第13話 幸せ過ぎた記憶

 

 

 第一印象は最悪だった。

 出会い頭に裸を見られれば当然の話だけれど、強く印象に残るのも必然。


「ウロー、散歩の時間ですよ~」


 犬じゃないのだからその誘い方はやめてほしい。

 羽毛の柔らかい枕に頭を預けたままウロは思った。というより何故この人はこうもテンションが高いのだろうかとも思った。

 時計はまだ朝の六時も回らない。


「さぁ、今日は何処に行く? 何見る何食べる? さっさと着替えないと紫外線が猛威を奮いますよ~。温暖化だからね、オゾン層もしんどい言ってるからね」


 元気に喋り、ウロからブランケットを引っ剥がす尊穏たかやす

 無駄に若さを滾らせる青年を寝惚けた目で見つめていると、不意に尊穏は頬を染めて顔を近付けた。


「何? 着替え手伝って貰いたいの? お兄さん脱がすだけなら喜んで頼まれるけど……」


 嫌らしく動かす手。このやり取りも一週間続けば流石に対応の要領は得るもので、ウロは無言で右手を振り上げた。勿論この後、目覚ましよりも効き目のある痛々しい衝撃音が響くのである。






「いや~目覚めの一発ってああいうのを言うんだろうね。毎朝毎朝癖になりそうなビンタをありがとう」


 左頬に赤い手形を残しているのに、尊穏は満面の笑みでウロを背負って早朝の公園を闊歩する。


「――タカヤス……さんがいつもセクハラまがいな事を言うからです」


 ぎこちなく尊穏の背中と自分の身体に距離を置きながらウロは口を尖らせる。

 この早朝の二人きりの散歩。どういう経緯か、流れに流されて尊穏の帰国翌日から始まっている。一週間続いたので日課にしてもいいだろうかと、ウロはこの散歩の表現に詰まる最近。

 そもそも、この散歩を持ち掛けたのは尊穏だった。そして、その持ち掛け方をウロはきっと忘れる事はないのだろう。


『昨日貴方の裸を見たらお湯入りの洗面器を顔面に投げつけられ三階の窓から誤って転落しこのような怪我を負ってしまいました責任取って下さい』


 息継ぎなく捲し立て、尊穏は大袈裟とも思えるくらいの包帯を巻いた手足、頭を見せつけた。

 人の部屋へ不法侵入をした上で、着替えを覗いた尊穏が悪いとは言え、三階から落とすような真似をしたのはウロ。責任を感じない程度に人は好い。

 だから、


「責任とは何をすればいい?」


 と尋ねたら、


「じゃあ、毎朝二人で散歩という名のデートをしよう」


 と答えられて現在進行形。

 因みに、尊穏の体の包帯は散歩を承諾した後には解かれていた。どういう運動神経で回避したのか、尊穏は無傷だったらしい。

 ウロは一杯食わされたのだ。

 しかし、これは性分。根が素直なウロは二日目からは尊穏が強引に出れば流されるという悪循環に発展した。

 散歩はもう日課。おんぶスタイルも恥ずかしいが、最近は少し慣れて来た。

 このおんぶスタイルにも悲しい理由があった。

 ウロは歩けない足だ。だから散歩といっても外に出る時は必ず車椅子が必要になるのだが、尊穏は自身がウロの足になると言って「おんぶスタイル」を決して譲らなかった。

 初めは断ったが、走って逃げるのも不可能なので拒否権はない。泣く泣くおんぶで拉致られる形に収まった。

 一応、極力体が密着しないようにと心がけてはいるが、それも尊穏が車椅子を使わない理由がある。


『おんぶしたら背中にその発展途上の魅惑の膨らみの感触が味わえるかもだろ?』


 そう簡単に接触するほど、残念ながらウロにそんな膨らみはほぼないが、そう言われた警戒するのは当然だ。それでもこのスタイルは一週間も維持しているだけあり、おんぶの良さも最近は分かって来ている。


