長い髪をさらりと背中に流し、映える白いワンピースを夏の陽射に輝かせた小さな少女。

 何故戻って来たのか。

 幻覚でも見ているのか。

 目を擦り、もう一度よく見る。


「――ウロ……」


 ウロは、窓から身を乗り出す鉄を見つめていた。真っ直ぐ、真っ直ぐと鉄を見上げていた。

 ほんの僅かの時間だったかもしれない。けど、永遠にも思える長い時間を二人は見つめ合った。やがてウロは柔らかい笑みを浮かべる。


「暫らくぶりだな」


 相変わらずのおかしな口調が、これ程懐かしいと思った事はなかった。

 忘れたいと願いすらしたのに、出会えた喜びに胸が壊れそうだった。


「どうした、忘れ物か?」


 平静を装って鉄は嘯く。こんなに穏やかな気持になれるとは思わなかった。


「そうだ。忘れ物だ」


 その微笑みに幸せな気持になるとは思わなかった。


「遅ぇよ」


 今すぐ触れたい。

 やはりどうしても駄目なのだと思い知らされた。

 その感情の先は奈落かもしれない。

けれど落ちる選択しか鉄は知らない。






 その日は近所住民を招いての宴会となった。

 突如としてウロが戻って来た。それだけで酒を飲む口実になるのだろう開始十分後には、秩序も何もない無法地帯となった。


「鉄の嫁が帰って来ました~! おむぇでとぉざーまぁすっ」


 スパークリングワインのコルクを勢いよく飛ばし、親分朝来の音頭で騒ぎに拍車はかかる。


「良かった! 本っ当に良かった! 鉄、良かったね! 別居九日ですんで」

「別居じゃねぇよ」


 揶揄う藤子に怒鳴りつけるが、今日はそんな言動もいつもより気にはならなかった。

 何はともあれウロが傍にいるから。それだけで寛容な気持になれる。


「だ・か・ら~。鉄が嫌がるウロに変なプレイさせようとしたからウロが逃げたのよぉ~」


 前言撤回。

 藤子のあまりの吹聴は野放しに出来ない。


「お前ら、いい加減な事ばっか言ってんじゃねぇよっ! 殴るぞっ!?」

「やだ~。発情期が怒った~! 犯される~っ」

「おいっ!!」


 諦めた。

 どうせ何を言ったって聞かない連中を相手にする程、無駄な労力はない。

 鉄はそんな苦労を背負わされる前に、部屋の隅で一人寂しく宴会のご馳走を口にした。奮発して注文した寿司を手にのんびりと、この宴会の光景を眺められる。


「まぁ、いいか」


 楽しそうにはしゃぐウロを見ていて、鉄は仕方がないと嘆息吐く。

 皆も喜びたいのだろう。鉄だけがウロを独占する訳にはいかない。

 時間はある。例えば明日の朝とか。

 機会は作ればある。気持を整理する時間を与えられたのだ。

 鉄はゆっくりと目を閉じた。

 子供っぽい年上のウロ。意地っ張りで、隠せもしない涙を隠し、強がるウロ。歌うのが好きな変わった魚。

 目を閉じて何を思う?

