第14話 鐘の音が終わりを告げ

 

 

 ウロは生まれつき歩けなかった。

 損傷か麻痺か幼かったウロには何が原因か理解出来ず、成長した今となっても治るか治らないかが問題で、難しいと言われたら「今まで歩けた試しがないのだから、何も変わらないじゃないか」と吐き捨てる。

 投げやりになっているのではなく、悲観してもいない。全て含めて自分だから特にどうとは思わなかった。

 きっとウロの両親がそのハンディを木に病むものじゃないと、受け入れ、接して来たからだろう。

 だから幼稚園に上がっても、小学校に上がっても周りの子と同じじゃなくても、無垢なからかいに遭っても少しは傷ついても自分を否定する事はなかった。

 私は私。

 大好きな両親は愛してくれる。

 ウロにはウロの幸せがあったから、その幸せは確かにそこにあると実感出来ていたから、人魚の足を厭わしくはならなかった。


「ウロはね、空のように自由で底抜けに広い心の優しい子になるように願って付けたのよ」


 優しい母はそう言った。


「泳ぎと歌が上手。ウロはまるで人魚姫だな」


 父のその言葉が嬉しかった。

 家族はいつも一緒で、どこでも一緒だった。

 冬の家族旅行。不幸な事故が起きるまでは――。

 優しかった世界は一変する。

 孤独な世界に纒わり付くのは不安ではない。

 心に穴が空いた……そんな感じだった。

 失ったものに嘆いて泣いて、泣いて、泣き疲れて。果てたところで抱き留めてくれる人が現れた。

 母の姉の晴子である。

 両親の死後、ウロは晴子の家、大和屋に引き取られた。

 喪失感は少しずつ癒される。

 抱き締めると母みたいに薫る晴子に心が和んだ。

 晴子が大好きだった。

 好きだったから、悲しかった。


「あの子を見ているのが辛い」


 夫婦の会話をこっそり聞いてしまう。その一言の大きな隔たりが世界を暗くした。

 私は誰にもいらない子。

 私は独り。

 いつだって独りだ。

 自身を何処かで呪い、あてがわれた自室で引き篭る日が増えた。

 そして数年、傷穴が埋まらないまま、ウロは尊穏と出会った。



 * * * * *


 広い部屋に、男の低く喉を震わせる音が響く。

 苦しそうに腹を押さえ、あまつシーツまで握り笑う男。その側にはこちらもシーツを握り、顔を真っ赤にした少女が男をキツい目で睨んでいた。


「笑うなタカヤスの馬鹿っ」

「だって……くっ、ウロってば……顎に……キ、キス……」

「言うな言うな言うなーっ!! そして笑うなぁっ」

「痛いっ! 痛いってウロォ」


 あまりに笑い続ける尊穏をウロは枕で何度も殴りつける。羽毛使用の枕がどれだけのダメージを与えるか知らないが、尊穏はそれでも牙をむこうとするウロの可愛さに白旗を上げた。


「笑ってゴメン。ウロが自分から頑張ってキスしようと思ってやってくれたんだもんなぁ」

「そうだ! 恥ずかしいんだからなっ」


 ウロは恥を笑われて怒っていた。

 もう二度とキスなどするものかと思っていた。

 だけど「これで勘弁して」と、優しく頬にキスをされると何でも許してしまえるから不思議だ。


「まぁ、今日は許してやらないでも……ないがな」


 まるで喉を鳴らす子猫のように、ウロは尊穏の胸に甘える。

 この温もりだけが幸福だった。恋人という互いに特別な存在になってから、初めて年を越した冬。


「タカヤスはそろそろセンター試験だよな。調子はどうだ?」

「上々。春には絶対大学生になるから心配なし。だって俺にはこれがあるからな」


 目の前にかざす折鶴。千羽には遥か満たないが、ウロ手製の合格祈願だ。


「下手すぎて効き目は疑われるぞ?」


 おずおずと指差す鶴の歪な形。翼の大きさも頭の形も皺だらけで、とても羽ばたけそうにない折鶴にウロは顔を顰める。

 けれどウロが祈りを込めて折った鶴を、尊穏は愛しいと思わずにはいられない。


「お守りなんてウロのしかいらない」


 唇を重ねた数はもう分からない。共にいられればそれだけで幸せだった。

 夏が過ぎ、秋を迎え、冬になりクリスマス、年を越し、次に待ち受けるはバレンタインデーだ。

 甘く、楽しく、幸せに。

 春、無事に大学進学をした尊穏と過ごす時間はこれまでより少し減ったが、その分二人の時間を大切に出来た。不満がないわけではないが、長期休みに入る夏の到来を今か今かと待ち侘びた。