「……風が、気持いいな」

「だろ? ちょっと空気が違う感じあるよな」


 そう言って尊穏はウロを更に高みへと持ち上げる。


「ど? 椅子からじゃ分からない視界じゃないか?」


 にかっと子供みたいに歯をむき出しに尊穏は笑った。その笑顔を見て、ウロは何となく気付いた。尊穏がわざわざウロを背負って散歩に出る理由。


「こんな風に違う景色を見せる為か?」

「何が?」


 言っている意味が分からないと尊穏は答えるが、白を切っているのだろうか。ウロは尊穏という人間像を考えたが、よく分からなかった。分からなかったけど、とても胸が温かくなった。

 尊穏が優しい人だというのは通じたから。


「明日も散歩に連れ出してくれな? タカヤス」

「お、一歩前進!」


 尊穏はウロが自分を呼ぶ名前の語尾から“さん”の敬称が外れた事を嬉しそうに笑った。

 その日以降、尊穏はウロの中でどんどんその存在を大きくしていった。


「尊穏ってどんな人?」


 ウロにとって尊穏という人間は今までにいなかったタイプなので、気にならないと言えば嘘になる。むしろ気になり過ぎたので寿喜に思い切って尋ねてみた。

 すると寿喜から帰って来た言葉は端的にキツい一言。


「変態」

「いや、もっと中身について知りたいんだが……」


 分かりやすい表現ではあったが、その面は普段から見せている顔なので、もっと別の顔を知りたかったウロは肩を落とす。


「ウロさ、最近尊穏と朝の散歩行ってるって言うじゃん? それ、おんぶってマジ?」

「本当だが」


 突然の話の切り返しにウロがぽかんと答えると、途端、寿喜の顔色が変わった。


「お前は阿呆かーっ」

「な! 何を急に叫ぶか馬鹿者っ」


 その場にちゃぶ台があればひっくり返しただろう勢いで怒鳴る寿喜の雷に、ウロは思わずクッションを頭に被る。

 寿喜の神鳴りはまだやまない。


「おんぶで散歩ってどういう了見だよ! お前、それじゃ抱っこされて散歩するチワワと同じじゃん! その内首輪でもされてご主人様って尻尾でも振るのか!?」

「お前の怒るポイントが分からないが、どっから首輪が出て来るんだ!?」


 怒鳴られ、後込みしたウロは半分泣きながら問い質す。

 どうも最近寿喜とは話が噛み合わない箇所が出だして難しい。中学校に上がった思春期の少年は実に扱い難かった。

 そんなウロ、寿喜の恋心に全く気付いていない。そして、葛藤する思春期の苛立ちを聞き付けた尊穏はひょっこり顔を出す。


「よ、弟。主人とか首輪とかマニアックな話で盛り上がってんな。兄ちゃんも混ぜてくれよ」

「タカヤスっ」

「変態っ」


 いつも気配なく出没するから、大抵尊穏を呼ぶ時は声が一際大きくなる。しかも、寿喜の変声期を迎えた声での変態呼ばわりを誰も聞き間違いには出来なかった。


「あ? 何、寿喜? 今兄ちゃんに向かって何言った? 聞き違い? 変態って聞き違い? ん?」


 だから直情型の寿喜がこうして尊穏に胸倉を捕まれて、マジで殴られる五秒前体勢に入る場面も少なくない。

 これが長年離れて暮らしたこの兄弟のスキンシップだと分かってきたから、最近はウロも傍観するようにしている。


「ほら寿喜、何年ぶりに会うからって照れなくていいんだよ~。とりあえず年功序列上、お兄様と呼べ」


 ある日の喧嘩で尊穏がそうのたまった時、ウロも尋ねた事があった。


「じゃあ私もタカヤスをお兄様と呼ぶべきか?」


 年功序列上、ウロも尊穏の年下に当たるから真剣な質問だった。だが、この時に尊穏が頬を染め、寿喜が青冷めた訳をウロは未だ理解していない。


「是非呼んで下さい」

「お前は留学先でどうやってそんなアキバ知識を身に着けてくんだよ、ど変態っ!」


 その後、怒濤の兄弟喧嘩第二ラウンドのゴングが鳴る。

 ——このように、最初の半月はウロと尊穏と寿喜の三人でくだらない話で笑う日々が続く。