 いつだって鉄の背中で幸せそうに笑っているウロの笑顔だった。



 * * * * *


 鳥の囀りが外から聞こえた。

 朝が来たのだと、鉄は夢現に考える。昨夜、いつ眠りについたのかは思い出せない。宴会の騒ぎの中、自室に戻り寝入ってしまったのだと浅い眠りの中で考えていた。

 それにしても寝返りが打てずに窮屈に感じるのは何故だろうとも思った。

 何やら両肩にずっしりと重りが乗っている感覚。更には頬をくすぐる筆先のような痒みが気にかかる。

 目を閉じながら、この感触が何かを鉄は眠たい頭で考えるが、答えはすぐに明らかになった。


「鉄ぅ~。朝だぞ~、散歩の時間だぞ~」

「……おはよう」


 鉄の腹の上に乗りかかるウロと目が合った。黒く丸い瞳をキラキラ輝かせ、ウロはいつもと変わりない我が儘を可愛らしく言う。


「散歩、行くだろ?」


 この体勢でその聞き方は反則だよな。鉄は思った。




 背中に重みを感じながら走るのは久しぶりだった。

「高い場所から海が見たい」とウロが言うので、今日の散歩コースは山の下腹にある神社を目的地と定めた。だが、神社へと続く道は全てが階段。


「ちょ、休憩……休憩しよう……」


 一体何の苦行なのか、人一人背負って登るのには限界があり、鉄は階段の半ばで腰を掛けての休憩を要請した。


「若い男が情けないな~」

「黙れ。お前だけ置いて一人で神社に行くぞ? 俺は」


 怒ったふりをしながら二人は笑う。あの雨の日の出来事が嘘のような馴れ合いだった。

 あの雨の日のキスの日以来である。


「やはり、此処の空気は気持がいいなぁ」


 何事もなかったかのようにウロは大きく深呼吸する。まるであの日の事はないものとして扱われているようだった。


「ウロ……」


 忘れたフリが悔しいから、鉄はあの日を思い出させようとウロの顎を引く。しかし、ウロは首を振ってすぐに鉄の手を払った。


「駄目だ、鉄……」


 困ったように眉尻を下げるウロ。


「言った筈だ。私は、お前を選ばないと。ナガノブからも聞いたのだろ? 私にはタカヤスという人がいたと……それに今は成宮さんという婚約者もいるのだ」


 暗に鉄を拒絶したと受け取らなければならないのだろうか。


「……」

「今回、此処に来たのは三鈴さんが今夜縁日があるからと招待してくれたからなんだ」


 お前に会いに来たのではない。

 何も言えない鉄に、ウロは諭すように喋った。


「今日の散歩だって特別な意味はない。私はこの町が好きだから、まだ見てない場所を見たかっただけだ。……それに、此処はタカヤスとの思い出の町だからな」


 尊穏と言う名前がちくりと鉄の心臓を刺す。


「すまないな。私を運べる男手はお前だけだから、ついつい甘えてしまう。迷惑だろ?」


 申し訳なさそうに顔を歪めるウロに、鉄は相槌も何も打てない。

 ただ、残酷だとは思った。

 ウロに対する鉄の気持を前にして、わざと尊穏を語るウロが残酷だ。

 それでも尚、ウロは胸の内を鉄に明ける。


「……鉄、私はタカヤスを忘れられない。だって、あの人は骨すら遺らなかったけど、確かに生きていた。私は、私の全てでタカヤスを好きになった。そんな私がタカヤス以外を好きになれば、全部、嘘になるみたい……じゃないか?」

「だから俺を選ばないのか?」


 静かに。ゆっくりとウロはどうしようもなく頷いた。


「……すまん」


 うなだれる。震える肩で涙を堪えているのが分かった。

 ウロとはたった一ヶ月の付き合いではあるが、彼女は泣くのが下手だというのは十分知っている。

 惚れた者の弱味と言うのか、鉄はついついウロの背中を撫でてなだめる。


「帰ろう……」


 優しく、出来る限り優しく鉄はウロに促す。どちらにしろ、今の気分では二人共散歩の続きとはいかないだろう。


「でも、この先は行った事がないぞ」


 どうしてもこの先の神社からの景色が見たいのだろうか。ウロは遠慮がちにねだるように鉄を見つめた。

 少し、涙で湿っぽい瞳が煽情的に映る。

 その姿は無防備過ぎて、愚かだ。

 それでも、どうしてこんなに不器用な女でも愛しく思うのだろう。

 そんな自分もずっと愚かだ。鉄は心の中で舌打ちした。


「……夕方、連れてってやるよ、縁日。此処の上の神社でやるんだよ」

「鉄が、連れてってくれるのか?」

「ああ」


 頷くと、ウロは嬉しそうに笑った。

 皮肉な話。鉄にとって、ウロが誰を大事に思っていたとしても、ウロの笑顔はずっと見ていたいものだった。

 この笑顔が、途方もなく好きだった。


「ありがとう」


 足掻いても気持は止まらない。この想いは何処にも行けないのだ。

 死別とは呪縛に近い。

 鉄は幸せの絶頂で最愛の人に死なれた女が、どんなものか知っている。

 朝来が旦那を亡くし、今でもふとしたきっかけで蓋から漏れた思い出に涙する瞬間を見て来たのだ。死んだ人に敵わないのを鉄は知っている。

 思い出は美しさをより鮮やかに残し、深く心に刻まれる。

 甘い幸せの追憶に、どう張り合えばいいのか鉄は知らない。

 その呪縛の鎖を断ち切る方法を知らない。

 けど。

 ウロの幸せそうな笑顔だけは傍らで見守りたい。

 そんな、切ない心が夏空に映る水の色。

 雲一つない空。

 今日は絶好の花火日和になるだろうと予感させた。

 

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