第15話 潮騒が始まりを報せる
それは走馬灯のように瞬く間に流れ、あるいは山頂の雪が全て溶けるくらい、長い時間に感じた。
ウロにとって、この時の記憶はあまりにも曖昧で不確かだ。
周囲だけ足早に過ぎ、自分だけ取り残された……そんな感じだった。この感覚は七年前、ウロの両親が亡くなった時と酷似している。
気付けば二人の骨と灰が収まった骨壷を抱き、気付けば見知らぬ人に車椅子を押されて大和屋に引き取られた時だ。
けれど尊穏の葬儀には亡骸がない。
不幸にも、飛行機の墜落場所が海上だった為、回収出来た亡骸は僅かしかなかったのだ。
機体の墜落原因など、ウロの耳に入ったかも知れないが記憶には留まらなかった。絶望したのはその生存者の数が、零だという事実だけだ。
尊穏が帰らないという事実だけだ。
それなのに涙は不思議と流れなかった。まるで現実味がないのだ。
尊穏の動かない身体を目の当たりにしたら、違ったのかも知れない。
今のウロには世界が虚偽の塊にしか見えなかった。
何をどうしていたのか分からない。屋敷の人間は慌ただしく走り回っていた。寿喜はウロを気遣っているのだろうか。全く顔を見せなかった。
それでも、ウロは無性に誰かに会いたくなる。心に穴が空いた時、それを無条件に包んでくれる存在が欲しくなる。恋人よりも先に巡り会える人。
その人をウロは無意識に探していた。その人に胸のもやもやを話せば何かが変わるかも知れないと、屋敷中を探し回っていた。
あちこちを車椅子で掛けずり回り、その人を夫婦の寝室で見付ける。
半開きの扉の隙間から伯母の晴子かが罵声を浴びせるように泣き叫ぶ声が漏れ、その夫が妻をがなだめて抱き締めている影が見えた。
とても声が掛けられる雰囲気でなく、扉の影から二人のやり取りを覗き見た。
覗くつもりはなかった。真っ先に晴子の胸に飛び込みたかったのに、手が止まってしまい、機会を逸してしまったのだ。
ウロが躊躇している間に、声の方が耳に飛び込んだ。
「どうして尊穏じゃなければいけないのっ! どうして尊穏がっ!」
晴子は気が触れんばかりに泣いていた。
「
ねぇっ! と気が触れんばかりに女性は夫に掴みかかる。伯父は何も言えず、ただ傷心の妻を抱き締める。晴子はまるで小さな子供のように大声で泣いた。
泣いて、喚いて、声も枯れてしまった頃、ポツリと言ったのだ。
「……どうして尊穏じゃないといけないの…? あの子以外がいるじゃない……」
刹那、ウロの目の前の扉は永遠に閉ざされた。
その言葉はまるで「どうして死んだのがウロじゃないのか」そう言っているように聞こえるではないか。
仕方がない答えなのかもしれない。
ウロは大和屋に身を置くが、決して大和屋の娘ではない。母の姉の、伯母の晴子の娘には、願ったってなれないのだ。
本当は尊穏のいない苦しみを、晴子に抱き留めて貰いたかった。
どうしていなくなるのかと、二人で泣きたかった。
ずっとずっと願っていた。だけれど気後れして踏み出せなかった。晴子をいつか「母」と呼びたいという気持。
諦めたふりをして、それでも捨てきれなかった願いだ。
尊穏はウロの気持を分かってくれていたみたいだけれど、手遅れだ。
駄目なのだ。いくら共通の悲しみを負った所で、今まで分かち合おうとしなかった溝は埋められない。到底無理なのだ。
声をかける言葉も見つからない。
慰める事も、慰めて貰う事も叶わない。
改めて思い知らされた。
世界でただ独り。
本当の独りになってしまったのだと。
家族はとうの昔に亡くなり、家族の真似をしてくれた人とは分かりあえなくて、傍にいてくれる筈の、たった一人の恋人はあっけなく逝ってしまった。
取り残された絶望。あまりに理解に及ばない苦しみを前にすると、涙は流れないものだと知った。
* * * * *
どうやって部屋まで来たのか覚えていない。
気が付けばウロは、尊穏の部屋のベッドに顔を埋めていた。
枕に染み込む尊穏の匂い。この薫りもいつかは月日が奪っていくのだろう。
ほんの少し前に、この同じベッドで尊穏と肌を重ねたとは思えない冷たいベッド。