 気が付いけばいつも尊穏が傍にいるのが当たり前になっていた。

 何処へ行くのにも尊穏がいた。

 ウロの足となり、いつも一緒にいてくれた。

 これが一心同体だと思えるくらい二人は一緒だった。

 尊穏が、ウロにとってかけがえのない人だと思えるのにそう長い時間がかからないくらい……。



 * * * * *


「外の風がこんなに気持いいと思えるようになったのは尊穏のお陰だなぁ」


 ある日の散歩でウロがしみじみと呟いた。この街一番の朝日が見えるという展望台に上った日の朝だ。

 眼前の朝日と、正面からそよぐ風を心地よく受けながら言った。


「母さん達と出掛けたりしなかったのか?」

「だって、私は晴子さんに嫌われているからな……」


 尊穏の質問にウロは苦笑して言う。

 晴子とはウロの母の姉、つまり伯母にあたり、引いては尊穏の母である。ウロにとって一番身近な血縁だった。

 ウロが大和屋に引き取られてから六年。その間、晴子と会話らしい会話をした記憶はほとんど皆無だ。

 特に罵倒されたりだとか、苛められたりという被害はない。

 ただ、ひたすらに会話がないだけだ。


「――嫌い……ねぇ。全然家にいなかった俺が言っても信憑性ないけどな。母さん、ウロを嫌ってる訳ではないと思うよ?」


 尊穏はウロの頭を撫でては、いつも顔が触れてしまいそうなくらい向かい合って微笑む。その至近距離は強烈過ぎるから、ウロは決まって下を向く。同時にそれは頷く行為とも受け取れた。


「いい子いい子」


 子供をあやすような尊穏は、春のような朗らかな空気を纏う。


「大丈夫。ウロは絶対母さんと上手くやれるよ」


 この時、尊穏が吹き出したいのを堪えて震える姿を、俯いていたウロは見抜く事が出来なかった。

 それからも二人は色々な話をした。

 お互いに関して交互に質問しては、答えていく。

 尊穏の話はウロにはまるで世界を拓ける気にさせる。歴史とか神話とか遺跡とか、自由奔放な旅の話は面白かった。


「質問! 尊穏は何故子供ながらイギリスまで留学したのだ?」

「別にイギリスが目的じゃないんだよ。エジプトにホントは行きたかったの。けど、さすがにそこは両親反対でな、妥協案として父さんの知り合いのいるイギリスで手を打っただけ。でも考古学学ぶにはいい環境だったな。大英博物館行けるし、向こうのが日本よりエジプトに近いし」

「ほぉ~。遺跡にかけるロマンなのだな!」

「そ。ピラミッドにスフィンクス、王家の谷に太陽の船……世界で一番有名な古代遺跡だけど、まだまだ解明されていない謎がたくさんあるんだよ! 俺は長年解けなかった謎を解明していきたいし関わっていきたいんだ。いつかウロとも行きたいな」


 遺跡の話をする時の尊穏の瞳は子供そのもの。きらきらと輝いて無邪気に発掘作業の手伝いをした様子を面白おかしく話す。

 蠍を食べた体験談は詳細は、グルメリポーター顔負けの表現をしてくれた。

 尊穏はウロを退屈させない。その為にウロは尊穏が聞いて来る質問に面白く話せない事を気にかけた日もあった。だけど尊穏はいつだってウロの話を真面目に聞いてくれた。


「質問! ウロは何で時代がかった口調なんですかー?」

「時代がかったって……変か?」

「可愛いけどな」

「また子供扱い」


 ウロの頭を撫でるのが癖な尊穏をいつも叱るのだが、悪びれもなく目を細める仕草にいつも丸め込まれた。

 彼は茶化しはしても、ウロの答えをずっと待つから。


「――私が言葉を覚えた瞬間なんて知らないから聞いた話ですまないが、おそらく父の影響だな」

「ウロの親父さん?」

「うむ」


 大和屋に引き取られてから、ウロは自然と家族を語る事はなかった。母が駆け落ち同然に父と結婚し、身内と疎遠になっていた為の気後れが原因だろう。ウロは幾年ぶりに両親との思い出を口にする。