 そしてまた肌を焦がす夏が来た。尊穏と過ごす、二度目の夏の始まりはどの季節よりも待ち遠しいものだった。

 だからこそ、尊穏の実行力のある行動はウロには酷い裏切りだった。

 尊穏は長期休みを利用して、発掘調査に参加する為にエジプト行きを決めてしまったのだ。もちろんウロは怒ったが、尊穏の夢も知っている手前、最終的に説得を飲み込んだ。

 だが、説得されたから納得したは同義ではない。ウロの機嫌は斜めを向いたまま、尊穏が発掘調査でエジプトに発つ前夜を迎える。

 尊穏の寝室にて、ウロは不機嫌に彼の広い背中にしがみついていた。


「やっぱり私も行く」

「パスポート、持ってないだろ」

「荷物でいい。私ならスーツケースに収まるだろ?」

「俺は恋人をそんな粗末な棺桶に入れる趣味はない」


 何度目のやりとりか。尊穏は子供をなだめる父のようにウロの頭を優しく撫でる。


「ほんの二週間だから。ウロの夏休み中には必ず帰るから」


 それでもいやいやとウロは首を振った。


「何故今更エジプトに行く必要があるか」

「話したろ。留学先で世話になった先生が、俺を発掘チームの短期のアシに推薦してくれたって。滅多にないチャンスだから逃したくないんだって」

「それは分かるからから私もついて行くと……」

「受験生が何言うか」


 速攻で釘を刺され、ウロは不服そうに頬を膨らませた。そんな時、尊穏は必ずウロの顔を包んで額を重ねる。

今も例に違わず二人の顔は吐息がかかる程近い。


「ちょっとの間だから、な?」

「…………」


 渋々と、長い時間を掛けてウロはようやく小さく頷いた。聞き分けのない子供じゃないのだからと言い聞かせた努力の結晶だ。

 尊穏の遺跡に対する情熱は知っている。彼がどれだけ恋人のウロを気遣い、我慢していたかも知っている。ウロは自分が尊穏の夢の足手まといになるのも知っている。それなのに笑って見送れず、たった少しの別れにウロは涙を堪えるしか出来ない。


「夏の夜は短いから嫌いだ」

「俺もだ」


 明日など来なければいいと、名残惜しくキスをする。脳天を犯す麻薬のように痺れるキスを繰り返し、尊穏が吐息混じりに零した。


「ウロが高校卒業したら、何処でも連れてってやるよ」

「うん……」


 キスの合間、唇が離れる度に尊穏は言った。


「まずは何処の国に行こう」


 額にキスをした。


「フランスとか。ウロは歌が上手いからオペラ座いいよな」


 瞼にキスをした。


「イタリアもいいなぁ。和製ローマの休日?」


 鼻の頭にキス。ウロはくすぐったくて笑った。尊穏も笑う。


「ウロは何処がいい? 新婚旅行」

「――へっ?」


 驚きを塞いで尊穏は唇にキスをする。ウロを逃がさないように頭を押さえ、深く熱いキスをする。舌を十分に絡ませ、窒息するくらいウロを追い詰めてから尊穏はわざと解放した。