「……タカヤスゥ」
もう二度と心なんて弾まない。
胸が無数の針で刺されるように痛い。大きな手で鷲掴みにされて、潰れてしまいそうだった。
もう、生きていても仕方がないと思った。
涙の出ない薄情な女など消えて泡にでもなればいい。
ウロは顔を押し付け枕を抱き締める。窒息しそうに苦しめても涙はやはり流れない。
「馬鹿か、私は……」
自嘲して枕を投げ捨てる。
ふと、ウロは枕のあった後ろ、ヘッドボードとマットの隙間に埋まる小さな箱を見付けた。
見慣れた定番の形。
紺色で毛足の短い正方形の小箱。
その箱を手に取りながら、ウロの胸ははち切れそうだった。
恐る恐る箱を開ける。
銀色に輝く曲線が、そこには収まっていた。
白い小さなダイヤモンドが埋められたシンプルな指輪。しかもその指輪は、標準よりも細いウロの指にぴったりとはまるのだ。
「あ……あの馬鹿、こんな場所に隠すなよ……」
左手の薬指に輝くリングを見つめ、ようやくウロは涙を流した。
尊穏は帰って来なかった。
だけど、尊穏の想いは形で残っていた。
それだけが嬉しい。
「――っ! ……うっ、うぅ~……タ、タカヤス……タカヤスゥ……嫌だ……いかっ……な……でぇ…いかないでぇ……独りに……しな……いで……」
ぽろぽろ、ぽろぽろと、真珠のような大粒の涙が次々と溢れる。枯れる事のない泉のように涙が溢れる。
「タカヤス……タカヤス、タカヤスタカヤスタカヤスタカヤスゥゥ。嫌だ、置いていくな……帰って来て……タカヤス……」
薬指の指輪を尊穏と重ねて握り締める。
けれども、泣けども泣けども涙は枯れない、止まらない。
大声で恥も外聞も棄てて声が枯れるまで嘆いた。
天に向かって叫んだ。
「海に行こうと言った。また一緒に、二人で、あの海に行こうと約束……した」
果たさずに逝った。
まだ足りない。
温もりも、キスも、時間も。二人で過ごした時間は、瞬きする程の一瞬だった。
夏には海に行こうと言った。
秋には紅葉を、冬には雪を、春には桜を見に行こうと言った。
二人で沢山の物を見ようと、くだらない物でも笑って楽しもう。
二人で笑おうと約束した。
何一つ実現していない。
何一つ、二人のアルバムには何も描かれていない。
「……嘘つき」
憎しみを込めて呟いた。そして、涙がまた零れた。
「……悔しかったら、帰って来い……」
決して叶わぬ願い。
涙で海が出来る想いで、泣き腫らして迎えた朝、虚ろな頭の中でウロは思った。
「海へ行こう……」
底にはきっと尊穏がいる。
会いに行こうと思った。
いつか必ず……会いに行くと誓った。
その日以降、ウロは衰弱する体を押してでも尊穏に会おうと、海に行こうとした。
そんな死の淵に立ちたがるウロの逸る気持ちを今、生に繋ぎ留めたのは寿喜の力だった。
彼はよくウロに尽くしてくれた。
学校の他愛もない話を、面白おかしく話してくれ、ウロの好きそうな曲を探して見付けては教えてくれた。
歌う事は好きだった。
両親も尊穏も褒めてくれた。
だからだろうか。高校卒業の進路も、音大の声楽科に決めたのは。
緩やかに、淡々と月日は流れ、尊穏の死から一年が過ぎた。
十九の冬を迎えた頃、ウロに見合いの話が舞い込んだ。
相手の名前は|成宮一誠《なりみやいっせい》。大和屋と親交の厚い、大企業の御曹司である。
才気に溢れ、眉目秀麗な彼との縁談は、大和屋家にとって願ってもいない話だろう。
ウロはこれ以上晴子に疎まれたくないので見合いを受け入れた。
寿喜が「政略結婚」だと怒ってくれただけでも嬉しいので、逆に素直に縁談を飲めたのだろう。
成宮一誠は、ウロにとても優しくしてくれた。
足の不自由な女の何処がいいのかと聞けば、それが何の不都合になるのかと、彼は笑った。
「僕は歌う貴方の姿に焦がれました。僕の傍で歌ってくれないでしょうか?」
成宮はウロを抱き締めた。
優しい彼に好感は持てたが、成宮が優しい程に尊穏の影は大きくなる。
胸に下げた指輪が重みを増す。
尊穏からの指輪をはめる事は、あの日以来出来なかった。本来なら尊穏がいて初めて受け取っていた筈の品だから、指に通す事ははばかられたのだ。