「父さんは時代劇が好きな人でな、毎日毎日秘蔵のコレクションを私が赤子の頃から見せていたらしい。当然、内容など分かりもしないが、独特な台詞は真っ白な脳みそには入りやすいのか、三つ子の魂まで通りに、それが私の言葉の基盤となっているようだ」


 最初は躊躇いながらだったのに、気付けばウロは色々な話していた。

 本当はずっと家族について話したかった。誰かが聞いてくれるのを待っていたのだ。沢山の思い出を明かしながら、ウロは思った。まだまだ思い出はなくならない。

 生まれつき歩けない娘に溢れる程の愛情を注いでくれた両親の話。

 母の独創的なお菓子の味とか、読んでもらった絵本の記憶。帰宅した父親の臭う靴下を脱がせたがっていた話とか、耳に綿を詰めて両親を焦らせた話や、赤いランドセルが嬉しかったとか、音楽の授業が楽しかったとか、歌うと褒めてくれた両親の賛辞とか。初めて家族で海に行った日、歩けない代わりに泳ぎを教えてくれた父の奮闘。

 息が切れるくらいに話して、ウロは溜息くらい微かに零した。


「海に行きたい」と。

 懐かしかったから。

 潮を含んだ風の匂いや、わんわん煩い蝉の声。全身をくすぐる波に、何処までも広がる青い空と、境を知らない海があまりに懐かしかったから。

 感傷に浸るつもりはなかった。

 ただ話していくうちに漠然と行きたい気持に駆られたのだ。


「行こうか」


 膝を叩いて、唐突に尊穏が言った。


「行こう、海、今から」

「へ? 今からってタカヤス……」


 ウロは悪戯を思い付いたみたいに目を輝かせる尊穏を見上げる。


「行こう!」


 手を差し出し、ウロを誘う尊穏。ウロ逡巡するが、是と言う前に攫うように颯爽と抱き上げられ、尊穏は外へ飛び出した。

 体一つで何処へでも行けると言うように、裸足のウロは夏の陽射の元に晒された。






 どれくらい車を走らせただろうか。尊穏の勢いでウロの見知らぬ町の海に着いた。既に太陽は水平線にオレンジの輪郭が触れている時間。泳ぐ人はもういない黄昏時。


「海だーっ! ウロ、海だぞ!!」

「海だー、じゃない! 誰にも言わずに出て来たぞ!? 大体此処は何処だ。何処の海だっ!?」

「鹿魚っつー田舎町。はっはー境越越境ー!」

「……っ」


 余裕に笑う尊穏の後頭部をウロは無言で殴る。

 段取りもない行動に言葉が出なかったのだ。

 瞬きしたら海。そんな気分だ。

 目の前の海が言葉を失う程に綺麗だと殊更に。


「……綺麗だな」


 夕焼けに染まる海が眩く光り、目を細める。

 潮風に海猫の声。遠くでは蝉が泣いている。波の音はまるで生まれる前に聞いた母胎を想う。


「海だな……」


 しみじみと呟いた。

 何だかんだ言いながらも来て良かったと思う景色。一目見れただけで満足だったのだが、尊穏の中では計画は終わっていなかったらしい。


「海なぁ~。海と言えばやっぱ水泳だろ?」


 海を前にすれば自然な言葉なのに、何故かこの時ばかりはウロには不吉な響きに聞こえた。


「世界の平和と五穀豊穣を願ってぇー……よいしょおぉっ!」

「きあぁぁぁぁっ!」


 威勢のいい掛け声と共に水飛沫が高々と上がる。


「見事な水飛沫だなぁ、ウロ」

「……ターカーヤースー?」


 地の底から這い上がる声が波を震わす。そこには無残にも海に投げ出されたずぶ濡れのウロが、怨霊のように簾を作る髪の毛を掻き上げながら怒気を放っていた。


「わぉ! こんな田舎の海に人魚姫がっ」