「結婚しよう、ウロ。すぐじゃなくてもいい、すぐに全部は与えられないけど、ウロの一生が全部欲しい」


 ウロはすぐに言葉を返せなかった。尊穏がウロの返事を聞く前にわざと濃厚なキスをしたのだ。

 きっと聞かないでもウロの気持は十分に伝わったのだろう。奥手なウロが素直に頷く性格でないのは尊穏は充分承知している。


「 愛してる、ウロ 」

「――う……ふぅ、うぅっ~」


 声を殺してウロは泣いた。

 嬉しかった。不安を解消するプロポーズに泣けてしまったのだ。

 ほっとした。安心した。恋人からもっと明示された階段がただただ嬉しかった。

 泣いて、ボロボロに泣いて尊穏を抱き締めた。


「タカヤスの馬鹿ぁ~」

「未来の夫に何それ」


 捻くれ者の愛の言葉に尊穏は吹き出す。そして小さな宝物を包むように抱き締めた。唇に蓋をして、首筋に所有の跡を残し、ガラス細工のようなその身体を愛した。

 真夏の短い夜、暫しの別れをただ愛する為に尽くした。



 * * * * *


 尊穏が発った朝は、残念ながらウロはベッドからの見送りだった。とても空港まで同行出来ないくらい身体中が悲鳴を上げていたのだ。

 尊穏はそんなウロに笑い、自分の所為だからと文句は言わなかった。ただ、残りは帰ってからの楽しみだと言われた際は、ウロは枕を投げて送り出す。

 何ら変わらないいつもの光景だった。尊穏が茶化して、それをウロが笑って怒る。当たり前の二人の交流。

 それが暫くの間なくなるだけなのに……やけに名残惜しさが胸をつく。


「じゃ、行ってくる」


 自分のベッドを独占するウロの頭に軽く唇を落とし、尊穏は部屋を出た。ウロは尊穏の触れた箇所だけ熱いようで、不意に寂しさを覚える。

 あまりに寂しかったから気怠い体を厭わず、ベッド脇に置いてあった車椅子に乗り移り正門側を向く窓を開けた。

 外を覗けばスーツケースを車に積み、今まさに乗車しようという尊穏が目に入る。ウロは目一杯の息を吸い込み、声を上げた。


「タカヤスーっ!」


 届けるには距離もある筈なのに声が聞こえたのか尊穏は顔を上げ、窓から手を振るウロを見つけた。尻尾があったら千切れんばかりに見えない尻尾を振ってるであろう感情表現を露に、大きく両手を振り返した。


「いってらっしゃーいっ!」


 本当は一緒に行きたいけれど、我侭は言えない。尊穏との将来の約束があればそれだけで事足りるウロは、精一杯の笑顔でいつまでも手を振った。車が見えなくなるまで手を振った。寂しそうな顔をしたら尊穏に心配をかけるから、自分なりの最高の、一番輝ける愛らしさを振り撒いた。

 尊穏が見えなくなった後はずっと窓から空を見上げて座っていた。時間など気にせず、どれだけ空をみていたか分からない。ただ空を見上げ、雲の動きを眺めた。正午頃に一筋の飛行機雲を未届けた後、ウロはやっと何かに納得してベッドに戻る。

 眠ってしまおうと思った。長旅になる機内で尊穏は眠るだろうから、一緒に眠ろうと思ったのだ。そうしたら夢の中で会えそうな気がして、ウロは静かに眠った。

 ほんのひとときの安らぎを、まだ尊穏の温もりが残るベッドに身を沈め、目を閉じる。






 どれだけの時間を眠っただろうか。

 ウロは廊下を駆け回る、荒々しい足音に目を覚ました。

 一体何を騒いでいるのか。

 複数のざわめきが扉越しにまで聞こえた。尊穏が帰国した日を思い出す。


「……何があったんだ」


 目を擦り体を起こす。

 屋敷の給仕たるものが落ち着きのないものだと飽きれもするが、今のウロは気分が良かったので気にも止めなかった。

 尊穏の乗る飛行機は今どの国の空を飛んでいるのか想いを馳せていた。寂しいけれどそれも少しの間だと、今は土産話を楽しみに待つ気構えなのだ。


「——それにしても煩いな」


 煩わしいくらいに騒々しかったので、誰かに問い質しに行こうとウロが車椅子に手を伸ばした時、寿喜が部屋に飛び込んで来た。

 息を弾ませ走って来たのに寿喜の顔は蒼白だった。


「どうかしたのか?」


 息を飲む寿喜が持ち込んだ話が、明るいものだとは思わなかった。


「ウロ……」


 寿喜は泣きそうな顔で声を絞り出した。彼の泣き顔が記憶になきウロに、瞬時に嫌な予感が走る。

 その報せは聞いてはいけないと警鐘が鳴る。

 わんわんと鳴り響くくせに、それでもウロの両手は耳を塞ごうと動いてはくれない。


「何があったんだ? 寿喜」


 聞いてはいけない。聞くなと何度も何度も警鐘は鳴る。聞いては駄目だと、鐘が鳴る。

 喚き鳴り響き、耳を裂いたその音の後に訪れたのは、静寂だった。


「……今、テレビで――飛行機が――――落ちたって……尊穏の乗った……飛行機……尊穏が――」


 丸い滴が寿喜の頬を伝って落ちた。ウロは、その滴が床に落ちて弾ける様を見る。

 何も聞こえない。

 何も聞こえなかった。

 幸せの絶頂から絶望へと突き落とされる。終りが告げられた。

 その先は全てウロにとっては悪夢でしかない。

 長い、長い悪夢だ。苦しいだけで何もない。これはただの悪夢。ウロは何も聞いていないし、寿喜の声も届かない。


「尊穏……死んだって……」


 

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