かと言って忘れ形見は捨てられない。だから肌身離さずと首に下げる事にした。
尊穏への想いを抱えるウロが、心から成宮を受け入れてはいない。
それでも彼からの好意に応えようと、心を磨り減らした。
曖昧に時だけ過ぎる。
尊穏を忘れられぬまま、重みだけが増して行った。微笑みの能面を被った生活だけを送る。
感情なんて必要ない。
そんな空虚な三年目を迎えた。
「家を出よう。成宮がお前を諦めるまで何処でもいい。行こう」
尊穏の命日を前にした夜、寿喜が家出計画を持ち掛けた時にウロはある決心をした。
寿喜の協力を得て家出を
嘘を吐いて鹿魚町までやって来た。
尊穏との思い出の町。
海が見たかった。
尊穏との思い出の海が見たかった。
けれどその時は真夜中。潮騒の音だけ耳に残るが物足りない。
朝を待つしかないと思った。
波に足を浸し、寝転がり、満天の星空を見上げた。時折強い波がウロの背中まで流れたが、気にも止めなかった。
天空を架ける天の川を眺めながら、ウロは尊穏との会話を思い出した。
『人魚姫が、足の代償に愛を謳う声を差し出して悲恋になるのなら、歩けないが、愛の謳を紡ぐ人魚姫なら幸せになれるんじゃないか』
という変な議論だ。勿論、彼はそれを遠回しにウロを例えていたのだが、どうだろう。
ウロは涙を堪えて空を見た。
「人魚は確かに愛を語れたが、王子が星になる展開になったぞ?」
人魚姫はどう転んだって幸せになれないという説を、皮肉にも彼が実証してしまった。
「私は、お前以外をどう愛せばいい?」
成宮は良い人だ。ウロが尊穏を忘れる事を、今も気長に待っていてくれる。
彼が優しいからウロは遂に婚約を結んでしまった。
けれど、思うのだ。
それは決して成宮を愛した訳でも、尊穏を忘れた訳でもない。
尊穏は未だにウロの心で息をしている。
一生消える事なく、ウロの心の中で脈打っている。こうして尊穏との思い出の海に来てしまうくらい、尊穏への想いは未だ鮮明だ。失った傷も膿んでいる。
「私は……どうしたらいい?」
答えは見つからないまま、夜が明け始めた。
昇る太陽の光を浴びて、海が無数の星を生み出す。体は相変わらず天に向かい合ったままだった。
いっそ物語の人魚姫の如く、朝日を浴びてそのまま泡になってしまえばいいと……目を閉じた。
きっと、ウロの身も心も泡になりかけていたのだと思う。
意識はなかった。若い男の声に起こされるまで。
「……おい。あ、あんた大丈夫か?」
少し上擦った声が降り掛かるが、ウロは聞こえないふりをした。
「おい、大丈夫……か?」
煩い声だ。何を慌てているのか。
声を掛けて来る男の声に、ウロはうんざりと瞳を閉じたまま思う。
まだ見ぬどこぞの町人Aは、ウロをまるで死体と勘違いしているようなので、その声を聞きながらその者を揶揄いたい衝動に駆られた。
なので敢えて目を閉じたまま応じる。
「……死んだかと思ったか?」
「おわっ!?」
男が驚いて後退る足音と声を聞いた。
ウロはその時初めて体を起こし、その慌て者を一目見ようと振り返った。
驚いたのはほんの一瞬。
男と尊穏がダブって見えた。男が尊穏とよく似た面差しだったから。
ウロは泣きそうになる。
瓜二つとまでは言わないが、興味を持つ理由としては充分だった。
それが傷を舐める行為と知りつつも、この男の側に少しいたいと思った。
話せばお人好しそうな男だ。尊穏と違って挑発に弱いし、見た目の割りに何処か幼さが見える。
尊穏とは違う人だ。それは頭では理解しているが、夏が与えた最後の思い出のように思えた。
懐かしさが込み上がる。
不意にダブって見える面差しを求める事で自分を慰めたく、ウロは我が儘になった。
「何て呼べばいい?」
男が名前を尋ねて来たのを渡りに船と、ウロは全てに甘えた。
あの夏の続きを描きながら、心はこの町の海に沈める心づもりだ。
こうしてほんの少し、指先を掠めた夏の日が始まった。
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