「誰が人魚だ! 着替えもないのに海に投げ出しおって、どうしてくれるっ!」

「どうってなぁ」


 ぼりぼりと頭を掻くと尊穏はにんまりと瞳を弓形にし、勢いよく飛び上がった。


「そいやっ」


 ドボンッ……と、先程よりも高く大きい水柱が立つ。いっそ気持のいいくらいに濡れた尊穏が、ウロ同様濡れながらあっけらかんと笑った。


「二人濡れればおあいこおあいこ」


 何がどう解決されたと言うのだろう。尊穏は水を含んだ衣類など構いもせずに泳ぎ出した。


「ウロ、どうせ濡れたんだ。遠慮しないで泳げば?」

「馬鹿か」


 クロールで遠くまで泳ぐ尊穏を呆れて見つめた。

 ウロも泳げはするが、その泳法は少し独特。手で水を掻き、腰を上下に揺らす。例えるならイルカや鯨のように全身を波に合わせた泳ぎだ。尊穏のように速くは泳げない。


「でも、気持がいいな」


 久しぶりに触れる海の柔らかい水の感触にウロはついと泳ぎ始めた。

 肩を、顔を、胸を波が走った。

 ウロは泳ぐ。

 流れに乗れば遠い場所まで泳げた。

 時々体をくすぐる魚に出会しながらもウロは時間を忘れてたゆたう。

 泳いで、泳いで、時々水面に浮かんで休んで、また泳いで。

 あまり夢中になりすぎたから尊穏が心配して引き上げるまでウロは泳いだ。

 気付けば息が切れるくらい泳いでいた。体が重くなるぐらい疲れている。

 尊穏は元よりスタミナのないウロを気遣ったのだ。放っておけばいつまでも泳ぐウロの腹に腕を伸ばし、陸地に引っ張った。


「お前は魚か」


 珍しく呆れ顔の尊穏を物珍しく見つめ、ウロは微笑んだ。


「そうかも知れない。久々に息を吹き替えした気分だ。ありがとう、尊穏」


 最初の怒りは何処へ行ったのだろう。ウロはただ嬉しくて尊穏を見上げた。

 二人とも服を着たまま泳いだのはおかしいけれど、尊穏と一緒なら笑って許せる。


「ありがとう、タカヤス」


 もう一度伝えた。

 どれだけ言葉を紡いでもこの想いは言葉だけでは足りない気がした。

 言葉だけでは足りない気がしたからウロは行動で示したかった。


「タカヤス、体が冷えるから抱き上げてくれないか?」

「はいよ」


 ちゃぷんと名残惜しそうに水が跳ね、ウロの顔は尊穏の肩へと触れる位置に付く。


「なぁ、タカヤス」

「ん?」

「ありがとう」


 三度目のありがとうは、彼の頬へ唇に込めて伝えた。

 触れたのはほんの僅か。触れた場所も頬と、子供騙しもいい所のキスなのに、ウロの心臓はバクバクと破裂しそうな勢いで脈打っていた。


「――タカヤス?」


 反応がない尊穏を恐る恐ると伺い、ウロは目を見開いて驚いた。

 尊穏の顔が、耳まで赤く染まっていたから。

 夕陽に照らされた所為という言い訳も通じない程に赤く、赤く。


「タ、タカヤス、どうした? その、嫌だったか?」

「……駄目、立ってらんない」

「は?」


 言った直後、尊穏はウロを抱いたまま浅瀬に尻餅をついた。尊穏に抱き上げて貰っていたウロも当然再び着水する。


「タカヤス……?」


 もう一度その名を呼べば、尊穏は口を尖らせ恨みがましくウロを睨み付ける。


「あんたは阿呆ですか!? 俺を誰だと思ってんだっ」

「誰って……タカヤスはタカヤスじゃないか」


 問われるがままに答えたら盛大な溜息を吐かれた。呆れられている事は大いに伝わる。

 尊穏は空気の読めないウロの濡れた頬を指の背で撫でた。


「質問。俺は何歳(いくつ)ですか?」

「ん? 今年ハイスクールを卒業したから十八ぐらいだろ? これから日本の大学の受験準備と話していたじゃないか」

「はい正解です」


 薮から棒に何を聞くのか。

 ウロはそれがどうしたのかと尊穏を探る。尊穏はその視線を痛そうに逸らした。


「ウロ嫌い。全然警戒しねぇんだもん」

「ふぇ?」


 ウロは尊穏の一言にだけ過敏に反応し、泣きそうな顔をした。その泣きそうな顔を尊穏は引き寄せ、額を重ねる。両の手で頬を包み、逃げられないよう向き合った。


「俺は、ほっぺにチュウで反応しない程大人に出来てないって意味」


 それはどんな意味か。

 問う前に唇を呼吸を遮られた。

 尊穏の唇が、壊れ物を扱うようにウロの唇に触れた。


「――タカ、ヤス……?」


 初めは触れるだけのキスだった。僅かに吐息を漏らした後、啄むようなキス。

 何度も何度も吐息を重ねた。

 体は波に打たれて冷たい筈なのに、唇に触れられる度に熱を持つ。

 初めてキスをした。

 驚かされたが拒む理由はなかった。

 初めから決まっていたかのように求めた。

 求めて、触れて、吐息を重ねて。

 ウロの目から熱い涙が零れた。幸せとはこの事を言うのだとウロは尊穏の胸に抱かれ、思った。


「質問、いいか?」


 尊穏の体に包まれ、夕空の星を数えながらウロは聞いた。


「タカヤスは私が好きか?」

「お前、結構直球で聞くよな」


 尊穏は意外に照れ屋なのか、ウロの質問に答えられず黙って頷く。


「いつから?」

「……一目惚れです」


 何もそこまで恥じなくともいいのに、人間の限界に挑戦したような顔の赤さにウロは感心してしまう。


「……とゆうか、裸を見られたのがきっかけなのはちょっと嫌な馴れ初めだな」


 わざとらしく頬を膨らませるウロに、尊穏は更に顔を赤らめ首を振った。


「実はな……」


 言葉を濁し、尊穏は心底恥ずかしそうに耳打ちする。

 その言葉にウロは「本当か?」と聞き返した。あまりの打ち明けにウロまで赤面する。


「それは、少し出来過ぎやしないか」

「だろ? でもマジ。二年前、手紙に同封されたお前の写った家族写真を見てからずっ……と……好きだ」


 言い切った。

 まるで達成感を得たような清々しい尊穏の顔。今度はウロが紅葉を散らす番だ。


「質問」


 恥ずかしさに身を縮こませるウロを抱き締め、尊穏は耳元で囁く。


「ウロは俺が、好きか?」


 わざと息を吹き掛けるように低音の声。辱めて楽しんでいる。垣間見る意地悪な一面。気付いて素直に答えなくなかった。


「知ってるくせに」


 気持をそのまま態度で示したのだ。言葉にせずとも伝わっているのに、気持を知りながらもわざと尋ねて来る尊穏。尊穏はウロが否定をする筈もないという自信に溢れた顔だ。それが気に食わないウロは、挑発するように見上げ、言った。


「また試すか? 私はいくらでも受け入れるぞ」


 幸せな提案に尊穏は吹き出し、ウロの顎を引いて答える。


「受けて立とう」


 お互いの気持を確かめ合う儀式。二人は何度目かのキスをした。


「また、海に行こうな」


 指切りを交わしてキスをする。間違いなく世界で一番幸せな時間だった。

 瞳を閉じれば聞こえる小波も、潮の香りも、冷えた体と熱い心臓も、忘れもしない夏の思い出になる。

 幸せ過ぎた夏の記憶だ。

 

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